愚慫空論

『狐笛のかなた』


上橋菜穂子さんの物語について書くのは、前回で打ち止めだろうと思っていました。



ところが、『狐笛のかなた』を読んでみると、そうはいかなくなってしまいました。「言いたいこと」が湧き出て来てしまいました。

『狐笛のかなた』は、霊験あらたかな護符のような物語です。

まだ「呪い」にまみれていない子どもたちにとっては、「呪い」へのお守りになる。
「呪い」にまみれた大人にとっては、「解呪」への手がかりを提供してくれる。

もっとも大人の場合、自身が呪われているのだという自覚がなければ「解呪」には至りません。
自覚なき場合でも、一時的なヒーリングのためのストーリーとして消費されてしまうことになるでしょう。多くの物語と同じように。

自覚があるときには、この物語は生々しいファンタジーです。
ファンタジーなのに、生々しい。
いえ、ファンタジーだからこそ、生々しいのかもしれません。


この物語の主人公は、“野火”という名の霊狐です。
もう一人の主人公は、小夜という名の娘。いわゆる異能者です。
『狐笛のかなた』は、このふたりの恋物語です。といって、いわゆる“ラブストーリー”とは違うのですが。
野火は、呪術者に仕える使い魔という設定で、“狐笛”というのは霊狐を呪いで縛る道具です。

使い魔は絶対に呪術者である主には逆らえません。命を握られているから。霊狐はもともとは〈あわい〉と呼ばれる世界の生き物なのですが、呪術者は魔術によって〈あわい〉から霊狐をつまみ出す。つまみ出したときに術によって命を握り、いつでも握りつぶすことが出来る――という設定。

こうした設定は、子どものためのものでしょう。だからといって、そうした設定が本当に架空の話かというと、読む者にとってはそうでない場合がある。

 自身の生殺与奪を誰かに握られているという恐怖。
 恐怖ゆえに従わねばならないという屈辱。
 屈辱が生みだす憎悪。
 憎悪を飼い慣らそうとして陥る不信。

この不信は、他者へ向けてである以上に自分自身へ向けてものです。
そのことに気がつけば、子ども向けの設定であっても、リアリティがあります。


上橋さんは、野火と小夜のふたりを、ひとりの登場人物の独白という形で次のように評します。

この娘は、やさしい。後先を思うより先に、情で身体がうごいてしまう娘なのだろう。
野火もまた、おのれの身を守るより、この娘をたすけてしまうような獣だ。
(・・・・・・この子らは、蜘蛛の巣の、細い糸の先でふるえている、透きとおった水の玉のようだ。)
そのあやうさが、半天狗の木縄坊には、哀してならなかった。


後先で思うより先に、情で身体が動いてしまう。
このような心身を「惻隠の情」あるいは「忍びざるの心」と言います。孟子です。

惻隠の情は「同情心」と解されますが、“心”ではないのです。心に先立って動く“身体”です。
今にも井戸に落ちそうな子どもを見たら、ハッとして、惻惻とした陰痛を心に覚える――と、『孟子』には記されているらしいのですが、「心に覚える」と書くから「同情心」という解釈になる。柔軟な心身ならば、陰痛を覚えるより先に身体が動く。ハッとして、気がついたらもう動いてしまっています。

心が思うより先に身体が動くという命題は、現代の心理学において真とされていることです。たとえば、椅子に座ろうと思ったとすると、その考えが意識に登るより先に身体が先んじて動いている。身体の動作と意識の間にはコンマ数秒の差がある。心は身体のモニターです。

そうした惻隠の情も、呪いが支配する世界では危ういものでしかない。そのことをアタマが理解し、思うより先に動いてしまう身体に後からブレーキをかけてしまう。後からのブレーキこそが「呪い」という現実的な効果です。



