愚慫空論

ブログって、繋がってるってことでしょ

「ブログで連帯は可能なのか?」ってのがdr.stoneflyさんの最新エントリーですが...。拝見しながら考えてしまいました。

連帯が特定の目的を持った運動のためのものだとすれば、ブログでの連帯って難しいかもしれない。リアルな世界でもそうした連帯を作るのは難しいし、継続させるのはもっと難しい。ブログ世界よりリアル世界のほうがやり取りできる情報は桁違いに多いのに、基本的に情報が言葉に限定されるブログ世界では余計に難しいでしょう。ちょっとした言葉の選び方しだいで感情的な亀裂が入ることもしばしば。

でも、思う。ブログっては、その世界に足を踏み入れた瞬間からもう繋がっているんじゃないの? と。


これはブログってものの機能的な特性だという話でもあります。ブログを開設して自分が書いた文章をエントリーすると、ネットで繋がっている人は基本的に誰でも閲覧可能になる。そんでもって、WEB2.0って言うんですか? 詳しくは良く知らないけど、ブログには単に繋がっているというだけではない、もっと繋がる機能が備わっている。

これは、リアルな世界では考えられないスゴイことですよね。いつだかブログはサークル型のメディアだ、なんてことを書いた記憶があるけれど(従来型のマス・メディアなんかはピラミッド型)、別の例えをしてみればこんな具合かな。

過去の経験になった人も現在進行形の人も、日本人ならまず例外なく学校ってところに通った経験があるはずです。学校では教室という仕切られた空間があって、そこの何十人かの生徒がいて、教師が多数の生徒に向かって授業をする。従来型のメディアは教師が生徒に向かって授業するようなものだとすると、ブログは生徒同士のやり取りみたいなもの。

生徒同士のやりとりにもいろいろあって、他愛のない日常のおしゃべりから形而上学的な話題、政治の話、悩みを打ち明けたり信仰を告白したり、実に雑多な話が入り乱れる。時には生徒同士で勉強を教えあったり。仲のよい友達もそうでないクラスメートもいるし、よくないことだけどイジメだってある。いろんなメンバーがいるれど、その教室にいる限り声をかけようと思えばいつだって掛けられる。ひとつの空間に一緒にいるってだけで繋がっている。

ブログあるいはネットというものは、そんな教室が通信技術の発達で大きくなったもの。ひとつの空間に数えられないほどの人が一緒にいる。あんまり人がたくさんいるものだから、さすがに全員の名前を覚えるなんてことはできないけど、行き会って、知り合ったらいつでも声を掛けられる、そんな場所。そこにいるだけで繋がっている。

こんなことを連帯だなんて言えるかどうかは、わかりません。単に電気信号的に繋がっているだけ、と即物的に考える人もいるでしょう。というより、そちらの方が多いかな。

うん、でも、どうでしょう? 私自身、学校に通っていた昔を思い出して感じるんだけど、あの場には連帯があったと思う。クラスのなかには嫌いな者も少なからずいたけれど、運動会なんかでクラス対抗で競うことがあったりすると、やっぱり自分のクラスが勝ってほしい望みましたから。そしてそんなとき、ただ一緒にいるだけ、学校が勝手に同じクラスだと決めただけ、なんて理由で私が勝ってほしいクラスと嫌いな者とを区別することはしなかった。だれでもそうだろうと思いますし、それこそが連帯ではないのか、誰が決めたかは知らないけれど、そこにいることを認めることが連帯ではないか。今になって思います。

一緒にいて繋がっていてやり取りできるから、共感を持ったり反感を持ったりすることができる。必ずしも楽しいことばかりでもなかったけど、もう繋がれなくなった昔のクラスのことを思い出すと、懐かしさと同時に一抹の寂しさも感じます。

もし何らかの異変があって、ブログ空間が消滅したらどう感じるでしょう? その異変には自分の外部に起きる異変と内部に起きる異変とがありますが、私、もしくはあなたの身体の機能が停止して、もはやネットにアクセスできなくなったりとか(これは死後、意識が残っているという怪しげな前提があっての話ですが)。ネットアクセスが免許制になって、その免許を永久に剥奪されるとか。そんな状態に置かれたなら、きっとブログ空間に消滅してしまった連帯を感じるのではないでしょうか?


