愚慫空論

『身毒丸』

このような物語を読むことができた機縁に感謝。

『身毒丸』というタイトルで語られているものには、いろいろなバージョンがあるらしいです。最初、“身毒丸”で検索をかけたら舞台作品のほうが出て生きて、そのあらすじを読んで、これまた嫌なストーリーだなと思ったんだけれども、それはそれでまた機会を見つけて視聴してみようとは思うけれども、今回取り上げたいのはそっちのほうではなくて、折口信夫のそれ。

なお、“身毒”と書いて、「しんとく」と読むらしいです。


折口信夫の『身毒丸』は、青空文庫で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/4910_14227.html

できるけど、こういった文章は文庫本で読むのがいい。
手の中で温めるようにして、読むのが相応しいような気がします。


『身毒丸』は濃厚な〈いのち〉の物語です。
ムッとくる草いきれのような臭いを漂わせている作品。
キツネやタヌキに化かされても不思議ではない、濃密な〈いのち〉の絡まりの世界。

そんな作品に浸る中で、僕はふたつのことを思い起こしました。

ひとつは、熊野で樵をやっていた時分に聞いた話。


その話は、樵の先輩だったTさんという爺さんの、亡くなったお兄さんの話です。

最初のその人の話を聞いたのは、Tさんからではありませんでした。噂話の類いで、別の人から聞かされた。

Tさんのお兄さんはとてもよく働いた人だったんだけど、でも、なぜか自殺したんだよ――。

よくある、無責任な噂話ででした。
幾人からか聞かされた覚えがありますから、その界隈では有名な話だったのでしょう。


あるとき、その話をTさん自身から聞かされました。
それにはあるきっかけがあった。

Tさんはベテラン樵のなかでも優秀な人で、現場をまとめるリーダーでした。そのTさんが、ちょっとした失敗をしたことがあった。木材の搬出作業をするための架線敷設の作業をしているときだと思いましたが、障害になる木を一本、Tさんが伐り倒した。きちんと狙った方へ切ったのだけど、その方向には別のワイヤがすでに架空してあって、伐った木がそのワイヤに引っかかってしまった。木を伐るときに、そのワイヤを算段に入れていなかった。

Tさんは、頭を抱え込みました。「オレはバカだ...」と何度も何度も呻くように言った。反省という態度を通り越して、自分を罰しようとしてるようだった。僕は驚いて、そんなに自分を責めるほどのことではないから、人間は完璧ではないので、よくある失敗じゃないですか。そんなようなに声を掛けた記憶があります。

そういう神経質すぎる気質をTさんも自覚はしているらしく、誤って伐り倒した木の片付けをした後の休憩時、Tさんは弁解を始めました。その続きに、お兄さんの話が出てきた。

オレもマジメだけど、アニキはもっとマジメだった。他人の二倍は働いた。そんなに金が要ったわけでもないのに、なぜあんなに働いたのか、オレにもよくわからん。それがいつからか、顔を合わせるたびに「しんどい、しんどい」と漏らすようになって。けど、休めと勧めても聞き入れずに、とうとう首を吊ってしまった――。

そう語ったときのTさんの表情が、この『身毒丸』を読み進めていると浮かんできました。ムッとするような臭いが、思い起こさせたのだと思います。


草いきれのような、ムッとくる臭い。これは過剰な〈いのち〉の臭いです。〈いのち〉というものは、ひとつひとつがエネルギーの偏りの発現ですが、群れて集まってせめぎ合って、互いが互いにとって過剰な存在になっている。だからこそ、折り合って、食い合って、生臭いような臭いを発する。動物なら血生臭くなるし、植物なら草いきれのような臭いになる。その違いは、それぞれの《かたち》の違いでしかありません。

そういう臭いは、僕自身、樵をやっていたときには、嫌な臭いでした。仕事上、そうした臭いの元は敵でしたから。自身だって「そうした臭いの元」であるにも関わらず、いや、そうであるからこそ、敵になる。自身が快適に生きる為に、排除するべき敵。

たとえば、除伐という作業がありました。スギやヒノキを植林して、12~15年くらいの林で行う作業ですが、これがなかなか手強い。植林して5年くらいは毎年手入れを行うので、樹間に生えているのは主に草ですが、7~10年放置すると灌木が主体になっています。しかも、人間はおろか、キツネやタヌキだって立ち入れないくらいビッシリ密生していたりする。そんな空間へチェーンソーや下刈り木を手に斬り込んでいく。

空間の〈いのち〉の濃密さ。自身のエネルギー。そして、手にしている機械が発する破壊力。そんなせめぎ合いが愉快なわけがない。不愉快なせめぎ合いを甘受しながら作り上げるのが、人間にとって快適に感じられる空間。濃密過ぎる〈いのち〉を間引きして、人間自身の〈いのち〉をせいせいと放出できるような空間。そういった空間は、人間が育てたいスギやヒノキのとってもよかろうということで、作り上げるのが樵の仕事のひとつです。

が、仕事とはいえ、やはり対象は〈いのち〉です。「人間の都合」で〈いのち〉を身勝手に扱っていることに変わりはない。相手が同じ人間ではないので、社会的な意識は傷つくことはないけれど、身体にはどこか「澱」のようなものが溜まっていきます。それは肉体的な疲労と隣接していて、区別が付きがたいものでもある。

播磨国高砂の浦につき給うに、人多く結縁しける中に、七旬あまりの老翁、六十あまりの老女、夫婦なりけるが申しけるは、わが身はこの浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業(わざ)とし、あしたゆうべに、いろくずの命をたちて世をわたるはかりごととなす。ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。上人あわれみて、汝がごとくなるものも、南無阿弥陀仏ととなうれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生すべきむね、ねんごろにおしえ給いければ、二人とも涙にむせびつつよろこびけり


鈴木大拙『日本的霊性』のなかで出会った、僕が惹かれて止まない文章です。この文章をして「引力」を感じせしめるのは、身体の「澱」だと僕は思う。そして、その引力は折口もやはり感じているらしく、『身毒丸』の附言で、

わたしは、正直、謡曲の流よりも、説教の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれてゐても信じたいと思ふ要素を失はないでゐると思うてゐます。


と書いている。強く共感するところです。


Tさんのお兄さんが首を吊るに至ったのも、僕はこの「澱」こそが原因だろうと推測しています。他人の倍、働いて肉体的に疲労が蓄積していた。「しんどい」という言葉はそういうことだと解釈するのが近代的でしょうけれど、人間というものはそんな合理的なものではないと僕は思う。まして、まだキツネやタヌキに化かされるようなことが実際にあったような時代環境でのこと。

お兄さんのことを語ったTさんの表情は、能面の「翁」のそれのような、なんとも言葉にはし難い陰影がありました。『身毒丸』が僕に思い起こさせたのは、その陰影なんでしょう。




今は僕は樵を生業にはしていません。Tさんの陰影を語ると、引きずられて出てくるのが、僕が樵を辞めようと思ったときのことです。高性能林業機械の展示会でのこと。

この時の僕の心象風景を語るアナロジカルな題材として相応しいのは、これでしょう。


人ははかつて、森の神を殺した――

エボシ御前はいいます。
「森に光が入り、山犬どもが鎮まれば、ここは豊かな国になる。もののけ姫も人間に戻ろう」

また、モロはアシタカに向かって罵声を浴びせます。
「黙れ、小僧! オマエにあの娘の不幸が癒やせるのか」

もののけ姫の「不幸」もまた、「澱」です。「神」や「仏」と同じく「澱」から生まれた何ものか。それは身毒丸もまた同じでしょう。

では、森に「光」をものとはなにか。「神」を殺したものは。
それは、『もののけ姫』の映画のなかでは“石火矢”です。その石火矢も、最初のものはレトロな装飾を施されまだしも趣のあるものでしたが、改良されたそれは【合理的なかたち】になってしまっている。

