愚慫空論

『北の国から』 第14話


〈世界〉への「順接」と、【社会】への「逆接」。

そういったことに思いを巡らせていると、出てきたのが『北の国から』のワンシーンです。
それは、連続ドラマとして放映されたなかの、第14回。


そのワンシーンだけを切り出すのが親切なんでしょうけど、面倒なので(苦笑)、割愛させてください。問題のワンシーンは、26分あたりから。

これは純の回想シーンです。
五郎によって北海道・富良野に連れて行かれた純と蛍。純にとっては、それは「拉致」だった。

紆余曲折あって、母親が暮らす東京へ「一時帰宅」することになった純。
五郎との約束では、病気の母親への見舞いという口実での「一時帰宅」。
が、純は五郎の予想通り、五郎との約束を破棄しようと考える。
そして、五郎に「言い訳」の手紙を書き始める。

その手紙を書き始めたところで書き始めたところで回想されるのが、件のワンシーン。


当時、純の遊び仲間の間では、変速ギア付きの自転車が流行していた。が、純は自転車を持っておらず、劣等感を抱かざるを得なかった。

純は令子に頼み込んで、望み通り、変速ギア付きを勝ってもらう約束をした。喜ぶ純。
なのに、五郎は、どこからかボロい自転車を拾ってきて、手間をかけて修理をし、純に与える。
純は不満だったが妥協して、その自転車で友だちと遊ぶ。

そこへあるとき、警察官が尋ねてくる。
五郎の持ち帰った自転車の元の所有者から訴えがあったのだという。

五郎は警察官に反撥する。
あれは明らかに捨ててあったのだ。
だから、オレが手間暇をかけて、修理をして使えるようにした、と。

警察官の言い分は、例え捨てあったとしても「所有権」を放棄したわけではない。
だから、それは窃盗である。

間に立った令子は、事を穏便に納めようとして、警察官に詫びる。
その様子を純が見ている。


その回想シーンの後、純は富良野に戻る決意を固めます。
なぜ、あのとき五郎が怒ったのか。一体何に怒ったのか。
拉致されていったはずの富良野の暮らしのなかで、純はその理由を理解し始めていました。
純は、そこをもっと理解したいと思った――。


五郎の行動の理由は、〈世界〉への「順接」です。
怒りの理由は、〈世界〉に対する【社会】の「逆接」。

自転車は〈世界〉に属するのか。それとも〈社会〉に属するのか。
五郎にとっては、まず第一に〈世界〉です。〈世界〉があって「社会」がある。
だから、「社会」から放棄された(ゴミ捨て場にある)のなら、その〈価値〉を再発見できる者が自由に使ってよい。

だが、東京では、まず第一に「社会」に属しています。
「社会」のメンバーであるところの「人間」に属している。〈価値〉は関係がありません。
「価値」はあくまで、「社会の都合」によって決められています。
【社会的価値】はあっても、〈世界的価値〉は存在しない。
だからこそ、〈使用価値〉が無くなったはずの自転車も、所有権という「社会の都合」からみれば、以前、【価値】は残存していることになります。

そういう具合にできあがっている「社会」は【社会】であり〈世界〉とは「逆接」になっています。


令子は東京の生まれ育ちで、【社会】の側の人間です。
だから、五郎の世界観(感)が理解できない。
そういった世界観の齟齬は、浅い付き合いのうちはわからないものです。
ところが深い付き合いになると、ここ齟齬は、なかなか埋めがたい。
おのおのの「暮らし」に関わるからです。


〈世界〉と「順接」の〈社会〉における〈暮らし〉。
〈世界〉とは「逆接」の【社会】における【暮らし】。

言い換えれば、前者は「生活世界」であり、後者は【システム】です。
【システム】のなかでは、人間は社会人でしかありません。
〈世界〉は外側であって「カウントされないもの」。
現在の経済学は、まさにそういう作りになっています。


純のこの回想シーンは『北の国から』というストーリー上は挿入部分ですが、北の国からのという世界においては、起点になっています。

五郎と令子が別れることになるのは、ある意味自然なことです。
世界観(感)が違えば暮らしは違う。それに、五郎にとって東京という【社会】の暮らしは負担です。

このシーンは、純の決意の“種”の描写シーンであると同時に、五郎と令子の別離の“種”の描写でもある。

五郎は、その後、紆余曲折を経て、このシーンにおいて阻害された五郎の思いを実現することになります。
『遺言』で示される「拾ってきた街」というのがそれです。
そこは、〈世界〉の〈価値〉に「順接」な〈社会〉。
純と蛍も、五郎が主催する〈社会〉のメンバーになる。なるということが示唆されて、『北の国から』は完結します。


しかし、『北の国から』は、純が主役の物語です。
五郎は、「純の世界」を決定ずける重要な役回りですが、主役ではない。

『北の国から』もまた、僕の目から見れば「解呪」の物語です。
では、純は誰に「呪い」をかけられたのか。五郎です。五郎が純に「呪い」をかけた。
富良野へ連れて行くということが、実は「呪い」です。
それは蛍にとって同じです。

なぜ富良野行きが「呪い」なのか。それは、五郎の令子への復讐から始まっているからです。

五郎と令子が夫婦であってもすでにスレ違いが生じていたこと、令子の浮気はスレ違い(〈暮らし〉と【暮らし】の齟齬)から生まれた、ひとつの結果です。なのに、五郎も令子も、そのことを自然なことだとは捉えませんでした。

五郎は、自転車に対しては〈世界的価値〉で測ったのに、生身の人間であるはず令子に対してはその基準を適用しなかった。「夫婦」「家族」といった【社会的価値】にとらわれて、令子の振る舞いを裏切りだと感じてしまった。この感覚は、自転車の所有者が、捨てたはずの自転車に感じたそれと同種のもの。つまりは「所有」です。

五郎は、最初に2つ誤りを犯しています。
ひとつは、令子との別離を【社会的価値】に囚われて自然なことだと認識しなかったこと。
そして、その不自然な怒りを、令子に向けず、立場の弱い純と蛍へ遷したこと。ここでも【所有】が働いています。
『北の国から』という純(と蛍、そして五郎)の「解呪」のストーリーは、五郎の不自然な「遷怒」に端を発するものです。

その誤りは令子も同じ。
同じではあるけれど、見方によっては令子の方がスジを通してしています。
なぜなら、令子は【社会的価値】に殉じて死んでしまうから。

ほんと、『北の国から』は、残酷な物語です。

(以下、「追記」へ続きますが、とりあえず、ここでアップしておきます。)

コメント

Walking In My Shoes

>あれは明らかに捨ててあったのだ。
だから、オレが手間暇をかけて、修理をして使えるようにした、と

>だから、「社会」から放棄された(ゴミ捨て場にある)のなら、その〈価値〉を再発見できる者が自由に使ってよい

『北の国から』を観たことが全くないので、「五郎さん」という人物がトータルにどう描写されているか解りません。
ですから以下は愚慫さんが掬い上げた言葉に対する雑感です。

自転車は誰のものか。世界に属するものと捉えれば、誰のものでもないですよね。
強いて言えば自転車自身のものでしょう。自転車が「お前のとこへなら、行ってやってもいいよ」と思う相手のもの。
一方で捨てることは「見捨てる」こと。ドラマの中の自転車が何故見捨てられたのかは、ドラマのシークエンスを観たのみでは私からは解らない。
とは言え一度見捨てた当事者が、自分が見捨てたものを「使えると知ったから」取り戻そうとするなら、見捨てられた側にしたら控えめに言っても下劣でしょうね。見捨てた者にとって自転車とは「使えるか・使えないか」という存在でしかない。

では五郎さんの「オレが直したから、オレのもの」はどうか。私は、それは違うと思う。
正確に言えば「誰かに見捨てられたものを、オレがオレの都合で何らかの用途に使いたいから直す」という動機か「壊れている自転車を見たら、直したくなった。直したら愛着が生まれたので一緒にいたい」かで、印象が全く異なる。
私は後者には共感するが、前者は「見捨てた者」と大差ないと思います。
見捨てた者と異なるのは、直す能力があったかなかったかの差くらいのものでしょう。
「直す」ことと所有することは本来無関係ですよね。「見捨てられた」ことと、見捨てられたものを所有する資質も同様に無関係です。単に「無生物」は意思を顕わす力が無いから何も主張しないだけです。

でも、人と関わっている「物」がどういう状態であるかは、その「物」を見ればよく解りますよ。
例えば靴とか。履き込まれているけれど大切にされていて元気な靴もあれば、新品なのにろくに手入れもされず酷使されてクタクタの靴もある。
人と好い関係を築いている「物」は、みな好い顔をしている。
その顔がどうであるかは、例えば直した後の物と人との付き合いの中から育まれるものでしょう。

五郎さんという人は、エントリに引用された言葉のみから判断すると私にはまるまる「社会」側の人に感じられます。
少なくとも、この人が何故「(他の何物でもない)その自転車」を直したいと思ったのか、という実感が私には入って来ない。新車を買うより、作業時間を含めて修理の方が高くつく(※)ようなら、直さなかったんじゃないのか。
シリーズを通して観れば印象変わるのかも知れませんが……。

