愚慫空論

『飼い犬が手を噛むので』

人生を旅に例えるのは、ごくありふれた言い回し。慣用句のようなものですね。そして、旅の妙といえば出会いです。

 互いに違う世界を認めることから

内田 俺が見ている世界が真実の世界で、お前が見ているのは幻想の世界だ、と。誰もみなそう思っているわけですよ。そう心に思うことは止められない。でも、それを口に出していうかどうかは別の問題です。すべからく人間はかくあるべきである、人間社会はかくあるべきだというのを自制する。どこで手を打つかといえば、ぎりぎり「人として」というぐらいのところですね。

例えば、目の前で死にかけている人がいたら、駆け寄って介抱する。飢えている人がいたらご飯を食べさせる。寒空に行き場のない難民がいたら、一宿一飯ぐらいお世話しましょうかと申し出る。そういうことだと思うんです。それくらいのことなら、原理原則とか大義名分とか要らないでしょ。「惻隠の情」があればできることじゃないですか。「まあ、人として、それくらいのことは当然じゃないか」というレベルで他者と向き合う。それ以上のことは求めない。理解も共感もできないし、言葉も通じないが、相手の生身の身体の上や痛みや苦しみはわかる。それがわかるなら、その水準で関わればいい。そういう共生です。

理解や共感の上にコミュニケーションを基礎づけるのではなくて、理解も共感もできないけれど、現に傷ついたり損なわれたりしている生身の人間が目の前に「人として」放置しておくわけにはいかない。そのレベルでの共生。




旅路で出会った内田さんのこのセンテンスはどこかで紹介しようと思っていたんですけれど、そのきっかけがまさかこれになるとはww


 俺が見ている世界が真実。お前は幻想を見ている。
 そのことの「証拠」があるなら、“狩り”をしていい。
 ただし「証拠」がないなら俺もお前も狩られる側だ
――

と、大槻ケンヂは絶叫していますwww

その「証明」がなにかについて大槻ケンヂは触れません。触れる必要もないことなのでしょう。それは正しいと思う。アーチストとして。

ただ、思想家は「証明」に触れないわけにはいきません。内田樹、姜尚中ふたりの思想家は、その「証明」のデタラメさを告発し、その「先」を示そうと務めています。もっとも、その仕事とて「独りよがり」の批判からは原理的には免れません。内田さん自身、そういう原理をしてして、その上でなお、共生の在り方を問うています。



先日『シン・ゴジラ』を、久々に映画館へ行って観てきました。映画の内容については、ここでは触れません。後日、触れるかどうか、わかりません。僕にとって是が非でも語りたい何ものかがあるような映画ではありませんでした。が、何かきっかけがあれば、語りたくなるかもしれません。

今、ここで語りたいのは、「映画館で観た」ということです。当初は、いずれDVDが出るのは間違いないから、安くレンタルできるようになってから観ようと思っていました。が、これもきっかけがあって映画館で観た。

映画館で観てよかったと思います。パソコン画面で見るのとは、やはり感触が圧倒的に違います。

現在の映画はとてもよく出来ているんですね。特撮映画だということは前もって理解しています。そう理解していても、映像と音響に飲まれてしまう。ゴジラが街を破壊するシーンなど、本当にその場に居るかのように錯覚してしまいます。がれきが自分の頭上へと崩れ落ちて来たと感じてしまいました。

もちろん、それはあくまで錯覚。錯覚だけど、実感です。「これは映画だ、フィクションだ」という自制が働いているので、実感が具体的な行動に移ることはありませんでしたが、その自制が働かなければ、身体が動き出してもおかしくはない。

錯覚を実感たらしめているものが、自我です。こういった場合、自制を働かせているものだけを自我としてしまいがちですが、実感たらしめている方もまた自我。自我同志がせめぎ合うからこそ、こうした映画に快感を感じます。

がれきが頭上から降ってくると実感した僕は、三脈を採ってみました。もし実感が現実なら、身体は危機を察知しているはずですから。幸いなことに、三脈は同期していました。当たり前ですけどwww



内田さんが意識しているかどうかは知りませんが、述べていることは儒家の思想に近いものだと考えます。

いつものように「論語」とせず、儒家とするのは「惻隠の情」は孟子だからです。儒家の基本は「惻隠の情」、つまり理屈抜きの身体の作動です。

そのように言わなければならないのは、現実社会はそのようにはなっていないから。自我が肥大してしまって、ありもしない「証拠」に基づいて“狩り”をしてよいという社会になっている。孔子の時代からすでにそうだったということです。

儒家の思想は身体の動作を基本に置き、共感によって社会秩序を組み立てようと考えるもの。身体の動作だけなら老荘の無為自然です。

 俺が見ている世界は真実だ。だから、お前の見ている世界も真実だろう――

これが共感です。そういう共感の上に、調和が成り立つともともとの儒家は考えた。

 君子和而不同
 小人同而不和


とは、そういうことです。なお、「同」というのは、「理解」であり「証拠」です。

このことは、逆に言うならば、共感が成立しない相手とは付き合わない方がいい、ということでもあります。

孔子が言ったのは「共感が成立しない相手とは付き合うな」ではありません。「共感を成立させようとしない相手は友にするな」です。


秩序を考えるなら前者で十分。自身の成熟を望むなら後者の言葉に耳を傾けたいものです。

前者については、また機会を改めて述べます。ここでは後者について。


「共感を成立させようとする姿勢」は、「ありのままの自分でいようとする姿勢」から生まれると孔子は言います。身体の作動に耳を傾け、ありのままの自分でいようとするなら、共感は自ずと涌き起こる。

なぜ、自ずと涌き起こるのかは説明できません。神秘です。神秘であるが故に「信」を置くしかない。そして、ここに「信」を置くならば、そうでない現実の理由を探ることになる。神秘を阻害するものへの探求であり、合理的な神秘主義者の構えです。

 俺が見ている世界は真実だ。だから、お前の見ている世界も真実だろう。

この「だから」に理由はありません。神秘であり「信」です。ゆえに、「だから」になることを阻害するものを探求します。

 學而時習之 不亦説乎 
 有朋自遠方來 不亦樂乎
 人不知而不慍 不亦君子乎
 


それが三段目の「慍」。つまり「イライラ」です。「手を噛む飼い犬」です――が、この解釈は、大槻ケンヂのそれとは異なっています。

そうなる理由は、ケンヂが歌全体で示そうとした自我自体が、すでに「イライラ」を内包しているものだからと考えます。いえ、感じます。「証拠」示す示さないという構図がすでに「イライラ」です。その「イライラ」の反映として「手を噛む飼い犬」が出てくる。飼い犬という発想は秀逸です。

が、それは、反転してしまっています。「イライラ」の上に「飼い犬」に手を噛まれたら、さらに「イライラ」は募るでしょう。これは「呪い」です。呪縛です。すなわち『飼い犬が手を噛むので』という歌は「呪い」を訴える歌です。アーチストとしては、それでいい。


僕ががれきが降ってくると感じた「実感」は、それが映画であるという自制がなければ、身体的な行動にまで至ったでしょう。この自制は理性です。

僕たちは普段から、自我を経由して感じる「実感」の中で暮らしています。が、社会を虚構だとは思っていない。そのことを告発した映画もありましたが、



「告発」自体が虚構としか受けとめられない――それがアーチストが奏でるアートというものの宿命でもあるのでしょう。だからこそ、快感の中に浸ることができる。自我の中でのせめぎ合いという枠のなかでに収っていられる。

これは、言う言わないという自己表明上の自制ではありません。イスラームあたりはこのレベルの自制、つまり意識上の自制に焦点を合わせているようですが、身体の自制はそれよりも深い無意識のレベルでの自制です。自制が無意識のレベルであるからこそ、それを「呪い」といいます。


冒頭に戻ります。

人生を旅路に例えるアナロジーは正鵠を射ていると思います。しかし、ど真ん中かというと、ちょっと違うと思う。旅路だと考えるのもまた、自我の作用です。自我とは「物語」。自意識の物語です。自身の身体の反応をモニターする自意識の記録のなかの、「都合のよい歴史」が自我です。

では、この「都合」とはないか。生存への都合です。

「ありのままの自分」でいることが自己の生存にとって都合がよかったならばそういう〈物語〉を。
「ありのままの自分」でいることが自己の生存にとって都合が悪かったのならば、そのような【物語】を。

ケンヂが唄った自我が【物語】に裏打ちされていることは言うまでもないでしょう。イライラとさせる音響。裁判に見立てたストーリーはそれ以外に解釈しようがないと僕は思います。

【物語】に裏打ちされた【自我】を持つ者にとって「手を噛む飼い犬」は、気がついた時にはすでに、つまり自意識が成立した時点ですでに自分のなかに棲んでいる存在です。ですから、わざわざそれを育てようとするなどということなどありえない。

とはいうものの、それをわざわざ育てようとしたいというのは、その人の「実感」であるだろうことには違いないはずです。そういった人は〈物語〉の方に裏打ちされている人だと推測でき、【自我】の者とは深い部分で異なるだろうけれども、それは決して決定的なことではない。決定的なこととするならば、それは自ら置いた「信」を裏切ることになります。


【自我】の者にとって「手を噛む飼い犬」は、飼い慣らすべきものとして認識されるようになる――

が、この話は次回への持ち越しとしましょう。次回で取り上げる飼い慣らすべきものは犬ではなくキツネですが。




コメント

「ありのままの自分」って何ですか?
というか、どういうことですか?

僕が想像するに、「無意識のレベルでの自制」すらない状態のように受けとれたのですが、それで合ってますか?