そう考えていくと、ブログ空間はある種の「共同体」なのかもしれません。分断されていることが前提であるがゆえに、明文化されたルールに従って統治されなければならない「社会」ではなく。

学校のクラスはもちろん、「共同体」ですよね。そして共同体というならば挙げておかねばならないのは地縁で繋がった地域共同体。限界集落となって減少しつつある地域共同体。ブログ共同体は、どちらかというと地域共同体に近いでしょう。構成年齢が雑多であることなどからも見ても。ただ、今の日本では地域共同体を実感できる人は少ないかと思って、学校クラス共同体を例としたけど、現在、果たして学校クラスも共同体として機能しているのかどうか? むしろ「社会」化してしまっているのかもしれません。

私たちのブログに対する意識はどちらかというと「社会」でしょうね。確かに実態としても「社会」。それは間違いない。しかし、もしブログ空間がもっと社会化する方向で動いていけば、そこには明文化されたルールと実効力を伴った規制が行われることになるでしょう。もし、そうなると...、誰がその規制を行うのだ、ということまで考えると、芳しくないような気がするのですが。

コメント

はじめまして。
トラバ、ありがとうございます。

記事にされている件については、全く知らないのですが・・・・
>一緒にいて繋がっていてやり取りできるから、共感を持ったり反感を持ったりすることができる。
成程、そういう捉え方もあるんだ、と思いました。

拙記事、トラバさせてください。

読んでいて漢詩人のことが・・。

今晩は。愚樵さん。よく、うちのブログで引用する魯迅の講演「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」の末尾のほうに、
「たとえ昔の人でも、その詩文が完全に政治を超越した・・「田園詩人」や「山林詩人」はいなかったと思います。この世の中を完全に超越する人・・はいない・・。世の中から超越してしまったら、・・詩や文章など書かないはずです。詩や文章・・も、・・人間の営み・・、詩を書くからには、・・未練がある証拠・・。・・墨子は、兼愛(けんあい)(博愛主義)を・・、楊子(ようし)は為我(利己主義)を唱え・・墨子が・・書くのは当然として、楊子は書いてはならないはず・・。それでこそ「為我」・・。・・書いて人に見せる・・は「為人」(人のため)になってしまう・・。
 ・・陶潜は俗世間をやっぱり超越・・できず、・・政治にも関心をもっていた・・また彼は「死」を忘れさることもできなかった」と、あります。
まるっきしTBもコメントも拒否して、自分の日記として記録として、HPやブログに文章を掲げている人も、やはり世間との繋がりを知らぬ間に、気づかぬうちに、「問い」を発しているような気がします。ネットウよくという現象も、この魯迅の解説にあるのと似たようなものと、僕は思います。或いは野の仏を彫るという行為も、文字ではないけれど、やはり一つの詩でしょう。「歌い継ぐ」という行為も。

あ、もう一つだけ。

野の仏に関連してです。
バーミヤンの壁岩の仏像が壊されたのも、偶像崇拝を一般的に禁止するのも。顔の問題でしょうね。顔に民族が表れてくる、どうしても。人物を描き、写した絵画や写真でも、今日の色んなグラビアとかでも、「かくあれ!」って云う美しさや理想を強制する道具にされかねない。其処に民族の面影が強ければ強いほど、敗北した側、敗北を乗り越えて勝ち誇った側が、忌まわしい歴史の抹殺にとりかかる。その憎悪の連鎖を避けんが為に、顔を崇拝するのを世界宗教は、避けたんでしょう。
で、抽象化。或いは、網羅するという手法とか・・。でもすぐ序列化が擡げて来る。カースト制の誕生(復活?)。映像の世紀は、今も続いているようです。

長々と失礼しました。

言われてみれば、

言われてみれば、「ブログは生徒同士のやり取りみたいなもの・・・」なるほどですね。
記事を拝読し、敢えて「連帯」と「共同体」の解釈を分けて捉えさせていただきました。(フレキシブルに読む。いや、単にきちんと読んでいないだけか?)