物って不思議ですよ。手に入れた時は最高にご機嫌だったのに、付き合っていくうちに「何か、そうでもないな」という感じになっていくものもあれば、単なるついでに買っただけのものが不思議なくらい魅力が増してきて、かけがえのないものに感じられたりもする。消耗すれば繰り返し補修して(貰って)付き合っていくけれど、付き合いは所有とは感覚が異なるものです。
直すのはオレのものだから、じゃない。その「物」が自分の傍に居てくれて、良い顔をしているのが嬉しいから幸福なのです。

※自分の場合、父親が職人で凧の糸巻きを欲しがるとどう考えても買ってきた方が早いだろうというような木製の糸巻きを削り出しで作ってくれたり、母も洋裁を学んでいて手のかかった身の回り品(袋物など)を作ってくれたりしていたので「物」に対する感覚がちょっと違うのかも知れません。

おはようございます。
徐々に何を書かれているのか解るようになり、参加できそうな予感がしています。
「参加したい」は、おそらく裡なるヤツの欲求であり、意識であるワタシと一致統合しています。
ただ、今だに「北の国から」は観ていませんので、見当違いなコメになる可能性があります。yotubeで観ることができることを今回はじめて知りました。少しずつ観てみようかな、笑。

 まず最初に感じたのは、「〈世界〉」です。
「世界」というと世界地図を思い起こします。外界と自分、人間と環境と文化と自然となにもかも含まれるもの。と言葉で表しましたが、そんなもの観念を言葉にしているだけで、知覚できるのでしょうか? 確かに在ります。在るというだけで「価値」には繋がりません。
 で、なんとなく「世界」とは裡なる感覚の全部、と想定しながら読んでいました。後ろのほうで「世界“感”」という言葉がでてきましたが、こうすると「裡なる世界」っぽくなりますし、「価値」と並列することで裡なる世界でしかありえなくなる。つまり「世界」とは裡なる世界観でいいのでしょうか? 裡なる世界、、と、意識が「順接」で繋がるというのは理解しやすいです。
 としたうえで、最初から〈世界〉となっていますが、【世界】はありえませんか?
 「社会」は〈社会〉と【社会】に使い分けていますね。もとより〈〉と【】は二面性の使い分けでしたよね。ならば【世界】もあるはず。
 で、外界の【社会】から【順接】でもって裡なる【世界】になる。は成り立ちますか?
 外界の【社会】から〈逆説〉であれば裡なる〈世界〉となる。はどうですか?

 次に考えてしまうのが【社会的価値】です。仰るように【システム】の産物です。
 今の社会のなかでは【社会的価値】から逃れようがない、というのはいかがでしょう?
 「北の国から」では逃れる手段として、社会の影響のすくない土地へエスケープしたのですか?
 そうした方法もありましょうが、多数普通の人々にとってはおいそれと出来るものではありません。毒多のように、【社会的価値】に過敏で逃げてきた、、、【社会的価値】を押し付けられる学校が嫌いで、テキメンに押し付けられるサラリーマンを速攻ヤメテ、町内会やら◯◯会を避け、人付き合いが悪く、あいつはダメだ、と誰もに言われる人間でさえ【社会的価値】から逃れることはできません。利用していますし、許容しています。
 で、思うのですが、【社会的価値】を【順接】でうけいれ裡に【世界】をつくってしまう人は、盲目的に信じている、信仰しているのではないか。
 もしそこから完全に逃れられない自覚をするなばら、〈【社会的価値】〉にすることができるのではないか、つまり〈逆接〉により〈世界〉に転じることができるのではないか、という考えが浮かんだのですが、如何でしょう?
 ご教授いただけると幸いです。

>「社会」から放棄された(ゴミ捨て場にある)のなら、その〈価値〉を再発見できる者が自由に使ってよい。
<
僕としては、これが〈世界〉と「順接」の態度なのか、それが疑問です。

〈世界〉と「順接」であれば、「その〈価値〉を再発見できる者が自由に使ってよい」ということになるのだろうか。。。

その意味で、残酷さに慣れる訓練さんのコメントに、かなり同感です。

残酷さに慣れる訓練さん

>※自分の場合、

五郎が純に伝えたかったのは、まさにそのことではないのかという気がします。

ドラマの別の話で、近所の爺さんが電気も通っていない黒板家(五郎の家)を見かねて、「北海道電力に知り合いがいるから、話をしておいてやる」と親切をしてくれようとするところがあるんです。だけど、五郎は断る。断って、風力発電を自力で設える。

水についてもそうです。周囲の協力を仰ぎながら、川から水を引く。

お金があるなしの問題ではないんです。そういう「能力」を発揮するかどうか。


>新車を買うより、作業時間を含めて修理の方が高くつくようなら、直さなかったんじゃないのか。

修理の方がコスト的に高く付いても、五郎はそうしなったろうと思います。
〈世界的価値〉と僕がいったのは、五郎が習得している「能力」を発揮する対象という意味です。

>物って不思議ですよ

はい。物に〈世界的価値〉を見出し、その〈価値〉を引き出すべく「能力」を投入してやると、どんどん「いい顔」になる。その「いい顔」によってもたらされる幸福。それは「所有」の快感とはまったく違うものです。「仕事(≠「稼ぎ」)の喜び。〈生きる〉ことの喜びですよね。

その幸福に〈生きる〉ことが、〈世界〉との「順接」だと僕は言いたいんです。

毒多さん

>【世界】はありえませんか?

言葉の上ではありえます。形而上学的にはありうる。では、実際にあり得るのか。
考え方は2つあると思います。

「世界」というのは、「ありとあらゆるもの」です。ここは形而上学的設定ですね。だけど、実際には「ありとあらゆるもの」のすべてを人間が感知できるわけではない。人間は有限な存在ですから。なので、実際には「世界“感”」が〈世界〉になります。

そうすると、〈世界〉か【世界】かは、「世界」と接続している「私」が〈私〉なのか、それとも【私】なのかということで決定されることになる。これは独我論的なもので、この考え方を採用すると、「順接」「逆接」という設定がありえないことになります。

「私」と「世界」は常に「順接」であって、「私」の態様に応じて「世界」の態様も変わるということになる。

〈生きる〉ということが第一としたときに、こうした独我論的思考は陥りやすい場所です。この思考が見落としているのは、人間は有限な存在だという自覚。この論理では、「私」はすなわち「ありとあらゆるもの」でなければいけないことになりますが、実際の「私」の感覚はそのようなことを伝えては来ませんよね。

〈生きる〉ということのなかには、「私」が有限であるということ、有限であるからこそ成長しようとすることが含まれています。つまり、「有限」から発する「運動」が〈生きる〉です。〈生きる〉を静的に捉えると、独我論になる。

そうなると、「世界」とは、〈生きる〉ことを発現させる「無限の場」ということになります。すると「世界」は形而上学的設定ではなくなり、〈世界〉しかないということになる。「無限の場」に〈世界〉と【世界】の療法があったら、それは論理矛盾ですからね。

〈生きる〉ことにも、形而上学的には【生きる】の可能性を考えることはできます。ですけど、そう考えると、「〈生きる〉を第一」ということから矛盾してしまう。では、「〈生きる〉が第一」は何かというと〈信〉です。生きている僕たち自身が感じているところから出発するという覚悟といっていいのかもしれません。

これがひとつの考え方。僕はこれを「合理的な神秘主義」とします。

もうひとつは、「神秘的な合理主義」です。
こちらは、「〈生きる〉を第一」とは考えず、「〈生かされている〉ことは第二」とする。では、第一はというと、「世界」です。「世界」の創造主という考え方。「世界」には創造“主”がいて、「世界」は“主”の創造の結果だというところに〈信〉をおくことで出発すると行き方。

この行き方であるなら、“主”の意思次第で【世界】はありえます。が、「私」にはその意思は把握不能なはずです。
(不能なはずなのに、詮索をしようとして色々と間違いを犯してしまうのが、神秘的な合理主義の最大の欠陥だと思います。)

僕が採用しているのは、前者の方です。もちろん、後者を否定しているわけではありません。いずれにせよ、有限な存在にはどちらが正しいかの判定を付けることはできないのですから、残されたのは手段は〈信〉しかない。


>【社会的価値】を【順接】でうけいれ裡に【世界】をつくってしまう人は

この信仰は、【信】ですよね。内発的な〈信〉ではなく怯懦によって誘発された【信】。自己欺瞞です。


>〈【社会的価値】〉にすることができるのではないか。

はい。僕はまさにそのことを考えています。

先に残酷さに耐える訓練さんへのコメントで「能力」に触れました。人間は有限な存在ですから、その能力ももちろん、有限です。有限だから、成長発展します。

「個」としての人間もそうだし、「社会」としての人類もそう。人類は、具体的には技術の成長発展で、「社会」を拡張してきました。

「社会」に拡張の余地があったときは、【社会的価値】は人類にとっては必ずしも害悪ではありませんでした。「社会」の外側、つまり環境にとっては害悪でしたけど。拡張の余地とは、(物理的)環境が許容できる範囲内という意味です。

