愚慫空論

『誰が星の王子さまを殺したのか』



※「追記」しました。




『星の王子さま』について語りたいと思ったら、この音楽が出てきました。


ショパン作曲、ノクターン第20番ハ短調。「遺作」と呼ばれる一曲です。

(映画『戦場のピアニスト』は今回はスルー。今後への伏線ですw)

僕がクラシック音楽を聞き始めた頃、ピアニストには2つの系列があって、それはベートーヴェン弾きとショパン弾きだと言われていました。そういうことは、最近は言わなくなっているようですけど。

この分類に、それなりの根拠はあると思います。

昔、愛読した吉田秀和さんの文章に、その根拠らしきものがあった記憶があります。

ショパンの音楽は、自分の心を覆い隠すためのものだ――

祖国ポーランドから、青雲の志を抱いてパリの社交界にデピュー下したショパン。
成功は収めた。ところが、その成功は、ショパンが心から欲していたものとは違った。
自身の成功に裏切られたショパンは、さりとて成功を手放すこともできずに、社交界からの需要に応じて、自分の心に背いた音楽を作り続けていく羽目に陥る――。

ベートーヴェンは違います。
いったんは手中に収めた成功を手放すことを恐れませんでした。自身に「直」であることを選んだ――。
いえ、選んだのはそうだったのに間違いはないけれど、そうすっぱりと選んだと言い切れない部分もあります。
ベートーヴェンは、彼自身の選択を認めなかった社会に対して【怨】を抱いていた部分もありました。その【怨】は、成功を手放す選択はしたものの、やはり、惜しいという気持ちがあったから生まれたに違いありません。

これは、そういう【怨】が表に出てしまっている音楽だと思います。


ベートーヴェン作曲の弦楽四重奏曲第7番ヘ長調。「ラズモフスキー第1番」と呼ばれるものの、第三楽章です。

この音楽の内容に沿った副題を付けるなら、それは“慟哭”が相応しいでしょう。
より精確にいうならば、慟哭して見せている音楽。

「見せている」部分がどうしてもある。慟哭はホンモノだけど、そのホンモノを【怨】を晴らすために使ってしまっている手つきがあって、そのことが、ある種の嫌らしさを聴き手に感じさせてしまいます。

まるで、五郎の自転車のようです。被害者がいつの間にか加害者になっていた、というのは言い過ぎですが、当たらずとも遠からずの「逆転」がこの音楽にはにじみ出てしまっています。

ベートーヴェンは、彼自身のそういった所も含めて「統合」を成し遂げていきますし、そういうところは音楽そのものにも表われている。ベートーヴェン弾きとは、そうした「統合」を自身において再創造しようとする者のことです。


ショパンはそうした「統合」を果たせなかった人だと思います。かといって、心を押し殺したまま終えたのかというと、そうではない。そうはいかないのが人間です。そうもいかないから、「分裂」が美しい装いをまとって溢れ出てしまった。

それが、ノクターン第20番ハ短調「遺作」です。

(この音楽が『戦場のピアニスト』で用いられた理由も以上のことだと推測しますが、その詳細はまた後ほど)


サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』は、ショパンの『遺作』です。
僕にはそう感じられます。
そして、今回、取り上げたい『誰が星の王子さまを殺したのか』は、ベートーヴェン弾きが弾いた『遺作』のようなもの。

「弾いた」というよりは「解析した」かな?

それはどういうことになるか。

「ショパン弾き」にとって、尊重すべきは「溢れ出た美しさ」です。ここの同調して、愛すべきかわいそうな「王子さま」を愛でる。それが作法。

「ベートーヴェン弾き」は「王子さま」と「共振」します。すると、王子さまと読み手の自他の区別がなくなる。王子さまに同調することで見える風景が描かれているのが、この本です。




  ***

本書『誰が星の王子さまを殺したか』は、

『ハラスメントは連鎖する』

の続編にあたります。これは、著者の安冨さん自身があとがきにおいて述べられていること。

実は、僕は、このあたりの事情を安冨さん本人から聞いたことがあります。

縁があって安冨さんと知り合う前に、僕は『ハラスメントは連鎖する』には目を通していました。当ブログでも何度も取り上げました。が、知り合った頃には、絶版になっていたんです。今も絶版のまま。

僕は『ハラスメントは連鎖する』は、世の中にとって必要な本だと思っていましたから、再版して欲しいと言ってみたんですね。すると安冨さんは「その代わりになる本を準備中だから」と答えました。また、「あの本では足りないと思っている」という旨のことも言った。「人の心の響く芸術でなければダメなんだ――」。

