愚慫空論

【怨】の効用

まずお断り。長い文章になると思います。

もとよりこの文章は僕自身のためのもの、僕の存在を主張するためのものです。
だったら、わざわざ「長い」などと断る必要もなさそうなものですが、自分自身のためと言いつつも、他者の視線を気にかけているところはどうしてもあるのですね...、我ながら、良いことだと思います .


(なお、タイトルの【怨】は、【毒】や【恨】と同じ観念を差します。今回、【怨】を用いることにしたのには理由がありのですが、それは後ほど明らかにします。)

 ***

出発は、映画『きみはいい子』です。



この映画はごく最近取り上げたばかりで、僕自身もまだ記憶に新しい。 

   愚慫空論『きみはいい子』

この文章の中で、僕は次のように書きました。

キモは「結」がないことです。
「解呪」はそうそう簡単には終わらないからです。


このように書いて文章を締めています。今回はまず、この続きを書いてみます。

「解呪」は簡単に終わらない。

たとえば、子どもを虐待してしまう母親。「きみはいい子」と抱きしめられた。が、それで直ちに虐待がとまるわけではありません。実は、本当の苦しみはそこから始まります。

その母親だって、虐待をしたくてしていたわけではありません。そうせざるを得なかった。そのような身体になっている。したくないと思っていても、そのように身体が動いてしまう。その身体が、一度の抱擁ですっかり入れ替わるわけではありません。

自分の身体がそのように動いてしまう理由は、アタマではわかった。なのに、まだ身体はそのように動く。抱擁から始まるのは自分の身体との戦いです。みんながみんな、この戦いに勝利できるわけではない。脱落する者もたくさん出ます。

映画『きみはいい子』は、いうなればプロローグに過ぎません。そこから、自身との本当の戦いが始まる。だから、物語に「結」があってはおかしい。

おかしいというのは、あくまで僕の解釈です。


かつての僕は、そのようには理解していはいませんでした。かつての僕なら、同じ『きみはいい子』を「結」のある物語だと解釈していたと思います。そこから何が始まるかを知らなかったから。


 ****

僕の4年前の文章です。

  愚慫空論『野口整体はナンパ術だった。笑。』

この文章で僕が語ろうとしたことは、今現在おいても、何も変わりはありません。訂正するものはなにもない。ただ、その上に付け加えるべきものは、この4年間の間に生まれています。

ただし、言葉については訂正したいものはあります。内容は変わらないけれど、表記は、今なら別のものを採用するだろうという部分。

ネルソンさんを抱きしめたという少女はこのとき、ネルソンさんと「同調」して「ファントムペイン」を的確に察知し、そして「愉氣」したのではなかったか。


この文で用いた「同調」は、今なら「共鳴」とします。「同調」したなら「察知」ではありませんしね。このあたり、自己と他者の分離がまだキッチリできていなかったと感じます。


大切なところなので、かつてと同じ引用を再び引いてみます。

今を生きる親鸞

ネルソンさんは、ベトナム戦争から帰国後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみました。いわゆる戦争後遺症で、戦争をありありと思い出すフラッシュバックや苦痛を伴う悪夢といったかたちで、戦争の再体験をして苦しんだのです。

戦場で目の当たりにした殺毅やあらゆる暴力、そして自らも多くの人々を殺したことが片時も頭から消えず、その惨劇が悪夢となつて毎晩のようにネルソンさんを襲いました。

ちょっとした匂いや音でもすぐ戦闘状態に戻つてしまい、帰国後わずか一週間で家族から追い出され、ホームレスの生活を余儀なくされたのです。まさしく「生きる場」を失つた苦しみです。
ネルソンさんは、その耐えがたい苦しみから、自殺を試みたのです。彼と同じように苦しむ帰還兵で自ら命を絶った仲間は数万人にのぼると言われています。