その環境(≒「世界」)の許容が限界を超えたように感じる。少なくとも僕は感じる。感じていない人もいることは把握しているけれども、そういう人たちは【信】に囚われていると感じる。

つまり、文明社会は、もともと環境とは「逆接」でした。その「逆接」が限界を迎えたために、文明社会を駆動していたエネルギー(←そもそもは人間の「裡なる欲求」発)が抑圧され、別の方向へ発現し始めた。

文明社会が環境との「逆接」で済んでいた間は、「私」と「社会」は「順接」で居られた。「逆接」は〈世界〉が引き受けてくれましたから。そういう中でも、強く〈世界〉と接続する人は、早くから文明社会の危険性を訴えてはいた。現在は、〈世界〉が引き受けきれなくなってしまって、エネルギーが抑圧され、「私」と「社会」も「逆接」でなければいられなくなった。

図式的に表現すると、

① 〈私〉 順 〈社会〉 順 「環境」
② 〈私〉 順 〈文明社会〉 逆 「環境」
③ 〈私〉 順 【文明社会】 逆 「環境」
④ 〈私〉 逆 【文明社会】 逆 「環境」
⑤ 【私】 逆 【文明社会】 逆 「環境」

という経過を辿った。これは環境が有限であること、文明社会が発展するものであることの、当然の帰結ではあります。

なお、【私】であることを自覚していない【信】に囚われた者からみれば、「環境」にはまだ許容の余地があるように見える。いえ、余地を切り拓くことは出来ると考えている。それができさえすれば、【私】から逃れることができる。【私】から逃れることが出来ないのは、“切り拓く”能力と意志がない者――「勝ち組」「負け組」の思想です。そして、“切り拓く”ことの具体的象徴が原発です。

この考え方は「合理的な合理主義」とでもいうべきもので、神秘的な合理主義から「神秘」が抜け落ちたことで生じたものですが、この誤りは、実は上の独我論と同型です。独我論は有限を失念した。「有限を失念する」ということと「神秘が抜け落ちる」というのは、同じことです。

「環境」は〈世界〉ではありません。「環境」は「ありとあらゆるもの」のなかの物理的な部分です。だから当然限界がある。しかし、〈世界〉には物理的でない部分も含まれています。

これまでは物理的でない、つまりは精神的な部分の〈世界〉への接続技術が限られていた。だから、エネルギーを放出しようとすると、どうしても物理的世界が対象になりました。が、ネット技術の出現で、接続可能な〈世界〉はぐっと広がりました。だったら、適切な技術の使い方を習得すれば、技術的に広がった世界へとエネルギーを放出することが可能になるはずです。

今、僕たちが現にやっていることが、まさにそれです。エネルギーを費やして、懸命にキーボードを叩いている。キーボードを叩くのは外形的に観察できる現象に過ぎず、その背後には脳を含めた身体が作動しています。〈世界〉は、人間同士の接続が物理的限界を超えたことによって、格段に広がりました。

もしかしたら、将来、この広がった〈世界〉も限界を迎えることが来るかもしれません。とはいえ、物理的限界は想定しがたい。あるとすれば、精神的限界。〈世界〉と接続する〈私〉の方の限界です。【毒】と表現しているもの。これは【私】からの歪んだエネルギー放出ですが、それが〈私〉を【私】にし、さらには【私】を壊してしまう。このことは、もちろん、現実(物理)世界でも起きていることです。


・・・・このことは、ずっと考えてきたことなので、書き連ねると終わりそうにありません。
僕の以上のような思考の暫定的終着点が貨幣です。貨幣こそ【社会的価値】の極点だから。それを〈世界的価値〉へと変換することが出来れば、

>〈【社会的価値】〉にすること

は可能だと考えていますし、それすでに技術的に可能になっていると僕は思っています。そのことは、もう、ずっと以前からそう思っています。

なので、今、僕の問題意識の焦点は、可能なはずのもの、「そのように経過する」はずのものを阻害しているものは何か、ということです。そこに気がついて対処できれば(対処法も問題意識です)、あとは、そのように経過する。放っておいても「そのように経過する」のかもしれませんが、〈生きる〉者のひとりとして、「そのような経過」に参加したいと欲しています。

そこに毒多さんも参加してもらえると、とても嬉しいです。

アキラさん

以下のような例え話を提示してみます。

ここはとある食堂です。とても人気があって、いつも混雑しています。座席はたくさんあるのですが、それ以上に客が来る。

客は基本的に、どの席に座ってもいい。景観がよい席もあればそうでない席もあるし、誰かが食べ散らかして汚れてしまった席もあったりする。どの席に座るのもその人の自由ですが、それはもちろん、「席が空いている」ということが前提です。

その食堂はいわゆるビュッフェ方式で、一人一人お盆をもってカウンターから食べ物を調達し、その後、空いている席へ座るというルールになっていました。

ところが、ある人間が、ズルをします。カウンターに行く前に、自分の持ち物を空いている座席において、予め席を確保するという行いをした。これはルール違反ですよね。

僕が言う〈世界〉と「順接」とは、この例え話で言うなら、食堂のルールの従うことです。
空いている席なら、景観が良い席でも、汚れた席でも自由に座ってよい。汚れた席をわざわざ選んで、キレイにしてから食事をするということも、それができる能力があってその能力を発揮することが〈生きる〉ことなのだから、というのであれば、選ぶのは当人の自由。

もちろん、その能力があるかとって、汚い食べ方をしている先客をどかして掃除を始めるのは暴力です。自転車の話でいうならば、五郎に修理できる能力があるからといって、誰かが使っているものを取り上げたなら、それはルール違反。もちろん〈世界〉のルール。

でも、その席が空いたなら、OKですよね。所有者と警察官が主張したのは、その「席(自転車)」が空いたにも関わらず、「いや、それはオレが以前座っていた席だから、オレが自由にする権利がある」と言っているようなもの。

仮にそれがその食堂の定めたルールであったとしましょう。つまり社会のルールです。そういうルールの食堂で食事したいと思いますか? また、そんな食堂しかないとしたら、悲しくないですか? そんな食堂しかなくて、世界的ルールで運営されている食堂を想像できないとなると、残念ではないですか?

五郎が順や蛍に伝えたいと思ったことは、世界的ルールで運営されている場所もあるんだよ、ということなんだと思うんです。自転車の例に戻ると、空いているけれど汚れている「席(自転車)」を、わざわざ五郎がキレイにして純に譲った、ということになるかと。五郎の能力(生き様)を見てもらうために。

だけど、純は最初は「あっちの景観のいい席がいい」と思っていたんですね。その「席(自転車)」はお金があれば買うことができる。そのようにして手に入れることが、社会的にスマートなことなんだ、と。

でも、その席を手に入れるには誰かがどかなければらない。世界的規模で見るなら、その誰かは人間とは限りません。が、人間にとって有限な資源ではありますよね。

端的に「もったいない」ということだと思うんです。

この感覚と、残酷さに慣れる訓練さんの仰る

>物って不思議ですよ

という感覚は一致する、いえ、少なくとも同調はすると思うんですが、どうでしょう?


自然の営みは、そういった「席」が空くと、すぐさま何らかの〈いのち〉が、その席を埋めてきますよね。どんなにキレイに舗装しても、いずれひび割れた生じて、つまりは「席」ができて、そこに雑草が芽吹いてくる。

〈いのち〉というのはそういうものだし、それをやめることはできません。

ところが「人間」というやつは、それを自発的にやめることができてしまう。〈いのち〉の作動を自らの意志で止める。それをしないことが「内発」であり、〈いのち〉に沿うこと、つまり〈世界〉のルールに従うこと、だと思うのです。

Faith Healer

>愚慫さん

>修理の方がコスト的に高く付いても、五郎はそうしなったろうと思います

虚構世界のキャラクターを相手にifとか言うのあんまり好きじゃないのと、一つのシークエンスだけ観て人物像を判断するのも粗雑なんで只の雑感程度に流してくださいね。
私は二つのイメージを五郎さんという人に持ってしまったんですね。

まず、捨ててあったのが多段変速のスポーツサイクルで、破損がフレームの塗装剥がれ(但し再塗装やステッカーの張替えなど施せば純正品としての価値がなくなってしまう)程度であったら、この人はそれを息子さんに与えたのだろうかという疑念。
愚慫さんの論に従えば、捨てられた自転車という前提に於いて同条件です。

次に、彼は何故「直した」のか。
彼は「直すという能力」を所有する権利を他者に誇示するために使ったんじゃないのか。
またその自転車を欲していない息子さんに、それを強いてあてがうための口実としてわざわざ直す能力を使ったのではないか。