当時はマイケル・ジャクソンにかぶれておられて、マイケルを模倣したスタイルで、そんなことを言っていた。

だけど、僕はやはり『ハラスメントは連鎖する』の方も、それはそれで必要だと思います。
確かに、芸術作品は、『ハラスメントは連鎖する』のような学術的な方へ傾いた記述形式よりも、深く響く。それを必要とする者には、『星の王子さま』という芸術作品を味わう楽しみと共に、ハラスメントへの抵抗力を養うことができる。が、それだけに、反面、読み手を選ぶ面もある。

もちろん、学術的な記述だって、それはそれで読み手を選ぶ。だから、どちらも必要だと思う。学術的な方面からモラル・ハラスメントへの理解に到達していれば、芸術作品としての『星の王子さま』の、負の面への読解へのハードルも低くなるでしょうし。


  ****

芸術作品には、ハラスメントへの抵抗力を養う性質のものと、ハラスメントに順応して徐々に〈いのち〉が削がれていく、その風景を映しだしたものとがあります。ベートーヴェンは前者だし、ショパンは後者です。別所で挙げたモーツァルトの『レクイエム』などは、完成させることを許されなかった後者の究極なのかもしれない。

『星の王子さま』も、もちろん後者です。後者でしかありえない。
だって、星の王子さまは自らいのちを断ってしまうのだから、それ以外に読み取りようがありません。

徐々にその力を削がれていく〈いのち〉は、その過程で美しい光を放ちます。『星の王子さま』でいえば、安冨さんが主たるストーリーとは関係がないとして排除した、転轍手の話や薬を売る商人の話がそれに相当する。ショパンの『遺作』も同じカテゴリー。悲しさが美しさになっている。〈いのち〉が削られるときの美しさ。日本の物語なら、『鶴の恩返し』がそう。『竹取物語』もその趣があるし、他にいくらもあげることができるでしょう。『身毒丸』も基本、こちら側だと思います。『あん』も、こちら側なのかもしれません。

ですが、そういった性質の作品も、ある高み以上に達すれば、正反対の読み方をすることができるようになります。いうまでもなく『星の王子さま』もその高みに達していて、そのように読んだのが『誰が星の王子さまを殺したのか』です。


しかし、この「読み」の反転にはある種の危険が伴うことも事実でしょう。その危険は、ワクチン開発の危険に例えることができると思います。
ハラスメントとは、僕の別の言い方で言うと「呪い」ですが、それは有害ウイルスだというアナロジーも可能です。

ワクチンとは、人間や人間が養う家畜にとって有害なウイルスへの抵抗力を養うために毒性を弱めたウイルスを敢えて
人間や家畜の体内に接種するための、その毒性の弱いウイルスのこと。

そのようなワクチンの開発者には大きな身体的危険が伴うことになるのは、説明をする必要がないでしょう。厳重に環境とは隔離された研究書の中で、開発者自身もウイルスを取り込まないように厳重な装備をして、開発に携わらなければならない。そのための技法も身につける必要がある。

ワクチンの開発や生産の場合、その培地となる生命が必要です。例えば、インフルエンザウイルス・ワクチン製造開発には鶏卵が使われる。日本脳炎ワクチンには、ある種のサルが使われるということも聞いたことがあります。

では、ウイルスにアナロジーされるハラスメントのワクチンの培地はというと、これは人間自身しかない。鶏卵がワクチンの培地になるのは、その身体がウイルスに感染する能力(?)があるからです。ところが言葉を含むメッセージで構成されている「ハラスメント・ウイルス」に感染する能力は、人間しか持ち合わせていません。

本書は、いうならば「ハラスメント・ワクチン」の製造マニュアルです。「ワクチン」の製造を志す者、それを必要とする者は、どうしてもいったんは「ウイルス」を自らの裡に取り込む必要がある。

その「ウイルス」の毒性の強さでいえば、本書は学術的な趣のある『ハラスメントは連鎖する』より上でしょう。『星の王子さま』という身体の深部まで届くメッセージを媒介にしているので、抗い切れれば強力なワクチンを自ら生成することができるでしょうが、そうでない可能性も高い。

アナフィラキシー・ショックというものがあります。アレルギーに対する劇的な免疫反応の呼称ですが、この反応は、毒素がすでに体内に蓄積したところに、免疫の適応量を超えた毒素が新たに注入されてしまったような場合に起りやすいとされています。『星の王子さま』を敬愛する者は、アナロジーとしての「アナフィラキシー・ショック」予備軍なのかもしれません。

