愚慫空論

『さとにきたらええやん』

昨日は、僕には映画の日でした。一日で映画を3本観ました。

自宅で長時間動画を視聴するということはしばしばありますが、自宅以外で、つまりは映画館などでというのは、20代の
頃はよくやりましたが、最近はない。都会へ出かけたこともあって、疲れましたww

で、何を観たかというと『シン・ゴジラ』と『さとにきたらええやん』と『野火』の3本。『野火』は市川崑監督の古い方。都会から帰ってきてから、近所の映画の会で。新しい方はDVDで観たし、新旧の違いも面白くて書いてみたいことではあるんですが、また『シン・ゴジラ』も興味深かったのですが、まず記しておきたいのは『さとにきたらええやん』です。


とてもいい映画です。でも、ダメです、この映画。

何がダメって、「いい映画」にしようとしているところ。その姿勢が、映像が描き出していることと、映画が伝えようとしている製作者のメッセージとの間に齟齬を生んでしまっています。

こんなことをいうのは気が引けるけど、日テレの『24時間テレビ』のようなもの。愛は地球を救う? そんな「いい番組」はダメでしょ、というアレ。

僕はこの映画を観ていて、徐々に暗い気分になっていってしまいました。
SHINGO★西成の『心とフトコロが寒いときこそ胸をはれ』のリズムもメロディが、僕の感覚の上っ面を流れていってしまうことが残念でした。


そもそもでいうなら、この歌がダメ。こういう悲しい嘘はやめましょう。

フトコロが寒いときに胸を張るのはいい。それができるなら、大いにやればいい。
だけど、心が寒いときにはダメでしょう、そういう嘘は。虚勢を張ったって、しんどいだけ。

心が寒いときこそ胸をはりたいという気持ちはわかるけど、そんなことを続けていると、自分の気持ちがわからなくなってしまいます。この映画が描いているのが、まさにそれ。子どもたちを優しく暖かく見守って、そのことが子どもたちを自分の気持ちがわからないところに追い込んでいる。それは映像が映し出す子どもの表情から伝わってくるのに、製作者はなぜかそのことに気がついていなくて。

これは負けている映画です。
何に? 何よりも自分に。
誰が? まず、子どもたちが負けてる。
つぎに製作者が負けています。「いい映画」を作りたいという欲があって、それに負けて、「負けている子どもたち」が見えていない。

負けている子どもに、軽快なヒップポップで 

  ♪自分に負けない♪ 

なんて唄って聞かせたらどうなるか。彼らは共感してくれます。負けている自分に目を逸らすことができるから。全力で目を逸らそうとして、懸命に聞き入ってくれます。でも、それだけ。子どもたちはそこから動こうとはしない。


映画の終盤。子どもが「さと」から“自立”していきます。幼いときから預けられている少女。その子が学校(中学? 高校?)を卒業して、就職して、「さと」から巣立っていく。送別会らしき映像。

これがもう、まったくダメ。周囲の無言の期待に応えようとして、自分に嘘をついていることがありありと映し出されている。本当は出て行きたくない、そんな自信は私にはないと、その子の眼は訴えている。なのに、もはや既定路線となった彼女の“自立”を誰も疑わず、彼女は「さと」を去る。

おいおい。いつでも誰でも来ていいんじゃなかったの?
なのに、そんな追い出し方をしたしまったら、もう、この子は帰れないじゃないか。

もとより「さと」は「帰る場所」ではない。あくまで「預かる場所」でしかない。
「居てもいいところ」だけど、居着いてはいけない場所。
その期間がどれほど長くても、あくまで「預かっている」だけであって、帰るべき場所は他にある。

けど、それは言葉の意味での「さと」ではない。里(さと)とは「勝ってきて場所」のはずだから。
だから、「さと」は“さと”とは名乗っていても里(さと)ではない。カンバンに偽りあり、だ。

そういう嘘をついているから、とても良い場所なのに、残念なことにしかならない。
そして、映画はそのことを映し出しているのに、「いい映画」にしようという欲に目が眩んで、残念な現実から眼を逸らす。クソだと思います。クソと罵るのに値する、いい映画。観る価値はある。


そういうことをできない僕が言う資格は無いんだけど、そこを敢えて言います。

ダメなんです。キチンと信頼してあげないと。親から見捨てられた子どもは確かにかわいそうで、だれかが「保護」してあげなければいけないのだけど、「かわいそうな子」として扱ってはダメ。たとえその能力がなくても「自立した人間」として扱わないと、ダメ。

不運な子どもは、自分で自分をかわいそうと思っている。けど、それを認めてはダメなんです。かわいそうなのはあくまで「その子の問題」であって、その子を預かる人間の問題ではない。その課題の分離を「さと」と名乗ってしまったことでできなくなってしまった。