愚慫さんの見立ては、それはそれとして否定はしません。愚慫さんのように解釈すること、人物像を把握することは可能です。
でも、私はこの人の行為や言動を見て、言い知れない嫌な感じを受けてしまいました。
強いて言葉にすれば「不浄」。
メタ視点から表現するなら、ドラマを演出する人の狡猾な手管。
捨てられ、五郎さんに直された自転車はドラマ進行のためのダシにされている感じに見えてしまいました。
「直す」行為がなんだか貶められたように感じてしまったわけです。

だって肝心の直った自転車が、使えるようになっただけのみすぼらしい物としか描かれていない(ように見える)じゃないですか。全然好い顔してないじゃないか。
まあ私が神経質すぎるのかも知れませんね。

僕が思っている〈世界〉との「順接」も、この例え話で言うなら、食堂のルールに従うこと、なんです。

が しかし、「席が空いていれば、客は基本的にどの席に座ってもいい」というのが〈世界〉のルールなのだろうか?という疑問なんですね。

舗装した道路にひび割れが生じた(「席」ができた)ときに、そこに確かに雑草は芽吹いてきます。
しかし、どんな植物(雑草)でもそこに生えられる・・わけではない。
植物には植物の相がありますね。
スギナは生えるかもしれないけれど、バラは生えないでしょう。
スギナだって、空けばどこにでも生えるというわけではない。

そこに〈世界〉のルールが(部分的かもしれないけれど)あると、僕には感じられるわけです。
ですので、どっちにしても「社会」の側、あるいは「人間」の側の話なんじゃないかな?という 残酷さに慣れる訓練さんと同じような疑問を感じた次第です。

残酷さに慣れる訓練さん

>彼は「直すという能力」を所有する権利を他者に誇示するために使ったんじゃないのか。

う~ん、鋭いですねぇ。この時点でそこまで見通すんですね。(^_^;)

僕は残酷さに慣れる訓練さんが指摘された構図を、五郎と玲子と子どもたちの関係性で示そうと思ったんです。その方がわかりやすいから。が、この時点ですでに、その構図は生まれています。ご指摘の通り。

つまりは復讐です。五郎の復讐。五郎は、玲子への復讐に子どもたちを巻き込んだ。純と蛍に富良野の暮らしを叩き込もうとしたのは、純と蛍のためではなくて、五郎の自身のため。復讐のダシに子どもを使った。

同じことを、自転車を使ってやっているんです。残酷さに慣れる訓練さんが感じておられるのは、ここのところだと思います。

五郎にとって「直すという能力」は、アイデンティティなのでしょうね。ところが東京はそのアイデンティティを認めようしない。だから五郎は、純の自転車への欲望を利用して、自らのアイデンティティを喧伝した。それが不発に終わったから、切れた。

五郎の〈世界〉への「順接」は、確かに間違いなくあると思います。そんな五郎にとって、東京は五郎を呪う場所でしょう。無意識のうちにそう思っている。だから玲子と上手く行かなくなる。五郎にしてみれば、玲子もまた五郎を疎外する存在です。玲子の五郎への愛情は、接続の仕方の相違から、どうしても疎外になってしまう。

五郎はそれを受けとめ切れなかったから、復讐をした。復讐そのものは悪いことではありませんが、そこに、抗うことのできない子どもたちを巻き込んだ。五郎の〈世界〉への「順接」への意志が、純や蛍にとっては「呪い」になってしまう。『北の国から』を残酷なストーリーと見なす理由です。

自転車の時も、富良野の時も、純は満足しません。蛍だって実は満足していない。とはいうものの、純も蛍も子どもらしい学習回路を開いて、五郎の「能力」を敬愛するようになっていきます。それが『北の国から』前半のメインストーリーです。

だけど、その敬愛が、ふたりにとって重荷になっていく。彼らを縛るものになっていきます。成長して力を付けたふたりが五郎の「呪い」に抗うのが、ストーリー中盤。終盤(といっても、最後の『遺言』ですが)、三人が「解呪」に向かって歩くストーリー。もっとも、ふたりを呪うのは五郎ではないのだけど、ふたりの「呪い」を呼び込む体質を作ったのは五郎だということが見える作りになっていたりもしますし、そのことが演出のあざとさになってしまっているところも確かにあります。

『北の国から』は、表は、五郎と純と蛍の学習のストーリーです。ですが裏は、暮らしの背景が異なる五郎と玲子が心ならずも生みだしてしまった歪みによって「呪い」をかけられた純と蛍の、「解呪」の物語。〈学習〉と「解呪」は裏表だということを示した物語だと思っています。

Your Salvation

>愚慫さん

仰る概要により、件のシークエンスの意味合い・位置付けが私なりに把握できました。

>復讐そのものは悪いことではありませんが、そこに、抗うことのできない子どもたちを巻き込んだ。五郎の〈世界〉への「順接」への意志が、純や蛍にとっては「呪い」になってしまう。『北の国から』を残酷なストーリーと見なす理由です

>「呪い」をかけられた純と蛍の、「解呪」の物語。〈学習〉と「解呪」は裏表だということを示した物語

長大なシリーズもので熱心なファンも多いドラマでしょうが、上記の解釈は(〈世界〉への「順接」のような愚慫さん独自の概念を除き)概ね視聴者に共有されているのでしょうか。興味がありますね。アキラさんも同様な捉えをなさっているのでしょうかね。

追記。

“自分が苦しんでいるのと同じ苦しみを、他人がまったくそのままに味わっているのを見たいという欲望。だからこそ、社会的不安定の時期は別として、悲惨な境遇の人々は、その恨みを自分と同じ境遇の人々の方に向けるのだ。このことが、社会的安定のひとつの要因となっている
https://twitter.com/simoneweil_bot/status/775117972981506048 (下線は私が引きました)

『重力と恩寵』くらいしか読んだことないけど、こんなこと言ってたのか。「悲惨な境遇」という下りには幾らか引っ掛かるものの、他者に対して己と同じであれと念じるのは最強の呪いの一つかもしれませんね。

レスありがとうございます。

おおむね10回ほど読みなおしました。
とりあえず、〈私〉を目指して「生きている」「私」という有限のなかにある、無限の〈世界〉が、【世界】じゃだめでしょ。〈世界〉であると〈信じ〉ないと〈生きる〉にならないでしょ、と受け取ります。
と、受け取ったうえで、【世界】があるとするなら、それは【社会的価値】を順接で受け入れた結果の【世界】で、それは無限に見渡せるものではなく、黄色いガスのかかった視野が得られないつまり【有限】の世界だと感じました。

有限といえば、さきほど考えたのですが、ワタシ、つまり言葉も有限中の有限ですね。〈私〉の裡なる無限の〈世界〉を、有限で表現することの困難さであることを感じています。無限のものを〈有限〉で表現する、表現したいということもまた〈生きる〉だと、さきほど考えました。

残酷さに耐える訓練さん

『北の国から』の解釈は、僕独自のものですし、そういう考え方に至ったのはごく最近のことです。「呪い」に拘りすぎかもという自覚もあります。

なので、共通認識ではないと思いますし、共通認識にもならないと思います。


>悲惨な境遇の人々は、その恨みを自分と同じ境遇の人々の方に向けるのだ

これこそ【怨】の作用ですよね。

が、僕の認識では、これは悲惨な境遇の人々に限りません。社会的に恵まれているように見える人たちがそういう【怨】をすでに抱えている。

文芸作品として表われている例としては、そうですね、マルセル・プルーストとか。『失われた時を求めて』――この長大な物語を読破してはいませんが――もまた、『北の国から』と同様の、「解呪」の物語、「再編集」の物語であるような気がします。

プルーストは、「解呪」「再編集」を親の遺産を食い潰して成し遂げたんだと思いますが、そういう人物は例外でしょう。食い潰すことができるような財産がある人たちは、その財産ゆえに、【怨】から目を背けることができる。だから顕在化しない。そうでない人たちは、目を背けることができないがゆえに顕在化する。ただそれだけのことだと思っています。

シモン・ヴェイユと同時代に日本にやってきたエドモンド・ハリスは次のような文章を残しています。

「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない──これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と黄金の時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見いだす」(ハリス著、坂田精一訳『日本滞在記 下』岩波文庫)
 
また、ハリスの通訳であるヒュースケンも、日本が開国したことについて、

「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないのである」 (ヒュースケン著、青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』岩波文庫)

当時の日本が何の問題も無かったわけではありませんが、相対的に貧しく見える人々が総じて幸せそうに見えたことは、注目に値すると思います。

『北の国から』が結論として描きたかったのは、そういうことだったと思うのです。

・残酷さに慣れる訓練さん

愚慫さんが書いているような把握のしかたは、ファンである視聴者に共有されているものではないと思います。
と、僕は思います。 (^_^;)

僕もそのような捉え方はしていません。
まぁ いろんな意味で愚慫さんとの違いがありますから、愚慫さんの言っている親子関係の話は、僕にとっては「よくある話」という把握ですので、愚慫さんのような解釈にはあまりなりません。
親の個人的な事情の影響が、生育環境に影響しない子どもは、おそらく一人としていないと思われますから。