「アナフィラキシー」に陥った者、陥りそうな者は、当然、本書を憎悪するようになるでしょう。その度合いは、相当に激しいものになると予想されます。


残念なことは、比喩でない方のワクチン開発のように、厳重な環境との遮断が出来ないということです。本書も、もしかしたら『絶歌』と同様に、耐性を持った者だけの限られたサークル内で扱うことが相応しいものなのかもしれません。かつて『歎異抄』という書物が、危険性が高すぎるとして、真宗教団内の秘書とされたのと同様に。

が、そのような措置を施すことは、民主主義というシステムの在り方に抵触してしまう。悩ましい問題です。


  *****

以上を踏まえつつ、本書が示しているワクチン製造のための「術式」の白眉を紹介します。
そこで示される結論には、“白眉”という言葉はあまりに大袈裟に響くものなのですけれど。

すなわち、誤訳です。
安冨さんが指摘しているのは、フランス語の"apprivoiser"という動詞の扱いを、従来の日本語訳は誤っているというもの。"apprivoiser"は「飼い慣らす」。

"apprivoiser"が「飼い慣らす」と訳することそのものに誤りはない。ただ、翻訳というのは直訳すればいいというものではありません。ある言語から別の言語に物語を移植するというのは、翻訳者による「再創造」と言っていいでしょう。
その「再創造」において、"apprivoiser"がサン=テグジュペリが意図したであろう*文脈とは異なる文脈で配置されてしまっている。

そのことを解明するのが、本書の第4章「「飼い慣らす」とは何か」という文章です。日本語の構造とフランス語の構造の比較、"apprivoiser"の他の場所での使われ方の比較などから、厳密な「読み」が行われています。


僕にはこの「厳密な読み」が適切なのかどうかの判別はできません。その能力に欠けていていますから。ですから白眉とは言いながら、そこを実は読めないという皮肉なことになっています。ゆえに、これもまた、安冨さんによる「再創造」
というふうにしか読むことができない。従来の訳と同等の「再創造」です。そこの正否はありませんし、それでいいと思う。

が、いずれにせよ、原典の『星の王子さま』が高いクオリティーをもち、どちらの「再創造」も高い効用を有するものであることに疑いありません。



  ******

「サン=テグジュペリが意図したであろう」という表現には、注記が必要です。
注記すべき部分は、安冨さん自身の記述に語ってもらいましょう。

さて、前章で見たように、「飼い慣らす apprivoiser」はこの物語のキーワードである。この言葉を前章のように解釈することには大きな反発が予想される。というのも、多くの人がこの言葉こそが、サン=テグジュペリの思想の核心であり、『星の王子さま』のすばらしさの源泉だと理解しているからである。

しかし、実のところ、私もこの意見に賛成なのである。私もまたこの言葉が、サン=テグジュペリの思想の核心であり、また彼自身は、私のように理解して〈いなかった〉と考えている。

そうすると、サン=テグジュペリが意図していない以上、私の解釈は勝手読みに過ぎない、と思われるかもしれない。しかし、私はそうは思わない。『星の王子さま』という作品は、彼の意図を越えたところで、ハラスメントの真相を描く物語として、完璧にできている、というのが私の主張だからである。別の言葉で言えばこの傑作は、サン=テグジュペリの無意識の部分を含めた魂の作動が、彼の意図を越えて創りあげてしまったものなのである。


無意識の部分を含めた魂の作動が、作者の(意識上の)意図を越えて、作品を創りあげるというようなことがあると思いますか?

僕はあると思います。


コメント

ごんさん

関心を持って頂けましたか。ありがとうございます。

>ただ、この読みこそが正解だ、

そんなことを言い募るつもりは毛頭ありません。そんなのは「自我の拡張」ですから。

ベートーヴェンvsショパンというアナロジーで示したかったのは、それぞれに解釈があって、それはそれで正しいのだ、ということです。ごんさんが『星の王子さま』をヒューマニズムの結晶だと感じることに、僕は何の異議もありません。そこからごんさんなりに豊かな実りを引き出しているであろうことは、僕にだって確認できますからね。