・アキラさん

反則かもしれませんが、ここのところは僕からアキラさんに承りたいです。

「ありのままの自分」とは何かと問われたならば、答えは、たとえば、

  風邪をひくべきとき、あるいは引きたいときにひく身体

です。一歩自我の側へよって答えるならば、

  そういう身体に従順な〈私〉

です。同様に、

  喜ぶべき時(喜びたいとき)に喜ぶ身体(に従う〈私〉)
  怒るべき時(怒りたいとき)に怒る身体(に従う〈私))
  ・・・・


です。つまり〈私〉よりも以前に身体がある。

以上はあくまで僕のイメージの言語化ですが、このテキストからアキラさんは“「無意識のレベルでの自制」すらない状態”とイメージしますか?

僕の感触では、〈私〉というのは、「無意識のレベルで自制するもの(≒阻害するもの)」です。なので、〈私〉が自制を止めるなら、無意識のレベルでの自制もない状態、となります。

えーっと、そうであれば、身体と〈私〉との関係というのは、どうなっているんですか?
あるいは身体と自我の関係と言ってもいいのかもしれませんが。

ああ、なるほど。

〈私〉を「自我」と考えて良いと思います。

身体の反応をモニターし続けることで生成され、生成されると身体に介入しようとするもの、ですね。

では、愚慫さんの話の場合、潜在意識的なものは「自我」の側のものなのですか?

そうですね、そうなるのでしょうね。それを「自我」と呼んでいいのかは微妙ですけど。

身体の動作があって、情動が生じて、感情が意識上に表われる。
情動の発生に「物語」は関与していると思うし、「物語」の「都合のよい編集」をここでは「自我」と考えているわけですから、そして情動は無意識下で生じるものですから、潜在意識的なものも「自我」の側だとしないと、話のつじつまが合わなくなります。

話の辻褄を合わすために、定義するのは矛盾しているとは思いますが。

話の方に辻褄を合わせるため・・・、了解です。

ええ、そうです。やはり「辻褄を合わせるため」です。

どこからかは自分でも指し示すことが出来ませんが、思考という名の「言葉の操作」になってしまっています。「無意識は自我の側か?」という問いへの答えは完全にそうですね。

そういう時は「わからない」と答えておくのが適切なのでしょうね。

言うつもりはなかったのですが、『「わからない」と答えておくのが適切なのでしょうね』なんてところに落とされてしまっては、ごまかして終わり・・みたいな結末なので、一応 コメントしておきます。

潜在意識的なもの(無意識のもの)は体にくっついたものなので、体の側のものだと思います。
体そのものと言ってしまっても いいかもしれません。

野口先生の「裡なる要求」という言葉を使えば、
「現在の身体」を通して外界との接触(出会い)があり、その中で「裡なる要求」によって 動きが起こり、それが情動や実際の運動となって「現在の身体」を通しながら、それが表出される。

「現在の身体」というのは、そういう「裡なる要求」と外界との出会いの結果として 構築され 更新し続けられているものですよね。
傷だって殻だって 結局 そうやって構築された「現在の身体」の側なんです。

「現在の身体」を通した外界との接触ということがなければ、そういうものの影響を受けていない「ありのままの自分」なるものがあるでしょうけれど、現実問題としては、僕はそのようなものはないと感じています。

アキラさんの主張(と敢えて言いますね)は理解できます。それが「言葉の操作」ではなく、十分にアキラさんのなかで腑に落ちているものであることも。そこは信頼しています。

ですが、信頼は帰依ではありません。信頼からは、生まれてくるものがあります。信頼のあまり、「生まれてくるもの」を否定するのが帰依ですね。


>「現在の身体」というのは、そういう「裡なる要求」と外界との出会いの結果として 構築され 更新し続けられているものですよね。

僕は「裡なる要求」と「外界」との間に、もうひとつ別の要素が絡んでいると感じています。それを「物語」と呼んでいます。

この認識は、『仏教思想のゼロポイント』のゴーダマ・ブッダと『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』のアドラーから頂いたもの。いえ、僕自身がピックアップしたもの。

そのピックアップは、上で言った“信頼”がなければなかったものです。


今はこんなふうに考えているんです。

野口晴哉師とゴーダマ・ブッダ。どちらも行き着くところまで行った人に違いない。しかし、視座に違いはあるように見える。野口師は観察者。ブッダは当事者。

「ヒト」としては同じであるはずの心身も、視座が違えば異なる風景が見えても不思議ではないのではないか。

両者共に信頼をするのであれば、そういう結論になる。で、僕の風景は、当事者としてのそれで、ゴーダマ・ブッダに近いように感じている。

そう思えば、観察者から観て「裡なる要求」と「外界との出会い」はどのような形であれ常に順接であり、順接であるがゆえにダイレクトに結びついていると考えても何の不思議もない。だけど、「物語」によっては逆接になることもある。それは当事者にしか見えないことです。

もっとも、以前の記事で書いたように、『仏教思想のゼロポイント』が提示するゴーダマ・ブッダは、逆接に気づかず社会から世を向けないまでも都合の良い接し方(出家)をしてお茶を濁したのではないかと思っています。ブッダに帰依するならこれは不遜な考え方ですが、信頼を既存しているとは思わないし、そういう不遜が生まれたのも野口師への信頼があればこそ。それがなければブッダへの帰依にまで行ってしまったかもしれませんね。


先のコメントでわからない、と言ったのは、誤魔化すためではありません。

従来の自我の概念で言うなれば、「物語」は自我の側にならないと道理にあわない。かといって、それがカラダの側だという理解も僕にはあります。ですから、「自我と言っていいのかどうかは微妙」と断りを入れつつ、「話の辻褄を合わせるなら」自我の側、という答えになった。そして、わざわざ「言葉の操作でしかない」とした。つまるところ「わからない」。

もう少し踏み込んで言うならば、「裡なる要求」「自我」という構図に疑問符を付けている、ということです。では、どういう構図がよいかというと、やっぱり「わからない」。「まだわからない」としたいところですけど、いずれわかるという保障はどこにもありませんしね。

欄を改めて続けます。

ヒトのみならず、あらゆる生命は「裡なる要求」を発現させようとします。あらゆる生命は、種族間あるいは個体間で「裡なる要求」の発現競争を繰り広げている。それが生態系というものです。

生態系の原理に従っている間は、発現競争の結果に優勝劣敗があったとしても、すべて「順接」です。


ところが、人間が築いた文明社会のなかでは、なぜか「裡なる要求」の発現を阻害しようとする動きが生じてしまう。「裡なる要求」の発現そのものを、優勝劣敗の結果を表われる前に抑圧してしまう。これが「逆接」。つまりハラスメントです。

生命は結果はどうであれ、全力で生きるように出来ているものです。全力であることができたなら、どのような結果であれ受け入れることができるように出来ている。「われ、事において後悔せず」ととある作家が宮本武蔵に言わしめましたが、ヒト以外の生命はもともと事において後悔などしないもの。そのようなことをできる能力が初めから備わっていません。

「ヒト」を誠実に観察している者は、例外はあるにせよ、「順接」を推奨します。『子どもへのまなざし』の著者然り、野口晴哉師然り。ゴーダマ・ブッダは例外ですね。

“推奨する”ということは、それが必ずしも出来ていない現実があるからなのは言うまでもありません。だから、推奨する者も「逆接」のことは認識しているはず。だけど、なぜか、そこから目を背けているように僕には映っています。

「逆接」というのは、とある個体の「裡なる要求」の発現が、全力に至る以前に、その個体の生存を危うくする事態を招いてきたという経験の集積、つまり「物語」です。ヒトは非常に適応能力の高い生物ですから、経験から自己の生存に適した振る舞いを学習することができる。生存環境が「裡なる要求」を阻害するような環境であったなら、順応して、「裡なる要求」を自ら阻害するような身体を作り上げることすらできてしまう。これが「逆接」であり、「呪い」と僕が呼んでいるものです。「裡なる要求」を無視し続けて社会環境に適応することを「過適応」と言ったりもしています。


僕にとって不思議なのは、「順応」を推奨する観察者は、この「呪い」や「過適応」に関心を示さないことです。

>「現在の身体」というのは、そういう「裡なる要求」と外界との出会いの結果として構築され更新し続けられているもの

であるということは、「裡なる要求」と外部との出会いがすべて「順接」であることを保障しません。「逆接」となる可能性も秘めているし、実際に観察者は「逆接」の存在事態は認知しているはず。

私は観察者であり推奨者だから「逆接」の詳細には関心がない――。もとより関心を強いることは出来ません。だからといって、関心ある者からの提示を、関心のないところからの主張でもって斥けようとするならば、それは、観察者あるいは推奨者という「立場」「アイデンティティ」を守ろうとするための行為だろうという推測が働いてしまうことになります。「人間(社会人)の都合」というやつですね。

これが働くと、本文冒頭で引用させてもらった内田さんの「互いに違う世界を認めることから」は始まりません。

仰るとおりです。

ですから、愚慫さんの言う「物語」が「現在の身体」だと僕は思います。
「裡なる要求」がダイレクトに 外界と接触するわけがないじゃないですか。 (^_^;)

ちょっと自分なりに言葉が足りなかったかもです。

少なくとも、
僕が自分の現場で常に相手にしているのは、その人その人の「物語」=「現在の身体」です。
そこには当然、順接も逆接もあります。
もしかしたら、間接も溶接も密接もあるかもしれない。 (^^)

僕は「観察のための観察」とか「研究するためだけの観察」とかを 一切しません。
そのへんが、もしかしたら愚慫さんと僕との違いなのかもしれません。

アキラさんがいう「裡なる要求」と、僕が理解する「裡なる要求」は違うのかもしれません。

僕はダイレクトに外界と接していると感じています。動物がそうだし、子どもだってそうでしょう。
彼らにはそれしか出来ないはず。

もっとも、我が家の犬たちを観察していると、彼らにだって「物語」らしきものはありますけれどもね。

僕にとって「物語」とはダイレクトな接続(順接)を阻害するものだとして把握されています。なので、自我の側ということになる。「裡なる要求」vs「自我」という対立構図においては、という前提つきですが。そして、その前提は考え直す必要があると思っているのは、記したとおり。