毒多さん

noteの方でriceさんという人と交した対話を思い出します。

>つまり言葉も有限中の有限ですね。

ある種の言葉というのは、例えばZIPファイルのような、圧縮されたデータだと思うんです。〈生きる〉とかいうのもそう。有限ではあるけれども、大量のデータがこの〈生きる〉の一言に圧縮されている。「圧縮されている」ということが「有限の有限」だと。

データ圧縮された言葉は、必要に応じて解凍・展開されます。「圧縮された言葉」を取得することが〈学〉であり、その解凍を学ぶのが〈習〉。合わせて〈学習〉ですね。

ところが、圧縮された言葉というやつには、どうしてもデータ欠損がある。解凍・展開する者は、その欠損を自ら補わなければならない。この補正にその人の個性が出てくる。〈私〉というのは、そういうものだと思うんです。そして補正の仕方には、おそらく無限の可能性がある。

言葉は〈世界〉を「切り取るもの」です。多くの「切り取られた言葉」をデータ圧縮して、また言葉にする。圧縮された言葉を解凍・展開して、また言葉にする。そのような過程で生じてくる誤差、ブレ、ゆらぎ、そして補正。

写真もまた、「切り取るもの」ですよね。「切り取るもの」を「切り取るもの」に移し替えるときには、必ず誤差が生じます。その誤差を見つめる、とでも言いますか。

アキラさん

>しかし、どんな植物(雑草)でもそこに生えられる・・わけではない。

ええ、そうですね。「適者生存」というやつでしょうが、そこは明らかに〈世界〉の側だと思います。

そこへの僕の答えは、別の応答で出てきました。

お産ならお産。桜なら桜。身体的なものにはしっかりした機序があって、その通りに経過します。ですけど、アタマ的なもの――「物語」――は、何が出てくるかわからない。わからないから〈私〉、その人なんだと思う。私のことだけど、どのような〈私〉が生まれてくるかわからない。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-856.html#comment5444

身体的なものにはしっかりとした機序がある。これは〈世界〉です。
だけど、アタマ的なものは、デタラメです。だから、誰もが「席」に座ってよい、ということになると思っているんです。デタラメだから、座ってみないとどういう〈私〉が出てくるかわからない。

ですから、同じ「席」に座るにしても、「ヒト」とそれ以外の〈いのち〉では違ったものになってしまうのだろうと思っています。「ヒト」が座ると、どうしても人間的なものになる。その人間的なるものが、どちらを向くか――〈世界〉へ向くか〈社会〉へ向くか。

五郎は〈世界〉へ向く人で、そのことを示すために(復讐という動機であったにせよ)、その「能力」を示そうとしたということだという解釈です。

追記。

「適者生存」はあくまで〈世界〉のルールであって、これを「社会」へ適用してはならないと考えます。

いえ、現実としては「社会」にも適用されてしまっています。だから【社会】になって「逆接」が生まれる。〈社会〉というのは、〈世界〉と〈社会〉の境界線をきっちり引かれた〈社会〉。いえ、どうしても侵入してこようとする〈世界〉のルールを、都合のよいものは摂取し、都合の悪いものは解毒し排出する――〈いのち〉の作動であるホメオスタシス――ことだと思います。

【社会】は【システム】だけど、〈社会〉は〈いのち〉。人間次第で、どちらにもできると思うんです。

矛盾を内包してるのが人間なのだから

 「ものがたり」のしかけとして「自転車」を選んだのは、作者が「ものがたり」に託した「人間社会」への逆張りなんじゃないか、と僕は考えます。
 僕は以前にも「やりきれない社会と人の有りよう」の象徴として、河原にうち捨てられた自転車のイメージを出したことがあるのですが、僕にはあの「成長の喜びとして風を切る感動を与えてくれた自転車」について、その心象を社会の原風景としてとらえるふしがあります。

――僕自身の「ものがたり」の中でそのためだけに存在して終わってしまっていること、僕と自転車にとってのその後の展開がないこと、「成長期の子供のサイズにあわせて作られた練習用の自転車」がその役割を終えた後に野ざらし雨ざらしにされ、錆び付き、輝きを失って、そしていつか捨てられる、どこかに捨てられている、はずなのにどこに行ったか「わからない」ということ――

そしてそのけしきはやりきれない切なさと同時にまた懐かしい、いつか還る場所でもある、というアンビバレンツ、いわゆる逆説的なものだったりします。

 子供時代に世話になった練習用の自転車の輝きを物理的な意味で(その自転車そのものを)保存しておこうという試みは社会の側からも人情の側からも意味をなさないでしょう。大事なもの「ゆえに」処分する(供養する)時機を失った自転車が、乗るものがいなくなり、「ゆえに」いつの間にかポンコツになって(物理的な輝きを失って)捨てられるという状態は、ウチソトに関わらず両側から順接ですから。有用性を求めて輝く。かけがえのなさゆえに長らえる。そして朽ち、――しかし、果てない。それが人間ですから。
 そんな「どうしようもなく、せつない、僕らの命というもの」の表象としての自転車。作者はここで社会からも人の心からも見捨てられ続ける「輝き」をすくい取ろうとしたのではないか、と僕は考えた、のでした。

 ただ、表現者としての僕、感動こそが僕ら人間が誰かにプレゼントできるもっとも「いいもの(のひとつ)」だと思っている僕は、多分にゆがんだイメージやら何やらにとらわれているのだと思います。ので、大きな誤りがあるのかもしれないし、そこに興味のない人には無意味な戯言だろうし、そういう評価もまた正しい見方のひとつだと思いますので、これが正しい誰それのは間違っているみたいなことを言うつもりはありません。

 五郎は自転車。

と、僕が言うのは、あくまでもこの「ものがたり」が、純と蛍の心に「成長の糧となった五郎の輝き」が、今(も)、灯っている(だろうことは想像に難くない)、というような展開をたどっていくのだとしたら、の話ですけども。

 僕は『北の国から』をほとんど観ていません。不倫とかが出てくる話なのだということも最近知りました。


ごんさん

矛盾を内包しているのが人間なのだから。

ええ、そうです。
その言葉の正しさには同意です。

だけど、僕は違和感を感じます。その言葉の使われ方に。

ごんさんの言葉では、人間の矛盾、あるいは矛盾を内包している人間は、あたかも愛でる対象であるかのよう。

愛でる。「愛」という言葉が使われています。愛と支配は紙一重だと別のところでも言いましたが、「愛でる」という行為は、支配の方のだと僕は思う。愛でる者と愛でられる対象の間には、越えられない一線がある。

その一線が存在のであるなら、自他の分離は初めから達成しています。「課題の分離」など、初めから問題になりません。「共振」にも、何の心配も無い。共振によって〈私〉が持っていかれることなど最初からありえない。だから「呪い」もない。



>「ものがたり」のしかけとして「自転車」を選んだのは、作者が「ものがたり」に託した「人間社会」への逆張りなんじゃないか、と僕は考えます。

そうだと思います。そこから発展するのが『北の国から』というストーリーです。だから、必然的に「呪い」の話になり、「解呪」の話になる。

「呪い」の話になるのは、五郎や純や蛍に「共振」してしまう者、架空のキャラクターにオノレを見る者、架空の物語なのに当事者になってしまう者にとっては、必然です。

この必然は、「愛でる」という行為とは対極。水と油で相容れないものだと思います。

目出度い

言葉のルーツとしては、愛でるは目出る(めづらしさ=個別性=かけがえのなさに視覚的に惹きつけられる)で、愛は逢い(合いたい)なので、厳密にはイコールではなくてとかなんとかもにょる感があるのですが、ひとまずそこはおいといて

愛でる=愛=支配という愚慫さんの解釈を踏まえるとして。も、

物語の登場人物にオノレを見たら?(ここも登場人物をオノレとするほどに物語に没入したら?ではないのですか)「呪い」「解呪」としての読みしか許されないという必然性がわからないです。

出鱈目な世の中で翻弄されつつ(呪い?にまみれつつ)、しかし、輝くことのできる人の命を愛でることと愚慫さん仰るところの呪い(墨滴みたいなものなのか深淵みたいなものなのかわからないのだけど)を解きたいという思いは果たして水と油の如き相容れぬものなのでしょうか?というのは質問ではなく僕はそんなものではないと思っているということですが。自身の愚慫語の解釈に自信が持てないゆえの「?」です。

ちなみに僕は呪いとともに生きる、呪いもろとも愛する、のが極致だと思ったりするので解放は目指さないと思います。

呪いとともに生きるなどと言ってるその時点でそれは『呪い』ではないということなのかもしれないですが。

もしそうなら愚慫さんの仰る『呪い』=『ハラスメント(で刻印されたもの)』という構図が、僕の中では、よくわからなくなります。


丸腰です

僕はたとえば基地被害や性犯罪被害を訴える人のことを「解呪できていない人」という「物語」に矮小化するその視線に多大なるハラスメントを感じているということは表明しておきます。