しかも悲しいことに、その改良を施したのは、これまた「澱」がその肉体に具現化してしまったライ病病みの人たち。エボシ御前は「人間として」、そうした人を愛し、ゆえにこそ森に「光」を入れる仕事を請け負う。

アシタカは、そんなエボシ御前の心を「夜叉」だと言っています。


僕がこのところずっと「呪い」と言っているのは、この「夜叉」のことです。

「呪い」という言葉のイメージから生まれるのは、一般的にはむしろ、ここでいう「澱」の方でしょう。身毒丸にせよ、サンにせよ、ライ病病みの人たちにせよ、そうした人々を形容する言葉としての「呪い」は、そのイメージに当てはまる。だけど、それではない。そちらの「呪い」であるならば、共に生きるもありだし、現に、人生の幾ばくかをそのように生きてきたという自負もあります。不愉快なせめぎ合いも甘受してきた。


高性能林業機械というシロモノは、石火矢の発展型です。これは「夜叉」を育んでしまうシロモノ。こんなものを森へ入れてしまうと、「神」は重ねて殺されてしまう。「不愉快なせめぎ合い」は、「快適で愉快な作業」に変質してしまう。そのことを僕は【呪い】だと言っています。

「不愉快なせめぎ合い」は〈いのち〉の総体が実は空間に対して過剰であることから生じる現象です。過剰ゆえに「澱」もまた生まれる。が、その「澱」とても、〈いのち〉の生業に他なりません。ならば、共に生きることはできます。

だが【呪い】はそうではない。もはや「澱」すらも生みません。確かにそれで、物質的には豊かになる。だが、「夜叉」が育つ。いずれ、その夜叉に心が喰われ〈生きる〉ことが難しくなる。それこそが【呪い】。

人間は今や、自身のエネルギーの他の、圧倒的なエネルギーを駆使するに至っています。それが「光」です。石火矢であり、銃器であり、重機であり、高性能林業機械です。銃器は兵器でもあり、その眷属には戦車もいれば爆撃機もいるし、原爆水爆だっている。原子力発電もまた、その眷属の一味でしょう。

僕が手にしていたチェーンソーや下刈り機程度なら、投資を回収するために患う【呪い】は軽微で済むかもしれません。だが、高性能林業機械となると、そうはいかない。投資に見合ったリターンが要求される。そのリターンのために森に「光」が入れられ、「神」は重ねて殺され、「神」と共振する心身も壊されていく。

チェーンソー程度であっても、僕の肉体にはその使役による傷跡が残っています。筋肉についた傷は、もう痕跡を残す程度になっていますが、骨へ行ったやつは、のちのち響いてくるかもしれない。が、それよりも厄介のは耳鳴り。甲高いエンジン音を側で聞き続けた所為で、右の耳には耳鳴りがある。これは仕事を離れて治ることはなく、年ごとにその大きさを増していく。まるで、アシタカが負った祟り神の「呪い」のようです。


そんな【システム】とは、どうやっても「共に生きる」ことなど僕にはできない。ゆえに僕以外の人間にも、やめて欲しいと願う。とはいえ、文明人にとって【システム】はもはや骨がらみになってしまっています。だから【呪い】が見えない。



以上が『身毒丸』によって引きずり出されたものの、一。
二は、『絶歌』です。

『絶歌』が出てきたのは、『身毒丸』という機縁を得る過程に依るところは確かにある。だけど、まさか、『身毒丸』の物語のなかで、Aを彷彿させる描写に逢うとは思っていませんでした。


芸道のため、第一は御仏の為ぢや。心を断つ斧だと思へ。
かういつて、龍女成仏品といふ一巻を手渡した。
さあ、これを血書するのぢやぞ。一毫も汚れた心を起すではないぞ。冥罰を忘れなよ。
身毒はこれまでに覚えのない程、憤りに胸を焦した。然しそれは師匠の語気におびき出されたものに過ぎない。心の裡では、師匠のことばを否定することは出来なかつた。経文を血書してゐる筆の先にも、どうかすると、長者の妹娘の姿がちらめいた。


心を断つ斧。血書。そして「汚れた心」。

ここで言われている「汚れた心」とは、端的には性欲のことでしょう。
性欲は誰にでもあるものだし、それを「汚れたもの」と認識するのも一般的です。
一般的であっても、性欲は、ムッとくるもの。身毒丸のそれは(身毒丸の性欲ではないにせよ)異常なものだと語られていて、さらに「斧」「血書」という強い言葉と対比され、ムッと具合はより強いものになっています。

それで思い出したのが『絶歌』に記されたAの自慰行為の告白。たしか、祖母の仏壇の前で、云々。詳細は憶えていませんし、思い出したくもないけれど、強くムッと来たことは強く憶えています。そこの描写は僕以外であっても、強い嫌悪感を憶えたのは間違いでしょう。


繰り返します。ムッとくるのは不愉快です。だが、嫌悪ではない。僕にとって、不愉快と嫌悪は明確に違うものです。【呪い】に対しては嫌悪です。どのような類いのものであれ――それがたとえ殺人に至るほど強く歪んだものであれ――エネルギーの放出には、不愉快は感じても嫌悪はしない。

機械でもそうです。発動機のエネルギー放出は、不愉快なばかりでなく時に快感ももたらしてくれました。あれは甚だ官能的で、快にも不快にもどちらへも転びます。その時の自身の状態で、転びかたが変わるだけ。

ですが、大きすぎるエネルギーは、どのように転ぼうとも、それに応じた破壊をもたらす。その破壊は嫌悪の対象になります。人間が人間のエネルギーで繕うことができるものは許せても、その許容を越えるものとは「共には生きることができない」。だって、当然でしょ? 許容を越えているんだから。


『身毒丸』に記されているのは、不愉快なものの許容の方法です。「血書」がその1。「芸道」もそう。「神仏」もそうです。許容の方法があれば、嫌悪はしなくて済みます。

ところが、僕たちの時代は、その方法を放棄してしまった。血書なんて、させられないでしょ? 芸道にそのような効用があると信じている人はほぼいないだろうし、神仏は言わずもがな。

そのようなものが殺されてしまったことが、僕に言わせれば【呪い】です。文明の「光」によって生じた【呪い】。


Aも、身毒丸の時代に生まれたのであれば、何らかの手段によって、修められた可能性は高いだろうと想像します。だが彼は、残念なことに、そうではなかった。【呪い】の中にいる者は【呪い】を自覚できてませんから、その「修める」手段を自ら手放したのだということにも気がつかない。だから、Aを責める。「罪」ではなく「汚れた心」を責める。

それは、程度の差はあれ、誰もが持っているものに過ぎないのに。その極端な「偏り」は彼の生来のものであって、誰もそれを責める資格などないはずなのに。

それもこれも、僕に言わせれば、ムッとくるものを許容できない、身体の「足らなさ」に起因します。『身毒丸』のなかに濃密に漂っている、ムッとくる〈いのち〉の臭い。【呪い】にかかって弱まった身体が、それを拒絶している――

だから僕は、身体を弱める【呪い】を嫌悪します。

コメント

>「身毒は立ち上つた。かうしてはゐられないといふ気が胸をついて来たのである。」
>お母さんは「かわいい」と言った。

『五体不満足』は読んでいません。だからそこでの文脈はわからない。なのでごんさんのコメントからの推測になります。

ふたつとも孟子が言ったところの惻隠の情の類いではないかと思います。四の五の言う前に身体が動く。素の身体の動きが、なにものにも邪魔されずに「かうしてはゐられないといふ気」となって意識に表われ、あるいは「かわいい」という言葉になった。