課題の分離はネグレクトではありません。分離こそ、信頼の証。


そうした「分離」が出来ていないことが端的に表われているシーンがあります。

それは、里の主が「私はアンタの味方だよ!」と言葉をかけられているシーン。いいシーンです。印象に残ったとしているクソな感想が多いシーンですが、これは端的にダメなところ。

その子は“自立”していく件の女の子。卒業して就職して稼いだお金を母親に取られてしまう。そんな破廉恥な母親の行為をスルーして、「アンタは母親の味方かも知れないけど、私はアンタの味方だよ」と。

クソな感想は、この言葉の都合の良い部分だけを印象に残します。すなわち「私はアンタの味方」の部分だけ。前半は忘れてしまう。前半の方がずっと大切なのに。

なぜ、子どもは自分を捨てた母親の味方をするのか。そこしか「帰る場所」がないから。「さと」は「預かる場所」でしかないから、現実は帰れなくても、その子の心のなかでは、そこしか「帰る場所」がない。だから味方をせざるをえない。そんな子どもの味方をしたところで、「帰る場所がないかわいそうな私」を認めているだけに過ぎない。ダメです。クソです。

そういう不運で残念な場面では、「アンタの味方」ではまったく足りないばかりか、子どもが本来持っている〈生きる力〉を阻害してしまいます。〈力〉を発揮するには場所が要る。なのにこの言葉は、その場所を奪われてしまっていることを追認してしまっている。まったくダメです。

ここでの答えの選択肢は2つしかありません。

1.この「さと」こそ、アンタの「帰る場所」だ! と宣言する。
2.この「さと」は、アンタの「帰る場所」ではない、と宣言する。

1.ならば、母親の破廉恥な行為に怒らなければなりません。母親に怒り、母親からお金を取り返し、法律がどうであろうとこの子は我が子であると認め、「さと」の位置づけを「預かる場所」から「帰る場所」へと改める。

2.であるなら、その子を追い出さなければなりません。“自立”していくなどという嘘の物語を作ってはダメ。ここは「預かる場所」で、アンタはお金を取られてしまうくらいすでに“自立”しているのだから、もはやアンタを預かることはできない。自分で帰る場所を探しなさい――と言わなければならない。そして、「さと」というカンバンも書き換えるべき。

そして、この2つは、実は選択肢でもなんでもありません。それは初めから、つまり「さと」の在り方を定めるときから決まっていて然るべきものだし、そうでないなら、その時点で「できること」をするしかない。1.ができるなら1.を。それができないなら2.を。選択の自由なんて、最初からありません。

「さと」と名乗るなら1.であるべきだけど、それができないなら「さと」はやめて「(無期限)預かり所」とでもする。お金も取った方がいい。



「さと」の館長は荘保共子さんというのだそうです。凄い人だと思います。どのように「さと」を経営しているのかは映画からは想像がつきませんが、いろいろと苦労はあるだろうし、壁もいっぱいあったろうと思います。そうした困難を乗り越えて、周囲を巻き込んで、「こどものさと」を運営しているのはとても凄いことだと思います。敬服します。

だけど、そのことと「残念なこと」は話が別。「残念なこと」は、逆に荘保さんが凄すぎたが故に、起ってしまうことなのかもしれません。だから、荘保さんが倒れてしまうと、ジ・エンド。映画でも、その危機は描かれていました。

荘保さんの人生としては、「さと」は文句なしに素晴らしい場所でしょう。彼女の「帰る場所」です。だけど、他の人にとってはそうはなっていない。「帰る場所」でもなければ「帰る場所を作る拠点」にもなっていない。通過点です。もちろん、単なる通過点ではないけど。


映画を見始めて始めに気がつくのは、大人も子どもも、みんな身体距離が近いということ。ドキュメンタリーとはいえ、カメラが本の近くまで迫っているのに、まったく緊張感がない。そういう絵が撮れているということだけでも、この映画は十分に優れていると言えます。そこに文句は何もありません。

そういう身体感覚の近さは、しかし、映画が進むにつれて代償行為でしかないこと気がつかされます。本当に身体距離を近づけたいのは誰なのか。

荘保さんは、誰でもいい人なんでしょう、きっと。そんな荘保さんが仕切る場だからこそ、みんな身を寄り添っていられる場所になっている。その場所が子どもたちの頼れる場所になっている。身体的にはそうです。

だけど、子どもはまだ荘保さんではありません。心身ともに距離をゼロにしていい「誰か」が要る。その「誰か」は残念ながら荘保さんではなく、やはり親。これは心の問題だけれど、それが解決しない限りは近い身体距離も代償行為の域を出ません。

そうした代償行為しか経験していない子どもが、ホンモノの自信を抱えて真に自立していくことが出来るか。この映画は「できたらいいな」「やればできるよ」と伝えたいようですが、映像から伝わってくるものは「できない」。カンバンとは裏腹に、とても切なくやさしい映画です。