そのことを踏まえた上での「論争」は、望むところ。それは(次のエントリーに書きましたが)、不愉快なものになるかも知れないけれど、決して嫌悪するものではありません。

ごんさん

ごんさんの疑念は、さもありなんです。

『星の王子さま』を「ヒューマニズムの結晶」ではなく、「ハラスメントの物語」とみるから、そうです。

「こんなものの存在を知らないほうが幾分幸せな人生がおくれるだろう」というのは、ある意味そうかもしれません。

『星の王子さま』にヒューマニズムを見たいと望むごんさんにとっては、この本は不愉快な本でしょうし、読み進めるには覚悟がいるものだと思います。

その程度で興味が失せるなら、その先はもっと辛い思いをしなければならないかもしれません。

『星の王子さま』は、ごんさんのいうとおり、ひとつの読みしか許されない作品なんかではない。「ヒューマニズムの結晶」とは正反対の読みができる作品でもある。その落差は、ほんとうに「知らない方が幸せ」と言ってもいいくらいのものだと思います。

ごんさん

>「私は、なんでサン=テグジュペリがここにこういうことを書いたのかわからない」

僕には、それは、(ごんさんがいつもやる)揚げ足取りに見えます。

「主たる物語とは無関係である」のと、
「全体的に見てそこは重要じゃないよ」というのは、文意的には同じでしょう。

文章の差違に、それぞれの個性が出るのは確かです。
その「差違」をごんさんが重視するのはわかりますが、ごんさんの個性でもって、「こうでなければならない」とやられてしまうと、僕は「知りません」という反応になります。

ごんさんの流儀でしか「作者への尊重」への道筋がないとは全く思いません。そして、思いません、知りません、とするのは、ごんさんの個性で「こうでなければならない」とする魔術への抵抗です。

意識してかどうかはわかりませんが、ごんさんはオレの流儀がスタンダードだと言っています。そして、それを受け入れなければ、僕が望んでいるであろう「論争」はなしだよ、と言っているように聞こえる。ある種の脅しですね。

まあ、これも僕の読みですが。


>私は、これがレトリックか本当かと問いかけたつもりですが、

一晩寝て、先のコメントで言葉にならなかったことが言葉になりました。

ごんさんは「誰が星の王子さまを殺したのか」という文章を、レトリックだと思ったのではありませんか?

安冨さんの「読み」の核は、星の王子さまが被害者だということです。だから、星の王子さまを主語にするなら受け身になって、殺されたとなる。。ごんさんは「被害者の側」に立つ人なのだというのだし、そういう人は、「なぜ?」という疑問に取り憑かれるというのでしょう? だったら、この本は、その「なぜ」を追求する本だということになります。

なのに、ごんさんは、そこには引っかかってこないという印象を受けます。ということは、星の王子さまは、ごんさんにとっては架空のキャラクターに過ぎないのか? という疑念が浮かんでくる。

殺した、殺されたは、言葉だけの遊びではありません。架空の物語のなかという限定はあるにしても、そのなかで確かに〈生きて〉いる。そして、その人物が自らいのちを断つ。

星の王子さまが、もしごんさんの子どもなら、「なぜ?」と思うでしょう。そして、「誰が殺したのか?」と疑問を抱く――となるのではないですか? そうならないなら、星の王子さまがレトリックなのかな? と思ってしまう。

と、これもまた、僕の「読み」からくる「そうでなければならない」に過ぎません。ごんさんにはごんさんの「読み」があるのは承知です。だから論争になるでしょう。

ただし、ごんさんの流儀にはのりません。

ごんさん

>畜産科の子たちの血飛沫の作業は決してハラスメントではありませんよね

それは違うでしょう、当然。

だけど、僕のどう違うかなんて、わかりません。
僕が鹿を殺したときだって、同じ現場に居た人間、ひとりひとり、思うこと感じることは違います。違うことの感触は、互いに接しているのですからありますよね。

だけど、畜産科の子たちと言われても、ノーイメージです。
ごんさんの言葉からも、イメージが湧かない。
なのに、なぜ、その違いを僕に投げかけてくるのかが、僕にはわからない。

ごんさんの、その子たちのイメージを伝えようとしているようにも感じられませんし。
なのに、「心して」とは?

なんなのでしょう? 罠ですか?