これらの思索は、どれも「観察のための観察」でもなければ「研究のための観察」あるいは「研究のための研究」ではありません。ありませんという以前に、「裡なる要求」を抱えているはずの人間がそのような行為に自ら進んで埋没するはずがないと考えます。そのような動機があるとするならば、それは「逆接」以外には考えられないと思います。

が、「逆接」に埋没する人間にはそのことは盲点ですから、構造上、見えることはありません。


どのような行為も、〈生きる〉ことの表現に他なりません。
そして、人間は社会的な動物なのですから〈生きる〉ことは当然コミュニケーションすることでもあると同時に、やはり一個の〈いのち〉なのだから、「俺の見ている世界は真実」という信憑は避けることはできないのでしょう。

それでもなお、人間はコミュニケーションを続行することができると信じています。

そうですね、理解が違うのかもしれないし、もしかしたら言葉の使い方に違いがあるのかもしれません。
また、「裡なる要求」vs「自我」という対立構図は、僕もムリがあると思います。

「裡なる要求」というのは、エネルギーのある種の偏った湧出です。
(それが「生きている」の源ですね。ですから「裡なる要求」と言わなくてもいいとも思います)
で、それは必ず身体(無意識の領域も体にくっついたものなので、僕は「身心」と言いたいところですが)を経由して、外界へと表出するわけです。
インプットの方も然り。
そうやって、外界と接触し・やりとりをしながら、受精卵から殖えていって「現在の身体(身心)」に至っている。

必ず身体を経由するわけですから、その「要求」はダイレクトには外界と接していません。
僕が使っている「ダイレクト」は文字通りの直接という意味で、「順接」とは関係ありません。
受精卵だろうが、胎児だろうが、乳児だろうが、子どもだろうが、はたまた動物だろうが、必ず身体を経由する。

そうやって「身体を経由して」外界と接触し・やりとりした結果 更新し続けられているのが「現在の身体(身心)」=それまでのそのやりとりを含めた経緯=「ものがたり」(平仮名表記にしておきます)ということです。
僕がコメントしているのは、そういうことです。

ですから、動物だろうが、新生児だろうが、子どもだろうが、すでに「ものがたり」はある。と僕は思います。
(胎児の頃の母体の心理的状況などは、胎児自身に影響を及ぼしますから)
植物にだってあるのかもしれない。
それが順接なのか、逆接なのか、はたまたそれ以外のつながりなのか、それはいろいろだと思います。
というか、順接・逆接の二分だけなのでしょうか?
それを誰がどのように「これは順接、これは逆接」と決められるのでしょうか?
そのへんも僕にはよく分かりません。

「身体を経由して」という意味はよくわかりました。

僕が「ダイレクト」と言ったのは、「身体が直接」という意味です。
「裡なる欲求」と「身体」を一体と考えていたんですね。
「欲求」をエネルギーと考えるなら、アキラさんの主張は理にかなっていると思います。それに「欲求=エネルギー」の方が、字義どおりですね。


では、「エネルギー」という視点から、「順接/逆接」を考えてみます。

エネルギーにはふたつの作用があります。創造と破壊です。
身体はエネルギーによって創造されたもの。自我もそうです。

ここは免疫を考えると、補助線としては有効でしょう。
免疫もまた身体の一部です。免疫は身体の機能を維持するように機能するのが通常ですが、身体の機能を阻害するように機能することもある。自己免疫疾患、アレルギーです。

「逆接」とはアレルギー反応でしょう。

順序としては、エネルギーによってまず身体は創造される。自我は身体の後です。ともに同じエネルギーによって創造されたものなのだから、自我が身体の機能を維持・発展させるように機能する。これは「順接」です。逆に、同じエネルギーによって創造されたにもかかわらず、自我が身体の機能を阻害するように機能する。こうなると「逆接」ですね。

「順接」になるか、あるいは「逆接」になるか。ここを左右するのが「ものがたり」(←平仮名表記を採用させてもらいます(^o^)/)ですが、それはエネルギーにとって、環境が「順接」であるか「逆接」であるかによって決定づけられる――というのが、僕の仮説です。

繰り返しますが、エネルギーには創造と破壊のふたつの機能があります。子どものエネルギーが、子どもを含む共同体を活性化させることもあれば、何らかの破壊をもたらすこともあります。破壊される「何らか」というのは、共同体の立場からみれば秩序であり、共同体メンバーからみれば自我でしょう。秩序とは自我の外部拡張&共同幻想ですよね。

子どもにとって環境が「順接」になるか「逆接」になるかは、メンバーの「順接」「逆接」による。「逆接」の者は、子どものエネルギーを破壊的に感じる。もっとも、すべてを破壊的に感じるわけではない。だから、破壊的に感じる部分と、活性化を感じる部分との選別が行われる。これが「教育」です。「教育」は条件付けでもあって、「破壊的でなければあなたを愛するけれど、そうでなければ愛さない」という振る舞いになります。

「愛さない」というメンバー(大人)の態度は、子どもにとっては生存に関わります。なので子どもは、エネルギー放出を自己抑制するようになる。自己抑制するように学習した(深層の)記憶が「ものがたり」でしょう。


成熟した大人には上手なエネルギー放出が可能でしょう。相手がこちらのエネルギー放出を破壊的に感じたなら、それを工夫して、破壊的に感じなくさせるやり方を探求することができる。この能力が、一般にいう“コミュニケーション能力”だろうと思います。

が、残念ながら、未成熟な子どもには不可能です。自己抑制しか手段がない。そうして「逆接」を学習し自我を形成した子どもは、成長しても高いコミュニケーション能力を獲得することは、まず、ありません。コミュニケーションの不調は、「逆接」の者にとっては、自己抑制の契機だから。

この場合は、自我というより身体と言った方がいいでしょうね。「逆接」な身体にとってコミュニケーションの不調は、そのままダイレクトに自己抑制になってしまう。この状態が「自己欺瞞」というやつで、「ありのまま」ではないということです。

コミュニケーションの不調を、さらなるコミュニケーションへの契機とすることができる能力は、「順接」な「ものがたり」の裏打ちがないと困難です。そうした裏打ちなしの(俗に言う)高スペックな人間は、(共感でなく)同感できる事実に依ってコミュニケーションをしようとする。客観的事実、規則、そういったものを根拠し、それらに沿って正しいか否かが基準になります。身体の作動など眼中にありません。

それは当然のことですよね。自身の身体のエネルギー放出を抑圧的にしか扱えない人間は、他者の身体だって抑圧的にしか扱えるはずがありません。といって、エネルギーは抑圧しきれるはずもなく、歪んだ形で放出されることになる。それは他者に向ければ暴力になるし、自己に向けば自己破壊になります。

どちらに向きがちになるかは、その者の社会的地位によって大方決まります。誰だって自己破壊は嫌です。他者に向けるのだって嫌だけど、どちらも選択できる立場にあるならば、他者に向けることを選択するのが自然というものでしょう。

ゆえに、「逆接」の人間は権力を欲する。権力に支配された社会からは、「逆接」が再生産されていくことになる。どうしようもない悪循環です。


もとより、僕は悪循環の中に生まれ落ちた人間です。だから、そうした悪循環から身を引き離すこと自体がすでに〈生きる〉ことになります。それでも飽き足らず、悪循環を見据えたいと思っていますが、これだって〈生きる〉ことに他ならない。ただ、それだけのことです。

>「裡なる要求」というのは、エネルギーのある種の偏った湧出です。

ここの「ある種の偏った」という部分について。

これが具体的に体癖を差すことは想像します。
体癖が僕が主張するところの「順接/逆接」と関連するものなのか、あるいはまったく関係がないのか、そこは僕にはまったくわかりません。

僕の理解では、「偏り」を生むのは身体でしょう。
「順接/逆接」も「偏り」と言うことができる。そのように言って、それも「身体の偏り」とするならば、体癖との(言葉上の)区別がつけづらい。そのあたりが、「順接/逆接」を自我の側へと分類したいとする動機付けのひとつかもしれません。

僕にとっては「順接/逆接」は、明らかなものなんです。いろいろなバリエーション・グラデーションがあって、その精確な位置づけができるところまでは至っていないけれども、大方のところは、一目見ればすぐにわかります。観察可能な客観的事実なんです。

今の仕事は、そういう観察にはうってつけの場所です。その観察結果をここで語ってみたいと思ってはいるのですけど、社会的に差し支えがあって、控えています。立場的に弱い人に迷惑がかかるので、今は踏み切れない。いずれは語るつもりですけど。

(だから、映画や小説で語るという代償行為をしているとも言えます)


「わかること」と「わからないこと」を混同して論理構築はしたくありません(といっても、してしまっていると思いますけど...(^_^;)

それに、身体的な(体癖的な)偏りは、身体の観察者としてしか見出しえないのではないか、と思ってもいます。身体というものの具体的な性質上、そうならざるを得ないはず。

対して「順接/逆節」は、自己(自我)の観察から見出し得る。現に、僕がそうだから。それは、言葉だけでも伝え得る可能性があるということだと考えています。

何となく分かってきました♪

あ、「ものがたり」を平仮名表記で使われる場合は、それは
=「身体(身心)を経由して」外界と接触し・やりとりした結果、これまでのやりとりの経緯として更新し続けられている「現在の身心」
という意味合いですので、そこのところはよろしくどうぞ。
つまり、その「ものがたり」には幸せなものも不幸せなものも いろいろあり、ということです。

元々の「ダイレクトな接続(順接)を阻害するものだとして把握している」ものとして使う場合は、是非「物語」の方でお願いします。
じゃないと、またごっちゃになっちゃうので。 (^o^;)

僕はご存じのように、
動きあれば、感受(性)あり
動きと感受(性)あれば、主体あり
ということで、自我の手前にすでに主体があるということを想定しているので、話が噛むかどうか分からないのですが。

