愚慫空論

『天と地の守り人』


  


読後の感想。「あ~あ、読み終わってしまった...」

『精霊の守り人』から始まって、シリーズ10巻。ぼちぼちと読み進めてきて、実に心地よい現実からの逃避場所を提供してくれていました。

だけど、逃避には限りがあるというのが現実。

ただ、現実に戻っても、物語の登場人物たちのイメージは、すでに自身の一部になっています。
逃避はた単なる逃避ではなく、逃避もまた〈生きる〉ことの一端であるということを、自らのなかに棲まうことになったイメージが教えてくれる。
その教えを再確認し、自身の中にしっかりと埋め込むために、自分の言葉で語ってみる。
それもまた〈生きる〉ことに他ならないと思います。

逃避もまた現実の一部であるという現実を〈生きる〉。


さて。

まずあげたいのは、上橋さんの『守り人』シリーズは、いわゆる貴種流離譚であるということ。同時に母と子の物語であるということ。

貴種流離譚というのは、世界中のどの文明にも必ず存在する神話というものの中に見られる典型的な物語のパターンだといわれているものです。映画『STAR WARS』を脚本するにあたって参考にされているということで有名。

「高貴の血脈に生まれ、本来ならば王子や王弟などの高い身分にあるべき者が、『忌子として捨てられた双子の弟』『王位継承を望まれない(あるいはできない)王子』などといった不幸の境遇に置かれ、しかし、その恵まれない境遇の中で旅や冒険をしたり巷間で正義を発揮する」という話型


この話型は、流離からの帰還を果たした貴種――『守り人』の場合だとチャグム――が、流離を強いた父親に復讐を果たしたのちに最高の栄誉を得るというパターンで終わる。つまり、父親を殺してその地位を奪い取るというパターンなんだけど、『守り人』最終作で、チャグム三度の、そして最後の流離である『天と地の守り人』でも、復讐劇は出てきません。復讐劇を避けるかたちで、最高の栄誉を得るというところへ到達します。

『天と地の守り人』第三部の後書きで、上橋さんは次のように記しています。

 バルサが短槍をタンダの家の外壁に置いて、家に入っていく姿は、『天と地の守り人』の最初の韓を書き始めるよりまえに、心に浮かんでいました。けれど、どういう道程を経て、彼女が「家に帰る」のか、それはまったく見えずにいたのです。
 もうひとつ、『天と地の守り人』を書き始めるときから、ずっと心の中にあって、でも、どうしても、解決の糸口が見えなかったことがありました。それは、チャグムと帝の対決の結果です。
 いかなる理由があろうとも、チャグムが父を殺すことで解決する話は書きたくない。そう思いながらも、物語はどうしても、チャグムが父を殺さざるを得ない方へと進んでいってしまい、止めようがない・・・・


後書きのこのあと、上橋さんがどのようにチャグムの父殺しを止めたのかが記されますが、そこはネタバレになるのでここには書きません。

作者の上橋さんがどう思うかはわかりませんが、僕が思ったのは、上橋さんを思いとどまらせたのは、「いかなる理由があろうとも、書きたくない」と思わせたのは、バルサだろうということ。

もう少しいえば、バルサが「家に帰る」ことと、チャグムが「家に帰る」こととは、同じ輪の裏表。『守り人』の物話は、メビウスの輪のように裏と表とがなくなってしまった「輪」の物語だと思います。


シリーズ第一作『精霊の守り人』で、チャグムは生みの母親からバルサに命を託されます。皇子として生まれたチャグムが、卑しい身分の用心棒に守られつつ逃避するということで物語は展開する。だけど、チャグムは単に逃避をしているだけではなくて、その間も〈生きて〉いる。民草として〈生き直す〉ことになったチャグムの母親は、いうまでもなくバルサです。

しかし、バルサは、物語の中にそういう記述は出ては来ませんが、自分自身は、少なくとも生物学的な母親にはならないと心に決めた人です。彼女をしてそう決意させたのは彼女の生い立ちであることはいうまでもない。それゆえ、バルサはタンダの「家に帰る」ということをできずにいた。

バルサが、その身の象徴である短槍を置いて「家に入る」ということは、そしてそれが「つれあい」の家であるということは、生物学的に母親になる決意、それも無意識の、いえ、決意というよりは「機が満ちて、なるようになった結果」なのだと感じます。

そうなると物語の「メビウスの輪」は、「そうでない裏表のある(普通の)輪」になる。だから、チャグムも「家に帰る」。

父に復讐を果たして地位を奪うのも、「家に帰る」といえばそうだけど、それは「機が満ちて、なるようになった」とは言えません。チャグムの家では、その事情にそった「なるようになる」が起きる。

のっぴきならない事情で「メビウスの輪」となってつながった母子が、互いに「なるようになる」ことで、それぞれがそれぞれの「家に帰る」。〈生きる〉ということは、こういうことなんだなぁ~、と僕なんかは思うわけです。



文明がすべからく持つ神話のなかの典型パターンである貴種流離譚。その最後が復讐による栄誉の獲得になるのは、「なせばなる」でしょう。「なせばなる」は文明そのものが持つ特性。自然を相手に「なせばなる」でなんとかするのが文明です。農耕・牧畜からしてそうですね。

そして、「なせばなる」が父と子の物語であること、「なす」の主体が男であることは、ごく自然なことであると感じます。「なす」者同志が争えば、戦にならざるをえず、父と子であるなら復讐劇になってしまう。

この理解が腑に落ちるなら、「なるようになる」が母と子の物語であるということもまた、理屈を越えて腑に落ちる。


『守り人』シリーズ、ことに『天地の守り人』は、「なせばなる」ことが大枠の物語です。その「枠」の中心に、「なるようになる」がしっかりと埋め込まれている。

皮肉な言い方をすれば、それは「(作者の)都合のよい物語」ではあります。現実は、そんな都合の良いようにはいきません。だけど、「なせばなる」の中にしっかり息づいている「なるようになる」を感じることは、現実に〈生きる〉僕たちにとって大切な糧になる。糧を自分のものにすることが、物語を単なる逃避でなく、それもまた〈生きる〉ことの一端とすることなんだと思います。

(たぶん、追記を書くと思います。
 しばらく時間がないので、来週半ばくらいには書けたらいいなぁ...)

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