ごんさん

『時計仕掛けのオレンジ』、もちろん見ました。と言っても、高一の時のこと。僕が始めて見た娯楽系でない映画です。

この映画、文化祭の日に学校を抜けだして見に行ったんです。部活の先輩が、どうやら『時計仕掛け~』がオモロイらしいという情報を得ていたらしく――その先輩は『さとにきたらええやん』の舞台である西成の産で、かなりイカレた人だったのですが――、文化祭の日ならバックレても大丈夫だろうと計画を練っていたらしい。僕は単に映画を見に行こうと誘われて、バックレるの面白くて付いていっただけで、予備知識などまったくなし。なので、映画を観たときはボーゼンとしました。よく憶えています(苦笑)

それいらい『時計仕掛け~』は見ていないのですけど、今にして思えば、あの選曲には腑に落ちるものがあります。


キューブリックという人は、〈世界〉はデタラメだと感じて人だと思います。『解け仕掛け~』はもちろん、『フルメタルジャケット』や『ロリータ』にも、この人のそういう感性が出ていると思う。『2001年~』はさすがにそういう感は弱いですけど、やっぱり根底には「デタラメ」があると感じますよね。

それからするとベートーヴェンは正反対の人だし、欧米の人間のいわゆる知識人たちはそういう常識を持っている。だからこそ、『時計仕掛け~』の残虐なシーンの背景でベートーヴェンが鳴らされると、それも神聖な『第九』だと、〈世界〉のデタラメさがより引き立つという効果がある。

ベートーヴェンがそんなふうに自分の音楽が使われたと知ったら激怒したでしょうけど、そして、まだ純真(笑)だった高一の僕も冒涜だと感じのですけれど、今から思えば、非常に効果的な使い方だと思います。悔しいけどね。


余談ですが、その『第九』、『エヴァンゲリオン』でも使われているんです。ほぼ最終の局面で。主人公のシンジが最後の敵、しかもいったんは心を寄せた相手を、「僕を裏切ったな!」と叫びながらくびり殺すシーンの背景で鳴る。それも終楽章の祈りの音楽が。(ご存知ですか?)

この音楽使用は、『時計仕掛けのオレンジ』を下敷きにしたものだと思うし、庵野監督自身、どこかでそんなことを言っていたような記憶もあります。『時計仕掛けのオレンジ』がなければ、荒唐無稽に響いたであろう音楽の使い方だと思います。

ごんさん

言うまでもないことですが、僕もごんさん、嫌いですよ。
ま、でも、半分、好きになりかけてる。悔しくないですよ。そういう自分が面白い(笑)

ことに3つ頂いたコメントの1つめ。

おお、やっと魔術を解いたな、と思いました。こりゃ、肉弾戦だ、と。
「丸腰」なんて、それもまだ魔術だよねと思ってましたから。
魔術を解こうとする意志は感じていたけど。

「嫌われる勇気」というのは、そういう肉弾戦への意志みたいなものでしょう。


やっぱりごんさんは僕と似ていると思いますよ。
この過剰さ。
いつも思う。なんでコメント3つなんだ、よと。
そして、後に行くほど攻撃性が増してる。

>いずれあなたが踏み潰した命の残骸をあさるようなものばかりを集めることになりますよ

って、もはや「呪い」ですよね。ごんさんの願望ね。僕はあなたの願望なんて知りません、って言うだけだけど。

けど、わかる。そうやって後から後からエネルギーが吹き出してくるのは。それもよからぬかたちで。そういうのを、僕は【怨】って呼んでるんですけど。

嫌なら関わらなきゃいいのに、関わってしまう。過去に書いたコメントを消すということまでしたんだから、来ないのが普通でしょう。話題にすらしないの利口だと思うけど、それをしない。なにかに突き動かされている。

もちろん、「新たに」来てくれたことは嬉しいです。
その過剰さがね。
だから、僕も過剰さでもって応えたつもり(笑)


>なんで上の方で止めとけないんだろう、と思います。

オマエモナ~、というのは、もう古い?w

ごんさんだって止めておけない人なんだから、その答えを自問してみてはいかがですか? 僕はそれをする人間だと自負していますけど。それをしないのが、あなたの「足らない」ところなんだと僕は思う。

ごんさんが自問し、自分で考えたら、【怨】とは異なる答えが出るかもしれない。だったら、いいなと思います。


こないだアキラさんと話をしてくれたときに、パニックの話が出たんです。

火傷をして水ぶくれになるのは、パニックになるからだと。だから、後から火傷の具合を見ると、そのときにその人がどれほどパニックになっていたかがわかる、と。

とても腑に落ちる話。そういう経験、僕にもありますから。チェーンソーで負傷したときの話も、そういう経験のひとつです。

パニックの反対は「落着く」じゃないですよ。落着いたら死んでしまう。集注して全力で〈いのち〉を燃やす(って、青春ドラマかいw)。他人の迷惑も、交通ルールも関係ない。その時はね。運が悪ければ後から問われることになるかも知れないけど、それはそれ。