「順接・逆接」というのは、身体と自我(外部拡張&共同幻想 含む)との接続のしかたのことなのですね。
了解しました。

僕は、エネルギーがある種の偏りを見せるがために個体としてこの世に発生するのでは?と思っていて、ですから個々の「生きている」自体が すでにある種のエネルギーの偏り現象そのものなんだろうと思ってます。
で、それが、野口整体では「体癖的な動きや感受性の偏り」として観察されているのだろう・・と思っている。

ですから、そもそものエネルギーの時点で すでにある種の偏りがある・・と僕は思っています。

そのある種のエネルギーの偏り現象と環境との出会い・やりとりの中で身体は育ってきますから、身体自体は今まで現在のその結果の「標本」みたいなものであると同時に、「裡なる要求」の湧出がそこを経由して表出されますから、その現在の「標本」によって「裡なる要求」は加工されて出てくることになります。
つまり、元々ある種の偏りのあるエネルギーが「ものがたり」を通して さらに加工されて表出してくる。

そして環境とのやりとりが行なわれて、それが「現在の身心」にまたフィードバックされて 「標本」が更新されます。
・・ということが、常に行なわれているということですね。

細かいレベルを含めて、となると常に流動的で、なおかつある範囲での動的平衡性を保ちながら存在することになります。
おそらくそのゆらぎにすべてを任せていることは、けっこうしんどいことなのではないかと思うんです(仮)。
それで自我なるものが、都合のよいところを選りどりながら、ある種の固定をすることになった。
いや、分からない。
自我なるものが固定するから、常なるゆらぎにすべてを任せることがしんどいと感じるのかもしれない。
別にしんどいわけではなくて、いろいろと都合が悪かったのかもしれない。。。

先に(仮)と付けたのは、この想像自体がとんちんかんかもしれないからです。 (^_^;)

(つづき)

いづれにしても、愚慫さんが言うように外部に拡張し 共同の幻想を持ち得るものとして、何らかの拍子に 人間は自我を獲得・発達させたわけですよね。

言いたかったのは、体癖的な感受性の傾向うんぬん・・のところから見てみると、そもそものエネルギーのところで、そもそも「エネルギー放出を自己抑制的に行なう」という偏りがあり得るよ、ということです。
それが身体を常に形づくっていきますから、環境(自我の外部拡張&共同幻想)との接触・やりとりがとても幸せなものの連続でも、その人の場合は「エネルギー放出が自己抑制的に行なわれる」恰好となるわけです。

僕には、この「元々なのか? 後づけなのか?」はたまたその両方によって形づくられたのか、そのへんの削ぎ分けがおそらく必要になってくると思われるんです。

愚慫さんの言う「順接/逆接」が、自己(自我)の観察から見出し得る、というのは、それはそうなのだろうと思います。
そのときに、でもこの「元々なのか? 後づけなのか?、はたまたその両方によって形づくられたのか?」問題は、やっぱり出てくるように思えます。
それが一つ。

それから、「言葉だけでも伝え得る」ことが出来たとして、それを伝えてどうするのか? という問題。
不特定多数に一般論として・・というのは別です。
これは研究発表みたいなものですから、当然“あり”だと思います。

その上で、それを特定の個人にどうするのか?
「あなたは これこれこんなだよ」と伝えるのか?
それを伝えてどうするのか?
そういう問題も、その先に出てくると思います。
このへんが、愚慫さんが解せない「逆接に関心を持たない」問題と 絡んでくるかと思われ。

これは批判とか批評とかではなくて、素直な感想です。
視野に入れておいてもらえると嬉しいです。

そもそものエネルギーの時点ですでにある種の偏りがある――

ええ、その通りだと思います。

いささか話は飛びますけど、現在の宇宙論もそういった考え方をしているらしい。
私たちの宇宙には重力・電磁力・強い力・弱い力の4つの力が存在しているとされます。これらの“力”はエネルギーですが、エネルギーそのものというより、エネルギーの流通経路といった考え方をする。

例えていえば、次のような感じらしい。
コップ一杯に水がみたされている。表面張力で盛り上がっている。そこに、一滴、一滴、さらに水を増やしていく。そうすると、どこかの時点で何処かに向かって水が流れ出す。その「何処か」は事前にはわからないけど、一端、流れ出す場所が決まると、そこがエネルギー流通の経路になる。

原初の宇宙は、いままさに水が流れ出ようとするコップ。そこから偶然、4つの流通経路が生じた。この「偶然」こそが「偏り」ですね。可能性としてはこの4つでなくてもよかった。だけど、偶然が決すれば、もう覆らない。時間的には不可逆である。

こういう話がダイレクトに生命や人間の話に繋がるとは思っていません。あくまでアナロジー。だけど、アナロジーで十分なんじゃないか、と思っています。いつの日かダイレクトに繋がるのかもしれませんが、明日、明後日ではないことは間違いない。だったら、すべての理解は所詮、方便でしょう。方便ならば、アナロジーで十分だろうと思いますが、いかがでしょう?


>元々ある種の偏りのあるエネルギーが「ものがたり」を通して さらに加工されて表出してくる。

その「ストーリー」には同意です。

>おそらくそのゆらぎにすべてを任せていることは、けっこうしんどいことなのではないかと思うんです(仮)

なるほど。その「しんどいこと」が野口晴哉師の愉氣なんでしょうか。だとしたら、僕にも腑に落ちます。

アキラさんの仮説をとんちんかんだとは、僕は、思いません。同じようなことを考えています。ゆらぎにすべてを任せていることは、しんどい。そのことは僕にとっては、動かしがたい事実です。では、なぜしんどいのか。ここの追究をせずにはいられない。僕の「偏り」なんでしょうね。


ゆらぎに任せることがしんどくなってくる原因が「物語」だと僕は考えています。多かれ少なかれ、「逆接」は誰にでもあります。本当は一体のはずの心身が分裂するのも、人間に“心”という名の内面が生じるのも、「逆接」ゆえ。

コミュニケーションは常に失敗を孕んでいます。失敗は「逆接」を生みますが、同時に生命には「裡なる欲求」から生じる「ものがたり」――僕の言葉で言えば「順接」――への志向がある。「順接」志向のエネルギーが「逆接」を上回っているなら、形成される「物語」は「順接」になる。だけど、「逆説」が上回っているなら、「物語」も「逆接」になる。

過大なストレスを与えられた身体は、過敏⇒鈍重という経過を辿って麻痺に至る――というのは、以前、アキラさんから伺った話です。「逆接」によって生みだされる心は、「裡なる欲求」発の「ものがたり」志向とのせめぎ合いの中で一定の「かたち(形)らしきもの」を保ちますが(この「かたりらしきもの」が〈魂〉というものでしょう)、その心が「逆接」に負けて過敏になり、鈍重になり、やがて麻痺する。心をなくしてしまう状態。

フェリックス・ガダリとジル・ドゥルーズ共著の『アンチ・オイディプス』という本では、資本主義社会で生きている人間は皆、ある種の統合失調症にかかっていると指摘しています。僕は、これは「アタリ」だと思うんです。鈍重の状態です。みんなが鈍重だから、それが普通だと思い込んでいて、だから過敏になることを恐れる。しんどいと感じる。

このしんどさは、徐々に浸透してきたものだと僕は考えています。つまり“茹で蛙”です。

ヒトのどうしようもない社会性からすれば、みんなで鈍重であることは安心でしょう。でも、どこか居心地は悪い。なので、リフレッシュを求めるけど、安心は手放せないので鈍重のままでいようとする。鈍重で痛いままの人間は、例えば野口整体に接したとしても、それを「リフレッシュのための手段としてしか用いない――

鈍重から過敏を経由して健全に至るには、風邪を引くのと同様の経過を辿るわけです。その、「風邪を引くこと」の価値が、僕に言わせれば【怨】の効用ということになります。


ちょっと、話が行きすぎました。


>そもそも「エネルギー放出を自己抑制的に行なう」という偏りがあり得るよ、ということです。

あり得る、というのはわかります。とはいうものの、常に自己抑制的というわけではないはずです。自己抑制的な傾向を持っている人、具体的には偶数体癖の人がそうなのかと想像しますが、それにしたって、抑制的でありつつも放出とのバランスは、本来ならば(「順接」であるなら)取ることができるはずだと思う。

自律にも、他律が内面化した【自律】と、内発性による〈自律〉とあるわけでしょう。この〈自律〉と【自律】の嗅ぎ分けが大切。それが

>この「元々なのか? 後づけなのか?」はたまたその両方によって形づくられたのか、そのへんの削ぎ分けがおそらく必要になってくる

ということなのだと。そして、僕は、その嗅ぎ分けのマーカーが明確に感知できると思っている。それが【怨】と呼んでいるやつであって、そこが明確に見えれば、社会の仕組みも、その側面から見えてくる。【怨】がどのように作用して、【怨】を再生産しているかが理解、記述できると思っています。

――「ものがたり」と「物語」をどう書き分けるかは未達成の課題ですけど。



そのことにどのような効用があるのか という疑問は、僕にとっては、「風邪には効用なんかあるんですか?」 という問いに等しいものです。風邪の身体リセット効用を識っている者からすれば、そういう問いは、とても残念な問いですよね。「風邪を引くことは身体の健全な働きなんですよ」といったって、己が身体よりも薬を信頼してしまっている人には届かない。そういう現実を踏まえても、なお、「風邪には大きな効用があるんですよ」と言わずにはいられないわけでしょう。そこを趣味というか、使命というかは、言い方の問題に過ぎませんよね。

【怨】の感知は、僕にしかできない特殊能力では決してありません。わかろうと思いさえすれば、誰もがわかるものだと思っています。ただ、風邪よりも関知は難しいかもしれない。なぜなら、それが普通の状態だとみんなが思い込んでいるからです。

