愚慫空論

『〈心〉はからだの外にある』





「〈心〉はからだの外にある」だなんて、常識外れです。
だけど、常識外れだからといって、真実ではないとは限らない。考え方によっては、筋の通ったものになり得ます。

本書の出発点はアフォーダンス理論です。
ご存知の通り、アフォーダンスがまず、常識外れ。一般的常識では物事の価値は“後付け”で決まると考えられている――つまり、価値を決定する「何ものか」があって、その「何ものか」が、物事に価値を“後から”付加していくと考えます。

対して、アフォーダンス理論は、物事の価値は予め定まっていると考える。物事への知覚があって価値が跡づけされるのではなく、価値が在るからこそ物事は知覚されると考える。そして、その考え方は、常識に反しているけれども、科学的には首尾一貫したスジの通ったものだと言えます。

価値を後付けする「何ものか」とは何か。それは〈心〉です。内面にあるはずの〈心〉。その前提に立つからこそ価値は圧付けされているという錯覚を生んでしまう。そして、その錯覚をみんなが共有してしまっているので、錯覚には気がつかない。

本書は、その錯覚の犯人をデカルトだと告発しています。

  我思う、故に我有り。

みんながこれを、そのとおりだと思ってしまったから、錯覚が生じるようになった。そういう錯覚を「心理主義」と言います。

なぜ人を殺すことはいけないのか

(前略)

ある行為を評価するには、その効果から測らなければならない。たとえば、ある教師の授業の仕方がうまいかどうかを測るには、教師本人ではなく、学生たちにたずねるべきだろう。それと同様に、ある行為が善いことか悪いことかは、その行為を為した本人に聞くべきものではなく、その行為によって影響を受ける人(たち)に問いたずねるべきである。
(中略)
殺人が悪であるかどうかも、殺す側でなく、殺される側に聞くべきである。それが殺される側にとって不幸であり、悲しみであり、激しい怒りと憎悪を惹起するかぎり、殺人は惡以外の何ものでないはずである。

しかし以上のことは、「殺人は被害を受ける側にとって悪である」ということを証明しただけに過ぎず、「なぜ、私が殺人を犯してはならないか」を説明したことにはならない、という反論がありうる。
(中略)
しかしここで私が主張したことは、人間の行動の相互性である。

自分が一方的に常に殺す側に属するということは、人間社会においてはありえない。

(中略)

よって、「人を殺してはいけない」という道徳律は、国際的な停戦協定、あるいは捕虜交換の取引のようなものである。戦争を恐れるがゆえに停戦に達したのであり、戦争状態に戻りたくないゆえに停戦協定を守るのである。この意味で、「人を殺してはいけない」という道徳律は、参加者同士の取り決めであり取引であり、相互的な呼びかけなのである。


心理主義が忘却しているもの

私名以上の自分の解答を、きわめて常識的な答えだと思っている。読者が以上の回答に納得していただけたなら、私が問いたいことはつぎのことである。なぜ多くの論者たちがこの単純素朴に思われる青年の問いに答えられなかったのか、である。

それは、おそらく、殺人を禁止する理由(ないしは基礎付け)を、人間の相互性にではなく、自分(心)のなかに、つまり、心理的な動機のなかに探していたからではないだろうか

(後略)


僕は、この議論を正解だとは思わないけど、満点だとも思いません。

「人を殺してはいけない」が「取引のよびかけ」だというには同意です。だけど、それは「いけないのか」と問いかけるからそういう答えになるのであって、その問いが惹起する前提――人はそもそも人を殺したいのか、殺したいとするのならその理由はなぜか――への問いを阻むから。

この問いが生まれないと、そもそも人はなぜ人を殺すのか、取引が別の具合に成立すれば、たとえば被害者を全滅させてしまうことが技術的に可能であるなら、ナチス・ドイツの行為は未達成だから非難されるのであって、完遂されていれば批判されるべきものないのかという、もっと怖ろしい疑念が生まれてしまいます。

一定の正解というのは、つぎの問いを阻むという性質があります。


それはさておき、心理主義が道徳律が「取引へのよびかけ」であることの実体を隠蔽してしまうということはその通りだと思います。

ここで語りたいのは犯罪の完全性などではなくて、「心の誕生」です。


私たちは、根本的に、隠し立てのない表出的な行動をとる存在として生まれる。乳幼児は、直接的な行動をとるばかりである。それは動物の行動と同じである。動物も相手を欺き、罠にかける行動をすることがあるとはいえ、乳幼児と同じくその行動は根本的に表出的である。デカルトにおいて、動物は自己意識がないゆえに心がないと断じられていたが、幼児期の私たちもその意味での心はもっていないだろう。幼児において思考とはすなわち語ることであり、感情とは内面性である以前に状況に対する即時的な反応であり、欲求とはなしつつある行動だからである。子ども自体の私たちは、まさしく行動すなわち心の世界で生きている。