人間は、他人がそういうようなときには、それに応えるように出来ています。内田樹さんがいうように。ただ、それだけのこと。それを美しいの、悲しいの、なんていって「愛でる」なんていうのは、そのように出来ている人間の本性を外すような行為なの、僕からしたらね。

そして、そのことを【アイデンティティ】とし、無意識のうちにやってしまうような人は、イザ、自分がそういうと気になるとパニックに落ちる。自問をしないから【アイデンティティ】の際が見えないのね。

ごんさんのいった「被害者の側」というのも、僕の目からするとパニック。わざわざ自分をパニックに追い詰めている。そんでもって、「我が子なら世界のルール」を越えるって、そりゃそうなるだろうと思う。

そういうのは「自問」ではない。「自問」のときこそ落着いて、自分とそうでないものとの「際」を見定めないと。

「際」がわかれば、間隙が出来、その間隙に生まれてくるものがある。

note にこんな文章をかいてみたことがあります。

私は私
うつろいゆく私も、私

あなたはあなた
移ろいゆくように見えるあなたは、果たしてあなた?
それとも私?

私とあなたの間には隔りがある
うつろいゆくあなたと私がその隔りを埋めていき、境界線をかたち作る

私は私
あなたはあなた

私のあなたの間には、再び隔りが生まる


「際」を見出すと、他者との間隙に私かどうか定かならぬ何かを生まれる。その何かにもまた、「際」を見出す。その永久運動が、〈知る〉ということだし〈生きる〉ということ。

「何か」がどこから生まれるのはわからない。が、生まれているかぎりはどこかにエネルギーがあるのだろう。もし、それが「私」のエネルギーだとしたら、それは「私の過剰」。

「私」だけじゃないと思っていますけど。


自問をせず、ゆえに自らを省みず、〈いのち〉の本性から外れた弱い美しさや悲しさに溺れる。そういう人を僕を美しいとはいわない。「足りない」バカだという。好きだけどね。

〈いのち〉に残骸なんてないよ。よく見てみなさいよ、〈いのち〉を。どれもこれも、みんな「うつろいゆくもの」ばかり。そういうふうに、「足りない」見極めの上に過剰なエネルギーを放出して、自分で自分をパニックに追い込む。


「足りない」と感じるのは、僕が抱えている過剰さゆえ。だから、これを嫌うことは自分自身を嫌うことと等しい。この道を行く――過剰を増大させ、かつ自愛する――と、宮沢賢治が言ったような「世界が幸せにならなければ自分もしあわせではない」に行くんだろうなと思うけど、さすがにそこまで行けるとは思いません。どこかに着地しないと。

共感

いのちに残骸なんてないよ。よく見てみなさいよ、いのちを。どれもこれも、みんな「うつろいゆくもの」ばかり。

ほんと。そう思います。

ごんさんの詩を見てみたいです。
もっとも、僕に詩心はありませんけどね。


>僕が思うにキューブリックこそベートーヴェンの大ファンだと思うのですよ。

いまさらの話ではないと思います。ここでは語るべき、大切な話です。


キューブリックの音楽用法で度肝を抜かれたのが、『美しく青きドナウ』です。『2001年宇宙の旅』で、宇宙船が地球から離脱して、地球の輪郭が見えてくるシーン。ここで流されたのが『美しき~』。

余談ですが、これほど度肝を抜かれたのは、『北の国から~遺言』で、唐十郎演じる「トド」とその相棒が、遭難から帰還してくるシーンに流された音楽。ドヴォルザークの『新世界から』の第二楽章冒頭が流されて、唐十郎が「シバレタ~」とうめき声をあげるところ。このふたつが、僕のなかでは双璧です。

そのとき思いました。キューブリックは、音楽を愛していると同時に憎んでもいる。愛憎は表裏一体ですからね。『美しく青きドナウ』は、あのシーンにピッタリというより、ピッタリ以上で、ハマり過ぎていて、それ以外の音楽を想像できないくらいインパクトの強いものです。が、それにしても、なぜ、ここで、凡俗なこの曲なのか。

キューブリックは、『美しく青きドナウ』が、この上なく凡俗だということをよくよく識っていたはずです。冒頭の『ツァラトゥストラ』も凡俗ですけど、まだ“雰囲気”はある。宇宙が姿を現すという神秘的であって然るべきシーンに、なぜ、身も蓋もない音楽を当てたのか。

そう考えると、僕には、憎しみに思い至らざるを得ない。こんなにも憎むほどに、愛しているのか、と。

そうしたキューブリックの愛と憎しみは、映画そのものに表われていると思います。だから『時計仕掛けのオレンジ』だと思う。キューブリックから見て、どうにもデタラメな世界。なのに、その世界を愛している自分。

(もしかしたら、ごんさんは、キューブリックなのかもね。)

では、そんなキューブリックは幸せではなかったのか?