みんなが風邪を引いていて、それを普通だと思っている。普通だと思っているから、だれも治療をしようとは思わない。ただ、身体は重いので、やたらとエナジードリンクの類いを飲んでいる――。風邪を普通ではないと気がついている人間がそういった状況を見て、オレには関係ないと無関心を決め込んでいられるものでしょうか? 僕にはできません。誰も聞き入れてくれなくても、気分を害しても、「あなたは風邪を引いていますよ」「エナジードリンクなど必要ありませんよ」と伝えずにはいられません。

もちろん、僕が正しいという保証などどこにもありません。独りよがりに過ぎないかもしれません。たとえそうであっても「見えているもの」は見えていると言う。そのことが生きている証なのですから。孤立に至っても構わない。そこは「ゆらぎ」に任せるしかない、と思っています。

視野に入れておいてもらえると光栄です。

それからくどいようですが、平仮名表記の「ものがたり」について。
これは愚慫さんの言う「順接」「逆接」、あるいはその他の可能性(があるならば)などをすべて含んでいるニュアンスとしての「現在の身心」、という意味合いで使いたいです。
僕自身が今後も使っていく予感がするので、是非ここは心に留めておいてください
(・・と何度も書きたくなるということは、先のやり取りがけっこう僕には負担だったと思われます。。)

しかし、僕は自我を「外部に拡張し 共同の幻想を持ち得るもの」であるという前提であまり考えたことがなかったのですが、言われて見るとその通りですね。
そういう前提で自我を受けとっていると、自我の自我たる輪郭がよりハッキリしてくるように思いました。



「そのことにどのような効用があるのか」というような疑問は 僕は持っていません。
あるのは「それを特定の個人に伝えてどうするのか?」という疑問です。
「どうするのか?」です。

そこを踏まえた上で。
>「風邪を引くことは身体の健全な働きなんですよ」といったって、己が身体よりも薬を信頼してしまっている人には届かない。
<
これはその通りです。
で、その場合は、僕はその人には「風邪には大きな効用があるんですよ」とは敢えて言いません。
一般論としてはもちろん不特定多数に向けて言いますが、「その個人」については一概にはそうしません。
「みんなが風邪を引いていて、それを普通だと思っている」のなら、それはそれでしょうがないかな?と思います。
「伝えずにはいられない」気持ちにはならない。

「誰も聞き入れてくれなくても、気分を害しても、伝えずにはいられません」と言える愚慫さんって、かなり宗教者ですよね。
僕はそう思いました。
確かにそれは愚慫さんの「ゆらぎ」なのだろうと思います。

これは僕が思っている「逆接に関心を持たない」問題とは少々ズレますが、でも ここにすでに相当の相違があるということですね。

僕が思っていた「逆接に関心を持たない」問題というのは、「一定の正解というのは、つぎの問いを阻むという性質があります」ということに、おそらくかなり近いものです。
あるラベリングをすると、それを納得した瞬間から、人というのは それ以外の可能性を無意識に排除しようとし始める、という事実。
そのラベリングに安住しようとし始める事実。
提示する側も、受けとる側も。
その意味で、体癖うんぬん・・などといったことも、自分の中で慎重に扱わないと 相当な過ちをおかしてしまう。

それにまつわるいろいろな経験を鑑みて、結局「逆接に関心を持たない」ことになる・・・ように思っています。
個々のケースの把握はします。するだろうと思います、どの分野でも。
けれど、それをフィーチャーすることはしない。
ということなんだと思います。

先のやりとりは、僕にとってもしんどいものでした。まだ引きずっています。
これもまた「ゆらぎ」なのでしょう...。

アキラさんの言葉についての要望は留意します。
でも、ごめんなさい、あくまで「留意」としか約束できません。
「ゆらぎ」がこの先どう振れるかは、僕にもわかりません。

要望を取り決めとして固定してしまうと、その分、「ゆらぎ」は小さくなるでしょう。
これはラベリングと同じです。
僕はそこに安住するつもりはないし、安住しようとする態度を批判することになると思います。


>あるのは「それを特定の個人に伝えてどうするのか?」という疑問です。
>「どうするのか?」です。

ああ、そういうことでしたか。

「どうするのか?」という問いは、僕自身にはあっても、他人に対してはありません。
過去はありましたが、もたないことにすると決めました。
「伝える」までが僕の領域で、その先はその人の領域です。

僕だって、好き好んで和を乱したいわけではありません。
だから、伝わりそうな人、いえ、伝えたい人に伝える。
その結果が、不愉快であっても、仕方がない。それだけのことです。

マーカーが見える、見えないの話をしました。まるで徳江さんだと自分でも思ったんですが(^_^;)
それ以上でしょうね。

だれにでも「見える」と思っている。だから「見えない」のは「見ようとしない」という結論になる。目を逸らしているということになる。ここまで、伝えます。

これはラベリングに安住しないということと、同じです。
自身に向けても、他者に向けても、同じ。
だけど、そこまで。それ以上は、暴力になる。

この態度は、ご指摘のように宗教的なのでしょう。
そう指摘されて、かえって確信を持ちました。
「自分教」ですね(笑)

何よりも先ず、生きていることが先にある――
この宗教的出発点からの、当然の帰結だと思います。
もちろん〈生きている〉のは、自分だけではない。
ありとあらゆるものが〈生きている〉。
山川草木悉皆成仏です。ほんと、宗教的だ...(^_^;)


「オマエこそ、見ようとしていないのだ!」という反論はあるでしょう。大いに結構です。望むところです。これもまた、その人の「自分教」でしょう。ならば、それでいい。


暴力の源泉は、自我です。自我の拡張が暴力です。
共同幻想は共同することで暴力が隠蔽される。
『監獄の誕生』です。

とはいえ、人間が自我を持つことはもはや避けられない。だから「自我の輪郭」はしっかり把握しておかなければならない。
自我の輪郭を明瞭にすること。それは「同」を排することです。

「同」は弱さです。
人間は確かにどうしようもなく社会的な生き物ですが、社会的であることが先ではありません。他の生き物と同じく、個別に〈生きている〉ことが先です。ここを腹に据えることができないから、つまり弱いから社会に依存したくなる。社会への依存が「同」です。

だけど、〈いのち〉は、そういうのよりも、ちょっとだけ、強いものだと思います。

大切なのは、ちょっとだけ、です。
この「ちょっと」を見失うと、自我の輪郭も見失ってしまう。すると暴力が生まれる。


「ちょっと」の感覚は、アキラさんを介して野口整体から教わったものだと思っています。樵をやっている時分からなんとなく識ってはいたけど、確信に至ったのは野口整体があったからです。ちょっと」の感覚は、生でしかわからない。思考ではわからないものです。
だから、僕にとってアキラさんは「伝えたい人」です。

僕の伝えようとする態度が暴力的だったのかは、わかりません。
「足を踏まれている」と言われたということは、「ちょっと」ではなかったということなのでしょうけど、そこの微妙な感覚はつかみきれていません。

その足は、僕が踏み込んで踏んだのか、アキラさんが踏み出していたから踏むことになったのか。本当に微妙なところだと思っています。もはや「ゆらぎ」の範囲内なのでは、と。まだ、確信はありませんが。

In Between

私が横から口を挟むことでもないと思っていたのでずっと黙っていたのですけど。

>愚慫さん

アキラさんは、言葉の奪い合いにならないよう互いに「折り合い」を付けましょうよと提案しているのだと思います。
「取り決め」という受け取りは違うのではないですか。
どんな結論を出そうが愚慫さんの自由です。でも、第三者の私から見て、アキラさんは愚慫さんを「切ろう」と思えばいつでも縁を切れる人だと推測しています。そういう潔さを持った人だと私は見る。
noteで毒多さんと愚慫さんが会話していた内容も、私見ましたよ。アレ、アキラさんについてかなり酷いことを書いていたと私は感じました。
アキラさんは人格の出来た人だと思う。愚慫さんに一貫して譲歩してますもん。

この際ですのでついでに書きますが、かつて《毒多さんブログ》でのメゾフォルテさんに対する愚慫さんの態度を見て、感じていたことがあります。愚慫さんは他人に対しては決定的に「鈍い」「冷たい」ところがあります。
そして自身のことについては「脆い」。実は私も愚慫さんと対話する時その辺かなり気を付けています。これは言わない、あれは言わないと禁則けっこうかけてます。
だってアキラさんとの一連のやり取りくらいで「僕にとってもしんどいものでした。まだ引きずっています」となるくらいですから、怖くて下手なことは書けません。メンタルが脆い人だと解ってるから。

別に私に気を遣わせるなとかそういう話ではないです。
私はここではオマケみたいな存在ですから。でもアキラさんは大事にした方が良いと私は思いますよ。
こういう優しい人はあまりいないですからね。
思索も大事ですけれど、目の前の生身の人間はもっと大事でしょう。

残酷さに慣れる訓練さん

ご意見、ありがとうございます。

>言葉の奪い合いにならないよう互いに「折り合い」を付けましょう

ええ、そうだと思います。それがアキラさんの優しさから来ているのも、理解しているつもりです。

しかし、そういうことではないんです。言葉の奪い合いでいいんじゃないか、と僕は言いたい。なぜ、奪い合ってはいけないのか? というより、奪えるものなのか? 