仰るとおり、「その世界に足を踏み入れた瞬間からもう繋がっている」。だだ、ブログの開設は、殆どの方が何らかの動機を持ち合わせていらっしゃると思います。それ故、体が自然と「連帯」を「運動」、ひいては成果、と見る方向を向いてしまうのかな?という気がします。

個人的には、「連帯」の部分については、学校の教室と言うよりも、むしろ大学かなんかのゼミの感覚です。自分のところでも、時折、実務担当者の方向けに近い記事を書きますし、同方向のブログオーナーさんの記事にコンタクトしたりもします。
その周囲に「共同体」が展開している、といった感じです。

共同体の中と外、それもまあ、曖昧で結構なんじゃないかな、といったところです。

何か、とめとないコメントになってしまいました。

愚樵さんは、あえて触れてませんが、もともとの件に関して言えば、私はたんぽぽさんの自分が向こう傷を負うことや返り血を浴びることもいっさい気にせず、甘ったれた「共闘」や「連帯」なども拒否した、愚直なまでの行動力と自立した精神こそ、多くのへたれな「左派・リベラル」政治ブロガー諸氏に学んでもらいたいものだと思っているのです。

はじめまして。

dr.stoneflyさんのところで“お見かけして”おります。「ヘイトコメントをからかう」というなんじゃらほいコンセプトでブログを始めたkuronekoといいます。

ともかくもブログを書く、コメントをつけることはコミュニケートする意図が前提ですよね。そこには、かすかな共同性が、絶対0度ではなくちょっとの温度ぐらいにしてもわずかな繋がりの感覚はあるのでしょう。

自分が他人と話をしているのだという感覚を置き去りにして、自分の話の内容だけに傾注するコミュニケーションって、新語創出症で意味不明の発話をしているのよりも閉じているのかなあ。

共同体意識は危険では?

相変わらず愚樵さんの優しさが全開ですね。それが良さなんでしょうが、現実世界はたぶん愚樵さんの予想より確実に悪い。
普通、多くの人は、自分を物差しとして世の中を計っている。自分自身を基準にして判断する。
だから、間違った判断をしてしまうんですよ。(いくらなんでも世の中にそんな悪い奴はいない、と考える。)
確かに自分の周りにはそんなに悪い奴は居ない。
しかしそれとは逆に、世の中は自分なんぞ比べものにもならないほど悪い奴で出来上がっていると考える方が正解に近づけるでしょう。(愚樵さんより一万倍は悪い奴が政治や経済の中枢を握っている)
以前の記事中に自分より頭の悪い友人が医者をやっていて、自分の今の経済状態を嘆いておられた記憶がありますが、断言します。
愚樵さんが医者や弁護士をしていたら、今より経済状態は間違いなく悪いはずです。依頼者や患者の立場に立てば立つほど世の中では儲からないようになっています。

「我思う故に我あり」的な、自分の個人の思索から出発しょうとするから間違った方向に向かってしまう。この考え方では如何しても自分が基準になり現実問題、決定的に悪い相手には対処できない。
特に政治や経済を論じる場合には、ブログはこコミュニケーションツールでは有るでしょうが、仲良しグループの話し合いの場に止まらない、大きな危険が生じる場合がある。
政治経済とは直接的に人々の『利害』に直結していて、現実世界では極端な場合は、『戦争』にまで発展する問題ですよ。
ブログで、真面目に政治経済を論じていて(殺し合いにはならないでしょうが)論争にならない方が可笑しい。
論争は避けるべきではないでしょう。ようは、いかに論争の質を高められるか。?高めていけるかにかかっています。

