愚慫空論

ふたつのシステムを結ぶもの


「人間」はふたつのシステムにまたがって生きている存在です。



上橋菜穂子さんの『守り人シリーズ』では、「目に見える人間の世界(サグ)」と「目に見えない精霊の世界(ナユグ)」という「2つの世界」が設定されています。

「2つの世界」という発想は、いうまでもなく、上橋さんのオリジナルではありません。誰かの発想をアレンジしたものです。

では、その誰かとは誰か。

誰でもない、というのが答えでしょう。人類に普遍的な発想。“この世”“あの世”といったような「彼我の分離」を行うのは、ヒトという生き物の特長だと考えていいでしょう。

ヒトのこの特長からは、もうひとつの特長が派生します。彼我の分離を統合しようとすることです。

ヒトが彼我を分離するという特長から推測できることが、ひとつ、あります。それは、ヒトは世界を神秘と捉える、ということです。

そもそも「彼我の分離」がなければ問いは生じません。問うということ自体が神秘を前提としている。問うて解を求めるという行為そのものが、「彼我の統合」に他なりません。

といって、分離された彼我は、ピッタリもとの姿にくっつくわけではない。切断されたものは繋がなければなりません。繋ごうと欲するならば、引き寄せて、結び目を作らなければならない。

ヒトは、「彼」を「我」へと引き寄せ、「我」と「彼」の重複部分を折り曲げてつなぎ目を作ります。比喩でいえば、2枚の紙を繋ぐようなもの。「我」の平面を折り曲げ、「彼」の平面も折り曲げ、立ち上がった部分を合わせて折り曲げる。

このときの折り曲げ方には2つの方法があります。「我」の側へ折り曲げるか。あるいは「彼」の側へと折り曲げるか。

我が子イサクを神に捧げると決断したアブラハムは、「彼」の方へ折り曲げる選択をした。
一方、「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らざると為す」と示した孔子は、「我」の方へと折り曲げるように薦めた。

「彼」の側へ折り曲げれば超越論になり、「我」の側へ折り曲げれば内在論になる。超越論と内在論、折り曲げ方は違うけれども、彼我が統合されるという意味においては、同じだろうと思います。

超越論を選択した者は、神秘的な合理主義者というべきでしょう。「彼我の平面を折り曲る」という「神秘への問いかけの解」を「彼」の側へと預ける。つまり、神は神秘なり。結果、「我」の側には合理が残る。合理は「知」で知ることが出来るはずですから、超越論者は主知主義になります。

内在論選択者は、合理的な神秘主義者になります。「神秘への問いかけの解」を「我」に引き受ける。「為」というのは「我が引き受ける」ということ、つまり、我は神秘なり。結果、「我」の側には神秘が残る。神秘は「為」で知ることができますから、内在論者は主意主義になります。

  ***

前置きが長くなってしまいました。

語りたいと思ったのは「ふたつの世界」ではなく、「ふたつのシステム」でした。
システムは、あくまで“この世”の話です。

現実世界の話ではあるけれども、ヒトの特長、すなわち「彼我の切断・統合」という行動の型は当てはまると考えます。いえ、当てはめて考えてみたい。


「人間」がふたつのシステムにまたがって生きている存在であるということを言い換えると、人間にはふたつのレイヤがあるということです。「ヒト」というレイヤ。「社会人」というレイヤです。

人間はヒトとして生まれ、社会環境に適応して社会人になっていく。社会人になるべくして生まれるのがヒトという生物種の特長です。

「ヒト」というレイヤにおいて属しているのは、生態系というシステム。
「社会人」というレイヤにおいて属しているのが、社会というシステム。


生態系というシステムの型を科学的な術語を用いて表現するならば、非平衡開放系ということになるでしょう。

散逸構造(さんいつこうぞう、dissipative structure)とは、熱力学的に平衡でない状態にある開放系構造を指す。すなわち、エネルギーが散逸していく流れの中に自己組織化のもと発生する、定常的な構造である。イリヤ・プリゴジンが提唱し、ノーベル賞を受賞した。定常開放系、非平衡開放系とも言う。

散逸構造は、岩石のようにそれ自体で安定した自らの構造を保っているような構造とは異なり、(略)、一定の入力のあるときにだけその構造が維持され続けるようなものを指す。