僕は奪えないものだと思っています。奪えないからこそ生まれる「折り合い」もある。
それこそが「共感」だと思っています。
そこを事前に規制するのは、それは〈いのち〉に対しての弱さなんだと思っている。
だから「取り決め」になる。〈いのち〉に対しての「取り決め」です。


僕が脆いというのは、そうです。別に隠すつもりはありませんし、隠せるものだとも思っていません。けど、ちょっと誤解されているようにも感じます。

「しんどいこと」は、決して嫌なことではないんです。いえ、嫌な「しんどい」と、そうでない「しんどい」とがある。嫌な「しんどい」だったら、僕の方から逃げています。

そして「しんどい」とわかっていながら、引き下がることをしない。それは、ある時までは「脆さ」の隠蔽でしたが、今はそうだとは思っていません。

毒多さんのところで「統合」が強いと自覚していると書きましたよね。「統合の強さ」は「脆さ」の裏返しです。たぶん、僕がcalibreさんのような体質だとしたら、おそらくは「脆さ」に耐えられずに崩壊していると思います。そういった意味では「統合の強さ」もまた強いられたもの。ですが、それはもはや他者からのものではなく、自分がそうしたいからしている。僕自身の「欲求」に即したものです。

それはあるいは、体癖的な偏りがあるのかもしれないし、また発達障害(←この表記は間違いだと思いますが)に起因するものかもしれませんが、そういうことも含めて、全部、僕の「欲求」であることに変わりはありません。
(これはアキラさんの言うところの「ものがたり」だということでしょう。)

そうでないと「逆接」などということは、見据ていられるものではありません。
「脆さ」は「逆接」の者が抱える宿命ですから。


優しい人は本当に大切です。でもね、それでは足りないんですよ、残念ながら。世界はそれほど優しくないから。

その「不足」は、もしかしたら優しい人にはわからないことなのかもしれません。いえ、一時は、本当にそう思っていたんです。今でもその疑念が晴れたわけではない。まだわからない。「しんどい」のは、その思い込みが原因です。理解を欲する心ですね。

けれど、不足は不足です。その不足を埋めないと、優しい人なしでは残酷な世界に立ち向かっていけなくなる。それが見えてしまうから、例えば『さとにきたらええやん』を残念だと感じてしまう。優しい人の映画だけど、やっぱり足りない映画です。僕と同じ「逆接」の子どもの姿を見て、そう感じざるをえない。


それと「オマケ」はやめてください。その手の事前の規制を、僕は受け付けません。僕は残酷さに慣れる訓練さんをそんなふうに思ったことは、一度もありません。

「しんどい」のはOKです。そういうなら「禁則」を外すとなってくれるのが、僕の希望です。
それで、嫌な「しんどさ」になったのなら、こちらから遠慮無く切らせてもらいます。
こういう態度は決定的に冷たいと感じられるのかもしれませんが、僕も残酷な世界の一部ですから。

性善は全能を意味するわけではない。だからこそ「ゆらぎ」も生じるわけで。

僕が言葉についての要望をしているのは、それをされるととてもイヤだからです。
先のときもそれがあったので、僕自身にも負担になってしまっているようです。

「よっしゃ分かった、じゃあ そうするよ」とお互いに取り決める・・というのは、自我のうまい使いようというものじゃないかと思うんですけどね。
まっとうな約束って、そういうもんじゃないんですか?
またこれが 契約がなんたらかんたら・・という話になっちゃうのかな。
愚慫さんの自己保存のためだけに これを受け入れてもらえないのならば、僕としては愚慫さんは信用ならない人(都合がいいとパクっちゃうかもしれない人)と見なさざるを得なくなります。
僕の方とて、それがとてもイヤだからです。

そう見なせば、僕からはもちろん接触しないようにするでしょうし、接触してきても一定程度の距離が常に保たれるように腐心することになるでしょう。
それはしょうがないことですね。
愚慫さんが自己保存のことだけを最優先するなら、僕も愚慫さんに対してはそのようにして自己防衛するしかないですから。

ですから、敢えてお願いしているわけです。
しかもなるだけ強制的になってしまわないように、「是非ここは心に留めておいてください」という形で。
ゆくゆく反古にされてしまうのであれば、とても残念です。


まぁそれはともかく。
「どうするのか?」うんぬんに関しては、愚慫さんとよく似た性格の整体の仲間がいますよ。 (^^)
だから何となく分かります。

僕自身は、自分がどこかで必要かな?と感じてはいないことを他人から積極的に提示されること自体、迷惑なことだと感じるんです。
だから相手にもそういうセールス・布教はしない。
また、だからこそ、こちらから提示する場合には、その時点でこちらにその責任を感じるんです。
だから、提示をすることと、その先「どうするのか?」が常にセットになっている。
僕はそういう感覚なんです。
それでああいう質問の形になったんですね。(と、今 分かりました)

だから、愚慫さんとは違いますね。 (^^)
愚慫さんが自分のことを言っている その「やり方」は、僕のような感覚の人間には迷惑以外の何ものでもない・・ということになりますね。
だからか・・・って感じですが。 (^_^;)
これは批判で言っているわけではありません。
単純に、感覚の違いでこういう齟齬が生まれるんだ・・という(こちらの)確認を書いています。


>「同」は弱さです。
人間は確かにどうしようもなく社会的な生き物ですが、社会的であることが先ではありません。他の生き物と同じく、個別に〈生きている〉ことが先です。ここを腹に据えることができないから、つまり弱いから社会に依存したくなる。社会への依存が「同」です。
<
これはまったくその通りだと思います。
で、僕は、「いいじゃないか、それでも」と思うんです。
「そんな強い人ばかりじゃないよ」と。

>大切なのは、ちょっとだけ、です。
<
これもまったくその通りだと思います。
問題は「誰の感覚に対しての“ちょっとだけ”なのか」ということだろうと思います。

上のことを考えると、愚慫さんのやり方自体が、愚慫さんにとっては「ちょっとだけ」でも、僕にとっては常にすでに「暴力的だ」ということになっちゃいますね。 (^_^;)

・残酷さに慣れる訓練さん

コメントされていたのですね。 (^^)
どうもありがとうございます。 m(_ _)m
かたじけない。

アキラさんがイヤだというのは、よくわかっているつもりです。
だから、今回は、できる限り要望に添おうとは思っています。

自我の使い方として、というのも、よくわかります。
そうやって約束して、仮にそれが守れなくなったときには「ゴメンナサイ」。
アキラさんがそれで許してくれないとは思いません。
だから、そういう選択もアリと思わないではない。

でも、そういう選択を思い浮かべている時点で、もう、僕はイヤなんですよ。
不誠実だと思ってしまいます。
黙っていればわからないでしょうけど、騙したくないし、かといって、そういう選択を思い浮かべてしまうこともやめられません。
だから、もう、前もってゴメンナサイとするしかない。

我ながら厄介だとは思いますが...、選択肢が実はないんです。だから、ゴメンナサイ。

だけど、もう一歩、踏み込んで考えてみるならば、アキラさんのイヤもまた自己保存でしょう。言葉の優先権を主張することで、自己保存を図ろうとしている。

そのことを否定はしませんが、でも、自己保存という点においては、あくまで対等だと思います。



>で、僕は、「いいじゃないか、それでも」と思うんです。
「そんな強い人ばかりじゃないよ」と。

ええ、ええ、そうでしょうとも。それはとてもよくわかります。

現実のこととしていうなら、そこは適切な妥協点で、適切な自我の使い方だと思います。
そのことを否定するつもりはないんです。

ただねぇ、やっぱりそれでは「逆接」の再生産は止らない。
それが僕にはとても悲しいくて、やりきれない。

罪の意識なんでしょうね。たぶん。

「逆接」は、自ら望んでそうなるわけではない。だから、それが再生産されてしまうのも、仕方がないといえば、そう言ってしまえるのかもしれません。だけど、それはできない。そこに「罪」を感じてしまうんです。

これが何なのか、よくわかりません。だけど、僕自身と具体的な他者の間に生まれる「なにものか」であることには間違いがない。

そうなると、もう、アキラさん的自我の適切な使い方が、抑圧になってしまうんです。再生産を認めることになってしまう。
これまた厄介な話。


>問題は「誰の感覚に対しての“ちょっとだけ”なのか」ということだろうと思います。

ええ、これも同意です。
自分で文章にしていて気がつきましたが、僕はアキラさんに対しては、「罪の意識の発動」みたいなのはありません。だとすると、「ちょっとだけ」も、使い方にバリエーションがある可能性が見えてきますね...、というか、ない方がおかしいということになりますか。

そういうことには今まで気がつかなかったです。
ありがとう。

いままでの対話で感じたことを。

アキラさんも、それから残酷さになれる訓練さんもそうですが、規則というものに「信」をおいておられるのでしょうね。

言葉の優先権などといったものを主張する意識は、アキラさんにしてもまったくないと推測します。だけど、僕には、それが自然と出てくる。それは規則に対して不信を抱いているから。

「ものがたり」でいけば、そうやって順番に規則ができあがっていくことに何の違和感もないでしょう。それがそのまま行けば「順接」になる。

ところが「逆接」だと、そうはいきません。自然に順番にできあがったはずの規則によって「逆接」がもたらされたわけですから、そこに素直に「信」をおけるはずなどないんです。

だから、結局、信をおけるのは〈いのち〉そのものか、あるいは〈いのち〉を生んだと想定される存在か、ということになる。それ以外は、有用性を認めないわけではないけれども、それはあくまで有用性という限定においてであって、それ以上ではない。

ですから、次のエントリーで引用したような議論を援用しつつ、その限界を提示するようなものになってしまう。あれは「人殺し」を有用性でもって解釈したものですし、その批判も厳密にではないにけれども、しています。

規則に「信」をおけないということは、とても厄介なことです。
しかしながら、「信」が崩れつつある現代の社会においては、有用性はあると思います。

では、その有用性の根拠は何なのかというと、やはり「自我」でしょう。「自我の使い方」という課題になります。相手に合わせて自我を使い分ける――それはもはや「自我」と呼ぶにふさわしいかどうかはわかりませんが――。

>やっぱりそれでは「逆接」の再生産は止らない。
<
>アキラさん的自我の適切な使い方が・・・・再生産を認めることになってしまう。
<
えぇ、その通りだと思います。
厄介な話でも何でもありません。
僕はそれが“でたらめな「世界」”だと思ってます。
というのも、現実的には 人間が人間である以上は、おそらくそれは止まらないことだと感じられるからです。