そして、今回の訪問はそのことではないです。

課題の分離は、できているつもりですので、やはり攻撃をするために出てきたんだろうという視線は、(まあかなり無茶な願いかもしれないですが)、なしにしていただきたく思います。

(もちろんこの後の展開がさらに伸びることがあるのならばということですが)


ごんさん

出鱈目な世の中(←社会ですよね?)の翻弄されつつも、しかし、輝くことのできる人の命。

はい。ヒトに限らす〈いのち〉はデタラメではありません。輝くのは当然です。
出鱈目だからこそ、そうでない〈いのち〉は輝く。

〈いのち〉の輝きを愛でることを否定するのではありません。しかし、足りないと思っています。


老荘と儒家の対立に以下のような論点があったそうです。
(ここでいう儒家とは、朱熹以降の朱子学だと思ってください。)

儒家は「忠」を重んじます。
その理由というのが、それでこそ命は輝くから、です。
どんな暗君であろうとも、いや、暗君であるほど「忠」は尊いと儒家は言う。
名君は理を踏まえた命を下す。ゆえに、世の中は出鱈目にはならない。だから、命の輝きも相対的には暗くなる。ところが暗君の治世だと、世の中は出鱈目になる。そうなると、命は相対的に輝きを増す。すなわち、「忠」こそ命が輝かしめる――

老荘の徒は反論します。
そんなことを言っているから、世の中の出鱈目が治らないのだ!

さて、呪いとともに生きるというごんさんは、どちらの立場に立ちますか?
呪いとともに生きると言いつつ、『絶歌』ひとつ読むことのできないごんさんは?

「呪い」というものは、都合良く選択できる類いのものではありません。避けることが出来るのなら、僕は「呪い」とは別の呼称を採用します。

僕は、この論争においては、老荘の側に立ちます。〈いのち〉の輝きを相対的に測るものだとは思わないから。
「忠」は、(僕のいうところの)「愛でる」に通じるから。


「呪い」というのは、〈いのち〉の輝度を絶対的に貶めるものです。だからこそ「呪い」に塗れた人間は自ら死に向かって歩むこともある。「星の王子さま」のように。


>やはり攻撃をするために出てきたんだろうという視線は

いくらなんでも、僕はそこまで人が悪くはないつもりです。改めてお出ましになったのであれば、対話への期待があると推察します――というより、そのように推察したい。

ですが、厄介な人が来たなと思ったのも、正直に申し上げておきます。
これまで、対話が成立した試しはないのですから、ご理解いただけると思います。
それを踏まえてなおお出ましになったということには、しかし、一縷の望みは抱いています。


(なお、「矮小化」というのは、ごんさんの主観です。
 ご自分の主観で持って他人をラベリングし、攻撃するのがごんさんだというイメージを僕は抱えています。対話をお望みなら、ご注意あそばせ。)

Magic Doors

>ごんさん

ごんさんは「傷付けられる誰かのために怒る」人なんだろうと思います。実は私はそこのところはわりと解ります。故ない呪いをかけられて「怨み」を生んでしまった人に、あなたは解呪できていませんねと評するのは、それ自体がダメージの上乗せになりかねない面がありますしね。「洗い出し」の後って結局は他力に恵まれた上で各自が自分で解呪しなければならんのでしょうし、そもそもそういう初期条件に恵まれていない人も多いでしょう。
さらに愚慫さんはどうしても自分の優れた知力・悟性をベンチマークに解呪を捉えるところから逃れられないですし。そこはまあ仕方ない。日本代表監督時代のジーコは、どうして選手たちは自分のように無理なくボールをゴールに運び入れることが出来ないのか不思議に感じていたようですが、ジーコみたいな人は凡人が出来ないことを当たり前に為してしまうので、当たり前にそれが出来ない人のことが感覚的によく解らない。

作品として描かれた物語の「読み」については各人が各人に応じてつかみとるものだと思うので、ごんさんの自転車についての読みを私は尊重します。ごんさんの生来の資質として詩人なんだろうなというイメージ。
詩人としての資質が顕れた文章を読むのは何ら苦痛ではありません。現にアキラさんのところではごんさんは普通に対話していますし、面白い話をしていますしね。

私は対話の空間に「対話そのものへの否定」を持ち込まれると「ああ面倒くさいなあ迎撃すっか」となってしまうのですが、ものの見方・感じ方の違い自体は否定しませんし、あくまで対話の構えを堅持して貰えると嬉しいです。
ごんさんは、差別と区別は違うとか差別表現も表現のうちみたいな所謂コードそのものが異なる人ではないので、決して対話が成立しない人ではないと思います。

>愚慫さん

>呪いとともに生きると言いつつ、『絶歌』ひとつ読むことのできないごんさんは?

これは反則でしょう。元少年Aさんは規格外の呪いを放出してしまった人ですし、『絶歌』そのものは呪いの書ではないけれど、あれを忌み嫌う人がいるのは理解できます。
彼や植松容疑者の行為は、人間の心を根本から折ってしまうだけの呪力があります。「加害者は特別な人」枠にでも入れないと、人間やっぱりどうしようもないなという無力感の陥穽に落とされてしまう。人の精神を汚染する。
特に、呪いを放った側の少年Aさんが一歩一歩解呪への道を模索し進んでいる(ことが綴られている)一方で、被害者のご遺族は怨みを抱いて悶えているという構図に堪えられない人がいるのは、批判してはいけないと思う。

>アキラさん

ドラマの解釈の件、了解です。ありがとうございます。

追記。

https://twitter.com/sivaprod/status/776116352612376576
↑ここでリンクされている対談記事が一部twitter界隈で批判されているようで(一例 https://twitter.com/deviltruck2010/status/776290422813446146 )、私は「親が太いと良い暮らしできるなあ」と感心するくらいのものでしたが、恵まれた暮らしをしている人が恵まれた暮らしを語ると、それ自体が他のある人たちにとっては呪いになってしまうという非常に難しい問題について考えさせられました。

こういう人たちは「五郎さんの自転車」とかどんなふうに捉えるんだろうね。

二つの枝川

正直、謡曲の流よりも、説教の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれてゐても信じたいと思ふ要素を失はないでゐると思うてゐます。但し、謡曲の弱法師といふ表題は、此物語の出自を暗示してゐるもので、同時に日本の歌舞演劇史の上に、高安長者伝説が投げてくれる薄明りの尊さを見せてゐると考へます。『身毒丸(附言)』折口信夫

答えになっているかどうかわかりませんが、老荘も儒家もそれぞれにいい、というのが僕の感触です。今でも、対話の妙を知るのは儒家の独壇場だと思います。(ごめんなさい。ソクラテスプラトンすら読んでいないのでそう思っているだけなのですが)でも、儒家の中から混沌を愛でる魂はついに芽を出すことはなかった。

「物語」にする際に(もっとスマートに言葉にする際にと言ってもいいのですが)語りえない部分が必ず存在すること、そのことを承知した上での議論です。僕が「呪いもろともに愛でる」というのは。上記附言の中で『俊徳丸』はやはり『身毒丸』の方がいい、そして「とく」と濁らずに言うのがいい。と作者が言うのには、そういうわけがあるのだと僕は思っています。

『千と千尋の神隠し』でも、腐れ神の膨大な汚れに蓋(栓・かさぶた)をしていたのは自転車でした。彼は名のある川の主だということでしたが、砂金を出していたので信濃川でしょうか。人の世は(芥)川にたとえられます。

河童というのは水子です。頭にお皿が付いているのは生まれた瞬間に神に供えられたからです。僕はそのせつなくてやりきれないひとの心象風景を、それでも愛しいと思います。


呪いの心象

先に墨滴か深淵かと言った時に、ここは必ずしも黒・闇ではないかもとふと思ったのは最近『白いリボン』を観たからです。

ただ、あまり、感じませんでした。で、思うことは、僕はこの映画が表現していることを感知する体質ではない、能力がない、もしくは及んでいない、混沌の蓋の裏側に押し込めている、とかあともろもろのどちらかだろうなということです。ただ、たんたんと表れては処理することを拒む伏線の数々は、現実界ってこうだよな、というのはありました。シンボリックな場面が多すぎて週刊誌の表紙(というかビジュアル系なので週刊漫画雑誌の表紙・恐竜大図鑑の挿絵・未来の世界の想像図)みたいな不自然さを感じたのですが。

くだらない映画、とか、残念な映画という感じはしませんでした。見るべきものはたくさんあったな、と。

僕は東京に住んだことがあるのですが、東京って一地方なんだよな、という印象を与えてくれるような友人たちに恵まれました。だから、ここの東京ザアマス人(ネタキャラだと思うけど)みたいな人がこの「自転車」についてどう思うか見当もつきません。かわいそうだなというふうに同情くらいはしてくれるのではないかと。

残酷さに耐える訓練さん

残酷さに耐える訓練さんは、ご自身を特異な人間だと自覚されていると思います。僕も別の意味で特異な人間なのだと思っていまして、ご存知だとは思いますが、しばしばその自覚が足らないと思い知らされることがあります。