(略)

散逸構造系は開放系であるため、エントロピーは一定範囲に保たれ、系の内部と外部の間でエネルギーのやり取りもある。生命現象は定常開放系としてシステムが理解可能であり、注目されている。


地球生態系は、主に太陽からの一定のエネルギー供給を受ています。そのエネルギーを外部(宇宙空間)へと放出していく(散逸させていく)過程で、自己組織化が発生し、定常的な構造が生まれる。その定常構造が生態系です。

生態系の要素のうち、外部からのエネルギー供給とその散逸という「開いた」部分を無視して、内部物質の循環という「閉じた」部分だけを象徴的に図示すると、下のようになります。


この円環構造は、生態系全体の象徴的図示であると同時に、個々の生命そのものの象徴的図示でもあります。つまり、生態系と生命はフラクタルであり、自己相似。それが人間の「ヒト」というレイヤが属しているシステムの型です。


ヒトが未だヒトのうちに留まっている間。つまりは子どもの時、彼我の分離がなされていなくて自我が未発達な間は、ダイナミック円環型の生態系システムのみに依って生きています。環境から、社会から、大人から必要とするのは、乱暴を承知で言ってしまうと、生態系システム相似系である生命システムを維持するために必要なエネルギーだけ。

子どもは成長し、自らの能力でエネルギーを獲得する大人になります。効率のよいエネルギー獲得には、環境に適応する必要がある。その適応こそが大人への成長です。

環境が自然環境のようなダイナミック円環型であるなら、その適応において、生命の型であるダイナミック円環型を何らの障害なく維持することができるでしょう。が、環境の型が異なるなら、生命システムの型の維持には障害が生じる。環境に適応すればするほど、生命システムの型との間の齟齬が大きくなることになってしまいます。

文明社会というシステムの型は、残念ながらダイナミック円環型ではありません。いうなればブラックホール型です。


  ****

文明社会がブラックホール型になったのは、神秘の折り曲げ方を間違えたから、というのが僕の見立てです。「彼」の方へ折り曲げてしまった。

純粋に神秘の探求であるならば、「彼」へ折り曲げるのもありです。「彼」はあくまで想像上の世界。想像可能な場所まで含むのが「神秘なる世界」なのですから、「彼」の方へ折り曲げることも世界の内部の話。だからこれはあり。

しかし、“この世”、現実世界に限っていうならば、「彼」の方に向いて神秘を折り曲げるのはあり得ません。

現実世界に限っても、世界が神秘であることに変わりはない。そうであるのに、神秘を「彼」へ向かって折り曲げてしまうと、神秘は現実世界の外に出て行ってしまうことになる。

神秘的な合理主義者が、神秘を世界の外へ追い出してしまうと、単なる合理主義者になってしまいます。そんな合理主義者が組み上げるシステムには、神秘は含まれない。

世界は神秘を内在したシステムです。生態系の型であるところの非平衡開放系が図示不可能なのは、エネルギーの流入散逸を無視しなければ具体的にイメージできないのは、それがヒトの空間把握能力を超えた「神秘」だからです。エネルギー流入散逸まで含めたモデルを図示しようと思うなら、おそらくは四次元以上の空間を想像できなければならない。が、ヒトにはそういう空間を想像することはできません。

具体的想像はできなくても言語で表現可能なところに人間は到達しています。もはや数式ですら表現可能です。その表現が理解できたなら、空間的把握はできなくても理解はできると言えなくはない。それは神秘的理解です。

ただ、残念ながら、社会システムのデザインは神秘を外へ追いだした形で為されています。だから、予測可能な形でデザインが為されているはずなのに、現実は予測不可能なのです。神秘を追い出したと言っても、それはデザイン時に追い出しただけのことで、現実の世界はやはり神秘です。

デザイン時に追い出したはずの神秘が働く現実社会で、システムが取りこぼした神秘を知識を持って追い詰めようとする姿勢。これもまた主知主義です。

  *****

人間というひとつの主体が、型の異なるふたつのシステムに所属する。この事態こそ、人間に「主体」というものを生むことになります。「主体」とは、「自我」です。

ヒトがヒトでしかない子どもの間は、「我」がありません。「我」は外部環境(「彼」)への適応過程で生じるものです。生命システムと外部のシステムとの齟齬を埋めるために生成されるのが「主体」であり、「主体」を認識することで生じるのが「我」です。