素の身体の素直な発動が自らの方へ向くとき、それを自愛という。他者へ向けば惻隠の情でしょう。邪魔していたものが鎮まって、本体が立ち現れることを僕は〈悲〉という呼んでいます。

自愛と同根の惻隠の糧にして育った人間は、自愛の人になります。
そうでない人は、そうでない人になる。
そうでない人になることが「呪い」です。
そして、「呪い」をシステマチックに再生産することが【呪い】。

>その途方もないハードルを

僕は、それを途方もないハードルだいう捉え方をしていません。「ヒト」という生き物に備わった基本性能だと思っています。

唯物論で考えても辻褄はあうと思うんです。ヒトに限らず、生命は生き残ることが至上命題です。生き残るために身体を作動させることが、即物的にいえば自愛です。そしてヒトは、社会を営むことで生き残るという生存戦略を採用したのですから、社会を成立させるための身体の発動であるところの惻隠の情は、ヒトの本能レベルで自愛の同根のはずなんです。

ごくシンプルに、「生きているということが先」という前提とも辻褄が合う。

「愛でる」という言葉のイメージは、僕にとっては、素の身体の作動からは外れています。花を愛でる、月を愛でる、そうした行為は高尚ではあるけれど、素の身体の動作かというと、疑問符が付く。ただ、ごんさんにとっての「愛でる」が、素の身体の作動だというのなら、それは支配とは何の関係にありません。

被害者の側のもろもろに寄り添う――

僕が強く感じているのは、寄り添う方法論の喪失です。
その「道」が見えなくなってしまっているから、寄り添おうとすればするほど、加害者の「心の闇」とらやらへの攻撃になっていく。それは実は、自身の【怨】の嘔吐に気がつかずに。

そうした「道」を見失わせたのも、やはり【呪い】です。森の神を重ねて殺すシステマチックな【呪い】。


森の神の本籍地は冥府でしょう。此岸と彼岸の境が定かならぬ場所、森はまさにそういう場ですが、そこに顕現するのが森の神。「光」が入ってしまうと、此岸と彼岸の境が明確になり、神は本籍地へ帰らざるを得ません。

さて、件の事件において、被害者とは誰か。その者は現在、どこに居るのか。答えは冥府でしょう。此岸にはすでにいません。

>人が冥府まで自ら赴く理由はいくつかあるでしょうがその最たるのものは、弔いでしょう、それを待って呼んでいる魂をすくいとるために。・・・

これは「被害者」に寄り添う方法論です。「被害者の側」でないことに注意をしてください。これができるのは、「被害者の側」の者であって、具体的には遺族でしょう。被害者が冥府に行ってしまったことで、被害者になった者。その者は、冥府に赴き弔う必要がある。その者自身のために。



では、「被害者の側」に寄り添う者たちは果たして、被害者の側の者が必要とする弔いに某かの助力をしているのか。僕の目から見れば、答えは否。むしろ、足を引っ張っているようにすら見える。「被害者の側」を正義に見立てることで「被害者の側」を此岸へと縛り付けようとしてるように見える。冥府へ赴くことを妨害しているように見える。

「被害者の側」に寄り添う者ができる具体的な方法とは何か。それは「被害者」を冥府から連れて帰ってくることです。昔であるなら、連れ帰られた者は「神」あるいは「仏」という衣装をまとっていた。現代なら、違う衣装になるかもしれません。

ごんさんは、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』というアニメをご覧になったことがありますか? 若者たちの心を捉え、大ヒットした作品。僕も大好きです。これがまさに、

>光を、手の中にあたためて、その温もりだけを感じるようにする

ようなものなんです。冥府に赴いてしまった者を優しく連れ帰ってくるような話。

そもそもでいうならば、日本にはそういう文化的な遺産があります。『源氏物語』も、あれは藤原氏との権力闘争に敗れていった者たちへの鎮魂だという見解があります。作者の真意はさておくにしても、そのような読まれ方――この読まれ方は『星の王子さま』の読まれ方に通じるものがあります――は、間違いなくあって、その読み方がある一定の効用を発揮していたことは確実だと思う。

物語には鎮魂の効用が確実にある。その効用は、ここのところ僕が主張している「物語」の「再編集」能力というところと、深く繋がっていると思っています――まあ、個々のコメントでは脱線ですね。

現代には、すでに被害者を冥府から連れ帰ってくるだけの新たな技法はある。なのに、その技法が用いられるのはあくまで想像上の存在であって、現実とはリンクされない。即物的にいえば「連れ帰る」のもまた想像でしかありません。ですが、人間は即物的・合理的なだけの存在ではない。想像上の「リンク」が現実的な効用をもたらします。

このリンクを阻むものこそ【呪い】です。リンクに思い至ることに【蓋】をしている。仮にもし、だれか思い至った者がいて、制作企画を発表したとします。被害者の側を冒涜するものとして、轟々たる非難が巻き上がることは予想に難くありません。この予想が【蓋】になる。

この【蓋】には「支配・所有」の情念が根がらみになっていると僕は思っています。被害者は被害者の側のモノ。モノだからなくなると喪失感がある。だから、その喪失感に寄り添う。

そして喪失感に寄り添うことは、そのまま喪失をもたらした原因へ思いを致すことになる。

だけど、本当は、もうすでに冥府にいる被害者は誰のものでもないんです。一神教的にいえば、神に召されたのだから、すでに創造神のもの。両親のものではない。誰ものでもない。だから、その「席」を誰もが使ってもよい。その能力があるものならば。


世間一般は、『絶歌』が出版されたことそのものに憤りを感じていたようです。僕は逆に、遺族に手記を書かせたことの方に憤りを感じる。そんなことをさせて、遺族たちをいつまでも過去に縛り付けてどうするのか。

そして現実は、手記よりも『絶歌』の方がはるかに売れてしまう。現実を直視することから見えてくるのは、大衆が欲しているモノ、優しさとは正反対の邪悪さへの欲求。

だからこそ、そうした【蓋】が外れて、鎮魂が新たな装いをまとって社会的な営みとして復活したら――、僕は、その効用に思いを馳せずにはいられません。

>人間はその怪物を御する方法を模索してきました。

ここにも若干のコメントを返しておきます。

リヴァイアサンのことはご存知だと思います。トマス・ホッブズが国家の例えに使った怪物ですね。国家は怪物だけれど、必要な怪物でもある。なぜなら、リヴァイアサンが居なくなると、もっと怖ろしいヒビーモスが出現するから。ヒビーモスとは、アノミー(無秩序)のたとえです。

僕が思うに、ケルベロスを制御する方法には大別してふたつある。ひとつは白魔術系。もうひとつは黒魔術系です。

音楽は白魔術系。権力(金)は黒魔術系。言葉は、白黒の両方がある。

黒魔術がもたらすのは、冥府の秩序の具現化です。
ビヒーモスを抑えるためにリヴァイアサンはいなくてはならず、でも、リヴァイアサンも怪物だから制御しなければならない――こんなの、冥府の秩序でしょ? ハーデスが強権をもって支配する秩序です。

黒魔術を弄する現実世界の治世者たちは、だから強権を欲する。欲せざるを得ないし、ためらいなく欲することができる人間が治世者たりうる。権力も、金も、そういう類いのものです。