アカリさん、こんにちは。何の挨拶もなしにTB送りつけて申し訳ありませんでした。

>記事にされている件については、全く知らないのですが・・・・

ああ、そうだったのですか。お玉さんのところにこちらにもTB頂いた記事のTBがあり、それを拝見したもので。

これも何かの縁ということで、よろしくお願いします。

*****

三介さん

話は急にぶっ飛ぶのですが、その映像の世紀というお話、思い当たるフシがあるんです。

これは人間の目の構造、いや、映像を解析する神経回路の構造に由来するのでしょうが、人間は映像に無意識に輪郭を付与しますよね。すなわち分断線。そしてその輪郭を人間は意識する。そんでもって言葉ってもの輪郭と同じ分断線ではないのか、と思うんです。

抽象化の世界にも言葉は入り込む。入り込むどころか、言葉がなければ抽象化できないとされている。ある世界宗教など、始めに言葉ありき、ですから。でも、言葉による分断こそが序列化の始まりなのかな、と。

*****

札幌運転所隣人さん

当方、とりとめのないコメント大歓迎。だいたいブログ主がとりとめのない文章を書くことしばしば。とりとめのないコメントを非難する資格なんてありませんし、フレキシブル解釈もまた同様(笑)。

>だだ、ブログの開設は、殆どの方が何らかの動機を持ち合わせていらっしゃると思います。それ故、体が自然と「連帯」を「運動」、ひいては成果、と見る方向を向いてしまうのかな?という気がします。

はい。そうなんですけどね。これも学校の話に例えると、ある目的を持って学校に入学する、判りやすいのは専門学校とか。同じクラスの連中というのは、目的という側面から考えると将来的には敵であるわけです。でも敵なんてみんな思わない、ライバルだと。「ライバル」っていう言葉の響きにはどこか共同体的なものがあるじゃないですか。

目的だけにとらわれていては、たとえそれで大きな成果を得られたとしても、大切なものを取りこぼしてしまう。そうした意味では、ブログもクラスもゼミも、同じではないか、と。

*****

かつさん

おっしゃることはごもっとも。特に異議はありません。

ま、しかし敢えてもともとの件に関して言うならば、私はそうした甘ったれ「共闘」こそが彼らの持ち味だと思ってるんです。だから共同体なんてものを持ち出して、その路線でいいんじゃないか、どうせならそれをもっと徹底しようよ、と言いたいわけです。

偉そうに続きを言わせてもらえば、その路線を行くにしてもどこかで自分の「甘さ」とは対峙する必要は出てくるでしょう。それが件の諍いなのかどうかはわかりませんが。その上で尚且つ共闘の甘さに行くのか、孤高の戦いを選ぶのか。これは私の希望も混じっての話ですが、できれば甘さを選択してもらいたい。それでこそ「護憲」なんだと思ったりしているのです。

*****

kuronekoさん、こんにちは。「みんななかよく」はもちろん存じ上げております。

PCモニタに向かってキーボードを叩く無機的な作業は、自分がコミュニケートしようとしているのかどうか、その意図すら疑わせることになったりもします。でも、レスがついたりすると嬉しいですよね。ブログなんて一見無機的だからこそ、嬉しい。レスは自分のコミュニケーションへの意思を再確認できる契機になります。

>自分が他人と話をしているのだという感覚を置き去りにして、自分の話の内容だけに傾注するコミュニケーション

って、女子学生の会話なんてイメージで語られるアレですか? 

>新語創出症で意味不明の発話をしている

ってのはよくわからない。でもいずれにせよ、すべてに100%開いているなんてのも病気だと思うと、それぞれがそれぞれの閉じ具合でいいんじゃないですか。開いた部分でコミュニケートすれば。閉じた部分をこじ開けようなんてことは特別な関係でなければできませんし、してはならない。公開のブログでは不可能ではないにしても、非常に困難でしょう。

*****

布引さん、「優しい」ではなくて「甘い」んです、私(笑)。

現実世界が想像以上というか私が絶えることができないくらい悪いってのは、認識しているつもりです。ですから私はそこから逃避して樵をしているわけですし、でもまだ「甘さ」を捨てられないからブログという半分閉じた空間でほざいている(笑)。そんでもって、しばしばそういう自分に嫌気がさして自沈モードに陥る(爆)。