僕はそうは思わない。本当のことは知るすべもありませんが、幸せだったに違いないと思う。それは映画監督として高い評価を得たという【アイデンティティ】に基づくものではなく。自身の〈生〉を全うしたという意味で。愛憎に引き裂かれていても、それもまた〈生〉でしょう。

そんな〈生〉がずっと続くなら地獄かもしれませんが、〈死〉の前では、はやり幸せなんだと思います。

――というのが、

>幸せのカタチってつかめているのですか?

という問いの答えにもなっていると思いますが、いかがですか?

異邦人

砂漠に落ちた飛行機乗りは、さあてどうしたものかと考えて、ひとつ目の夜を過ごしました

うとうと闇に呑まれるころには、星がまたたいていいました

おやすみなさいいい夢を

おやすみなさいお星さま

ふつか目の朝に飛行機乗りは、とてもな暑さに目を覚まし、これはたまらんとそばにある、翼の下にもぐりました

さてさてこれはどうしたものかと

ふつか目の昼を過ごしました

でもその熱いこと苦しいこと吐く息さえも何もかも

だらだら汗がおさまらず顔も体も頭の中もからからにかわいっていってしまいそうなくらいです

早く夜がきてくれよとただただ願ってやまないのでした

そのうちに涙がぽつぽつ流れ落ちて、まるで最後の水さえ流れたような、ここちのままにまどろみました

ふつか目の夜は闇でした、これはどうしたことだと飛び起きて、

飛行機の翼に額をぶつけ、ああなるほどと思ったものの、

ちっとも痛くないことに、これはたいへんたいへんだぞと立ち上がり、

星をたよりに歩き出しました

ふらふらふらふら歩き続けて、もう闇に呑み込まれそう、どんどん闇に呑まれそう、どうせならもう闇に呑まれてしまえと、

声をあげそうになった、そこまでは、きっとおぼえているのですが、

それなら僕の帽子を使ってよ、明日の太陽もひどいからね、と、

聞こえたような気がしただけで、

いつの間にか飛行機乗りは、駱駝に揺られて星空を、ゆらゆらゆらゆら行くのでした

砂漠の狐は言ったのです

飛行機乗りの口に自分の水筒の口を突っ込んで、君と僕とは敵味方だけど、うまい水の味を知っている、

いつか一緒にもう一度、この水を飲もうじゃないかと言ったのです

飛行機乗りは自分の頭に、乗っかっている帽子を取って、ぺこりと頭を下げたつもりで

すやすや眠りに落ちたのでした

駱駝がゆらゆら揺れるころには夜空に星がまたたいているのでした



異邦人。なるほど、そう来ましたか。
ブログの内容に相応しいですね。

>自然が美しいその本体をあらわしたときは、音楽は凡俗のほうがいい

ええ、そうです。そのことをキューブリックは示してしまいました。

ただ、音楽にも【序列】がありましてですね。くだらないことですが、くだらないと言い切れない所以がなくもない。キューブリックは、そういう【序列】をすっ飛ばしたんですね。『美しく青きドナウ』しかり、『第九』しかり。

低いものを高いところへ。高いものを低いところへ。その逆配置を、キューブリックは無意識にやったにせよ意識的だったにせよ、やった。そこにある種の憎悪を見てしまうんです。

ほう、諧謔。
それこそ言葉の本質を露わにする「魔術」なのでは。

ちなみに、僕が言った「魔術」とは、そういう意味合いのつもり。2chでできあがった云々ということはあるでしょうけど、縮小解釈だと思っています。

珍説

〈言葉の本質〉ってなんだろうというのはおいといて。

愚慫さんとしてはキューブリックが諧謔(的)でそれは言葉の本質を露わにする魔術だと仰るわけですね。
(私としてはこう書いても何を言ってるのかまったく理解できないのですが、それは私の興味の範疇にないのでどうでもよくて)