そのことを喝破したのはゲーテだと僕は思っています。『ファウスト』の第二部で暴かれていることは、それだと思う。メフィストーフェレスの作為として生みだされた金。幻想の美女を支配しようとする企て。ホムンクルスという人工知能の所業。その果てにファウストは、悪魔を欺いて白魔術的秩序を此岸に具現化しようとし、落命する。そこに天使の救済。

――『ファウスト』を語るには、まだまだ力不足です。


が、ひとつ思っていることがあります。
権力についてはまだわからない。ただ、金については、白魔術系の顕現手段をもはや人類は手中に収めていると思っている。技術の進展によって。

手段はあるのに現実とのリンクが為されていない。それは、やはり【蓋】が原因だと思っています。

文明の【呪い】によって生じる【蓋】。

本体

そもそもあなたは身毒丸がどこにいったのかわかったつもりでいるのかと

スーパーなどに買い物に行くと、肉を売っていますよね。
残酷なことだといつも思うんですよ。
〈いのち〉だったものが、商品として販売されている。

『もののけ姫』のなかで、乙事主が「このままで行けば、我らはやがて肉として人間どもに狩られるだろう」と言った。宮崎さんは、現代から逆算してそういうセリフを設定したんでしょうけれど、逆算だけはないとも思う。

幸いなことに、僕は未だヒトの腹を裂いてみたことはない。首を切り落としてみたこともない。この「未だ」ずっと未だであって欲しいと願っている。願っているけれど、そうなったらなったで、仕方がないとも思っています。

一方で、これは幸いかそうでないかわからないけれど、ヒトとさほど変わらない構造をしている〈いのち〉のはらわたを裂いてみたことはある。頭を切り落としてみたことはある。その頭に生えている角を切り落として血を洗い流し、戦果としてディスプレイをしてみたこともある。血の臭いも知っている。頭を切り離すときの、ゴリゴリとした感触も。

殺生です。殺生をしたのだから、加害者です。そうやって僕自身の〈いのち〉を繋いでいる。


仮定の話ですが、ごんさんが不幸な事態に陥って、その激情を発動せざるを得ないような状況に陥ったとき。激情に沿って身体が動いてしまうことを、制御しなければならないと僕は思わない。素の身体の作動を第一とするなら、そこは尊重すべきだと考えています。

それを制御できなければ冥界に落ちるなんて、僕はまったく思いません。だとしたら、食物連鎖の頂点に立っている人間は、全員、冥界入り間違いなし。それとも、冥界とは人間だけのものだと言うんでしょうか? だったら恐れるに足らず。〈いのち〉の世界はもっと大きい。

当事者(≠被害者)の激情を緩和するのは、当事者の側の人間の務めだろうと思っています。何をもってその務めを果たすのかというと、加害者の意識でしょう。我もまた加害者。〈いのち〉を喰らって〈いのち〉を繋いでいるものだという罪悪感。

生き物のはらわたを裂くといったような行為をするには、ハードルを越えなければならないんでよ。心理的なハードルをね。越えるたびに「澱」が溜まっていくような、そういうハードルを。その「澱」が激情を抑える重しとなる。

この構造は『身毒丸』の物語にもあるものです。師匠の源内法師もまた「澱」をもつ人間です。だからこそ、身毒を折檻し、血書を強要する。そのような行為は現代では虐待とされ、禁じられるでしょうけれど。


――〈いのち〉の、ムッとする臭いの効用とは、そういうものだと僕は思う。それからすると、ごんさんの激情は、なるほど、やはり「愛でる」者のそれだろうと思ってしまいます。実感として、〈いのち〉の臭いを知らないんでしょうね。だから、怯えている。僕にはそう感じられる。


直接関係ありませんけど、僕の体験談を披露します。

ある現場で失敗をしでかして、チェーンソーで足を切ってしまったことがあるんです。左足の膝の上。よくやる場所なんですけどね。うかつにもかなり深く切ってしまって、縫わないと出血が止りそうにない。

で、医者へ行かなければということになったのですけど、間の悪いことにその日は土曜日で、もっとも近くの診療所は休みだったんですよ。現場は十津川の山のなか。山を下りて自分の軽トラを走らせ、最寄りの公衆電話で消防に連絡をして、やっている外科医を調べてもらったら、新宮まで行かないやっていないという。距離にして100キロはありますから、普通に行けば三時間くらいはかかる。診療時間に間に合いそうにないので、消防から待ってもらうようにその病院に連絡を入れてもらって、軽トラを飛ばしていった。

僕は当然、急いでいます。左足は血だらけだし。国道へ出ると、他にも車が走っていて、僕からすればノロノロ走っているわけですよ。何台も追い抜くのですけど、なかに煽られたと感じて道を譲ってくれない車があった。まあ、仕方がないですけど。それでも、急がなければならないから煽ると、あちらは車を止めて、苦情を言いに来た。これもまあ、仕方がない。それで、僕も軽トラから降りていくと、相手はぎょっとした。血だらけですからね。

これこれこういう事情で急いでいます。申し訳ないと謝りました。相手はとても恐縮して、問題解決。まあ、そういうものです。リアルな血には迫力がある。


仮に僕がその相手だったとしたら。ぎょっとはしただろうけど、恐縮まではしなかったでしょう。そういうこともあるよね、という感覚にしかならない。程度の差こそあれ、同じようなことを僕とごんさんの間にはあるような気がします。


>なぜあなたの文にはその「もろもろ」がないのですか?

それ、重大な瑕疵ですか? 

僕の文に「もろもろ」がないのは、僕の文だからです。「もろもろ」はあくまで「ごんさんの問題」。あくまであなたの想像上ことです。そんなの、僕は知りません。

冷然

落ち着いたら、こういう考えについてもご賞味ください。

「よくもまあこんな大怪我でハンドルを握る気になるものだ。余程運転に自信があるのか。バカなのか。それほどまでに病院へ行きたいのか。とにかくこの人危なくてしようがないよ」

言葉といえど、斬り結んで見ると、いろいろと底が割れてみえて興味深いものですね。

底とはなにか、明記しておきます。

結局、「愛でる者」は、愛でる対象を選択する、ということです。そして、その選択の正当化に全力をあげる。

現に子どもを殺されてしまった人と、殺されてしまうかもしれない人とでは、立場が全く異なります。前者はもはや可能性がない。後者は可能性がある。

その可能性を自らの意思でなきものだと想定して、それを「被害者の側」と称し意思の正当性を主張する。そんな都合の良い正当性が、可能性を奪われた人の役に立つなどとは思えません。むしろ、新たな可能性を塞ぐ。可能性を奪われた人を、その可能性が奪われた場所に居続けるように要請するものだから。

なぜこれがわからないのかと、いつも疑問に思うこと。

「私も子どもを奪われたら...」という想像は、その想像をやめることができることを示唆しています。そのような想像を四六時中している人間などいたら、それは病気です。健常ならどこかでやめる。自分の都合の良いときに、そういう想像を引き出してくるのが「健常」です。

想像でなく、現実に直面している者にしてみれば、「やめることができる」という事実がどれほど惨たらしいことか。その現実に、「オレを思いを正当化する素材として居続けてくれ」と「愛でる者」は無意識のうちに要請します。「被害者の側」などというものは、そんな程度のものであり、それが「底」です。

もはや被害者はこの世にはいません。その断絶を見ることは、目の前にこどもが居る人には難しいのかもしれません。アタマは想像しても、身体はそうは動かないのが自然だと思います。

No Way Back

『身毒丸』読みましたよ。
Richie Hawtinの『From My Mind to Yours』をガンガンかけながら読んでいたら得体の知れない想念がするする頭の中に入り込んできました。関連する俊徳丸伝説についての概略や、『身毒丸』についての考察にも幾らか目を通してみました。