優しいのは布引さんの方です、きっと。

さらに甘さを全開にして話を進めますと、そもそも人間には甘さが必要だ、と。確かに甘いばかりだとダレて胸焼けがしますが、辛いものばかりでは身体がもちません。脳みそも同じ。辛さは甘さを引き締めるために必要だが、それ以上のものではない。

世の中の悪い奴は、甘ちゃんが多数だからこそ悪者でいられる。例えそいつら世界を牛耳って歴史を作り上げているように見えても、本当こそが甘ちゃんのほうが主役なんです。

愚樵さん、こんにちは。
「はじめまして」ですが、そんな気がしないのはなぜでしょうか(笑)。

基本的なところでは私の主張はかつさんに近い。批判されたくらいで逆上するなんてみっともない。ナイーブ過ぎる。こういう左派を私は「ブサヨ」と呼んでいます。その点では同じように短絡した思考しかできない「クソウヨ」と大差はありません。ただ「ブサヨ」は恥を知っているし、他者を思いやる優しさを持ち合わせているという点で「クソウヨ」とは異っている。だからこそその自我はより傷つきやすい。しかし本当はこの想像力を自分を批判している相手にも働かせてみるべきでしょう。それをせずに脊髄反射するから無様な姿をさらけだしてしまうのです。想像力が相手に向かわず、自分が勝手に妄想した姿を相手だと思い込んで(これを「自己投影」というらしい)、その仮想敵に反撃をしている。これはカッコ悪いです。

早くその愚に気がついて欲しいと思っています。そうすれば批判者に対して冷静に対応できるし、自分の過ちを認めることもできるでしょう。

ここまでは、第三者的な目で見ている私のココロです。

しかし、私のうちには「ブサヨ」も同居しています。だから批判されている方の気持は理解できるし、少しは共感するところもある。でも、自己内反省ができないうちにそれを相手に向かって表現してしまったら駄目ですね。自我がもっと傷つきます。最悪なのはとりまきがその傷をなめてくれるのを、受け入れてしまうこと。もとはといえばその傷は自分が自分に負わせたものです。自力で癒すしか直す方法はありません。で、それは至って簡単。かつさんのおっしゃるように素直に自分の過ちを認め、相手に謝罪すればいいだけのことなのです。

1行目をよんで、ドキっとしてしまった臆病者

おはようございます。
真っ先に引用のお礼と、このエントリーに対する感想を発表しなければならないと思いながらずるずると来てます。一度はコメントの下書きまで書いたのですが、タイミングを逸しました。
すると、かつさんとそれに対する愚樵さんのコメントが書き込まれてました。ワタシにとっては、まさにここの葛藤でした。
かつさんのように言いたいけれど、まともな反応が期待できないことを知ってます。言われる少年は、拗ねるか潰れるか、というのも見てきてます。というか、遠いむかし幾人かを潰してしまったことに対する反省もあります。反省以降は、形而上に逃げてしまったのですが(笑)。ずるい人間です。
それでも、いつしかそれも忘れ、ブログでの運動も期待してました。でも、やはり、という思いです。

「甘い連帯」ってのはいいかもしれませんね。どこか哀しくはあるけれど。

私も形而上に逃げたかった

ので、この件には直接触れずにdr.stoneflyさんのエントリーから引っ張ってきたのですが...、なかなか逃げさせてもらえないみたいですね(笑)。

あ、シカゴさん、ようこそいらっしゃいました。拙ブログもご覧いただいているようで、恐縮です。

私も、かつさんやシカゴさんのおっしゃる道理は理解できるつもりですし、正しいとも思います。また、dr.stoneflyさんがおっしゃるように正論がなかなか受け入れられ難いということも。ですが今回の件に関して言うと、そうすっきりと道理を当てはめることができるのかどうか、私は疑問に思っています。

