愚慫空論

ある種感覚の欠如


今、こんな本を読んでいます。


今はちょっと「考えさせられる本」は読みたくなくてですね。..

こういう本なら、安心して読めるかなと思って、パラパラと読んでいます。読んでいるけど、気がつくと寝てしまっている――というような状況です。何かストレスがかかっているんでしょうね。

なのに、安心しようと期待しているのに、裏切られてしまいました。なので、復讐のために、この文章を書く。
もちろん、この裏切りは「良い裏切り」なんですけどね。

名越康文さんがこんな文章を書いています。
ページで言うとP.174から。タイトルは『「中締め」にかえて~居場所という聖域』。
その中から一部を引用させてもらいます。

 悩みの本質は現在には無い。そして悩みという実体のない想念は、「もやもやした悩み」と表現されるように、たとえばガス状の気体として比喩される。過去や未来の憂いの想念に一度意識が埋没したが最後、悩みという亜麻色のガスは意識や全体を覆い尽くす。
 そのガスについてさらに観察してみると、未来に関する憂いの大半も過去の苦しみの経験に元を発していることに気づく。過去に昇華(消化)しきれなかった、つまり納得しきれず執着となった記憶が感情を惹起し、暗い未来をパノラマ写真のようにリアルに繰り返し予測するのである。未来の悩みもその多くが、いわば過去の焼き直しなのだ。
 しかし一方で、私はもはや子どもや赤ん坊のように「過去の無い存在」ではない。いつも今以上の想念に引きずられ、そのことだけで活力すら失ってしまうこともある。先ほども少し述べたが、おそらく想起出来る記憶とはそれが哀しいことであれ嬉しいことであれ、大半はまだ同化しきれていない過去といえるのではないか。一方で、同化された過去は、まさに自己と溶け合い自己と一体化するために、対象化され難くなっていくのではないか。すなわち記憶とは心という鍋のそこにこびりついた、擦り取れない経験の残渣なのだ。その残渣のなかには棘を持ち、我々を内側から着続け続けるものも多いのだ。


今、このタイミングでこうした記述に出会うのは、シンクロニシティといわれるある種の神秘体験でしょう。こういうことを僕はいままさに考え続けていました。

このようなシンクロニシティに出会うのは、これがはじめてのことではありません。何か、それまで気がつかなかった僕にとっての「大切なこと」に出会うときには、必ずと言っていいほど、こうしたシンクロニシティはありました。なので、もはや驚くべきことでもないし、裏切りでもない。「また来てくれたんですね♪」という感触です。

「裏切り」はこのあとです。

またも引用させてもらいます。「中締め」のすぐ後、第3章の冒頭。

嫌韓と在特会
平川「名越先生に質問したいと思っていたんだけど、同じように育って、同じような教育を受けて、普通に論理的な思考はこうだって知っているのに、たとえば新大久保で騒ぎ立てている在特会みたいな人たちが、どうして出てくるのかわからないんですよ」
内田「俺も知りたい」
平川「どうにも不思議なんです。これは在特会のみならず、身近なところにたくさんいるんですよ。嫌韓っていう人が」
内田「嫌韓ってどこから出てきたんだろう」
平川「何か悪いことがあると全部あいつらのせいだ、みたいなね」
・・・


えっ、何これ? なぜわからない? その理由は、「中締め」で述べられているではないか?

この驚きが「(良い)裏切り」ですw

よくよく見てみてみると、わからないといっているのは、平川内田の両氏で名越さんではありませんでしたww
両氏の問いに対して名越さんは「感覚的」だと答えています。この答えは、「中締め」の記述と呼応します。

しかし、続けて読むと、名越さんもわからないと言っています。


平川「たぶん、それが何かということがよくわからないと、たとえばヒトラーが優生学みたいなことを持ち出してきてユダヤ人を排斥するじゃないですか。それにみんな、わぁ~と乗ったわけですよね、結果的には。そのメカニズムって、よくわからない」
内田「よくわからんないね。僕も反ユダヤ主義についてはかなり集中的に勉強したんだけど、結局のところどうしてある程度の知性ある人が、ああいう妄想的な物語をころりと信じてしまうのか、今でもよくわからない
名越「ほんと、わからないです。僕もヒトラーの本はだいぶ読みましたが、じゃあなぜそういう人が出てくるのかということについては、はっきりとした見解はないと思います。・・・」


仰天です。ハッキリとした見解があると思っていたのは、僕の独断だったんでしょうか?

では、この本に寄せられているレビューはいったいなんなのでしょう?