折口信夫(歴史上の人物には敬称付けません/マイルール)が、どこから“身・毒”という文字を持ってきたのかに興味があります。俊徳丸伝説が生じたよりも更に以前の時代には“身”“毒”の意味、特に“毒”を名に充てる意味が本作の書かれた大正時代とはある程度異なっていたはずです。折口は民俗学者ですから、そこを当然理解した上でこの文字を充てているのでしょうし。
折口と現代人(然も典型的なポストモダニスト)の私の間にも“毒”に関する捉えの隔たりがあります。私は現代人の感覚で“身”“毒”をつかむしかない。

そうすると、身毒丸と(元)少年Aさんの直結という異様な想念が生じてしまいます。私の中ではそうなるのだから詮方ない。「無縁」な者が排斥され疎外されるしかない(子供に田楽法師としての生き方など決して許されない)現代社会の中に身毒丸が生まれたら、(元)少年Aさんになっていても別におかしくはないよなという想念。特に「血書」の下りと、『絶歌』に於ける(元)少年Aさんの極めて自己懲罰(鞭打行者)的なルーティンワークの描写はまるで二重写しのように感じられました。もちろん作中で身毒丸が何の呪いも放出していないことは明瞭です。その上での想念。

以下は本書とは直接関係のないツイートの引用です。

「わかりやすい」障害者の皆さんが堂々と「社会が配慮しろ、格差をなくせ」って主張してるのを見ると、どうしても自分の中に暗い感情が渦巻くというのが今日の自己発見ですね。発見したくなかったですね。
https://twitter.com/syakkindama/status/778448924604440576

社会や健常者に対して卑屈になってると言えばその通りなんだけど、社会や健常者に対して発達障害者として堂々と主張していく方法論が1ミリも見えてこない。
https://twitter.com/syakkindama/status/778452961391353856

折口が恐らくその性的指向のせいもあり、柳田國男と死者の魂についての捉え方が異なっていたのは知られていますが、折口には「還る場所が無い」という昏い情念を感じます。

「信吉房の血が、まだ一代きりの捨身では、をさまらなかつたものと見える」

部屋の中に明るい場所と昏い場所があれば、無意識に昏い場所に目が行く人間が読むと、このようになるという話でした。

追記。

私は愚慫さんの仰ることがわりと解るつもりですけれども、「生命」は一種の錯誤であると感じているので、最終的には乗れないんですよね。

私はごんさんの仰ることが美しいと感じるんですけれども、自分自身が如何に「美」「感動」に手もなく騙されるチョロイ存在であるかをよく知っているので、最終的には乗れないんですよね。

私が間違っているってことで、別に良いんですけどね。

Darkest Birds

>ごんさん

>日野日出志とか諸星大二郎とか手塚治虫とか手塚治虫とか手塚治虫とか、あと、どおくまんとか

美しいですよね。
日野日出志さんは執筆中に気配を感じて振り返ると、目の端に小鬼が自分の様子を窺っているのが映ると語っていましたが、寄って来るんでしょうね。山岸凉子さんも“向こうから寄って来る”タイプらしいですけど。

愛でる者は愛でられる者でもある。愛でる者と愛でられる者、両者の間には本来は権力勾配や力の大小は介在しない。
これは間違いない。ただし見ることは攻撃することにも通じる。見ることは難しいです(伝説に於いて、俊徳が一時盲目になるというのは象徴的です)。
敢えて見ない方が良い時・物・者もある。自分を護るためでなく、相手に傷や苦しみを負わせないために。

私はそう思います。

>特に「血書」の下りと、『絶歌』に於ける(元)少年Aさんの極めて自己懲罰(鞭打行者)的なルーティンワークの描写はまるで二重写しのように

ああ、なるほど。そういうふうに読みましたか。そう言われてみれば腑に落ちると同時に、僕が感じていたことの輪郭がよりハッキリします。

僕は、あの血書が、師匠によって強いられたことが鍵なんだと思いました。それは、他にはたとえば、サリバン先生のヘレン・ケラーへの教育とか。その「矯正」が、身毒丸をして社会性を身につけせしめた。

Aは、結局、そうしたルーティンを自身で科すしかなかった。それでは社会性を育むことができる機会がない。彼が「お金しか頼れるものはない」と思い至るのは至極当然のことだし、そうなるのを彼だけの責任に帰するのは甚だ不公平だと思います。


>どうしても自分の中に暗い感情が渦巻く

見たくないものを見せつけられると、そうなりますよね。僕のように「斬り結ぶ」ことを趣味としている者からすれば(苦笑)、それは「いいこと」なんですけどね。少なくとも「いいこと」の兆し。その兆しをどう育むか。それが問われている瞬間。

ごんさんのコメントにもありますが、その「いいこと」は、しかし、当人にとってみれば「魂を削る」と感じられるものでしょう。「暗い感情」という言葉とも合致します。

ですけど、《魂》とはそんなものではないと僕は思っています。削り取られたと思っているものは魂などではなく「アイデンティティ」です。私は樵である。私は親である。私は高校教師である。私は健常者である。あるいは、私は五体不満足の者である――。いずれも「アイデンティティ」。

僕は言葉の上で「身体感覚」と「実感」を分けて考えますが、その所以は、「アイデンティティ」に過ぎないはずのものも、当人にとってしてみれば、あたかも「魂を削れらるがごとく」感じてしまうという現象にあります。そしてそれは【逆接】の証でもある。

それは《魂》ではなく【アイデンティティ】に過ぎないとしても、「削られるがごとく」感じることは「実感」であり、ほんとうに「しんどい」ことです。その「しんどい」ことこそが僕の武器であり、だから必然、「斬り結ぶ」ということになってしまいます。


無責任なことを言うようですが、斬り結んで傷を負っても大丈夫です。きちんと身体が作動してさえ入れば。身体を作動させるという意志を持っていさえすれば。


上でチェーンソーで怪我したときのことに少し触れました。

あのとき、周囲の者は、付き添ってくれようとしたんです。それが当然の大怪我ではありました。だけど、僕は断った。大丈夫、なんとかなる。心配をしてくれましたが、僕が平然と言ってのけたので、それ以上は言わなかった。

膝の上ですから大きな動脈などを切ったわけではない。だけど、膝下に血流が行かないくらいに腿のところで止血をしておかないと危ないくらいの傷ではありました。でも、血は止まるという確信はあった。なぜかはわかりませんけど。そして、そういう「確信」があれば、血は本当に止まる。事実、新宮の病院に着く頃には止まっていた。

そうした現象が起こることは、身体のことを識っている人間なら知っています。同じことが心についても起こる。ただしそれは【アイデンティティ】に依存しているようではダメです。【アイデンティティ】の先にある〈生きる〉ということそのものへの確信に届いていないと、それは起きない。

【逆接】の者がそこに届くのは、確かに容易ではありません。「実感」をごりごり削っていかないと届かないから。そして、それは確かに「痛い」から。

だけど、「痛い」というのは、身体が〈生きている〉からです。「痛い」ことを受けとめることはそのまま〈生きる〉ことを感じることに他ならない。だから、「いいこと」なんです。

痛みに我を忘れてしまうのは、致し方ないことなのかもしれません。だからといって、それに同情してしまっては、せっかくの「いいこと」の兆しを潰してしまうことになる。

一人前の大人であると自負しているのであるなら、その程度のペイン・コントロールはしてみせてほしいものです。やろうと本気で思いさえすれば、絶対にできます。

それができないのは【アイデンティティ】に未練があるからですが、そんなことは、僕の知ったことではありません。誰もが自分の【アイデンティティ】を主張し始めれば、その先、生起するのは「醜いこと」。必定です。本気で「美しい」ことを求めるなら、本気になってほしいものです。