「呪い」が人間にとっては現実的な効果であるということ。
それは「ハラスメント」であるということ。

これらのことは、今まで散々述べてきたことです。なので、これが特に今回「言いたいこと」だといういうわけではありません。「言いたいこと」は、次のことです。

後書きで上橋さんは、この物語を「〈なつかしい場所〉と物語」と記しているます。これにはいささか驚かされました。僕の「言いたいこと」はこの驚きから生じています。

このような呪いの物語のどこがなつかしいのか。

「なつかしい」は「やさしい」の親戚です。たしかに、野火も小夜もやさしい。彼らを支えるキャラクターたちも、多くはやさしい。だけど、『狐笛のかなた』は全体としては、呪いと怨みが支配する世界の残酷な物語です。野火や小夜たちの「やさしさ」は、世界の残酷さを際立たせるためのスパイスだと言えなくもない。サイコパスな人工知能あたりに分析をさせれば、残酷な物語という判定が下ってもおかしくないと思うくらいです。

というわけで驚きはしたけれ、しかし、腑にも落ちるのです。その理由は、僕は先に上橋さんの『物語ること、生きること』を先に読んでいるから。


この本の頭の方で上橋さんは、おばあさんから物語を浴びせられるようにして育ったと述懐しています。『狐笛のかなた』はきっと、「おばあさんの物語」の系譜を接いでいるに違いない――勝手な憶測ですけれどね。

 日々暮らしているうちに、知らず知らずのうちに溜め込んだイメージが、心の底にしみこんで、溶けあって、深い泉のようになっていて・・・・・・そういうところから生まれてくる光を、てのひらの内にくるみこんだ灯りのように輝かせて、物語を描きたいとずっと思っていました。
 野火と小夜が駆けて行く春の野の香りを、感じていただけたら幸せです。


僕が『狐笛のかなた』を“霊験あらたかな護符”のようだと思ったは、この文章を読んだとき。おばあさんからの護符を受け継いだ上橋さんは、新たに護符を認めた――と思ったのです。


「呪い」をオカルトだとしてしまうと、「護符」もまたオカルトな意味しかもちません。
ですが、何度も繰り返しますが、僕は呪いを現実だと考えています。ですから、護符もまた現実的な意味を持ちます。

そのように考えていくと、本当は、昔話は残酷なものだったという真実も納得がいきます。昔話もまた護符だったんです。呪いから心身を守るための護符。「ワクチン」と言った方がいいかも、ですが。

呪いに打ち勝つイメージを子どもたちの心に植え付け育ませるための物語。
上橋さんの心の底にある〈懐かしい場所〉というのは、「打ち勝つイメージを育んだ場所」ということなのではないでしょうか。

読者はその〈イメージ〉を上橋さんから受け取る。これはなにも『狐笛のかなた』に限らないことですが。『守り人』シリーズにも『鹿の王』にも、しっかりとあったものです。そして、その〈イメージ〉を、僕たちは自身の身体の中で育むことができる。上橋さんがそうであるように。



以下、余談です。

僕は、『狐笛のかなた』とよく似た物語をふたつ、知っています。

ひとつは、アニメ映画です。


ハウルは野火です。呪われた魔法使い。ソフィーは小夜です。『ハウル』が二人の恋物語であり、しかし、いわゆる“ラブストーリー”ではなく、恋をエネルギーにしたふたりの解呪の物語であることも、『狐笛』と同じ。

もうひとつは、歌劇です。ヤナーチェクの『利口な女狐の物語』
(動画はBBCのアニメ版を貼り付けておきます。)


『女狐』と『狐笛』がどのように似ているのかは、長くなってしまうのでここでは触れません。ただ、野火はオスで『女狐』ではないという違いはあるにせよ、同じ狐であるということは偶然の一致ではないだろうということは記しておきたいと思います。

コメント

読んでから物言え、について

おはようございます。

やはりワタシのなかにある「題材を読んでから・・・」を非常に感じています。
このエントリーにしても、「狐笛のかなた」を読む前と読んでからの再読とではまるで違います。
本を読む以前は解らなかったとエントリーが、読後はワタシのなかに深く染み入り、また裡より湧き出る。
〈共感〉です。
(本を読む以前のワタシが、なるほどそうですね、というのが「同意」かな?、笑)
読む以前のワタシと読んだ後のワタシが核について語り合っても咬み合わないだろうことは容易に想像できます。
読む以前のワタシが何言おうが、ズレてくる気がします。
まあ、ワタシだけの「正しさ」かもしれませんが、笑
とはいえ、「読む」「読まない」だけでなく、「経験」「未経験」をふくめおうおうにしてあるのかもしれませんね。
「呪い」まみれになっている自覚、なんかも、ある、なし、では話が咬み合わないのも当たり前なのかも。

あれれ、すべての他者の経験は未経験とすると、・・・少し思索ごころがくすぐられていますwww

・毒多さん

すべての他者の経験は未経験、です。言い換えれば共有はできない。

言語学的にいえば、シニフィエ(記号)は共有可能です。
ですが、シニフィアン(内容)は基本的に共有不可。
共有不可だが〈共感〉は可能。


思い返せば、昔の論理vs共感の諍い。あれは、シニフィアンが共有可能かどうかを巡ったものでした。シニフィアンは部分的には共有可能です。「限定」すれば可能になる。

たとえば、「マーケットメカニズムが価格を自動的に決定する」と思い為せば、メカニカルに自動生成された価格を共有物だと思い込んで、その結果として「共有」は可能になる。この「思い為し」は〈共感〉の排除です。「限定」は【限定】であり、【限定】を守るために、攻撃をしなければならなくなる。【限定】にアイデンティティを置こうとする人間にとって、それは必然。【限定】を守ろうとする姿勢が「同感」です。

〈共感〉とは【限定】解除です。共有不可の前提に立ち、各々が経験することは各々のものとする。そして、尊重する。尊重することで生まれるであろうと期待されるのが〈調和〉です。そういう能力をヒトは備えている。

経験が共有不可能であるにもかかわらず、群れ(社会)を営む能力があるとするならば、そういった能力があると考えないと、理に合わない。そしてこの〈理〉は、自分を信じることから生まれてくる。それが【阻害】されてしまっているヒトは、残念だけど、【限定】され、カウントすることが出来、誰にでも共有可能な【内容】にしがみつく他ない。そこにしがみつくことで、自己欺瞞を守ろうとする。

前置きが長くなりましたが、「読んでからものを言う」という姿勢は、〈共感〉を求める姿勢なのだろうと思います。いえ、「読んでからものを言う」姿勢すべてが〈共感〉を求める姿勢ではないですけどね。批判のために読むということも、僕にはたびたびある。それは予め【限定】した姿勢であって、〈共感〉ではない。それがアタマではわかっていても、なかなか止めることが出来ない僕がいます。

だけど、そんななかでも、自分のなかに〈共感〉が生まれる手触りはあります。その手触りを追いかけることと、他者の経験を自らの経験としてみたいという欲求は繋がっています。他者とは異なる自らの経験。他者を信頼することから生じる、自分だけの経験。「手触り」を追いかけることが、他者への信頼と自身への自信をつなげる架け橋になっている。そんなふうに思います。

批判とはなんだ?

おはようございます。

相変わらず解る部分と解らない部分があります。
この、解る、解らない、というのは共有不可以前の知識までふくめた経験の個体差だと思います。
「マーケットメカニズムが価格を自動的に……」アタマでは解るのですが、ピンときませんでした。
おそらく、こうだろう、、ぐらいでは解りますが。

人というのは「共有」を欲している、そうした生き物ですね。
共有不可ではあるが、共有を欲する。
社会的生物がためか、共有を欲するがゆえ社会性に進んだのかは知りませんが。
本も音楽も絵でもネットでも、ありとあらゆるものを通して共有を欲しています。
おそらく最たるものが「言葉」なのでしょう。シニフィエですか?(ソシュールは不勉強です)
それは「手段」になりますか?、そこで一旦終結するのでしょうか?
いずれワタシが問題に思っているのが「内容」のほう。
共有不可のなかでどれだけ共有を深められるか、、、、
そこで問題になるのが〈共感〉の有無というのは共感します。

〈共感〉は他者がするものですね。
自らが他者にするとすると、共感の強要、か、共感さえない強要、になりますか。
承認欲求(からの承認強要)というのもこうしたものかもしれません。
共有したい生き物として、自らできることは、強要か、〈共感〉を他者に期待する。
期待するためにできるのは、自らに向けた何かでしかならない。
とすると、「読んでから物を言え」も他者に言う言葉ではありませんね。自らに課するものでしょう。と考えなおしました。
いずれにしろ、他者が自ら生じさせなければ〈共感〉ではなくなってしまう。

さて問題は「批判」です。
「批判」は誰にむけたものでしょうか?
通常は他者にむけたものと考えます。批判することで〈共感〉を飛ばし強要となるのではないでしょうか? 自分の正しさの押し付け。
「別にこうした考えもあるのではないか」という提出でなくて、批判です。
オノレの思考を固定化したうえでなされるのが批判です。

とはいえ、いつでもどこでも批判は、なくなることなくされている。
批判も意味のあるものかもしれない。
確かにワタシが批判された場合、自らを振り返ることもある。
振り返る多くは、批判するものを認めている場合ですね。
池田晶子から批判されたら、耳を皿にして聞こうとします。
彼女はショッチュウ他者を批判してました、、、、なつかし。

ワタシとてたまには批判します。
まあ、結局は他者に自己を見出し自己批判になるのが常ですが・・・
沖縄の女闘士はワタシのなかでは完全に過去(活動中)のワタシです。
その批判先は彼女ではなく、ワタシに向けてです。

池田晶子の場合は普遍を根拠に、「個別理由(限定)で断定・主張する」一般他者を批判して居る気がするな。〈共感〉など必要ない、という態度で。
ただ、池田晶子がまったくしらないところで〈共感〉するワタシがいるのですが、おそらく彼女の狙いもそれ、笑。(なんやかんやいっても彼女も共有を欲している)

>なかなかとめることが出来ない僕がいます

止めたいのですか?
愚慫さんが批判してしまう一面は何ですか?
ワタシは愚慫さんに批判されたときに、(池田晶子に対するような)素直に耳を傾けようなど〈共感〉が生まれることはありませんよ。まず、なんだ、こいつ、という感情が先にたちます。
〈共感〉が生まれる手触りが、、、、あったとしても、効率悪いですよ。批判は。
それでもなお、やめれない、、、それには理由があるはずです。
(もちろんこれは批判ではありませんよ、笑)

批判がやめられない理由

毒多さんの理解は置いておいて、いつものように突っ走りますね。(^O^)

子曰
學而時習之 不亦説乎
有朋自遠方來 不亦樂乎
人不知而不慍 不亦君子乎

何度も何度も繰り返し噛みしめている『論語』です。

「儒家は、外部からの強制をよしとしない。それは法家の発想である。それと同時に、無為自然をもよしとしない。それは老荘の発想である。儒家は、人間の本性に根ざしながら、それに基づく作動を他者と調和させ、学習して成長する道を求める」

と安冨さんは書いている。僕は安冨さんがいう儒家でありたいといつからか思うようになっています。いえ、それ以上のものかも(傲慢ww)

批判をやめられないのは「慍」が止らないからです。「イライラ」です。自己嫌悪です。イライラのはけ口を他に向けること。そして、「慍」を生むのが「怨」です。ルサンチマンです。アタマでわかっていても、そのように身体はなっていない。そういう「物語」がまだ僕の中に生きていて、再編集できずにいるからです。

「學而時習之」と「有朋自遠方來」の感触には、もはや確固たるものがあると思っています。だけど「人不知而不慍」は難しい。ここをクリアすると「六十耳順」になるのでしょうが。
(まだ五十前なので、時間はありますww)

かといって、止めたい批判を押し込めるつもりもないんです。そのように、自らを制御するものとして理性を使うつもりもありません。そんなことをしたところで無駄だからです。もし理性がそれほど強力なものなら、戦争などはとっくの昔に絶滅しているはずです。

批判は諸刃の剣です。他者への批判はそのまま自己への批判です。批判をなした後の心地の悪さは、批判が含む【毒】がもたらすもの。毒多さんはそれがわかっているから、自己批判なんでしょ? だけど、それは怯懦だと僕は思います。

そちらへのコメント欄にも書きましたが、【怨】やら【毒】やらといったものは、他人から植え付けられるもの、です。少なくともその種は。僕たち「ヒト」は【毒】にまみれた社会で生きている以上、【毒】に無縁ではいられない。残念だけど、これは見据えなければならない事実です。そちらで「レベル1」と言った【システム】です。

【システム】とは【共有】を前提に作動している【社会】ですね。「マーケットメカニズム」というのが、【共有システム】の典型です。もっとも、純然たるマーケットなど、経済学者の思い描く幻想でしかありませんが。

「ヒト」が【共有】を望むのは、怯懦ゆえにです。【共有】は怯懦の擬態にすぎません。「赤信号もみんなで渡れば怖くない」です。貨幣って、まさに「赤信号」でしょ?

僕に言わせれば【システム】から目を逸らすことが、もうすでに怯懦です。【システム】は害ばかりではないし【毒】しか生まないわけでない。その意味では【システム】という表記は、僕の「批判」が表に出てしまっている表記です。が、その「システム」は【毒】を均等には分配しない。これもまた現実であり、その理不尽な【毒】の配当に当たった人にとっては、「システム」は【システム】です。

「システム」を【システム】だと言明することは、すでにして批判です。しかし、現に【システム】で生きている以上、その言明は自己表明に他ならない。自己表明を為さず逃げるのは自己欺瞞であり怯懦です。【システム】で生きているにもかかわらず、その自己表明が【怨】にならない――そんな身体には、僕はまだとてもじゃないが至ることが出来ていません。そこに至るのが、そちらで言った「レベル3」――〈生きる〉ことの達人といったところですね。

「システム」に棲みつつも、〈生活空間(レベル2)〉で暮らしていたい。そんなことは誰もが願うことです。だけど、だからこそ、僕には批判の対象です。「システム」は【システム】に暮らす人間を生むのだから。「システム」に生きつつ〈生活空間〉で暮らしたいと願うことは、自己保身でしかない。人間は社会的な生き物なのだから、そして社会は「システム」なのだから、〈生活空間〉と【システム】を都合良く切り分けようなんてのは、ヒトのごく当たり前の願望ではあるけれど、ありていにいうならば、自己保身です。だから「システム」の現実を理解することに怯え、拒む。

ちなみに、これこそが僕が左翼を辞めた理由です。彼らは「システム」を理解しようとし、【システム】の存在を認識しているけれど、しかし、自身は〈生活空間〉に生きようと願い、【システム】の存在理由を権力に求める。自身の願いが【システム】を生んでしまっていることを決して理解しようとしません。


理解を拒む者に効率よく理解を促す方法なんて、ありません。少なくとも僕は知らない。そんな方法があるというのなら、ご教授願いたいものです。怯える者に怯えなくてもいいんだよ、と言っても、すでに怯えなくて良い方法を手に入れている者が、その方法を手放してまで「怯えなくてよい」という言葉に耳を傾ける道理がありません。

かといって、その「怯えなくて良い方法」を喪失するように願うのは、これは【呪い】ですからね。そんなこともしたくない。だから、批判に留めるし、それはまだまだ止めることが出来ません。

批判の矛先

突っ走っていますか? ジレンマには共感します。
というか、ワタシもずっとそれです。

サヨク時代は、サヨク用語で「社会的弱者」が【システム】の【毒】に当った人だと考えていた。
でも実際はちがっていた。社会的弱者でも認知できない人は多くいるし、【毒】に当たらなくとも認知してしまいイライラしている者もいる。
【システム】が当然である多数、もしくは【システム】に違和感を感じながらもそこに乗ってしまう多数の【毒】に当てられる者です。

さて、どうしましょう? 【システム】はなくなりませんよ。
レベル3(ワタシは俯瞰と解釈してますが)まで達しても、身体も生活もやはり【システム】のなかにある。
システムを【システム】として感知でき、そこに乗れない者は、順応も逃避も無視もできない。(してはならないと仰る、笑)
(で、レベル4を出家や山伏系禅、完全にシステム・人らしい生活空間から離脱としたのですが、現実的ではないですね。中二病にイラッとしているイラぬ追記ですww)

で、批判はどこに向きますか?
【システム】そのものか?
【システム】を感知できないものへか?
【システム】に順応するもの、逃避するものか?
それともまた別の何かなのでしょうか?

【システム】は原理的に解消可能

僕の批判の矛先は、【システム】はなくならないと前提で考える人です。

【システム】がなくならないのであれば、保身はやむを得ません。それ以外に合理的選択肢はありません。

ゴーダマ・ブッダですらそう考えた。【システム】はなくならない。だから、救済を得ようとするならば、出家をして【システム】から脱出(解脱)するしかないとした。出家という“小さな乗り物”です。

だが、ゴーダマ・ブッダに続く人たちは【システム】そのものを救済できると考えた。これは“大きな乗り物”ですね。大きな乗り物(大乗)を考える人は、小さな乗り物(小乗)を批判する。小乗の人は、大乗をオカルトだといって批判する。

小乗の方法論は確立されています。その方法論は神秘的なものだと考えれていましたが、最近、科学がようやく小乗の方法論に追いつき始めた。だが、大乗は未だにオカルト扱いです。個人救済の方便として使われているだけです。

だが、大乗は、本当にオカルトなのか。僕はそうは思っていません。大乗の方法論も確立することができます。それは原理的に可能です。そう考えるから、経済が僕の思索のなかには入ってくる。本来、経済学は大乗であるべきもののはず。

マルクス経済学は大乗を目指しました。その方向性は間違っていない。ただ、見落としがあった。それが【毒】であり【怨】です。唯物論では【毒】や【怨】は認識できません。

近代経済学に至っては小乗ですらない。【毒】や【怨】をシステマチックに盲点に置くためのプロパガンダです。そのプロパガンダに乗ってしまうことを、僕は怯懦だとして批判します。

大乗がオカルトでないなら、小乗の批判は的外れです。だが、小乗にアイデンティティを置く者はそのことを認めない。可能であるなら、小乗より大乗の方が良いに決まっています。小乗しかないというのであればやむを得ないが、大乗の実現可能性がわずかなりともあるならば、その可能性を検証するのが、誠実な知的態度というものでしょう。

ゴーダマ・ブッダが生きた時代は、【システム】をまるごと救済する可能性など考えもつかなかったでしょう。あの時代の誰が、現代のような技術発展を想像し得たか? 

現代の食糧とエネルギーの生産は、人類全体を生活を支えるのに十分な量に達しています。にも関わらず、貧困が絶えてなくならないのは分配方法が良くないからです。資本主義はどこまで行っても最善の分配方法を提供しません。そんなことは深く考えなくても明らかです。

明らかなことに目を背けてしまう理由が【毒】です。【毒】はコミュニケーションの失敗からどうしても生じてしまうものではあるが、だからといって、【毒】をシステマチックに生みださなければならない理由など、どこにもありません。必要なのはシステマチックに【毒】を解呪していく〈システム〉です。そうした〈システム〉では、資源の分配も資本主義より合理的に行われるでしょう。

思いつきさえすれば簡単なことです。貨幣をイノベーションさせればよいだけです。そのイノベーションが可能なだけの技術を私たちはすでに手にしている。だから、自然破壊・人間破壊という赤信号(毒)も、みんなで渡れば(飲めば)怖くない、なんてことをやめることができるし、できるならやめればいい。中毒性が強くてなかなか止めることが難しいというのであれば、どのようなメカニズムで【毒】が作用するのかを研究することから始めれば良い。

怯懦というのは、自信の反対です。自信に欠けるのが怯懦です。自信に欠けるから、誰もが信用するものを信用する。承認多数のものに寄りかかり、そのものを【共有】できると自らを欺くことで【システム】の維持に参加している。心ならずであるかもしれないけれど、だとしても、イノベーションの可能性すら考えないのであれば、怯懦の批判は免れません。

『狐笛のかなた』の話と経済の話は、まったく交わらない別次元の話ではないんです。同じ次元とは言わないけれども、どちらも「ヒト」を介して繋がる同じ生態系の話です。どちらも〈生きる〉ことに関わる問題です。


ついでにもうひとつ言及しておきます。僕たちは、無意識のうちに社会はひとつと考えますが、これはあやまりです。「共有」がそもそも不可能であるとするならば、「共有」で成り立つ「ひとつの社会」など、そもそも不可能なはずです。不可能なはずのものを追い求めて、多大な犠牲を払うという愚を僕たちは犯している。その典型が戦争です。

技術に乏しかった時代ですら、人間は複数の社会に所属していた。技術の発展で、社会の数は減っていき、いまやグローバルだと言われるようにすらなった。だけど、技術があるなら複数の社会を運営することは可能なはずです。複数どころか、人間の数だけ社会が存在することだって可能なはず。人間=社会であれば、社会の都合のもっともたる戦争など原理的に起りようがありません。

人間の本性に根ざしながら、それに基づく作動を他者と調和させることができるなら、社会は必要ありません。人類はもはや他種との生存競争には圧倒的に有利な位置にいるのですから、生存戦略としての社会ももはや必要がない。今の社会は、人間同士の生存戦略のためのツールと化して、逆に人類の生存を脅かしています。

人間性の発展を伴った技術革新から見通せば、見えるのはアナーキズムです。

それでも【システム】はなくならないという悪寒

おはようございます。

今回はかなり丁寧に、ワタシなどのような無知無学にも解りやすい書き方でレスを頂き感謝です。
ようやく、これまでのいろいろが繋がり、ワタシ自身の問題にも先へ進む糸口が見えたような気もします。ありがとう。

まず、気づいた大きな点、それは、ワタシは漠然と【システム】はなくならない、と考えていたと解ったこと。
おそらく池田アッコもゴーダマと同じベクトル(小乗ですか)にあったのではないか、と思います。
ただ、全てにおいてですが、ワタシに【システム】はなくなる、という発想がなかったゆえの誤読かもしれませんが。
ワタシのイラツキ、ジレンマ、矛盾は「【システム】はなくならない」(というか、なくなる、という発想がない)だったためだと、いろいろな点で合点しました。

たとえば、青カンです。
【システム】(L1)によって生成された青カンは、衣食住という生活の基本(L2)をも奪われた。【システム】から弾き飛ばされたわけだ。それはひとつ良いことかもしれないのだが、生活を取り戻すために【システム】に戻そうとした。この永遠の矛盾をかかえ何をやっているのか。という疑問。【システム】は変えられる、で解決されます。

たとえば、教師。
ワタシは教師が大嫌いだった。今考えると、ワタシはかなり以前より【システム】の気持ち悪さを肌で感じ取っていたのかもしれない。奴らはワタシを【システム】に順応させ、【システム】に組み込み生活させ、【システム】を推進させようとした。ワタシはオノレの肌感覚を見捨てて、教師の指示に従おうとした。そこは結局はオノレが悪いのだが、いまだに、教師ときくと嫌悪感がある。・・・ただ、今思うのは、教師のなかにも【システム】【毒】を感知して、現実とのギャップに苦しんでいるも者もいたかもしれない。

マル経か近経かで二分された時代もあったようですね、笑
どうも金嫌いなワタシは、経済ときくと耳を塞ぐ愚か者のようです。
仕事の雑談では、金儲けと効率的な貯蓄と損・得した話ばかり、ギャンブルや株で儲けた損した、とうんざりでした。少なくともそこの【共有】は乗ることができなかった。金に対する怯懦なのか、そうした人間への怯懦なのかは解りませんが、いずれにしろ、そうしたマクロから派生して経済ときくと耳を塞ぐ癖が災いして、イノベーションがどうのこうのという発想には至りません。もっとも【システム】はかわらない、と考えていたことが原因かもしれませんが。

さて今回、ワタシはかわります。気付かされて生まれ変わるのです。
・・・・とは、なかなか、なりませんね。
(相変わらず批判の対象を脱することができないのか、笑)

やはり【システム】【毒】がそんなに簡単に変わるような気がしません。変われる素地は出来上がっている、というのを信じないわけではないのですが、変わるような気がしません。
多数が【システム】【毒】を感知できてないからです。いや違うかな。実は多数が【システム】【毒】を好きなんじゃないですか?というイメージがワタシのなかのどこかにあります。
(もちろんこれは「【システム】はなくなる」と気付かされた次の疑問です。)

護符

『狐笛のかなた』には、霊狐という架空の存在が出てきますよね。
野火と玉緒と影矢。

小夜に恋した野火は、やむにやまれぬの心身に突き動かされて、呪縛を自ら解いた。「呪い」に抗おうと決めて行動することが、すでにして解呪です。

しかし、そう決めた野火は、毒多さんのいう悪寒を感じていたはずです。玉緒も影矢も、呪縛に抗おうとは思っていなかったから。呪縛が好きだから。

けど、本当に呪縛が好きだったのでしょうか? 違いますよね。やむにやまれぬの心身で動く小夜に、玉緒は自分だって呪縛を悪んでいると告げ、チャンスをものにして主にとどめを差した。そして、その主は、大きな力を振るうことが出来るけれど、実は心が空っぽなのだと作者は描いている。


やむにやまれぬの心は、心がポッキリ折れたような時だって作動するんです。『あん』の徳江もそうですよね。心がポッキリ折れたようなときに作動すやむにやまれぬの心身が〈悲〉というもの。〈悲〉を経過させて、徳江さんはハンセン病という呪いから心を解き放った。それまでは、ずっと「悪寒」を感じていたでしょうね。

『あん』のところでも書いたし、今回も同様のことを違った表現で書きましたが、これらの物語が架空のものであるということは、なんら関係がありません。野火や徳江が感じていたであろう「悪寒」が毒多さんのいう「悪寒」と同じようなもの、同じ原因から生まれた同様の心的現象であることは間違いないと思う。そうした心的現象を起こしうる人間だからこそ、架空の人物の心を自分の心に沿って創造することができる。

「創造」です。「想像」でもあるけど、この場合「創造」とした方が精確だと思います。架空の人物の心の外側(シニフィエ)を描写するのは物語の作者ですが、そこへ中身(シニフィアン)を与えているのは読者に他ならない。物語は、作者と読者の協働作業で完成するものです。

僕たちのなかには、やむにやまれぬの心を発動させる準備がある。だからこそ、やむにやまぬの心が描写されたとき、僕たちの中にその心が発動して、架空の登場人物がイキイキとしたものになるんです。登場人物の心は読者の心です。

だから、『狐笛のかなた』や『あん』のような物語は“護符”になる。『まどか』もそうです。実は誰もがデフォルト装備しているやむにやまれぬの心の発動シミュレーションをさせてくれる。その発動シミュレーションの場所が〈懐かしい場所〉です。〈懐かしい場所〉をいつでも呼び出すことができるということが、護符の効用です。

その効用を意識したなら、あとはそれをどのように使うかは、その人の問題でしょう。僕はそれが護符だという指摘まではできるし、護符だと考えることを拒否する人間を批判することもできるけれど、護符を無理矢理発動させることはできません。そんなことができたら、それこそ「呪い」です。

貨幣という「呪い」を意識したのなら、どのように護符をつかうのかは、その人の問題。そういう身体になるかどうか、です。

が、そういう身体になろうとしたら、【システム】で生きて行くにはいろいろと差し障りが出てきますよね。リアルでお目にかかったときに言いましたが、そうなると、思索は道楽ではいられなくなってしまいます。

感謝

どうもありがとう
今回は点在していたものが線で繋がった思いがあります。
まだ、少しあるのですが、まあオノレの課題としときます。

エントリーに戻りましたね。
仰ることに共感しますよ。

おそらく、全ての人が「呪縛」をおかしいとどこかで感じていると信じたいものです。
また、呪にとことん追い込まれたものが、作動するのも、これまで感じていたことと合致します。
そこからの作動の結果、狐笛のかなた へ達したふたりの姿というのも、感情移入し、喜びをもって受け止めることができます。

今回批判も指摘もありませんでしたが、笑
ワタシが「道楽」と表現した心性は、解るでしょう。
【システム】はかえられない、から来る自虐、自嘲です。
逃げ場がなければ道楽とするしかない。

線でつながった、解る、といえ、正直にいえば、「作動」のリアリティはありません。
まあいざとなれば、身体は動くとは思いますが、、、
普段から不断の意識は大切でしょうね。

繋がってもらってよかったです。

ん? 「よかった」は変かな? 繋げたのは毒多さん自身ですからね。僕は僕の思っていることを開陳しただけでなので。

いや。「よかった」でいいんですよね。

「作動」のリアリティないことは、良いことです。幸せとはいいませんが、幸運です。
「いざ」なんてことは、ない方がいいに決まっています。ボケと言われようとも、平和でいることに越したことはありませんから。

現実は平和ではない。だから「平和ボケ」は許されない――は「呪い」ですよね。

ただ、残念ながら、幸運はいつまで続くかわかりません。
幸運だけを追いかけるのも、それはそれでよし。
悪運に備えて「作動」を磨くのも、そうすべき理由がオノレの中にあるなら、そうすればよい。

それぞれがそれぞれの「事情」に応じて、全力を目指してやれば良いのだと思います。

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