その、ネルソンさんが立ち直ろうとしたきっかけは、ある一人の少女との出遇いでした。ホームレスを続ける彼が、学生時代の友人である教師に頼まれて、小学校でベトナムの体験を話すことになり、四年生の教室に立ちました。しかし、いざ子どもたちの前に立つと、ジャングルで自分がしてきたこと、見てきたことをありのままに語ることはできなかつたので、戦争一般の恐ろしさを話してその場をやり過ごしたのでした。

そんなネルソンさんに一番前にいた女の子が質問したのです。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」と。ネルソンさんは、そのことこそ、どうしても忘れてしまいたい、思い出したくない、消し去りたいと思つていたことなので、答えることができず、目をつぶつて下を向いてしまったのです。様々なことが頭をよぎりながら、最後に目をつぶつたまま小さな声で、しかしはっきりと「イエス」と答えたのでした。

すると、苦しそうな彼の姿を見て、質問した女の子は彼のところまできて彼を抱きしめました。彼が驚いて目を開けると彼のおなかのあたりで目に涙をいつばいためた少女の顔がありました。「かわいそうなネルソンさん」。そう言ってまた抱きしめたのです。

その一言を聞いたとたん、彼は頭が真っ白になり、大粒の涙が彼の目からあふれ出たのです。教室中の子どもたちが皆かけよつて彼を抱きしめました。子どもたちも先生も皆泣いていました。
「この時、私の中で何かが溶けた」とネルソンさんは述懐しています。・・・


ネルソンさんを抱きしめたという少女はこのとき、ネルソンさんの「ファントムペイン」に「共鳴」して、その「痛み」に的確に「愉氣」したのだと思います。


僕がネルソンさんのことに関心を持つのは「ネルソンさんは僕」だからです。だから、次のような文章を書く至った。これは今から考えても自然な流れだったと思います。

  愚慫空論『自身の恨みに愉氣をする』


当時の僕の解釈では、これは「結」でした。愉氣さえ出来れば苦しかったことが解決すると思っていました。そう思いたかった。


 *****

同じころ、ネルソンさんについて再度取り上げています。

   愚慫空論『当事者の時代』

佐々木俊尚さんの『当事者の時代』という本を読んで感心すると同時に、疑問も提示している。佐々木さんの示した枠組みではネルソンさんの「当事者性」をうまく解釈することができないと思った。といって、僕自身のなかにもうまく解釈することができる枠組みがあったわけでもない。

今を生きる親鸞

4 回復に必要だったもの

    「どうして殺したのか」

一対一のカウンセリングのとき、ダニエルズ先生がきまって最後に聞くことがありました。「あなたはなぜ人々を殺したのですか」という質問です。

私は、あるときは「戦争だったから」と答えました。すると先生は「わかりました。じゃあまた来週」と言ってその日の治療を終えました。

次の週、やはり一時間のカウンセリングの最後に、「なぜあなたは人々を殺したんですか」と聞かれました。私は、少し考えて、「上司の命令に従ったからです」と答えました。先生はまた、「わかりました。また来週」と言いました。

  (略)

ところが、ダニエルズ先生の治療を受け始めておよそ九年がたったある日は、違っていたのです。私が診療室に入ると、先生は、いちばん最初に、「ネルソンさん、あなたはどうして人々を殺したのか言ってもらえますか」と聞いてきました。
  (略)

私はまた言い逃れをしました。「命令に従ったからです・・・・・・」。するとダニエルズ先生は、ごく自然に合いの手を入れるような口調でたずねました。「ふむ、で、あなたはなぜ人を殺したのですか」。

私はまた言いました。「先生、戦争だったんですよ。敵を殺さなきゃ、こっちがやられていたんです」。するとダニエルズ先生はまた聞きました。「うん、で、どうしてあなたは人を殺したのですか」。

  (略)

もしそのとき、「君はウソをついている!」とか「本当のことを言え!」などと強く言われていたら、「抵抗」のしようもあったと思います。でも先生は、私が言うことに対し、本当に淡々と、「オーケー、で、あなたはどうして殺したのですか」と聞き続けるだけでしたから、私としても、その聞かれたないようについて向き合わざるを得ませんでした。

  (略)

「もう『逃げ場』がないな」。そう感じたとき、私は言い訳をつくることをやめました。私はよくなりたいと思っていたし、ダニエルズ先生は必ず私を助けてくれるとわかっていました。だから、「いまここで、もっと自分の心の深くまで行かないと」と思ったのです。

私は、自分がベトナムでしたことを認めるのを拒否している――自分の言葉が言い訳であると感じるに従って、私にはそんな自分が見えてきました。そして思ったのです。

「だれも、本人がしたくないと思うことを、その人にさせることはできない。したくなければしなければいいのだから。私自身が、戦場で人を殺したいと思ったからこそ、軍は私にそうさせることができたんじゃないのか」。

そこまで考えて気づいたことを、私は口にしました。

「殺したかったからです」。

ダニエルズ先生は、だまってうなずいていました。とても不思議な瞬間でした。私のなかで何かが動き出しました。

そう、自分が殺したかったからそうしたのです。それは私自身の行為であり、だれに指図されたからでもありません。軍も上官も、攻撃命令を下すにしても、あの人を殺せ、この人を殺せと指定するわけではありません。それら一人ひとりを撃ったのは、たしかに私の意志であり、それは、私が殺したいと思わなければ起こりえないことでした。


愉氣をもって「結」だと考えたかった僕には、ネルソンさんが提示したことの意味がわかっていませんでした。「回復に必要だったもの」と明記してあるのに、届かなかった。まだ準備ができていませんでした。

ネルソンさんについてのふたつの引用は、時系列でいえば上が先、下が後でしょう。調べてはいませんが、内容からみて間違いないはずです。そのことは、4年前でもわかったはずなんです。なのに僕は考えなかった。それは、僕自身が愉氣を「結」だと考えたから。そう考えたかったから、下の方が提示するところに反応できなかった。自分自身の中で壁を作っていたわけです。


 ******

現在の僕は、ふたつのネルソンさんを解釈する枠組みを持っています。

上のネルソンさんは「かわいそうな私」。

ネルソンさんは【怨】に苦しんでいました(なぜ【怨】なのかは、後ほど記します)。そのネルソンさんに共鳴した少女は、「かわいそうなネルソンさん」と言い抱擁した。その抱擁を受け入れたネルソンさんは、自身を「かわいそうな私」だと定義しました。

下でのネルソンさんは、その定義を受けて「悪いのはあなた」だと主張しています。この場合の「あなた」とは戦争です。ところがダニエルズ先生はその主張を認めてくれなかった。少女のように「かわいそうなネルソンさん」とは言ってくれませんでした。


ダニエルズ先生の振る舞いは「機」というものだろうと思います。弱かったはずの〈いのち〉が、自分自身の力で〈生きる〉ことを始める、その「機」です。〈いのち〉には自ら変わっていく〈力〉があります。その〈力〉が発現し始めるその瞬間。

  参考 ⇒ 光るナス『自ら変わっていく力(足湯の意味合い)』

足湯をしてもらう目的は、自分の体の働きを活性化させ、高めていくためです。
ですから時間を区切るということが、とても大事になるんですね。
20分も足をお湯であたためていれば、体は
「あ 楽チン。お湯であったかいからいいや」
と、自分で発熱することをサボってしまいます。

そうなると、足をお湯から出せば、あとはどんどん冷えてしまうばかりでしょう。
自分であたたかくなることは、サボらせちゃってるわけですからね。
だから、6分間だけとか 8分間だけ・・という時間の区切りが、大事になってくるわけです。


足湯(そくとう)には8分という目安があるんだそうですが、あくまで目安。本来は、ひとりひとり、その「機(足湯を止める瞬間)」を見極めなければならないもののはず。

「愉氣」というのは、いうなれば「足湯」です。弱った〈いのち〉に「愉氣」は有効ですが、だからといって、それに頼りっきりでは〈いのち〉は自ら〈生きる〉ことをサボるようになってしまいます。

もっとも【怨】というやつは、それを自覚してしまうとサボることを許してはくれません。それが【怨】の効用のひとつでしょう。


ダニエルズ先生は「機」を見極め、それによってネルソンさんは「かわいそうな私」「悪いのはあなた」という構図から脱却しました。

「かわいそうな私」「悪いのあなた」という構図を提示しているのはアドラーです。アドラーは、この構図から脱却して目指すべき場所を示しています。「かわいそうな私」「悪いのはあなた」に安住するのではなく「これからどうするか」を探求せよ、と。

  参考 ⇒ 愚慫空論『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』

アドラーが目的とするところはシンプルです。
「自分自身を嫌いな物語」を「自分自身を好きな物語」へと再編集すること。

そのシンプルさを支えている方法もシンプル。

「かわいそうな私」
「悪いのはあなた」
「これからどうするか」

人それぞれ多種多様なはずの「物語」をこの3つに収斂させてしまいます。

「かわいそうな私」「悪いのはあなた」。この2つはどちらも「自分自身を嫌いな物語」です。「嫌いな物語」の受容を促し、「これからどうするか」と問いかけることで、「自分自身を好きな物語」を引き出そうとします。




 *******

以下は、いささか不愉快な話へと進んでいきます。なので、以降は「追記」の方へ記すことにします。



 ********

後段は親鸞の言葉から始めたいと思います。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

歎異抄の有名な言葉。「悪人正機のゼロポイント」。そして、とても危険な言葉です。

ネルソンさんは、どういった縁があったのか知りませんが、晩年は親鸞に帰依することになったそうです。上の引用元が親鸞の本なのは偶然ではないわけです。


ダニエルズ先生への信頼によって追い詰められた(?)ネルソンさんは、「自分の心のもっと深いところ」へ到達します。そこで他ならぬ自分自身が「殺したかった」のだということを発見します。

常識で考えるなら、この“発見”はネルソンさんを打ちのめすはずです。再起不能になってもおかしくはないくらい。なのに不思議なことがおこる。この“発見”によって動き出した「何か」によってネルソンさんは救われる。

志願兵としてベトナムへ趣き、進んでたくさんのベトナム人を殺した。これらの事実も弥陀という存在にとってしてみれば「五劫思惟の願」のなかにすっぽりと収る。言い換えれば、たくさんの人間を殺した事実ですらも「自分を好きな物語として再編集」することが許される、ということです。しかも、その再編集の「機」は、「自身が殺したかった」のだという“発見”によってもたらされた。

しかし、これは甚だ理不尽なことです。

少女はネルソンさんを「かわいそうだ」といって抱擁してくれた。戦争のなかで心ならずも人を殺さざるを得ない状況に追い詰められ深く傷ついたネルソンさんだからこそ、「かわいそうだ」と共鳴したはず。ところが、そのネルソンさんが「自分は殺したかった」のだと発見をする。

この発見は、しかし、少女への裏切りではないのか。
論理だけを追いかければ、そうなります。だから理不尽です。「殺したかったのであるなら、自業自得――そうなるのが通常の(社会的な)理です。

ネルソンさんの社会的身分はアメリカ合衆国の(元)兵士です。なので、社会的に罪に問われることはないでしょう。少なくともアメリカ国内にいるうちは。だけど「社会的な罪」と「人道上の罪」が一致しないことは、常識にある大人であるなら知っていることです。一部の大国が「社会的な罪」と「人道上の罪」を都合良く使い分けることも、大人なら知っていてもいいはずのことです。

「人道上の罪」という観点から見れば「殺したかったから殺した」のであるなら、立派に殺人であり犯罪行為。その犯罪行為ですらも、自分自身を好きになるためであれば肯定してもよい。むしろ、積極的に肯定すべきであるというのが親鸞の教え。悪人正機です。

そう考えていけば、真宗が長らく歎異抄を禁書としていたわけもよく理解できようというものです。歎異抄は社会の秩序を破壊しかねない危険性を孕んでいます。社会秩序において、犯罪を処罰するのは基本中の基本ですが、その根底を揺るがしかねないものがある。

これこそが【怨】の効用です。
一方で社会を破壊しかねない危険性を孕みつつも、一方で罪を犯してしまった者を根底から救済する。〈いのち〉の根源へと人を導く。なによりも〈いのち〉が先。〈いのち〉の肯定においては、どのような社会的規範も無意味です。社会的規範を越えたところに〈いのち〉があるのと教えるのが【怨】です。

この発見のあと、ネルソンさんは自らの意志で戦後のベトナムへ謝罪のために赴いたといいます。幸いなことに、ベトナムでは断罪されることなく、心から歓迎されたと聞いています。ベトナムの寛容もまた理不尽なことです。

このようなネルソンさん「再編集」も、ベトナム人の「寛容」も、ともに〈生きる〉ということ、〈いのち〉の力の発現に他ならないと言っていいでしょう。少女の抱擁が「〈いのち〉の弱さ」への共鳴であるならば、「再編集」は「〈いのち〉の強さ」の発露であり、「寛容」は「強さ」への共鳴です。


 *********

残酷な世界の中では、〈いのち〉は常に壮健ではいられません。弱ってしまうことも、それがそのまま死に至る病となってしまうこともある。そのような〈いのち〉に共鳴して「愉氣」をしようとするのは、社会的な存在であるヒトの欲求だと言っていいでしょう。

欲求であるならば、状態が改善されると自然消滅するはずです。
ところが【怨】には落とし穴があります。状態を改善しないとしてしまう思い込みを【怨】は生む。この思い込みを僕は「呪い」と表現しています。

「呪い」とは【怨】への呪縛です。呪縛の中にある〈いのち〉は、弱った状態から改善されると暴れ出してしまう。
〈いのち〉の誤動作です。この誤動作は、【怨】を自覚したからといって直ちに止むものではない。むしろ自覚したからの方が厳しい。

〈いのち〉の誤動作は他人を傷つけてしまいます。映画『きみはいい子』の前半で描かれている通りです。【怨】の自覚がないうちは、傷つけてしまう自分を直視することはしません。原因は相手にあると考えようとする。そう考えることで、自分自身へのダメージを避けようとします。

ところが自覚が生まれてしまうと、そのダメージを避けることが出来ません。心ならずも他人を傷つけるように動いてしまう身体がもたらす結果を、自分の責任として引き受けざるを得ない。他人を傷つけてしまう自分自身に自分が傷つくという状態に陥ってしまいます。

この状態は『きみはいい子』では描かれていないところです。前半を「起」、後半を「転」とするならば、この状態は「転」を受けた「承」になるでしょう。

この状態には「愉氣」は効きません。効かないどころか逆効果になる。〈いのち〉が弱るなら【怨】もまた弱る。「愉氣」は〈いのち〉と同時に【怨】も改善させてしまうことになる。【怨】が強くなれば〈いのち〉の誤動作もまた強くなってしまう。それで傷つき弱り、また回復して傷つき――悪循環の繰り返しです。

が、これは「愉氣」そのものの所為ではありません。「愉氣」がもたらす自覚の問題。「かわいそうな私」「悪いのは私」という構図です。


【怨】を自覚しつつ愉氣を行うということは、どうしても【怨】に「愉氣」するという意識になってしまいます。少女の「かわいそう」も、『きみはいい子』の抱擁も、まさにそれです。その結果は、【怨】は「悪いもの」であり、「悪いもの」に冒されている「私はかわいそう」だという自覚を生むことになる。これはしかし、「呪い」を強める結果になってしまいます。

愉氣が効力を発揮するのは、〈いのち〉そのものに対してだけです。ヒトがヒトであるという機序、つまり、愉氣は「ヒトの都合」には効く。【怨】や「呪い」といった「人間の都合」には効きません。「人間」としては甚だ未熟に生まれた「ヒト」は、「社会の都合」に合わせて成長し「人間」になっていく。【怨】や「呪い」はその過程で生じるものですが、愉氣の有効範囲は「ヒトの都合」までです。

だから【怨】に愉氣しているつもりでも、効いているのは〈いのち〉の方。愉氣は〈いのち〉の共鳴なのですから、それが道理というものでしょう。


 *********

個別の〈いのち〉にはそれぞれ「型」があります。その「型」は、“本能”と呼ばれ、場合によっては“生存戦略”という言い方をされます。

「ヒト」の〈いのち〉の型。それは「人間になって社会を営む」ということです。「ヒト」が「人間」になるというのは、「ヒト」の〈いのち〉の発現。つまり〈いのち〉の「強さ」です。


弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

親鸞の言葉が示しているのは、そのことだと僕は解釈します。社会には誤動作がある。ヒトは社会に適応して人間になるが、社会の誤動作ゆえに【怨】が生まれ、それが「人間」の誤動作を生みだし社会の誤動作を再生産せしめてしまう。そうした【怨】の再生産も含めて「弥陀の五劫思惟」とした。

そうなると、誤動作であっても、【怨】を含むものであっても「人間の都合」は肯定されることになる。「ヒト」が「人間」になっていくという〈いのちの型〉の肯定になる。だから「私は殺したかった」と言明できるようになる。

もちろん親鸞の言葉は後付けです。悪人の自覚から、つまり【怨】の自覚の苦しみから、「私は殺したかった」という発見があって、親鸞の言葉の意味が腑に落ちる。


(こういった作用を回路はたらすものは、親鸞だけに限りません。キリスト教にだってイスラームにだってある。なのに、なぜネルソンさんは親鸞を信奉するに至ったかは謎。ミッシングリングですが、それはそれでいいでしょう。)


ここにおいて〈いのち〉の概念は拡張されることになります。ヒトの〈いのち〉――「ヒトの都合」――から、【怨】をも含んで発展する「人間の都合」への拡張。これは今後、《いのち》と表現することにしたいと思います。


〈いのち〉にとって【怨】は、排除すべき悪でした。しかし《いのち》にとってみれば、【怨】もまたその一部です。「自分を嫌いな物語」においては【怨】は排除すべきものでしたが、「自分を好きな物語」では【怨】ですらも〈懐かしい場所〉として再編集される。〈いのち〉が発展して《いのち》になるということは、そういうことです。


 **********

ようやく文章を締めることができそうですが、最後に【怨】とする理由について。

これは論語に依っています。

論語には、次のような問答もある。

或曰、以徳報怨、何如。子曰、何以報徳。以直報怨、以徳報徳。(憲問第十四、三十六)

或るひと曰く、徳を以て怨みに報ゆるのは、何如、と。子曰く、何を以て徳に報いん。直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いん、と。


怨みに「徳」を以て答えるというのはどうか、という質問に対して孔子は、怨みには「直」を以て応え、「徳」には「徳」を返すのが正しい、と答えている。「以直報怨」の「直」というのは、何度も見てきたように、人間のみずみずしい感情をそのまま表すことである。(中略)それは怒りの表現かもしれず、あるいはサラに気高い寛恕かもしれないが、復讐心を押し隠す臆病ではありえない。

ガンディーは恥辱を加えられた人々がどのように対応すべきか、という点に関して次のように主張する。

もし彼らが心の報復の気持ちさえ感じずにその恥辱に耐えるだけの勇気を持っていたならば、彼らは少しも傷ついていない。けれども、もし彼らが歯がゆさをかんじながら、便宜上から復讐をひかえたのであるならば、恥辱に耐えたことが完全に彼らの側の間違いであった。


私はこれがまさに「以直報怨」という態度だと考える。

顔回について孔子が言っている二番目の表現、「怒りを遷さず」はこのように考えれば、すんなりと読むことが出来る。(後略)


ガンディーの言う「彼ら」とはベトナム戦争に志願して従軍したネルソンさんです。アメリカという社会で黒人に生まれたネルソンさんが【怨】を社会から植え付けられたことは想像に難くありません。が、それを「直」をもって返さなかった。「便宜上から復讐をひかえ」たばかりか、社会から認められるために志願兵となり、怒りをベトナムへと遷した。それは【怨】の作用です。

ネルソンさんがダニエルズ先生に追い詰められた認めたのは、「怒りを遷した」ということです。そう認めることで【怨】の作用によって生じる「呪い」から解き放たれた。以後、ネルソンさんの行動は「直」に移ることになります。


僕がアレン・ネルソンという存在を知ったのは、護憲運動の中でです。

ジャングルの中でベトナム人を殺して回っていた最中に、ある出会いがあった。防空壕を襲撃したら、若いベトナム人少女が出産の真っ最中だった。思わず手を差し伸べたら、その手の上に赤ん坊が生まれ落ちた。少女は赤ん坊をひったくるように奪って逃げ、ネルソンさんの手の上に後産が残った――。こんなエピソードを知った。

思わず手が出てしまう。アタマよりも先に身体が動く。これを「惻隠の情」と言います。「ヒトの都合」です。ヒトはそのように出来ている。「ヒトの都合」が「社会の都合」から生まれた【怨】の作動にダメージを与えた。それで兵士を続けることが出来なくなり、PTSDで苦しむことになり――アメリカ映画で何度も出てくるテーマです。


アレンさんが日本の護憲運動に加わることになったのは、不思議なことだとは思いません。「ヒトの都合」と「人間の都合」を肯定するなら、そして社会の誤動作を認めるなら、その先は「社会の不都合」を認めるほかないからです。9条とは「社会の不都合」の指摘に他なりません。


【怨】というのは「ハラスメント」のことです。「ハラスメント」が成立する条件は、圧倒的な力の差です。親と子の力の違い。社会と個人の力の違い。歴然とした力がある中で「直」は難しい。親は、あるいは社会は、子や個人の生殺与奪を握っているからです。「直」は生存を賭けたものにならざるを得ません。

【怨】を経由した者が《生きる》ことを選択するなら、もう道は「直」しか残っていません。《生きる》なら選択肢はない。【怨】の効用、すなわち「直」を生むことです。「直」になってこそ「解呪」です。

もっとも「直」の在り方は、ひとつしかないわけではありません。直」は人それぞれ。(才能も含めた)個性に合わせて「直」があります。

コメント

一点だけ。

愉気というのは、効くとか効かないとかいう類のものではないですよ。 (^^;)
そこの誤解も、今後 なんとかしてくださいませ。

アキラさん

またもやご迷惑をおかけしましたか? だとすれば、お詫びを m(_ _)m

言い訳ですが、僕のいう「愉氣」はあくまで比喩表現です。それは4年前の文章から変わっていません。それに、愉氣そのものを語る資格は僕にはないと思っています。

が、それはそれとして、誤解がないわけでありません。「愉氣そのもの」も「効くもの」だと思っておりました(^_^;) といって、僕はやはり「愉氣そのもの」は語れないので...、ぜひ、ご教授を。

(^o^;)、いえ、愚慫さんが僕の話すことを受けとってくれていることは、直前のエントリーからも察せられましたので、迷惑とかそういうことではありません。

でもね、「愉気」って言い切っちゃうと、比喩表現にはとられないと思ったりも。

今の愚慫さんに僕から言えることは、愉気というのは「効くとか効かないとかいう類のものではないですよ」ということですかね、やっぱり。 (^^;)
ネルソンさんを抱きしめた少女のそれも愉気だと思いますけれど、ダニエルズ先生のそれも 僕からするとやっぱり愉気だと思います、です。

>ダニエルズ先生のそれも 僕からするとやっぱり愉気だと思います

それは理解できます。というか、「アキラさんはダニエルズ先生」なんだろうと思います。
だけど、「僕はネルソンさん」の方なんです。

僕がアキラさんに言いたいのは、この違いなんですよ。
「誰の視点で見ているか」ということです。

ネルソンさんだって、少女の行いとダニエルズ先生の行いが、専門性による裏打ちの有無はあっても、本質は「同じ」だってことは理解しているだろうと想像します。時系列的に少女が先で先生が後だろうと思いますが、これが逆だったら難しいと思う。ベトナムの少女、アメリカの少女、専門家の先生という段階を経ていったことが重要なんだと思います。

そういう段階を経ていく中での、ネルソンさんの視点に模した「僕の視点」の話なんです。

その視点からいえば、信頼できる相手であっても、それが「愉氣」であっても、やはり「追い詰められた」んです。

「相手への信頼」と「自身への信頼」は同じことのようでいて、実は違うのですよ。違う者にとっては、ね。その違いを生むのを【怨】だと言っている。

この違いが「愉氣」によって「追い詰められる」という状態を生む。「追い詰められる」べき者が、ここを「愉氣」だと思ってしまうと、それは逃避になってしまって、いつまでも「自身への信頼」にたどり着けないんです。

>だけど、「僕はネルソンさん」の方なんです。
<
了解しています、もちろん。

>時系列的に少女が先で先生が後だろうと思いますが、これが逆だったら難しいと思う。
<
これも了解しています、もちろん。

で、愚慫さんに関しては、僕は「追いつめている」んです。
誰に対しても同じことをするわけではありません。
愉気とは、優しいものではありません。
(特に野口晴哉先生の愉気は。 おそらく)

それによって、参ってしまうことも 想像はしています。
だけれども、僕は信じているんです。
愚慫さんが、それを糧に跳躍することを。
現に愚慫さんは、すでに糧にしてくれている。

でなければ、こういう関わりは持ちません。

おお、そうだったんですね! 
僕は追い詰められていたんだ(^o^)

愉氣が優しいものではない、というのはそうかもしれません。
そこのところは僕にはわからない。
特に野口晴哉師の愉氣なんて、想像もつきません。

だけど、「愉氣」(←カッコ付き)は、僕には優しいものでした。
これはアキラさんがどう言おうと、また愉氣そのものが優しいものであることが事実であったにせよ、なんら変わりはありません。「僕の物語」だから。

アキラさんが信じてくださることには深く感謝します。
僕だってアキラさんを信じていますとも。
いまさら言葉にする必要もないと思うほど。

自分でいうのもなんですが、僕はもはや(アキラさんの仰る意味での)「糧」なしでは生きることはできません。それもまた【怨】の効用です。

跳躍とやらも、もはや望んでいないかもしれない。かつては切望していましたけど。「糧」さえあれば〈生きて〉いけるし、望みさえすれば「糧」は何処にでも見つかりますしね。

あいや、跳躍を望んでいないわけではないな。それは【怨】を「糧」にできることかも。そうなれば「糧」に困ることはない。【怨】に塗れた社会ですからね。

僕にとっては、〈世界〉は神秘だけど、〈社会〉はわけのわからないものなんかじゃないんです。その理解がたとえ独り合点であっても、〈社会〉は僕にとっては理解可能なものです。もちろん、完全な理解ではない。完全に理解する必要も感じていない。

【怨】を「糧」にし消化する。それは理解に他ならないし〈生きる〉ことに他なりません。それが他の誰かの為になるかどうかなんて、どうでもいい。そこは信じていますから。ヒトは幸せになるようデザインされている。幸せになろうと思いさえすれば、どんなことだって「糧」にすることができる。僕ごときが出る幕ではありません。

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