ごんさん

言葉はそもそも魔術です。
言葉を使うかぎり、その性質から逃れることはできません。

ご指摘の通り、僕は魔術を操縦しているのでしょうが、それでいいと思っています。
僕が対話において期待しているのは、僕の魔術で操縦されることではなく、コメンテーターもまた、操縦することです。

ごんさんだって魔術師ですよ。
魔術師同士、魔術の掛け合いでいいじゃないですか。

僕は相手を呑み込むつもりで魔術を仕掛けますがw、でも、呑まれないでください。
僕を呑み込むつもりで、魔術を仕掛け返して欲しい。

「斬り合い」の中でも、従心は見つけることができると思います。
僕はいままでそうやってきたつもりですし、これからもそうすると思います。
人間だけにではなく、さまざまな相手と。

Where The Birds Always Sing

>愚慫さん

>魔術師同士、魔術の掛け合いでいいじゃないですか

これは悪魔の思想ですよ。
少なくとも丸腰で対話に臨んできた相手に向ける言葉ではないでしょう。

ごんさんが何故『身毒丸』を読んでみて欲しいと言ったのか、ひょっとして愚慫さんは解っていないんじゃないですか。

「信吉房の血が、まだ一代きりの捨身では、をさまらなかつたものと見える」
アイデンティティの問題ではないのではありませんか。

ごんさんが色々「みっともない」振る舞いまでして何を愚慫さんに訴えたかったのか、自らに問うてみてください。
私もずっと解っていなかったですから、偉そうなことは言えませんが…。
私はごんさんを美しいと思いますよ。私の勘違いだとしても。

追記。

書かれた言葉というか文章は、どうしてもその性質上「読み」で受容するしかない。
他者の問いかけや訴えとして「聴く」ことが難しい。
読み手の態度としてせめて最大限「聴く」ようにして読みたいものだけれども、それでもやはり「読み」になってしまう。
どうしても聴き取りにくい小さな声のような言葉は拾い漏らして抜け落ちてしまうんですよね。
見ることは難しく、聴くこともまた難しい。
私だってごんさんの声がどれだけ聴けているか、はなはだ心許ないですよ。常に自分が間違っているのではないかと思います。

残酷さに慣れる訓練さん

前回のコメントのときもそう思いましたし、アキラさんの時もそうですが、絶妙のタイミングで登場してくれますね。感謝します。

テキストというものは、どうしても「読み」で受容するしかない。
僕が「魔術」という言葉で言いいたいのは、そういうことです。
逆説的ですけれどね。

どんなふうに伝わるかは、わからない。
直にあって話をすれば伝わるけれど、テキストはそれがわからないから、ある意味無責任です。

でも、だからこそいいんじゃないかと僕は思っています。
「読み」は読む者の責任です。テキストでのやりとりは相手に責任を押しつけるという魔術でしょう。

ごんさんがなぜ『身毒丸』を紹介したのか、僕は理解していないのかもしれません。いえ、ハナから理解するつもりはなかったのかもしれない。なにより、僕はごんさんが「みっともない」ということがまるでわかりません。

「丸腰」が「みっともない」ことなのですか? むしろ「立派なこと」ではないですか?
今回のごんさんとのやりとりは充実したものでしたよ。しんどいものでしたから。



>「信吉房の血が、まだ一代きりの捨身では、をさまらなかつたものと見える」

ええ、これはアイデンティティの問題ではありません。その者の個性の問題です。
個性はその者の《かたち》。おさまるとかおさまらないとか、なんらかの基準で測るようなものではない。僕からすれば。反社会的なものだとしても、時代そのものが反社会的であったから有用なこともある。

いずれにせよ、僕にはごんさんが伝えたかったことは理解していないのでしょうね。


ですが、それがどうだというのでしょう? 開き直るわけではありませんよ。伝わらないのは僕だって同じです。本当に訴えたいことが伝わったという感触を得た経験など、皆無に等しい。

かといって、そんなものだと割り切っているわけではない。同じことを手を換え品を変え、訴えるだけのこと。どうしても訴えたいことがあるなら、訴え続けるしかないではないですか。

わからないものはわかりません。それは、わかるつもりがないということではなく、わからないと「為す」ということです。その「為す」を為してみようと思います。

信号

30年近く前、教習所の先生がこんな話をしてくれました。名護から那覇まで抜ける車をできるだけ追い越していく運転と追い越しを一回もしない運転。の実験。同じとこから同じ時間にスタート(正確には追い越さない方が追い越す方の一台分前から)。その到着時間の違いについて。もちろん、制限速度をぎりぎり守って(標識+10くらい)、という制限はありますが。答えは「ふ」て感じのものでした(覚えていないけど)。「そのために誰かを殺しますか」とその先生は続けました。

いい人に巡り合ったものだと今でも思っています。

Manic, Magic, Magestic

>愚慫さん

“色々「みっともない」振る舞い”というのは、私がごんさんの『暴走』と呼んだ振る舞いのことで、失礼な物言いではあるものの、ごんさん自身もあまりスマートでも粋でもない振る舞いだと解ってやっていたのだろうなという意味で書きました。

魔術云々に関しては、売り言葉に買い言葉で引っ込みも付かなくなった上でのレトリックだと好意的に解釈しておきますよ。
少なくとも私は、対話の意思を込めて書いた自らのコメントを魔術として発信したことは一度もありません。どんな変則的なコメントも、全て対話の意思の直截な顕れです。対話の相手に読みの責任を負わせる気もない。
高橋哲哉さん仰るところの「応答可能性」という意味での“responsibility”に期待するところは多少ありましょうが、それにしたって「こんにちは、いい天気ですね」と言葉をかけていきなり殴られることはあるまいという類のごく素朴なものに過ぎませんよ。

私の愚慫さんに対する敬意は基本変わりませんし、そもそも他人にさして期待しないので失望もありませんけれども、「魔術師同士、魔術の掛け合いでいいじゃないですか」は今まで私が見た愚慫さんの文章の中で、群を抜いて雑なように感じました(私の直観では“悪魔的”)。そもそも魔術は受け手の解釈・読みに依存するものではないです。術者の能力・術の体系がそのまま反映されるものです。例えばタロットカードの「スウォードの10/正位置」は、どんな文化圏の人にとっても同一の暗示を齎すものなのです。異なる文化を持つ人からは吉祥に読み取れるということはありえません。
どんな言葉も愚慫さんの中で読み替えが可能というわけではありませんよ。
言葉の中にはそれ自体が強い力を持つものもありますから。先刻お解りのこととは思いますが。

Black Sun

>ごんさん

『身毒丸』については、エライもん出してきたなあと思いました。折口かよと。
私は未読だったので、いい機会を貰いました。愚慫さんの読みも面白かったですし。
それでも愚慫さんワールドに塩梅良く再配置されてしまうんですけどね。その辺の咀嚼力はすごいなあと思います。

ごんさんは身毒丸の姿に個人の領域を超えた「宿命」或いは“burden”と呼ばれるようなものを見たのではないか、そしてそういったものを「愛でる」行為にも主体的な選択の余地なき必然を見たのではないかと私は思ったのですが、違いますか?