ギブソン(アフォーダンス理論の提唱者)もやはり、人間の行動は根本的に表出的であると考えます。彼によれば、「動物や他人は、触れば触り返すし、叩けば叩き返す。つまり私たちと相互に関係し合う」。

が、私たちは成長するにつれ、自分の表出を抑制し、統御することを憶える。自分の意見をそのまま口に出さず、発声を抑えてミュート状態した「内語」として語るようになる。内語は、音読を黙読にするような訓練から生じるものであり、不可思議なものでも神秘的なものでもありません。

また、私たちは、自分の怒りの表情やふるまいを抑制し、他人には怒りが識別できないようにします。自分を隠すことで、他人を思い通りにしようと試みる。こうした振る舞いは、フロイトによるならば、主体的な行動です。


それらのふるまいの制御は、人目を避けることを意図しているものであろう。その意味において、まさしく他人の視線から隠蔽されているゆえに、内側であり、内面と呼ぶことができるのかもしれない。しかしそれは、原理的に隠されている私秘的なものではなく、表出の折り返しに過ぎない。それは表出の抑制、抑圧、隠蔽、うそ、騙し、策略、忍耐、躊躇の類いである。フロイトが鋭くも見抜いていたことは、内面性が表出の制御から生まれたということである。
(中略)
つまり、内面性とは、直接的な行動や表出を妨げ禁止しようとする自分の外から来る(権)力に対抗するための、主体の側の応答の表れなのである

(中略)

したがって、フロイト的な立場に立てば、相手の内面を知るということは、相手が抑圧したものを見抜き、相手のうそを見透かし、策略や隠蔽を見破ろうとする種類の行為に他ならない。そして逆に、内部の表現とは、真の自己の表現というよりは、押し殺した表出行動をふたたび公然と提示することであり、そうした心的内容を公に告白することである


僕は、この主張は3/4当たっていると考えます。

1/2は、まず、内面性の起源は外部からの力にあるということ。それが自然環境であれ社会環境であれ、外部から「力」が働かないことなどありえない。外部からの力に対抗して一定の「かたち」を維持しようとすることが生命の本質。言語を持ち、名付けられる存在である人間が、言語的コミュニケーションの失敗から外部に権力を感じ、言語的コミュニケーションの主体を“形作る”ことは、一定の「かたち」を維持しようとする生命活動の延長であって、本質に沿っていると思います。

が、後の1/2の1/2,つまり1/4は違うと思う。

そうやって生成した内面的主体の応答が、常に(権)力に対抗するためとは限らないはずです。

「名付けれること」と「コミュニケーションの失敗」が統合されて生成した内面的主体が、その名において表出しようとする欲求は、「抑制、抑圧、隠蔽、うそ、騙し、策略、忍耐、躊躇」において実現する場合、つまり内面的にしか実現できない場合と(「逆接」)と、素直に表出することで外面的に実現する(「順接」)とがある。そうした「順接」と「逆接」の記録のうち、人間社会に適応するのに都合の良い記録を「物語」として編集することで生成されるのが「自我」。

本書の副題は、“「エコロジカルな私」の哲学”となっているのですが、愚慫の哲学(w)で言うならば、「順接の自我」が形成されたならその時点ですでに「エコロジカルな私」です。なので、本書の引用以降の議論(p.124以降)は、本質的なものでなく、派生的なものを本質的なものと勘違いした議論に映ります。まあ、僕の独りよがりですけどww


ちなみに、その1/4の方に注目した人が、私見ではありますが、アドラーです。
アドラーは「順接」「逆接」を事後の再編集可能なものだとしました。僕はその見解に同意する――いえ、同意したいと思います。



さて、余談です。

「エコロジカルな私」とは、儒教でいうならば「君子」でしょう。「エコロジカルな私」であることを求める姿勢が、ガンジーのいうところの「サティヤーグラハ」。

「抑制、抑圧、隠蔽、うそ、騙し、策略、忍耐、躊躇」の暴発によって生じるのが「暴力」です。ヒトは「裡なる欲求」を抱えるエネルギーの塊なのですから、そうした代償行為的な態度でいつまでもいられるはずがない。だから、どこかで暴発せざるを得ないことになります。

現代社会は、暴発を生む抑圧をシステマチックに生産し、一定の暴発を合法化することで維持されている社会です。その系譜は、人類に文明が生じてからずっと発展進化しながら受け継がれています。

ソクラテスや孔子や釈迦が、紀元前6世紀ころに、ほぼ同時に生まれたのは、偶然だろうけど、それなりの理由はあったと想像します。暴力をシステマチックに生んでしまう【システム】が顕在化した時期。そのことにいち早く気がついた人物ということでしょう。

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