だからこそ、そういう“でたらめな「世界」”の中で、長年「こどもの里」のような活動を続けている人たちは、スゴいことだなと思うわけです。
言うだけで終わり・・じゃないんですから。
愚慫さんの言っていた「ここがダメ、あそこがダメ」といったことなど、彼らは百も二百も承知で、そこから8周も9周もまわって「そこ」でやっているんだろうな、ということが僕には感じられます。

女の子のことを愚慫さんがコメントしてましたけど、ああいうことも百も二百も承知で よくよく分かって ああいう形でやっていると思う。
(監督さんが二百も承知かは疑問ですが、少なくとも百は承知だと思います。
 その意味で、僕はあの映画を「いい映画」とか「いい話」とかというところで見る観点がまったくありませんでした。)
それは彼らが「行なう者」だからだと、僕は感じています。
ほかにもっとやりようがあるなら、とっくにやっていると思う。
それは観ていて よく分かる。

おそらくそれは、上記のような把握の違いの差なのだと思います。

そういう再生産を愚慫さんが止めることができる・・と考えているのならば、僕としては見ものです。
しかも伝えるだけ(言うだけ)で それができる・・と考えているのならば、なおさら見ものです。
こちらから提示する場合に、その時点でこちらにその責任を感じてしまうような僕の感覚からすると、伝えるだけ(言うだけ)で しかも伝えたことによる影響に責任を感じずに、「あとはあなたの問題(領域)です」としてしまえるのであれば、お気楽でいいよなぁ・・とは思いますが、しかしそんな僕が考えもつかないような方法を、愚慫さんは(愚慫さんなら)やってのけてくれるかもしれない。

今後の愚慫さんの展開を、楽しみにしています。 (^^)

Shifting Gears

愚慫さんは素晴らしく頭の良い人で、その思索には興味深く示唆に富むところが多いです。
私は愚慫さんを尊敬していますよ。

愚慫さんにとって思索とは実存がかかっているものなのでしょう。ブログに書かれることは実存をかけた心身の営みの経過報告であり、その時点での発芽であり、開花であり、実りなのだと私は見ています。そこは尊重していますし、干渉するつもりもない。
人間観や生物観に違いがあれば、私は違うと感じますと言いますけど、他者の人間観・生物観はその人のものなのでそれはそれで良い。言葉にどんな意味を発見し、どんな実感を込めるかも然りです。それがその人の中で完結した内的な宇宙である限りは。
受け手は共感できる「面」には共感するだろうし、そうでない「面」は捨て置く。留保する。私もそうです。

しかし、愚慫さんはアキラさんと対話しているのでしょう。そして対話から感受したものを己の思索に導入している。
対話を通したリアルタイムの思索により、思想を生み出している。同時に対話の相手に発信を行ってもいる。
対話に依拠している。
いま、その対話の相手が、対話の空間を成り立たせるための条件を整えたいと発信してきているわけです。
それも愚慫さんの言葉を奪おうとか、思索を妨げたり、呪いをかけるためではない。
基本、対話の可能性を前提とした上での要望です。「工夫」の範疇に収まるような提言ですよ。
「工夫」によって己の思索に対する誠実さが歪むと危惧し、その結果肝心の対話の相手を失っても構わないのですか?

「工夫」は真摯な営みではないのでしょうか。「しんどい」とかの問題ではないですよ、これは。

それから、私が「禁則」を外さないのにも理由があります。
どんなタイミングでどんな言葉を発することが、愚慫さんにとって深刻なダメージを生むかが読み切れないからです。特にネットのやり取りは見えない部分が多すぎます。愚慫さんは自身の過去を幾つかエントリで記述されていて、これこれに関する言及は危ないなという見当は付きますので、その辺は避けています。何かあっても責任とれませんし。
私、言葉で人を病院送りにしたことがありますからね。しかも多分、複数人を。後日、人づてに聞いたので正確な人数は判らないですけど。言葉は怖いですよ。特にそれを発するタイミングと相手の(精神)状態次第では、凄まじい破壊力を発揮します。
(嫌な“しんどい”を)相手が切断する前に、そういう深刻な打撃が届いてしまうのですよ。

世界がでたらめ? アキラさん、それは本当にそう思っているのですか?
まさか、そんな言葉をアキラさんから投げかけられるとは、思ってもいませんでした。

デタラメな世界に、なぜ愉氣のような現象が生じるのでしょう?
愉氣もまた、デタラメな現象にしか過ぎないのでしょうか?

何よりも先ず先に「生きている」ということがある。
そんな言葉も、世界をでたらめだと言ってしまったら、何の意味もなくなってしまうじゃないですか? でたらめな世界のどこに「信」を置くことができるというのですか?

人間が作った社会がでたらめだというのなら、まだわかります。
おそらくは、言い間違えたのだと思います。そうですよね?

仮に世界がでたらめだとしたら。
それは、僕のような人間にとっては福音です。
罪から解き放ってくれます。
でたらめな世界に、罪などあり得ませんからね。


病に苦しむ人が、世界をでたらめだということにしたいというのであれば、理解できます。

アキラさん、僕と対話することが、そんなに苦しいのであるなら、どうぞ、すっぱり断ち切ってください。
それが残念なことですけど、「世界はでたらめ」などという言葉を投げつけられるより、よほどいい。


でたらめなのは社会だとしても、それは違います。

世界は美しい。人間は世界の一部でアリ、その世界から社会も生まれた。なのに社会はでたらめに見えてしまう。なぜか。「逆接」だからです。

だから「逆接」が見えれば、美しい社会も見える。

それは確かに現実的ではないかもしれません。
美しい社会が見えたとしても、それは幻想にしか過ぎません。

だけど、人間には幻想を現実に「変換」する能力がある。
文明というのは、そうした「変換」に他なりません。

人間の文明にとって、言葉は必須の要素です。
言葉の成立なしに、文明はありえない。
その文明社会がでたらめに見える。
ということは、言葉が何らかの誤動作をしているということです。

言葉の誤動作であるなら、それは記述できるはずです。
記述できるなら、理解できるはず。
理解できたなら、人間には幻想を現実に変換する能力があるのだから、それを為すでしょう。

これは僕の「信」です。
本当に出来るかどうかなど、わかりません。
わからないけど、できると言う。
それを言うことが、「生きていること」で結びついている世界と人間への信頼の証だから。


誓って言うというのは、変ですが、僕が、「逆接」の再生産を止めるなどということはできません。僕にできるのは、僕自身の「逆接」をパッチを当て、なんとか「順接」に再編集することだけです。その再編集作業の過程で見える風景を綴るだけ。

それ以上のことは、僕にはできません。それ以上のことが出来るなら、それこそ世界はでたらめです。美しい世界だからこそ、それは不可能。

「再編集」が僕にできるなら、他の者にもできる。これもまた「信」です。そういう「信」が広がって欲しい。これは願いです。


でたらめに見える世界のなかで、でたらめに抗って、懸命に奉仕している人に「呪い」をかけるような意図は、僕にはありません。その人たちが抗っている「呪い」「逆接」を見つめるだけです。


というようなわけなので、残念ですが、アキラさんの期待に応えることはできません。僕は僕の出来ることをするだけです。

・残酷さに耐える訓練さん

ご心配、痛み入ります。

お言葉はとてもありがたいのですけど、事態は、ご指摘よりもう少し先へ行ってしまっているようです。焦点は、もはや対話のプロトコルという次元ではなさそうです。

僕がアキラさんとの対話に依拠している、というのはまったくご指摘の通りです。
そして、その成果がこの「真剣勝負」です。
そうであるなら、決別の可能性は否定できません。そこを否定すると「真剣勝負」にはならない。

残酷さに耐える訓練さんは、僕の思索が実存を賭けたものだと認めてくださいます。まことにありがたいことです。

アキラさんがそのように認めてくれているのかは、わかりません。ただ、そうだと思いたい。僕も、アキラさんだって実存を賭けていると思っていますから。

もしそうでないなら、真剣勝負は真には成立しません。「真剣勝負らしきもの」でしかない。

まあ、アキラさんは、真剣勝負の場は言葉の場で行うものではない、と思っておられるのかもしれない。実践こそが真剣勝負の場――それらしき言はありますからね。

たとえそうであったとしても、もう、「仲良しの対話」の季節は終わりのようです。といって、敵対関係になるとは思いませんけれど。

「行う者」としてのアキラさんは、「言葉だけ」の僕を対等の相手とは見なさないでしょうし、とって、僕は「行う者」としてのアキラさんを否定するつもりは毛頭無いので、仮に対話はなくなっても、その言を僕の思索の糧にすることには変わらないと思います。

そういう関係性に変化する。僕は、それはそれでいいんじゃないかと思っています。もちろん、「対話の季節」が継続されることが最上ですけれど、そういうところまで来てしまった、ということだと僕は理解しようと思っています。

残念だけど、同時に喜ばしいことだとも思っているんです。
「真剣勝負」は、誇るに足ることだと思います。


言葉が怖ろしいもの、ということには、まったく同感です。ですけどね、また、反論するようで心苦しいのですが、その恐ろしさに負けてはいられない。

言葉は刺さります。そのことは、日々実感しているところです。まして「真剣勝負」であるなら、なおのこと。言い間違えであったとしても、“世界はでたらめ”にはまいりました。腸が悲鳴を上げましたからね。

が、言葉にはやはり言葉です。腸の悲鳴を言葉にすれば、対処することはできます。残酷さに耐える訓練さんが評価してくださったように、僕は言葉に実存を賭けているつもりですから、その程度のことができないようで話になりません。

もっとも、これが面と向かっての対話であったなら、そうした対処は時間的に難しかったでしょう。あるいは暴力という形になって表われたかもしれない。ネットであるからこそ、対処の時間が取れるということではある。