私は鉱物の原石が好きで集めているのですけれども、愛でる対象の鉱物から選ばれているという感覚があるのです。
鉱物の原石は人工の製品と異なり完全な個物で各々個性があるので、同一品の中から選ぶというものではないのです。
向こうから「惹き付けられる」イメージ。私と鉱物の間に一種の双方向性があるように感じます。
所有しているという感覚は薄い。私が死んだ後も鉱物たちは数十万年もほぼ形を変えずに在り続けるわけですし。

動物でも、野良猫とか勝手に私に付いてきてドアを開けたらサッと家に入って来るのや、網戸をがりがり搔いて俺を入れてくれアピールするのや、自室ベランダの室外機の下で勝手に子育てを始めるのや、洗濯機の上をラウンジとして使うのや色々いますが、そいつらにしてみれば私を愛でているつもりなんでしょう。私の何かが自覚せずに猫を引っ張っているのだろうなと。やはり双方向性を感じます。

混沌の話については色々書きたいこともあるものの、うまく収拾を付けられそうも無いので控えておきます。
E.A.ポオは20歳前後の頃最も好きな作家でした。といっても丸谷才一の訳したポオが好きなのかも知れません。
ごんさんがポオを読み、日野日出志さんや諸星大二郎さんが好きで、その上で『絶歌』を読むのを拒むというのは、一揃いで捉えると何かしっくり嵌るものがあります。動機はどうあれ、決して事件をコンテンツとして消費したくないという、ごんさんなりの被害者少年に対する謹慎の情を感じます。読めないのでなく、読まないのだなという。
そこのところは何となく解っていたつもりですが…。

残酷さに慣れる訓練さん

>そもそも魔術は受け手の解釈・読みに依存するものではないです。術者の能力・術の体系がそのまま反映されるものです。

なるほど、そういうことですね。理解できたと思います。術の掛け合いが雑な言葉だということも。もう少し弁えろ、ということでしょうか。


なんだか課題を改めて突きつけられた思いがします。

魔術というワードに乗っかるとして、僕はまだまだ力不足だと思っているんです。訴えたいことに比べて、まだまだ足りない、と。だから、足掻いているという自覚があります。

足りないのは、「力」ではなく、もっと別のものなんでしょう。ごんさんも、そこいらを伝えたいと思っておられるのかも。


少し前から、ちらちらと「魔境」という言葉がアタマを掠めています。たぶん、「何ものか」が警告を発しているのでしょう。ごんさんの登場は、その警告の具現化だと受けとめることにします。

Whispering Foils

>愚慫さん

>もう少し弁えろ、ということでしょうか

また自分語りですみませんが少々お付き合いください。
2000~01年くらいの時期、初期2chの洋楽板・クラブミュージック板に出入りしていました。HNも使っていた。当時の音楽板は途轍もなく博識な音楽通がいて面白かったのです。他に大規模なネットの交流空間が無かったから、多士済々並ぶところのない場でした。まだネットウヨクなる魑魅魍魎が出現する前の時期でもありました。但し粗暴な無法者の集まりでもあった。

ある時、某かのスレッドに不案内な子が書き込みしてきました。自分は苛められっ子です的な自己紹介もして、場慣れしていないのは一目瞭然。多分話し相手が欲しくて、ここなら誰かに受け入れてもらえるかもしれないと思ったのでしょう。書き込み内容も覚束ない感じでまるっきりNGなカラーを出してしまっていた。案の定タナゴの群に放り込まれた琉金状態。ボロカスに嬲り者にされて酷いものでした。
彼は「リアルで苛められて、ここでも苛められるんだ…」と書き込んで、消えました。

私はそれを見ていて、何をしたか覚えていません。ただ傍観していただけだったかもしれない。こんなところに来たらダメだ、と書き込んだかもしれません。でも話し相手を求めてきた子に「君のいる場所じゃない」と告げても何にもならない。かといって、その場で即席に攻撃にさらされない振る舞いやコツを伝授することも不可能です。
私には出来ることがなかった。何一つ。

愚慫さんは、呪われた者・社会と逆接の者かもしれません。
しかし、ネットのテキスト交信空間では、強者です。魔術師という表現を借りるならば、豊富なリソースを持ち論理構築能力に極めて優れた高位の魔術師と呼べるでしょう。独自の洞察力も備えている。
私やごんさんはリソースや論理構築能力では愚慫さんに劣るでしょうが、テキスト交信空間で渡り合うだけの術を使うことは出来る。各々身に付けた攻防の技量もあると申せましょう。

でもね。

ネットには、テキストを必要に応じて組み、自分の思いを伝えるのが不得手な人もいます。中にはブログにコメントを付けるだけのことが、大きな心理的ハードルになる人だっているのです。心身に様々なハンデを負った人もいます。
そういう人たちにも、日々のささやかな喜びだったり、理不尽なことへの怒りや悲しみだったりを書き伝えたいという気持ちがあります。文章が上手くなくても、上手く読めなくても。

そんな人たちにとってテキスト交信空間が「魔術師による術の掛け合い」の場であったら、どうでしょうか。
彼らが小さな声を上げようとする前に委縮してしまうのではないでしょうか。ネットは広大、愚慫さんは愚慫さんのマナーで良いじゃないかと思われるかもしれません。けれどもネットはtwitterですら集団による暴言や差別発言、中傷の場になってしまっています。言葉を操るのに不得手な人たちの居場所は削られる一方です。
そこへもって来て愚慫さんのような思索する強者が「魔術師の術の掛け合い」の場でOKと追認してしまうことは、あまりに無慈悲なことだとは思いませんか?

私は、ここのブログが文章を上手く綴るのが不得手な人や、読みが不得手な人であっても安心して覗ける、そして書きたいことがあれば書き込める、そういう可能性の開かれた場であって欲しいと思っています。私たちも広大なネット空間の一部であり、そこで交わされる言葉に応分の責任を負っているからです。

…あまりこういうことは書きたくないんですけどね。初期に設定したキャラクターが定まらなくなってしまうのでね。
性善説の人と勘違いされても困りますしねえ。
(しかし我ながら他人様のブログで勝手なこと言ってるな。普通なら出禁だな…)

ごんさん

>「人間」を軽くする方向に振れるとき

その感触はわかります。
そういう部分は確かにあると自覚している部分はあります。
僕の中の【毒】やら【怨】やらが蠢いていると思うときがしばしばありますからね。

僕は、ごんさんは僕に近いと思っています。そういう【毒】やら【怨】やらといった部分で。
だから、お互い、反撥の強いものになる。
【毒】とか【怨】とかいうものは、そういう性質のものだと思っています。

異なる部分は、ごんさんはヒューマニストであるであろうことに対し、僕はエコロジストだということだと思います。エコロジストから見ると人間は傲慢なんですよ。「被害者の側に立つ」ということですら。

ずいぶん矛盾していると自分でも思います。だって、僕だって人間なんだから。人間なのに、人間を傲慢と言い放つ、この傲慢さ。どうにかならないものかと思いますが、今のところはどうにもなりません。文体を工夫してみたり、いろいろ試してみたこともありますが、小手先でどうにかなる問題でもない。

エコロジストであることと、ヒューマニズムとが相容れないものだとは思っていません。ただ、僕の中でもまだ整合性が取れていないのも間違いありません。


『史記』の話はまた改めてコメントするか、エントリーを立てるかします。

残酷さに慣れる訓練さん

>ここのブログが文章を上手く綴るのが不得手な人や、読みが不得手な人であっても安心して覗ける、

う~ん、お言葉はありがたいですけど、難しいなぁ...

そのように言われたら、僕だってそうありたいとは思います。
だけど、正直に言いますと、そんなふうには望んでいないんだと思います。
もちろん、誰がのぞいてくれてもいい。それは歓迎です。だけど「安心して」は、望んでいません。「覚悟して」覗いて欲しいと思っています。

いえ、本当に望んでいないかというと、そんなこともないとは思います。できることならば、そうありたい。だけど、もう、「できることならば」と限定をつける時点で、本気でそんなふうには思っていないんですよ。

禅に有名な十牛図というのがあるじゃないですか。あれの最後、10枚目は、布袋さんが子どもと遊んでいる図柄ですよね。とてもじゃないが、そんなところにはまだまだ届かないと思っています。「得牛」くらいまでいっていれば、いい方でしょう。力ずくで牛をつかまえようとしている状態。

臆面もなく「斬り結ぶ」なんてみっともないことを言っているわけですから、ホント、まだまだ手が届かないなぁ...というのが偽らざる気持ちです。

Divinity Takes A Dive

>愚慫さん

難しいことではないですよ。
愚慫さんが魔術師として在ることは、それはそれで良いんです。
ただ、私の願いを心のどこかに留め、(ネット上の)対話者が魔術師に見えた時にそれを思い出して頂ければ、それで良いのです。

愚慫さんの力は誰か(それは目の前にいる対話者に限らない)を破壊する凶器にもなれば、救いの手にもなる。

皆が魔術師として在りたいわけでもなく、また在るわけでもない。

愚慫さんを生かすものが、他者をもまた生かすものになれば、より良いことでしょう。
ごんさんが願っていることも、そういうことではないのでしょうかね。

繰り返しますが、私たちの書き記す一つ一つの言葉が、(ネットという)世界の一部を構成しているのです。であるが故にいつかどこかで、誰かが、私たちの言葉に触れる可能性がある限り、私たち(の言葉)は彼らに対する責任を負っているのです。

残酷さに慣れる訓練さん

>対話者が魔術師に見えた時にそれを思い出して頂ければ

いやぁ、申し訳ありません。

またもや、魔術の掛け合いになってしまいました...(^_^;)

魔術が見えた(ような)気がしたら、すぐに反応してしまうんですね。
魔術返しではない、魔術の躱し方を探らないといけませんね...

言葉に力があることは、よくわかっているつもりです。
とはいえ、言葉に、本当に人間を幸せにしたり、あるいは不幸にしたりする力があるとまでは思っていません。

幸せになる準備ができている人の、後押しをすることは言葉でできる。
不幸に落ちそうな人の背中を、言葉で突き飛ばすことはできる。

じゃあ、幸せになる準備、不幸になる準備をするのは何か。身体だと思う。
環境に順応していく身体。

僕が言葉でできると思っているのは、環境の改変です。
なぜなら、文明社会は言葉でできているから。
言葉でできあがったイメージを顕界させたのが文明社会であり、文明社会こそが文明人の環境だから。

自然生態系というものは、非平衡開放系、トーラス型です。人間もまた、自然の一部ですから、同じくトーラス。ところが、文明社会の方はブラックホール型になっている。自然環境と人間の身体を食い潰すかたちでブラックホールが維持されている。言葉でできたブラックホール。

言葉でブラックホールができるのであれば、言葉でトーラスもできるだろう。
いえ、言葉だけではダメで、言葉の顕界としての技術も要る。そして、それはすでに揃っている。
だったら、やっぱり欠けているのは、言葉によるトーラスのイメージ。
言葉でできたトーラス型文明社会のイメージが共有されれば、必然、文明はトーラス型になる。

そうなれば、環境に順応していく人間の身体は、勝手に幸せになる準備を始めていくでしょう。

――と考えるから、僕はエコロジストだと自認します。そして、勝手に幸せになることができると思うから、人間性善説に立つことになる。

From Gardens Where We Feel Secure

>愚慫さん

>言葉に、本当に人間を幸せにしたり、あるいは不幸にしたりする力があるとまでは思っていません

>なぜなら、文明社会は言葉でできているから

私がいま愚慫さんに向けて書いていることと、愚慫さんが説いていることの間には差異があるのでしょうね。
見ているものが違うというか。
コメントを確認して頂ければお分かりかと思いますが、私は差し当たり「幸福」を念頭に置いていません。
ネットの世界には言葉で救われる人が少なからずいるということです。
救われることと幸福は、当たり前ですが異なります。

愚慫さんが思索を通して目指しているところはそのままに、言葉で救われる人に思いを馳せて頂けるとありがたいなと。
でないと、愚慫さんの思索が「言葉でできたトーラス型文明社会のイメージが共有され」る相に至る前に、言語世界そのものが腐り果ててしまうのではないかと予想しています。

人が言葉そのものを信じなくなる。既にそうなりかけている気がしますよ。

愚慫さんは「腐るなら腐るに任せよ」とか仰いそうで怖いんですけどね。愚慫さんには時折そういう冷たさが見受けられます。それを批判しているわけではないですけれど。

具体的に何かをしてくれと頼んでるわけではないです。
心に留め置いて頂きたいという話です。それだけです。

追記。

>またもや、魔術の掛け合いになってしまいました...

何を仰っているのか解らなかったんですが『誰が星の王子さまを~』エントリの方で、ごんさんと別ラインのやり取りがあったのですね。
気が付いていなかった。
サン・テグジュペリの作品も、安冨歩さんの解釈本も共に未読なので何とも言えません。
やっと、ごんさんの美しさが解ってきたところで…こういう次第になってしまったか。

残酷さに慣れる訓練さん

上のコメントは、解くに誰宛というわけでもありません。
自分が考えてようとしていることが、この機に上手く言葉になりそうだったので記してみた、そんなような感じです。

>ネットの世界には言葉で救われる人が少なからずいる

確かにそうかもしれません。エントリーの文章は、言われてみればそういう方向性かな、と思わなくはありませんが、コメントは、どうしてもバトルですね。.(^_^;)

言葉で救う――そういうのは、むしろ毒多さんなんかの方が向いているかも、です。
noteにあげておられる「写真+短歌のようなもの」は、救うというより癒やされる感じですね
(と、他所へ振って話を躱す...(^_^;)

とはいうものの、エントリーの文章の方向性から考え直してみることにします。

>人が言葉そのものを信じなくなる。既にそうなりかけている気がしますよ。

それは一面あると思います。だけど、言葉そのものを本当に信じなくなるなんてことがありえるのか? とも思います。僕はそのあたりは割に楽観的で、言葉への不信もある臨界点を超えると、こんどは信を問おうとする動きが出てくると思っているんです。根拠はないですけど、人間ってそういうものでしょ? と思っています。

腐るものなら腐ってしまえ、みたいなことをいうときは、「なるようになるから大丈夫」と思うようなときではないのかなぁ~、残酷さに慣れる訓練さんがどのようなときに冷たいと感じるのか、よくわかりませんけど。


ごんさんの美しさは、僕もなんとなく見えてきたような気がします。
『星の王子さま』のエントリーの方で例に出しましたけど、やっぱりショパンの方だな、と思います。あくまで僕の目から見ての印象ですが、やっぱり【毒】のようなものを抱えていて、それから我が身や愛しいものを守るための美しさであるような印象がある。

で、それが守れなくなると強い攻撃性が出てくるんですが、その攻撃性の相性が僕とは合うんでしょうね。だから、丸腰になろうとしたごんさんは立派だったと思うけど、『星の王子さま』は、題材が悪かったのかもしれません。きっと、彼にとっては宝物なんでしょうね。

安冨さんの書は、それはそれで『星の王子さま』を宝物として扱うものだと思うけど、扱いが全く違う。ベートーヴェン的闘争の書といった読みをする。ごんさんにとっては、受け入れるのは難しかったのかもしれません。僕の想像ですが、そういう予感が降りたんじゃないですかね。

そうした予感の類いって、僕は信じる方なんです。

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