まあ、それは、自覚というモノの構造上、致し方ないことなのですが。

>「加害者は特別な人」枠にでも入れないと

そういったことを言えてしまうというのが、もう、すでに特異なことなんだと思います。それを言えるのは、「汚染」を直に肌に感じるところにまで近づけてみて、崩壊しそうになる自身を愛でる(?)余裕がないと無理だろうと思います。そしてここには、崩壊しそうになっても崩壊しないという強烈な自信というか意志がある。そうでないとできない離れ技だと思います。

「残酷さに耐える訓練」という名乗りも、その自負から出てきているのでしょうね。

普通の人はそうは行きません。もっと遙か手前で崩壊の気配を察して無意識に遮断する。それが「特別な人という枠」です。そして、大多数は遮断と同時に「呪い」を吐く。

ごんさんも、その遮断を行った。が、「呪い」は吐かなかったことは認識しています。だけど、その遮断ゆえに、彼もまた呪われる対象であるということには気がつかなかった。

>ちなみに僕は呪いとともに生きる、呪いもろとも愛する、のが極致

その言や良し。だけど、足りません。「呪いもろとも愛する」というのであるなら。Aもまた愛すべき対象です。

「呪い」もまた、「生きる欲求」です。その誤動作であるに過ぎません。ですので、「呪い」をもろとも愛するというのであるなら、それは〈生きる〉ことを愛することに他なりません。

ごんさんが詩人であり、「愛でる」人であることには同意です。ですが、「愛でる」に僕は“〈 〉”をつけて、〈愛でる〉とは記しません。

なぜなら、「愛でる」は選択可能だからです。愛でる者には愛でない自由がある。その自由を否定するつもりは毛頭ありません。だけど、〈生きる〉こと、そして「呪い」にはそれがない。「自在」になることはできても。この差は、僕には決定的なものです。


「規格」というのは、怖ろしい言葉です。「自由」を正当化してしまうから。「自由」を主張することは許せます。だけど、正当化は許せません。それはすでにして「呪い」だからです。

ここを感知できないのなら、それは僕に言わせれば「足らない」。「呪いを愛でる」というならいいでしょう。「もろとも愛し、もろともに生きる」――この「生きる」は〈生きる〉に他ならないと感じますが、その言には足りません。

>「呪い」というものは、都合良く選択できる類いのものではありません。

僕がなぜ、この文章をわざわざ記したのかを、ご理解ください。

対話

今回もそうですが、ミットめがけて投げているつもりなのにかわされたなあ、という感があります。だからあの手この手で(危険な手や時には禁じ手も)そのマトに当てようとする(そしてそれは僕なりの真剣さからくる)のですが、それは周囲からは暴走「している」ように見えるのでしょうね。あるいは対話そのものを否定「している」ようにも。

以前の僕はそれを愚慫さんなりの産婆術なのかなと思っていたところもありました。

が、違ったようですね。今回はっきりと確認できました。なので、もう暴走「している」と見られるような振る舞いは「ここ」ではしません。ここでのルールに則って対話をします。


>恵まれた暮らしをしている人が恵まれた暮らしを語ると、

この問題は、僕にとってはすでに整理のついている問題です。(解決の目処は立っていませんが)

「呪い」になってしまうのではなく、「呪い」が顕在化する、意識の上に登る。それだけのことです。

地方の暮らしが都会から独立して豊かであるなら、「呪い」はありません。僕は「呪い」の問題は経済と切り離せないと考えていますし、むしろ経済の問題から「呪い」という言葉が出てきたと思っています。

都会が豊かなのは、地方から経済的な収奪をしているからです。それが「呪い」です。

都会による地方の収奪をまだ知らない無邪気な子どもは、まだ「呪い」にかかっていません。だから、純粋に楽しむことができます。都会の子は地方を、地方の子は都会を。

が、一端、収奪を知ると「呪い」がかかる。これは地方の人間にだけではありません。都会の人間にもかかる。だから、無意識に差別を垂れ流す。

なお、この関係は、別所で提起している「逆転」と関わることだと感じています。「される側」が実は「する側」に逆転する、という問題ですね。「無意識に差別を垂れ流す」というツイートは、この「逆転」です。一般にはあくまで「される側」と認識されるでしょうが、実は「する側」に回ってしまっています。

>こういう人たちは「五郎さんの自転車」

「呪い」がかかっているなら、感情的反撥をするでしょうね。具体的に、ドラマの中で出てくる警察官の行動がそうです。

あ、いや、あの警察官は地方出身でしょうから、もうちょっと捻くれているかな。地方から出てきて、努力して都会に馴染んだ(つもりの)人間が、自らの出自であるはずの地方を軽蔑してしまうという、歪んだ心の作用。

純粋に都会の人間であるなら、ツイートで“上品に”とありますが、そういう感じでしょうね。「眉をひそめる」という感じになると想像します。愛でてくれたりはしないでしょうよ。

ごんさん

僕は実は、「呪い」という部分に関していえば、ごんさんは僕に近い人間だとは思っているのです。ごんさんの「暴走」もその作用だと見ています。

だからこそ、僕は反撥しないではいられないのです。僕も「呪い」の人間だから。


>ミットに投げているつもり

躱してはいませんよ。アキラさん的にいえば、カラダにくっついた感性が違うから、すれ違うだけです。でも、だからこそ対話が成立すると僕は思っています。

お互い、「呪い」の発動を制御できれば、対話はできると思います。

規格

いえ。

アドラーの言う『嫌われる勇気』を封印するということです。

ここで僕に課せられたルールというのは。

残酷さに「慣れる」訓練さんが「ここでは」いつもそうなさっているように。



残酷さに慣れる訓練さんのコメント、すごく納得です。
すごくピンときます。

そして、今回 ごんさんがここへ書き込んでいる諸々を読んで、ごんさんがどういうことに苛立つのかも、何かとてもよく分かったような気がします。
感覚的にすごく分かる気がしました。

残酷さに慣れる訓練さんの言っていたように、ごんさんは言葉に対して詩人なんですよね。
そういう意味合いでの敏感さがとてもある。
ごんさんと愚慫さんでは、そもそもの言葉の世界の前提がまったく違うんですよね、おそらく。
愚慫さんのは「情報伝達」の言葉だから。

何かすごい話をたくさん聞いているような気持ちです。

>『絶歌』ひとつ読むことのできない

といった言葉が出てくること自体、僕には意味が分かりません。
しかも「ひとつ」というイヤミまで付け加わって。
ビミョーな関係の人との対話の姿勢じゃないですよね? (^_^;)

僕も読む気はありません。
回ってきて感想を求められたので読みましたが、自分からは読まないでしょう。
愚慫さんは「もろもろというなら足りない」と言いますが、僕からすれば『絶歌』自体が「足りない」のです。

そこに僕自身と関わる生身がないから。
テキストからだけで想像するしかないから。
そこに自分との生の関係がないと、それでは僕には「足りない」のです。
おそらく ごんさんもそういう感じなのではないかと思います。

愚慫さんは「もろもろというならそこまでやるべきだ」と思い、自らはそれをやる。
その行為が、僕からは「過剰」に見えます。
そして、テキストから自分が想像するものだけで「よし」とできる。
僕にはそれは出来ないのです。
それでは何かが何となく分かった気になるには「足りない」から。

生身があっても、こちらの理解から落ちてしまうことが多々あります。
ましてやテキストからだけの想像では、落としてしまうことが「多々」どころではなくなってしまう。
僕だったら、そこで「よし」として、それを元に何かリアルな考えを進めていくことは出来ません。
その考えが、とてもたくさんのことを落として捨てた上でしか成り立っていないことになりますから。

僕が感じる「もろもろ」は、自分が生身で関わることになった(なってしまった)もろもろ・・です。
おそらくごんさんもそのようなことなんじゃないかと想像します。

過剰なところから見れば「足りない」のかもしれません。
けれど僕は、それはごく謙虚なあり方だと感じます。

やはり言葉は受取かた解釈のしかたにおいては無限なのか?
どれだけ対話を重ねようとも、共感しないこともあるのでは、
それは「ものがたり」が更新され倒されている者同士が裡に忠実になるほど、
困難になっていくと感じる朝です。
裡に忠実になるのは、私は好ましいと思っていますが、、、。

それにしても、まあ、皆様、ほんと課題の分離ができているんですね。
しきれていないワタシは、感心するばかりです。
ごんさんの「丸腰」コメントでは、相変わらず面倒な人だ、とイラッとし、愚慫さんの『「絶歌」ひとつ読んでいない』では、そうだ、と嬉々と合いの手を入れる未熟者です。残酷に慣れる訓練さんの冷静なコメに落ち着くことはできましたが、、、
愚慫さん、やはり、あれは「丸腰」にたいする報復のような気がします。
(アキラさん、「絶歌」無理に読ませて悪かったね、スマン)

