愚慫空論

Mozart:Requiem K.626


先日、とある場所で話をしているときに、ひょっこり柿田川の湧水の話を持ち出したことがありました。

柿田川というのは、ご存知の方も多いと思いますが、富士山からの湧水を水源とする川です。わずか1.2キロの長さしかないけれど、とても水がきれいなことで有名。その柿田川の水源となる湧水群は公園になっていて、それがまた国道一号線のすぐそばで、多くの車がブンブンと行き交うすぐそばに、荘厳と形容しても足らないような自然現象が涌き起こっている。とてもギャップのある場所だったりします。

僕がそこへ始めて行ったのは、まだ樵を始める前です。南アルプスの山中の山小屋に居る頃。山の仲間に「ここは凄いぞ」ということで、案内してもらった。そして、その湧水の色を見て、ビックリしたわけです。

(柿田川湧水の画像や動画はネット上にいくつもありますが、敢えて貼りません。モニターで見ても驚くような色ですが、やっぱり実物とは全く異なると思うから。)

その彼曰く、これは富士山の空の色だ、と。それも、9合より上でないと見られない色だといった。その彼は、南アルプスに来る前は、ずっと富士山8合目の山小屋に居たんだそうです。

僕も何度か富士山に登ってはいますが、彼の言う「色」には出会ったことがない。彼に「わからない」と言ったら、「それはそうだろう。こことは違って、すぐに見つけられる色ではないよ。」と返事があったのを憶えています。

そのかわりというわけではありませんが、湧水の「色」を見て、僕のアタマのなかで再生されたものがある。それが、モーツァルトの『レクイエム K. 626』 でした。


「再生」が始まった箇所も明確に憶えています。この動画だと、4:16あたりから。コーラスが対位法を組みながら、深淵に向かってゆっくりと沈み込んでいく。伴奏のオーケストラは、沈み込んでいくときに見える深淵の風景を描写するかのよう。

僕のなかでは、この音楽と湧水の「色」はしっかりと結びついてしまっていて、どちらかが脳裏に出てくると、もうひとつも必ず出てきてしまうというものになってしまっている。そういうことって、誰にもありますよね。


始めて柿田川湧水を見たときのことをもう少し思い出しますと、ひとしきり「色」を眺めたあと、無性に美味いモノを食べたくなったことを憶えています。とにかく、とびきり美味いモノを。その時は幸い、山で1シーズン稼いだ後で懐も暖かだったので、欲求を十分に叶えることができました。

今から思うと、その欲求は、反撥だったと思います。
自然には、ところどころ、「あちら」へ向かってぽっくりと穴が空いたような場所があるんですね。そんなところへ引き込まれまいとする身体の欲求。


映画『アマデウス』でも取り上げられたのでご存知の方も多いと思いますが、モーツァルトのこの『レクイエム』は未完成の作品です。『アマデウス』では、『レクイエム』はモーツァルトの才能に嫉妬したサリエリの依頼だったという筋立てになっていますが、それは史実ではなく、他人の作品を金で買って自分の作品として発表するのが趣味だった、どこぞの貴族の依頼だったということが知られているようです。なんでも、自分の妻の葬儀のためだったとか。

が、ああいう正体不明の男がモーツァルトに依頼してきたのは事実だったようで、モーツァルトは自分で自分のレクイエムを作曲していると思い込んでいたのも、本当だったらしいという話も伝わっています。そして、その作曲は果たせず終わった。

未完でよかったというか、完成させることを許されない作品――。この『レクイエム』を聴いて、そんなふうに感じるのは、僕ひとりだけではないはずです。


イメージだけで人間を殺すことができるか? 僕はできてしまうと思う。できてしまうだろうという「実感」が、かすかにではあるけれども、僕自身のなかにあったりもします。

それは幾度か断食を試しているうちに培われたものです。「食べない」という覚悟を自身の中へ落とし込む。落とし込みがうまく行かなくて、「食べない」ことが痩せ我慢になって辛いというような失敗も繰り返しながら、それでも回を重ねると落とし込み方へコツみたいなものが摑めてくる。その先に「今から死ぬ」ということも、きっとできるだろうという感触がある。

もっとも、そんなコツを掴むことが出来るようになる前に、肉体の寿命が先に尽きてしまうでしょうけど。

『レクイエム』が示すのは、そうしたコツそのものではありません。コツは具体的な方法論なので、イメージではない。だけど、コツを掴むとそれに付随したイメージもまた生まれて来るのは事実で、そうしたイメージは、コツへの案内路なるとも思う。実際、モーツァルトは、自身が死ぬという暗示にかかってしまっていて、その暗示が深まっていく過程を比類のない音楽的才能で描写したのではないか。暗示が強いとコツなどという方法論をすっ飛ばして、「逝ってしまう」ことはあり得るでしょうからね。

そうこう考えると、やはりこの『レクイエム』は、完成されないほうがよかった作品。

――と考えていたのは、以前のこと。今は、完成されなかったのは、惜しいことだったと思っています。そして、「完成されなくてよかった」と考えることが、【呪い】なんだと、今は思っています。

「完成されなくてよかった」と考えることには、社会的なことが考慮に入っている。だけど、〈いのち〉というところから考え直してみると、そういうのは余計なお節介だな、と思う。


こういうことです。
仮に、僕が断食の試行を重ねて、「今から死ぬ」ということのコツを習得したとします。じゃあ、それを試してみるか?