とすれば、内部システムと外部システムとの齟齬が大きいほど、「主体」もまた大きくならざるをえないのは、自然なことです。そして、生存のためのエネルギーを効率よく獲得するには、外部環境への適応が欠かせない。その外部環境が生命システムとは異なった型であるとすると、適応するほどに「主体」もまた大きくなる必要がある。

が、そうはいっても「主体」は無限に大きくなることが出来るわけではない。「主体」を大きくすることにもまた、ヒトとしての能力に限界があります。限界を超えた部分、限界を超えて誤作動を起こすようになった部分が「呪い」というやつです。

その誤作動に拘る間は「呪い」は解けません。能力の限界を超えた誤作動を回避するには、「主体」を能力以下に抑えなければならないわけです。



  *****

古代の中国では、人間を聖人・君子・小人・愚人の4つに分類したそうです。

人間には2つの能力がある。すなわち“才”と“徳”です。徳とは、今日の言い方なら人間性になるでしょうか。

聖人とは、才と徳、ともに優れている者。
君子とは、徳が才を上回っている者。
小人とは、才が徳を上回っている者。
愚人とは、才も徳も、ともに不明な者。

才と徳を今回の議論に合わせていうならば、才とは外部システムに適応する能力、徳とは内部生命システムに順応する能力ということが出来るでしょう。

君子とは、別の言い方をすれば主意主義者です。小人は主知主義。知識をもって外部システムへの適応を目指す者。

孔子はいうまでもなく主意主義者です。外部システムに適応するのではなく、内部システムの機序を以て外部システムをデザインしようと志した者。それが徳治主義です。

孔子がそのように主張せざるを得なかったのは、すでに外部システムがダイナミック円環型とは異なったものになっていたからでしょう。そこを突いたのが老荘であって、彼らは外部システムそのものを否定します。無為自然、元のダイナミック円環型の外部環境へ帰るべし、という主張。外部システムがダイナミック円環型であるなら、才による適応の結果も、生命システムへの順応も、結果としては同じことになります。そうすれば君子と小人の区別がなくなるだろうし、君子、あるいは小人であることへのハードルも下がる――老荘はそのように考えたのだろうと想像しています。


  ******

内部生命システムの機序を以て、外部システムをデザインする。このことは今日までは、結果的には不可能でした。が、今日まで不可能だからと言って、未来において不可能だとは限りません。現代は、孔子や老荘の時代からは想像が不可能であるほど技術が進展しています。

才とは、具体的に技術です。徳もまた具体的な技術ですが、それは内面を向いたもの。才は外へ向いた、すなわち環境へ向けた物質的技術。社会システムのデザインにおいては必須の技術です。

現代の技術水準をもってすれば、社会のシステムをダイナミック円環型にデザインすることは可能だと僕は想像しています。それは持続可能社会ですが、なにより貨幣システムが異なる。

貨幣は人間が生みだした最も効率的な経済システムです。ただ、従来の技術では、ブラックホール型にしかデザインが出来なかった。現在の技術なら円環型にデザインが可能です。

  ⇒愚慫空論『貨幣ネットワークの民主化』

減価する貨幣とベーシックインカムで社会システムがダイナミック円環型になれば、人間が主知主義で行動するメリットは減少します。

貨幣システムは、社会システムのアウトラインのみをデザインするものです。アウトライン以外の詳細デザインは、人間の神秘に委ねられる。従来の資本主義システムは、神秘を外側へ追い出そうとする主知主義的システムであるのに対して、こちらは詳細な秩序形成を人間の神秘に委ねる、ある意味無責任なシステムデザインです。

無責任なシステムのなかで人間が「主体=我」を確立しようとするならば、自ら進んで責任を負うという選択をしなければならなりません。そうやって主意主義的に行動することがダイナミック円環型システムでは高い評価になるし、主知主義的に行動しても、それがシステムへの適応であるなら同じ結果になります。

儒家の思想と老荘の思想とが、高い技術レベルにおいて双方とも実現する。そんな場所へ到達することができるだけの外面的内面的双方の技術を僕たちはすでに保持しています。

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