コメント

だって「いい事」なんだもん

愚慫さん、こんにちは。相変わらず手厳しいですね、映画に描かれたのは、リーダーではなかったのでしょうか、笑

別snsでこの映画の話題になったとき、ワタシの住む近辺ではこのような映画を封切る映画館では上映されていて、観ることもできたのですが、観る気持ちになれませんでした。以前居た場所と似たようなところですから。
以前居た場所は、なんとなく違和感が生じ、そこを離れた。
その違和感をこのエントリーは言葉にしているような気がします。

ワタシの体験ですが、何かしら他者のために行動します。行動する以上は「いい事をしている」という前提があります。しかも心身を削ったかなりハードな行動なら尚更です。「悪いことをしている」と思ってできるものでなく、「無意味なことをしている」とも思えません。
「いい事をしている」に疑問をもつまでは。
「いい映画」にしたいのは当たり前です。だって「いい事をしている」前提なんだもの。「いい事をしている」自分が好きで、満足します。
他人も何も言えません。心身と時間と自腹と削り倒してやっているんだもの。しかも、世間の差別や偏見、無理解、常識、色眼鏡、無知を打破し叩きつける「いい事」なんですから。自分に酔いますよ。
「いい事」を妨害するのが、ものごとの「本質」だったとしても、盲目になるでしょう。
ここでの本質は子育て。「子育て」は運動ではない。
シェルターとしての「いい事」と、子育てとしての「いい事」は別ですね。

映画を観ていませんので、映画に対する感想や意見ではありません。エントリーを読んで思い出した過去です。(前段最後の3行は書きすぎました)

そうなんですよね、「いい事をしている」に疑問を持つまでは。

映画が映し出していること、映し出した映画そのものが「いいこと」なのは、間違いありません。それは否定のしようがありませんし、高く評価できること。敬服に値することです。
また、子どもたちにとって、「さと」が「いい場所」であることも間違いはない。

そこを踏まえた上で批判するのは、僕だって正直、しんどいです。でも、成長したはずの子どもの、あの不安げな表情、不安を押し隠そうとして、それができないでいる表情を観てしまったら、しんどいから逃げるは不誠実だと思います。自分自身に。


本文で示した選択肢は、僕自身の過去から導きだしたものに過ぎません。なので、それが正しいかどうか絶対的確信はありません。けど、この映画を単に「いい映画」として観るよりは、よほど正しいと思っています。少なくとも僕にとっては。

身を削って懸命に頑張っている「いいこと」がまだ足りないなんて、切ないです。無力感を憶えます。でも、負けてはいられません。

「負けているからこそ、尊い」なんてことは言いたくありませんからね。

誰宛でもない追記

僕は出身が大阪ですし、高校に入ってからの友人の何人かが西成住まいということもあって、あの地区には多少、土地勘があるんです。大学生になってから、あいりん地区のあんこ(←日雇い労働者をそう呼びました。今では差別用語かな?)と一緒に働いたこともあるし、彼らをスカウトしにいったこともあります。

スカウトというのは、あいりん地区の職安の前にいって、あんこたちをピックアップすること。朝の5時とか6時に車で行って、必要な人数だけ工事現場なんかへ連れて行くんです。

おっちゃんたちは、期待に違わず、不真面目でした。表面上は従順ですし反抗することもありませんが、途中でいなくなることなんて当たり前。途中まで働いていなくなるなんて、もったいないと思ったんですがね...。

(マジメなあんこもいるらしいですが、そういう人材は手配師が確保しているらしいということは、後に知りました。手配師を介するとそれだけコスト高になりますし、なによりコネがね...)

当時は仕事途中で放り出して、半日分でも労働を無駄にするなんてもったいないと思ったものです。賃金は最後の解散時にしか支払いませんから、途中で帰ったらその分ただ働きです。その心持ち、当時は理解できませんでしたが、いまではわかるような気がします。

生きているだけで、すでにしんどいのでしょうね。稼がないと食えないから、なんとか仕事にありつこうとするのだけど、仕事の辛さが途中でキャパオーバーになって逃げ出してしまう。なんでもない人間には容易に辛抱できることが、彼らには難しい。労働が無駄になっても、そうせざるを得ない。

この映画は、そういった暮らしのなかで精一杯頑張っている人たちへの応援歌みたいなものなんでしょうね。映画のなかでは、歌だけではなく、具体的な手助けもしています。

けど、なんていうのかな、罪悪感を感じてしまうんですよね。僕自身もかつて彼らを「利用した」ことから来ているのかもしれませんが、道義的責任すらもないはずなのに、罪悪感がある。形而上学的罪悪感ww そのことが、無邪気に「いい映画」と評することを許さない。

もっとも、形而上学的といったって、僕の中に生じた「何ものか」であることには変わりはありません。

これも【怨】の効用でしょうね。だったら、活かさねば...

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