死にたいと思っていたら、試すのではなく、実行するでしょう。
「死」ということの性質上、二度目はないわけだから、「試す」もない。
でも、おそらく、というより、間違いなく、実行しない。死にたくないから。

「生と死の際」を覗いてみるということができたとして、では、その行為はどこに属しているかというと、〈生〉の側に属しているわけです。意志をもって感覚を磨き、能動的に自身の主体の在り方を改変していかないと、そういう能力は身につかない。それは成長であり、成長は〈生〉の属性です。そういう意志そのものが〈生〉です。「覗こう」と思っているならすでに〈生〉であって、「生と死の際」に立つということは、その輪郭をハッキリと識るということだから、自分が〈生〉の側に立っているということは、自ずから理解できるはず。

そんな確信が僕にはあります。

【呪い】というのは、そうした確信を曇らせるものだと思う。そして、それは、やはり【社会】から来るんだと思うんです。自然に、あるべきように育っていけば、人間は「楽しいこと」と「つまらないこと」、「したいこと」と「したくないこと」、「大事なこと」と「くだらないこと」、「できること」と「できないこと」を誰からも教わらずに自身の能力で嗅ぎ分けることができる大人になる。これらの能力が十全に備わっていれば、社会的な状況を分析して選択肢を検討する、なんてことをしなくて済むようになる。

その延長に〈死〉もある。身体がそれまでの〈生〉(←「ものがたり」?)の結果であるとするならば、〈死〉だってそうのはず。そしてそれは、「楽しいこと」や「したいこと」を判別する能力がある時期を迎えないと備わらないのと同様に、〈死〉だってそういう時期がこないとやってこないに違いない。

そういう時期が未だやってきていないにも関わらず、死を迎えることが【死】です。これは不幸なこととしか言いようがありません。だけど、その【死】ですらも、生き残っている者にとっては〈生〉を際立たせるものだと思う。【死】を悼む者が嘆き苦しむのは、まごうかたなくホンモノでしょう。ホンモノであるということが、すなわち〈生〉です。

〈生〉の延長に〈死〉はあって、自ずから死にたいと思うのであれば、そういう準備ができているということ。ならば、死んでいくのが幸せというものでしょう。僕はそういうふうにして〈死にたい〉と思っている。ゆえにこそ、〈生きたい〉と思っている今は、〈死〉と【死】とを混同し混乱せしめるような【呪い】に対して抗いたいと思っている。煎じ詰めればたったそれだけのことです。



余談にもうひとつ、楽曲を紹介しておきます。



ブルックナーの交響曲第9番。これも未完で終わった曲で、これもまた、完成することが許されなかったのではなかったかと感じずにはいられない音楽。

とはいっても、モーツァルトの『レクイエム』は正反対。あちらが深淵に沈み逝くイメージだとすると、こちらは登り詰めるイメージ。

ブルックナーはほぼ交響曲に特化して作曲した人で、その交響曲のスタイルもすべて同じ。混沌から始まって自生的に秩序が形成されていき、最期は登り詰めて終わる。最高傑作は8番だと言われていますが、それはなにより、その登り詰め方がハンパないからです。そしてこの9番は、残念なことに、登り詰める部分が欠けている。

もし、9番において、登り詰めが具現化していたとしたら、それはどんな場所になったか。ちょっと想像が付きません。が、ブルックナー自身にはそのイメージはあったようで、同時に、その具現化を果たす前に寿命が来るということも知っていたよう。そういう記録を読むと、これもまた具現化させてはならないものだったのかと思わずにはいられません。


この音楽の中にはお気に入りの部分はいくつもあるのですが、他人に紹介するとなると、いの一番は第二楽章のイントロと、それに続く主題の提示でしょう。動画だと27:30秒あたりから。静かに始まったイントロの後、おもむろに大音響が響く。リズミックだけどリズミカルではなく、重厚であるが重くもなく。「一」の〈生〉を統合した「全」としての〈生〉の音。ヒンドゥーにおいては、シバ神が生と破壊を司り、そして同時に舞踊の神様でもあるとされていますが、そのシバ神が踊ったら、こんなふうになるに違いないと思うような音楽です。

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