昨夜から「北の国から」を観はじめました。今5話で14話になるころには、ここも落ちつていて周回遅れになるでしょうが、やはり観ないと語れない、がワタシの質のようです。アキラさんが言うように、観たから、読んだから、どこまで立ち入れられるのだ、と言われればそれまでかもしれませんが、そして本人でないかぎり完全に立ち入れることはないと解っていますが、読まなければ、観なければ、〈私〉の「ものがたり」は更新しない。触れられるものは少しでも触れなければ、本質に近づかないという〈私〉の質です。
【社会的価値】の呪縛により完全に否定していた、青カンの世界に直で寄ろうとしたのも〈私〉の質ゆえであったのだなぁ、と今思い返しても思います。
余談ですが、とうぜんその当時は「傷つけられた誰かのために、それを解せず傷つける側のバカの胸ぐらをねじり上げて鉄拳を食らわす」人でしたよ、私は。
今、そこから更新された「ものがたり」である〈私〉がいます。
それに上書きされた〈私〉です。

アウトプットは言葉であったり、写真であったりしますが、これも外に出し外界に返したい、それはインプットしたものに対する礼であり、なにより「ものがたり」の確認だと思っています。
愚慫さんの言葉が「情報伝達」だとは〈私〉は思いません。
愚慫さんの裡なるものの「言葉」化だと感じています。
裡なるものの表現。
それを他者が勝手に何かを感じ取って反応している。

アドラーの嫌われる勇気は、突き放すことではなく、自覚的に自ら突き放されていくことを言っていると思っています。「他者が突き放す」に乗るのは、他者の課題に乗っているにすぎませんから。また、「嫌われる」は「嫌われる」ことを目的にしているのではなく、結果的に「嫌われても」そこが問題ではない、と言っていることは容易でしょう。「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読みましたが、そういうことだと思います。(念のためにですが、今回ごんさんが「嫌われる」目的でコメントしているとは思っていません。)

自転車にかんしては、やはり妙にひっかかるものがあり、特に街角に捨てられた壊れた自転車に出会うと、カメラを向けてしまいます。
だから、ここの話に興味をもったのだと思います。

おや...

またもや、残酷さに“耐える”訓練さんにしてしまった...

これだから言葉は難しい...。主観がそのまま出てしまう。(^_^;)

アキラさん

いえ、ビミョーな人との対話の姿勢だと思います。
ビミョーなことは、事実です。事実は隠蔽するべきではない。
隠蔽を為して行う対話は欺瞞です。

>そこに自分との生の関係がないと、それでは僕には「足りない」のです。

仰ることはわかります。僕もそのことを踏まえているつもりです。
僕が語るのは「僕のこと」です。

というか、誰もが「自分のこと」しか語っていません。
「自分のこと」を「あなたのこと」だと言ってしまうのは「自我の拡張」であり、課題の混同です。

「足りない」と思うのは僕であって、ごんさんではありません。
なにより生身のごんさんを知らないんだから。僕の知っているごんさんは、あくまで「僕のこと」です。

ここがビミョーなところです。「僕のこと」であるはずのごんさんは、僕の思いどうりにはなりません。当たり前です。だから「僕のこと」なのに知らないということがおこる。だから対話が生まれる。僕自身との対話です。

之を知を知と為して、不知を不知と為す。是知る也。

「為す」にはビミョーという事実を明らかにする必要があります。その結果、不和が生じるならば、それはそれ。

僕は僕のことしか考えられない。誰もがそう。大切なことは「考えた結果」ではなく、「考えること」。それも(僕の言葉になりますが)「思考」ではなく「思索」。〈私〉から言葉が生まれるのを待つことです。

その意味で、僕は僕の言葉を「情報伝達」だとは思っていません。体裁としては「情報伝達」になっています。僕は詩人ではないので、そういう体裁になる。だけど、僕が伝えたいと思っているのは、「情報が生成する過程」であって、情報そのものではありません。

なので僕は、言葉の奪い合いにこだわっていないんです。それは「結果としての情報」だから。


誰もが不完全に考え、不完全に行動を起こす。それはあるいは「偏り」の発現なのかもしれない。だとしたら、「社会」も〈世界〉も、そういうものとして受け入れるしかない、と思います。そういうものであっても、全体としてデタラメにはならず調和を取ることはできる――というのも、あくまで僕の考えですが、思っています。部分最適化は不能でも、全体最適化は可能だ、と。

現に【社会】を除く〈世界〉は、全体として調和が取れているのですから。

ごんさん

>ここで僕に課せられたルールというのは。

課せられたとはどういうことですか?
誰があなたに課したというのですか?
あなたは被害者なのですか?

被害者だというのなら退場をオススメします。誰も引き留めないのだから、それがごんさんご自身の身体の欲求に沿う自然な行動でしょう。

残酷さに慣れる訓練さんのしていることは、自分で自分に課したルールです。
ごんさんとは大違いです。

そこを同列に語るのは、欺瞞です。


追記

「二つの枝川」と題されたコメントは、いいと思います。挑発したのに冷静に返していただけた。
ここは、早くに言及すべきでした。ごめんなさい。

内容については、上手く返せなんですよね...

すみません、興味を失いました。
退場しまーす。 (^^;)

ならば、ご自由に。

KUZU

私が語りたいことを自制するのだから、語ろうとしている僕にルールを課すのは私自身です。

今回僕が知りたかったのは『身毒丸』についての愚慫さんの読みだったのですが。

なぜそれを知りたかったかというのは、僕自身の語る理由ともつながるので紹介しておきますね。

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり   ――釈迢空

好きな歌です。人間が好きな人がここにいるんだなあ、という感じがして

さて今回はそろそろおいとまいたします。アキラさんにならって(^^;)



ごんさん、順当だと思います。

>語ろうとしている僕にルールを課すのは私自身です。

ではなぜ、受け身表現になったんでしょう?

まあ、そういうのも、「僕が知っているごんさん」ですが。

『身毒丸』については関心があります。
ただ、今は時間がない...

当然

語るのは僕なので(自制は受け身にならざるをえない)

待ちます。そういうことならば

自制は受け身にならざるをえない?

僕にはよくわかりません。
言葉の使い方?


『身毒丸』は、ごんさんの引用だけでは僕には意味不明です。前後の文脈から知りたい。

「身毒」という名は引っかかりがあります。

時空

たとえばトイレにいくのを我慢「する」とき、正確には、トイレに「いきたい」僕を、私が我慢「させて」いる。のですよね。

折口信夫 身毒丸 で引いてみてください。テキスト自体は短いですので読むこと自体にはそう時間はかからないと思います。

『身毒丸』、読んでいます。
読んでいますが、、、、勘弁してくれよ――と、いいたくなる話です。僕にとってはね。

このタイミングでこんな話に出会うことになるのは、そういう「機」ということなのかな?

継母に呪われてライ病になる――って、僕じゃん(笑)

これを「愛でる」と言われたら、僕は他人事だと思う。

>僕はたとえば基地被害や性犯罪被害を訴える人のことを「解呪できていない人」という「物語」に矮小化するその視線に多大なるハラスメントを感じているということは表明しておきます

おそらくはこういうことを、感じる。

ですが、焦点は「附言」の方ですね。

『身毒丸』は改めてエントリーにあげます。


>たとえばトイレにいくのを

あいや。それはわかりますが、誤魔化されてような気がします。

トイレに行くのを他の誰かに阻まれたら立派な虐待だし、虐待されている者は「課せられた」と言うでしょうし――、まあ、いいか。

飼い犬が手を噛むので

>――、まあ、いいか。

「自分に課した」って自分で言うのってなんかえらそうじゃないですか。また、それが他の誰かへのハラスメントなるかもしれないし。その程度のことです。

けっこう険しい道です、が、しるべもたくさんある。そこを辿っていけばいつか望んでいたものに出会えるかもしれません。

では、私は帰ります。



北国

ちなみに僕は折口信夫のこの小説を読んで太宰治の書いた『津軽』を思い出しました。

そしてアラビアのロレンスの「砂漠は美しい」という言葉。

星の王子様の命の水の話。

絶境

あと、『カラマゾフの兄弟』ですね。

父親から受け継いだ血。

一片のパンに仕込まれた一本のピン。

冥界の番犬ケルベロス。

何でも賄賂のことを『ケルベロスにパンを与える』というそうです。そうすると生きたまま冥界に行けます。


ざっと読んで(どうやらこれが本体だな)と感じるものがないのであれば、無理に読み込もうとせずいったん閉じてみてもいいと思いますよ。作者が附言しているように、 或る人にとっては大切な何かが削ぎ落とされているのかもしれないし。

あと、自分は自律できている(自身にルールを課してそこを違わずに生きることができる)と信じて疑わないような人間がもしいるとすればその人にとっては従心なんて望みようもない考えだと思います。そういう人は元気に長生きしてもだらだらと老醜を晒しつつ人々の記憶から追い出されるだけでしょう。まあそれがわかったからと言って我ら一般にとって従心なんてほとんど及びもつかない境地であることに変わりはないのですが。

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