具体名を出したくないので、批判者をA、その取り巻きをA’、被批判者をB、その取り巻きをB’とします。

傍観者から見ることができる事象では、AがBを批判したことが事の発端です。そして、それが真に事の発端であるのなら、かつさんやシカゴさんの道理はまさしく正論であり私も全面的に支持できます。が、しかし、事の深層には傍観者には見えない何かがあるような感じもする。瀬戸智子さんが指摘なさっておられるように(「ブログでの討論とは」http://ts.way-nifty.com/makura/2008/01/post_f0a1.html)、AがBの問題点を取り上げたそのやり方には不手際があるわけですが、私にはその不手際が本当に単なる不手際だったのか、その点がどうも引っかかるのです。

もし仮に真の事の発端が傍観者にも確認できる時点ではなくそれ以前にあったとするなら、傍観者から見て不可解なBおよびB’の反応にもある程度説明がつきます。またAの不手際というより不自然な問題の取り上げ方にも説明がつくことになります。

もちろんこれは私の勝手な憶測ですし、証拠があるわけでもありません。そうも考えられる、というだけの話です。しかし、その可能性を否定しきれない以上は、道理をもってそのまま正論である、と断言もできない。はっきり見えるのはA、A’とB、B’が諍いあっているという事実を前にして私が言えるのは、エントリーに挙げたような大甘な戯言だけ、というわけだったのです。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/87-920613b1

最大最高の“愚民化政策”は「公的学校教育制度」です

 中山成彬文部科学相は5日の会見で「もっと子どもたちが切磋琢磨(せっさたくま)する風潮を高めたい」と、子ども同士にも競争原理が必要との認識を示した。  その上で、文科省が実施している教育課程実施状況調査(学力テスト)について「全体の中で、自分がどういう...

ピーター・タスカ氏 日朝交渉を評す 

今週号の「ニューズウイーク日本版」は、対イラクU.N.決議1441号が採択されたばかりというのに、「いざ、戦争へ」という特集を表紙タイトルをしている。 同号の巻頭「On Japan」は、ピーター・タスカ氏が「対北朝鮮外交はケネディに学べ」というタイトル

サラリーマンも田舎暮らしを

 「五感刺激し、モノから発想」(日本経済新聞1月7日付け朝刊『領空侵犯』)で、解剖学者である養老孟司氏が、サラリーマンも田舎暮らしをすることによって、組織の規則が刷り込まれた考え方がいかに硬直化しているかが理解できる、と語っている。  ・「解剖は現場の仕

ネットでの意見表明に対する一考察

「議論」における齟齬。もともとはそういう話だった筈・・・・。 なのに、今、どうしてこじれているか? それについての、一考察。 (どう...

友人はアルカイダ  : ブッシュ 

     1973年10月6日、エジプト・シリアがイスラエル急襲            ↓          第4次中東戦争勃発  10月16...

「水からの伝言」騒動に一言 【いらだちをコントロールする大切さ】

人それぞれ、大事にしているものが、いくつもあると思う。 一人一人が大切にしているものに 順位をつけることなんかできない。 一人一人が大事にしているものを こっちのほうが大事だっ!! いや、こっちのほうが大事だ!! って、争うことは全く...

他山の石

これは備忘録です。 勝手に書いていますのであしからず。 さて、一連の水伝騒動もよ

アベタンのグチリ

今月号の『文藝春秋』に、前首相のアベタンが辞任についての手記を載せていました。 載ってるのがあの殺人出版社文藝春秋社ですし、ぱらぱらとめくってみれば、買うほどの価値もないので、当然立ち読みですませる。 その程度で充分。 内容はとにかく後付けのイイワケ...

ブログでの討論とは

先の「他山の石」というエントリーに対してご意見をいただきました。 本来ならコメン

ブログでの討論とは  追記あり

先の「他山の石」というエントリーに対してご意見をいただきました。ありがとうござい

極左系に殴りこんだ解同系の仁義無き戦い『水からの伝言』

もう済んでしまった事柄だが、護憲派有名ブロブ『お玉おばさんでもわかる、政治の話』のお玉さんまで巻き込んだ『水からの伝言騒動』が数ヶ月前に勃発して、護憲左派のブロガー諸氏は心を痛めているらしい。 『ブロガー水滸伝』によると つまらないことで三角広場のマ...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード