愚慫空論

『言ってはいけない―残酷すぎる真実―』





この本については、残念な読書をしてしまったと思っています。
粗探しというか、盲点探しというか。

この本に列挙されている「科学的事実」についての粗(あら)を探す能力は僕にはありません。反証を探すことはできるかもしれませんが(ネットはそうした目的には便利です)、そのような行為は僕にとってはコストパフォーマンスが低い振る舞いなので行いません。なので「盲点探し」をするための読むということになった。

「盲点探し」は、僕の読み方でもあります。だけど、自己弁護をするようですが、初めからそのことを目的して読むということは、あまりしなくなりました。いつからか、そういうアタマの使い方は気持ちのよいものではないと感じるようになったから。それで、目的のものを発見したとしても、せいぜい“ドヤ顔”をしてみることができるという程度のリターンしか得られない。


読書の目的は知らないことを知ることです。

その意味でいうならば、本書は、僕の知らないことをいくつも提供してくれました。いつもなら、そのことを純粋に楽しめるのに、今回はそうはいかなかった。目的が違ったからです。

知らないことを知って、自分がすでに知っていることと統合していく。その統合の過程で生まれる言葉を綴ってみる。僕の最近のブログ記事はそういうものであることが多い。その過程で「盲点」が浮き出てくる。知らないことを知って、知っていることととの間に生まれる齟齬が「盲点」なわけです。

――と、自己弁護はしてみたものの、反省もあります。「盲点」を著者の属性のように書いてしまうこと。このあたりの書き方は工夫の余地があるのでしょうが、まだまだ手探り状態です。

そんなわけだから、公開で書いてはいても、誰のためでもない、僕自身の為のもの。僕の存在を主張するためのもの。
そういうわけだから、書き方もかなり不親切だと自覚もしている。タイトルに掲げた本なり映画なりを、僕の文章を読んでくれた人に関心を持ってもらいたいというような書き方はしない。敢えてしていないわけではないのですが、それをすることは僕が書きたいこととバッティングすることが多いので、排除されてしまうことになってしまいます。



前置きが長くなったようですが、このような前置きを書きたくなるような要素がこの本にはあります――と、また著者批判になってしまうのですけど、そこはお目こぼしをいただくことにして(頂けないのなら、読まない自由があるので行使をしていただいて)、その要素を取り上げます。ここが本題です。


煽り文句でしかないような本書のタイトルをみて、最初に思ったのは、「言ってはならない」ことを敢えて言うことの意義があるのか、ということです。著者にはそういう意義への自覚があって、読者である僕はそれを汲み取ることができるのか。

結論からいえば、汲み取ることは出来ませんでした。この著者は“ドヤ顔”をして見せたいがためにこの本を書いたのだな、と思ってしまった。そう思ったから、上のような「前書き」になったのですが――。


科学的事実は「言ってはいけないこと」ではありません。科学者は科学的真実を追究することが使命なのですから、その使命を果たすに当たって「言ってもよい」「言ってはいけない」といった社会的尺度は不適合。言っても言わなくても、真実は真実。言うことで悪用される危険はあるかもしれないが、言わないことで知らないうちに悪用されてしまっていることがあるかもしれない。いずれにせよ、それは「言う」ことがあって始めて判明することであり、判明した後どう対処するかは科学者の責務ではありません。

著者は科学者ではありません。科学的事実(というよりも仮説)を“エビデンス”として称して、「言ってはならないこと」を言おうとするライターです。科学的事実(仮説)を、社会の尺度に適用して某かの文章を書く。そういう生業の者。この著者にとっての「意義」とは「生業」の範囲を超えていない。


もっとも、それは批判に値するべきことではないかもしれません。ただ、残念と思ってしまうのは仕方がない。科学者が、科学をするのは生業でしかないと言うのを聞いてしまうと、残念と思うのと同じです。

「言ってはならない」ことを言うのは、「言わねばならない」ことがあるからだ――というのが、僕が解釈する「意義」です。もちろん“僕の解釈”ですから、他の人に強要するつもりはありません。強要するつもりはないが、それを聞きたかった、汲み取りたかったというのは、偽らざる気持ちです。それは過大な期待なのかもしれませんが――。


「前書き」において著者は、

ひとは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない。


とテーゼを提示します。続けて、
私たちを「デザイン」しているのは(かつては「神」だと考えられていたが、現在では)“進化”だという。

そういう著者が主張する“エビデンス”は、実は著者が提示したテーゼの証明になっていません。著者がエビデンスをあげて証明したのは(それができているとするならばですが)、

あらゆる生命は幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない

ということです。「ひと」に限定しなければならない根拠はどこにも見当たりません。

このことは少し考えてみれば当然のことだとわかります。科学は「ひと」を特別視しないからです。生物種の一形態として「ひと」を見るのが科学の視点です。だとするならば、科学的エビデンスをいくら並べ立ててみても、「ひと」だけが幸福になるようにデザインされていないとする根拠が見つかるわけがない。

もっとも、本書は「ひとだけが幸福になるようにデザインされているわけではない」と書いてはいません。それは僕の拡大解釈かもしれない。しかし、「すべての生命が幸福になるようにデザインされているわけではない」のであれば、そもそも幸福について考えることに意味がないということになります。幸福について考えることに意味がないのであれば、「考えること」にも意味はないでしょう。ひとは幸福になるために考えるのだから。

――というような考え方はニヒリズムですけれど、科学的エビデンスからニヒリズムは必然だという解釈を引き出すのなら、それはそれで意義のあることだと思います。僕がその解釈を容れることはないけれども、その「理」を認めることはやぶさかではないし、突き詰めればそのまま「反転」することが出来るだろうとも思う。

理を反転してみて、うまく反転できずに残るもの。それが「盲点」だろうと考えています。



2015年1月7日、フランスの風刺雑誌『シャルリー・エブド』の編集部がイスラーム過激派の武装集団に襲撃され、編集スタッフや警官など12名が犠牲になった。この事件を受けて、日本を代表するリベラルな新聞社は、「テロは言語道断だが下品な風刺画を載せた方も問題だ」として、「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と宣言した。

本書の企画を思いついたのは、この驚くべき主張を目にしたからだ。誰も不快にしない表現の自由なら北朝鮮にだってあるだろう。憲法に表現の自由が定められているのは、ひとが嫌がる言論を弾圧しようとした過去の反省によるものだと思っていたが、“リベラル”を自称するひとたちの考えはちがうらしい。

ちなみに私は、不愉快なものこそ語るべき価値が在ると考える。きれいごとをいうひとは、いくらでもいるのだから。


以上は著者後書きからの抜き書きです。

本書の発端が“リベラル”への反発心であることはいいでしょう。僕も、単に不愉快だからという理由で他人の言葉を抑圧しようとする企てには反発心を持ちます。だけど、だからといって、不愉快なことを述べてもよい、それこそ価値が在るとは思いません。不愉快を越えて提示すべき意義がないなら、不愉快は単に不愉快なだけです。

もっとも、どのように意義を汲み取るかは読者の問題です。著者が意義のない大義名分に依って記したとしても、読者のなかに意義があるのであるなら、自身の「知らなかったこと」の中に意義を生みだすことはできるでしょう。どんな目的で書かれたものであれ、知らないことは知らないこと、なのですから。


知らなかったことを「知らないこと」と為すのは、読者の課題です。「知らないこと」を「知っていること」と為していく過程で「反転」を為すのも、そう。その課題を意識させてくれるのに、(反面教師としてですが)、本書は意義あるものだと思います。

本書に残る「反転できないもの」は反発心です。別に反発心そのものは良いも悪いもないんですが、不愉快に感じられるのは、反発心を正当化しようとする「心」。別に正当化しなくてもいいのに。

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