で、安富さんもこのようなことを『星の王子さま』について仰っているのですか?こんなふうに

〈「『星の王子さま』は言葉の本質()を露わにする諧謔的な魔術で書かれたものだ」安富〉愚慫

それともこういうことですか。

〈『誰が星の王子さまを殺したのか』は言葉の本質()を露わにする諧謔的な魔術で書かれたものだ〉愚慫

それとも、両方ともそうだということですか。

僕としてはまあ、それがそうだからといって「で、だから?」ということには変わりないのですが。
(そもそも誰の言葉が魔術的かなんてこういう話にまったく興味はないので答えてくれなくてけっこうなのですが)

まあでも一区切りついたみたいだからそろそろコメント消していきますね。




宛先なしのコメント。

ショパン的な生き方は、やっぱりやめた方がいい。

世界は残酷です。
その人に咎があるわけではないのに、重荷を背負わされることがある。
よほど幸運な人でないと、その重荷を免れないのがこの〈世界〉。

重荷を背負いつつも、痩せ我慢をして笑顔を作ってみせるのがショパン。
星の王子さまも、そう。
自身が辛くて、その辛さがわかるから他人の心配をしたりして、笑顔を作ってみせる。
なるほど、それはヒューマニティでだけど、いずれ限界がきて、死んでしまう。
天寿を全うする前に。

できることなら、重荷は支え合って背負うのがいい。
だけど、支え合いを義務にしてはいけない。
義務は人間のバランスを崩すしてしまう。
重荷をなおさら重くするのが義務。
重くなってしまって支え合っても支えきれなくなった荷は、やがて〈世界〉をデタラメに引き裂く。

人間のいちばんの重荷は、重荷を支え合うことを義務づけられていることなのかもしれない。
社会を営むことを生存戦略として採用したがゆえに、背負った義務。

が、重荷を軽くする方法はある。
その方法は、個人が、重荷を自身のものとして引き受けることから始まる。

まず、自分の荷物。
その機序をひっくり返してはいけない。
自分の荷物も背負えないのに、他人のために無理して笑顔を作るなんてことをしてはいけない。

笑顔が悪いわけではない。
確かに無理でも笑顔を作ってみると、元気が出る。周囲に元気を分配することができる。だけど、その元気は、自分の〈いのち〉を削ったもの。

他人の荷も背負いたいのなら、強くなるしかない。
強くなるには、まず、自分の荷を背負いきる覚悟をしなければならない。

僕が不思議に思うのは、そうやって覚悟を決めるとなぜか荷が軽くなること。
軽くなるばかりか、荷だったはずのものが支えになる。
「再編集」とは、そういうこと。
ベートーヴェン的な生き方がそれ。

では、そうなれば、他人の荷を引き受ければ良いのか。
残念ながら、それは不可。できないことは、できない。
できることは、「重荷も背負い方によっては支えになるんだよ」ということを伝えるだけ。

厄介なのは、重荷というものは人それぞれで、また、背負う人間も人それぞれだから、この背負い方なら大丈夫といった標準的方法が存在しないこと。複雑なんだよね、重荷も、人間も。

が、その複雑さゆえに、それが利点となることもある。
それぞれに荷をそれぞれで背負うよりも、支え合った背負った方がより軽くなることがある。
より強い支えになることがある。
私とあなたの間に生まれる「何ものか」が荷を支え、「何ものか」が支えになることがある。
「何ものか」を自分のものとし、私とあなたの境界線を定めれば、また「何ものか」が生まれ――。

この「何ものか」は、支え合いを義務としたときに荷を重くするもの、
すなわち、義務としたときに、私とあなたの間に生じる「新たな重荷」の対極にあるものだと思う。

では、「何ものか」と「新たな重荷」の違いはなにか。
それは、「うつろいゆく」ことを促すものか、阻むものかの違いだと思う。

〈いのち〉は〈うつろい〉ゆくもの。〈うつろい〉つつ成長するもの。
だから、〈うつろい〉を促されれば、より大きく強くなる。
逆に、〈うつろい〉を阻まれると、死んでいく。

生態系という〈システム〉は、すべてが〈うつろい〉ゆく要素で構成されている。
ところが人間が創りあげた【システム】は、いずれも【うつろはないもの】が核になっている。
だから、【システム】に適応してしまうと、あらたな重荷」が生まれるということになってしまう。

で、【システム】を〈システム〉に再編集することは可能か、というのが僕の問題意識。



うん、これまでになく上手く僕自身の問題意識を言葉にすることが出来ました。
満足。(^o^)

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