まあ、でも、先のコメントの挑発は取り下げさせていただきます。どうか禁則をお守りになってください(笑)。少なくとも、今は勘弁して欲しいです。


>「工夫」は真摯な営みではないのでしょうか。「しんどい」とかの問題ではないですよ、これは

ここにも反論させてもらいましょう(^_^;)

「工夫」が真摯な営みであることはその通りです。ただ、真摯の局面が変わった。そのことは申し上げました。

「真剣勝負」もおいての僕の武器は「しんどい」ことです。「逆接」はしんどいです、本当に。でも、それを語ろうとするかぎりは「しんどい」ことから逃れることはできません。

まあ、これは僕の趣味なのか、使命なのか、「しんどい」ことからは逃れることが出来そうにありません。もはやその気もない。逆に武器にしようと思っているくらいですから(笑)


この先、どういった展開が待っているのか、楽しみです。できることしかできないことには変わりありませんが、生きている以上は変わり続けますから。しんどいこともまた変わらないけど、喜びがあると思えば生きて行くことが出来ます。「脆さ」は逆に言えば、統合の喜びをもたらしてくれるものでもあるんですよ。

Chemistry Is What We Are

人間という人間に、うんざりしている。それでも、私は笑うのが好きだ。そして、私は、ひとりでは笑うことができない。

シオランの箴言です。

>アキラさん

これ以上は私が干渉する余地は無いでしょう。
まだ「余力」があるであろうアキラさんへの、私からの要望です。
愚慫さんにとって、思索することは生きることそのものです。アキラさんがそのことを認め、敬意を払っているのであれば、それを言葉にして愚慫さんに伝えて欲しいのです。
「思索する者」「実践する者」各々に生き方の違いがあっても、互いに尊重し合い、互いの美点を認めることができる。共生・共存の基本です。

あなたたちのような知恵のある方たち「ですら」それが出来ないのであれば、大多数の人間にそれを望むことなど、どだい不可能でしょう。私の「人間に対する根源的な失望」の目盛りがまた上がるのみです。
私はこの不信・不和に満ち満ちている人間の社会で「仲が良い」ことはそれ自体で素晴らしいことだと思います。

アキラさんの知恵に期待します。それは滅多に人間に期待しない私がいま期待していることです。

・残酷さに慣れる訓練さん、愚慫さん

テキストだけのやり取りというのは、愚慫さんの言っているよさもありますし、一方で、残酷さに慣れる訓練さんが言っているように、やっぱりテキスト以外のことがまったく相手に見えないという不利な面もありますね。

僕が「見ものです」と言っているのは、からかって言っているのではなくて、本当にそう思っているんです。
僕が愚慫さんに対して(なんだかなぁ〜と)思っていることは、もちろんいろいろあります。
でも、そういう愚慫さんだからこそ、「もしかしたらホントにやってのけてしまうかもしれない」と本気で思っているんです。
本人はできないと言っていますが、僕からしたら分からない。
その気がなくても、振り返ってみたら やってのけちゃってるかもしれない。
なので、素直に真剣に「楽しみにしています」と書きました。

ついでに、「伝えるだけ(言うだけ)で それができる・・と考えているのならば」と書いたことに関しても、当然 愚慫さんから反論が出ると予想しながら、そういう言い方で書いたんです。
「例えば 本の著作や映画などはどうなんだ?」といった類の。
その予想のような反論は出ませんでしたが、でも、愚慫さんの想っている「伝える信」を分かりやすく聴くことができました。
僕にはそのスペックと力がありません。
ですから、ここも素直に真剣に 楽しみにしています、です。 (^^)

・で、愚慫さん

僕が想っているのは、残念ながら、「この「世界」は なんてデタラメなんだ」です。
そして、デタラメだからこそ、愉気のような現象も存在するのだと思います。
愉気がデタラメかどうかは分かりません。
やっていて、デタラメな気はしませんけどね。 (^^;)

まぁ、デタラメ=カオス みたいな印象ですかね。
ですから、「世界」は美しくも見えます。
しかし はかり知れない。
「当然の帰結」というやつが、あるんですけど ない。

「当然の帰結」というやつで満たされていれば、「世界」はデタラメではないと思います。
しかし、「当然の帰結」にならないことが「世界」にはたくさんにある。
人間社会としての「当然の帰結」と、「世界」の「当然の帰結」とでは、もちろんその幅が全然違うと思いますが、それでもなお「当然の帰結」にならないことが「世界」にはたくさんにある。
「当然の帰結」ということを単純にではなく、かなり複雑に想定したにしても、それでもなお・・・です。

だからこそ、僕は「愉気」だと想ってるんですけどね。
「世界」がすべて「当然の帰結」というやつでまとまるのであれば、自働運動だけで全部済んでしまう・・・気がします。
野口晴哉先生の目指しているところって、基本的に「自力本願」でしょう?
なのに、なぜ「愉気」というものが残っているのか、残されているのか。
操法的な技術(とその訓練)にしてもそうです。
「世界」がすべて「当然の帰結」というやつでまとまるのであれば、そんなもの必要ない。

これは僕の中で、やりながらずーーっと疑問に想い続けてきたことなんですけど、去年あたり、愉気は「だいじょうぶ♪」の周波数へのシンクロなんだ・・みたいな把握をし始めてから、何となくピンとき始めました。
“この「世界」はデタラメだ”、これは以前からの印象です。
“だからこその「愉気」なのだ”、と何となくピンとくるように、腑に落ちるようになりました。


>僕にできるのは、僕自身の「逆接」をパッチを当て、なんとか「順接」に再編集することだけです。その再編集作業の過程で見える風景を綴るだけ。
<
これ、素晴らしいと思います。
僕も、すでに刻々と書き綴られる「ものがたり」を生きている僕らとして、自身について出来ることはそれだけだと想います。
愚慫さんのそれは、僕も知りたいし、読みたいです。

なので、やっぱり、愚慫さんの今後の展開を楽しみにしています。 (^^)

My Finest Hour

>アキラさん

私がゴチャゴチャ横やりを入れるまでも無かったのかも知れませんが、ありがとうございます。
感謝です。

>愚慫さん

邪魔しましたね。
あとはご自身の心の声を良く聴いて、判断してくださいな。
何が大切か。

・残酷さに慣れる訓練さん

いえ、こちらこそ ありがとうございました。 (^^) m(_ _)m

・残酷さに慣れる訓練さん

ご尽力、痛み入ります。
今回は本当に助けていただきました。

今後とも、よろしくお願いします。
お好きな時に、レギュラーとして。




・アキラさん

改めてよろしくお願いします。
ここは「改めて」と言っておいた方が良いような気がします。^ ^


(もう少し伝えたいことがあるのですが、それは後ほど。)

僕は〈世界〉をデタラメだと思ったことは、一度もないんです。
その意味では、僕と〈世界〉はずっと「順接」です。

とはいえ、デタラメ(理不尽)に苛まれてはいた。だけど、その原因はハッキリしていました。
なので、〈世界〉との「順接」に影響が及ぶことはなかった。いえ、よりデタラメはより「順接」を強化する方へと作用したと思います。


>「この「世界」は なんてデタラメなんだ」

で、ふと思ったのは、アキラさんと〈世界〉は実は「逆接」だったのではないか、ということです。

〈私〉と〈世界〉の間には〈社会〉が入ります。
現在、〈社会〉と〈世界〉は「逆接」です。
〈私〉と〈社会〉が「順接」で、それをそのまま延長するなら〈私〉と〈世界〉が「逆接」になっても不思議ではない。

先に「規則に「信」を置く」というコメントをしましたよね。
ここからしても〈私〉と〈社会〉が「順接」というのは、違和感がないような気がします。

それが

>愉気は「だいじょうぶ♪」の周波数へのシンクロなんだ・・

で、〈私〉と〈世界〉との関係が「逆接」から「順接」へと再編集された。
そう考えると、

>デタラメだからこそ、愉気のような現象も存在するのだ

という言葉が僕にはすんなり腑に落ちます。

「再編集」すると「だからこそ」が出てくる。
これこそが「ちょっとだけ強い」と感じるところなんです。
〈いのち〉の強さですね。
〈私〉と〈社会〉とが「逆接」の場合だと、〈悲〉として立ち上がってくる〈いのち〉そのものの力。

>愉気は「だいじょうぶ♪」の周波数へのシンクロなんだ・・

は、あくまで「アキラさんのもの」ですから、その真髄は僕にはわからない。わからないけど、僕がいう「再編集」というものが生起する状況から推すと、どうやら当てはまりそうな気がします。

だとすると、そのときの感覚、「シンクロなんだ・・」の「・・」の余韻は、とても強くアキラさんの身体に残っているはずです。この強い感触こそ「信」の本体だ――!みたいな、静かで強い手応えがある。誰になんと言われようが揺るがない確信です。

もし、僕の想像が当たっているなら、互いの「順接」と「逆接」の位相の違いから、譲れないことになってしまうのは、当然の帰結だろうと思います。


ずっと思っていたんです。言葉の奪い合い云々などは、表面的な事象でしかない、と。奥にもっと深い「何か」がある、と。

とにもかくにも、そして、まだまだ暫定的ですけれど、その「何か」が見えたような気がします。
だとすれば・・・、そうですね、今後の展開に自信が持てるというものです。

あぁ、そうかもしれません。
いえ、そんな気がします。

僕の場合、〈私〉と〈世界〉の間に入るのは〈人間〉ですから。(^^;)

ブログは何人の目に触れるか、より
「誰が読んだか」だと思います。

思索は歴史を変える力を持っています。


愚慫さんは、真理を探究し、それを高踏的になることなく伝えようと努力し続けている日本では他に類を見ない哲学者です。
熱意を失わず、突き進んで下さい。

ご尊敬申し上げております。

ブリュンヒルデさん、

ありがとうございます。

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