問題は、知性ではなく感覚だと思います。

「どうしてある程度の知性ある人が、ああいう妄想的な物語をころりと信じてしまうのか、今でもよくわからない」

どうして鋭敏な感性がある人が、ああいう妄想的な物語をころりと信じてしまうのかがわからないということが、僕にはわからない。

いえ、わかる気はします。

身体的感度に問題がないはずだと考えると、「わからない」のはチューニングに問題があるからでしょう。内田さんなどはよく「剣呑なところへは近寄らない」ということをいいますが、これも感覚的。そうした「回避の感覚」が働くのだとすると、「わからない」ということは「回避の感覚」が働いている所為ではないか、と推測することができます。

「同化された過去は、まさに自己と溶け合い自己と一体化するために、対象化され難くなっていくのではないか」

「回避の感覚」は、「過去と一体化して対象化され難くなっている自己」を対象化すること(アイデンティティの崩壊)を回避しようとするのではないか。

が、その「回避」は、ある種の知的怠慢をもたらしているのではないかと思います。

大乗仏教が上座部仏教を「小乗」と呼んで批判した態度。
あるいは、「小国寡民」をよしとする老荘に対する儒家の批判。

「わからない」と言っていることは正直な態度です。だけど、哀しいかな、そうした人間が集まると、「わからない」ということが承認されてしまい、「わからない」が正当化されていく。

 君子和而不同
 小人同而不和


第三章におけるお三方の態度は「同」であると僕には感じられます。

この態度は「わからない」がもたらすはずだった「無知の知」を阻害しているように見えます。他のところでは、例えば第二章では学校という「場所(≠システム)」を論ずることで、〈学習〉の機序についてとてもわかりやすく論じてくれているのに。

...あれ? あまり「良い裏切り」ではなくなってしまいましたね。


付言しておきます。

「ある種の知的怠慢」というのは、あくまで僕の主観です。
この三氏が十二分に知的で、感性が豊かであることに疑いはありません。
冷静に考えれば、批判する必要があるとは思えません。

にもかかわらず、批判をしたくなってしまうのは、僕の中のある種の「飢餓感」の所為でしょう。
そうした「飢餓感」をこの三氏は持ち合わせていない。それどころか「飢餓感」への回避感覚があります。

回避感覚を持ち合わせていることは、「個」としては極めて健全なことだと思います。
しかし、そのことによって「飢餓感」が欠如してしまう。
文明社会の中で生きる人間の大半が感じている「飢餓感」が感じられないというのは、健全であるが故とはいえ、「感覚の欠如」といって良いのだろうと思います。


7月24日追記。

同じく『僕たちの居場所論』から

内田「ハラスメントが問題になっているけど、言葉にはデノテーション(明示的な意味)とコノテーション(暗示的な意味)があるじゃあない。ないかを言ったとき、辞書的語義は一意的でも、それをどういう文脈で受け取るかによって、メッセージの意味はずいぶん違うものになる。場合によっては正反対になることだってある。
 ハラスメントって、実例を見ていると、相手から送られてくるメッセージをその多様な解釈可能性の中で“もっとも不愉快な意味で解釈する”というかたちで起きているだよ。だから“あなたは攻撃的な意味がなくその言葉を使ったというが、現に私はその言葉で深く傷ついた”という文脈で告発がなされる。でも、見ていると、ハラスメント被害者になりがちなひとってやっぱりいて、それは人が言った言葉をシステマティックに“自分にとっても不愉快な意味で解釈する”というタイプの人なんだ。“逆ギレ”の場合と同じで、複雑なメッセージを複雑なまま送受信するという能力が欠けている。
 そういう人には、世の中には、純粋に価値中立的なメッセージ、デノテーションだけしかないメッセージと、自分に対する皮肉や嫌がらせや攻撃に満ちたコノテーションだけのメッセージの二種類しか存在しない。多義的に解釈可能なメッセージを、そのつど文脈に即して適切に解釈するということができない。というか、そんな面倒くさい能力なんか不要と思っているんじゃないかな



この文章からわかるのは、内田さんがハラスメントを識らない、ということです。なるほど、内田さんからはハラスメントはそのように見えるのでしょう。その観察は精確だと思し、その言語能力はさすがだと思う。その観察から、

「そんな面倒臭い能力なんか不要と思っている」

と推論することは妥当であるとも言えます。

だけど、違います。まったく違う。

そんな面倒臭いことは不要だなんて思っているわけではない。不要どころか、そのように能力を発揮できたらどんなにいいかと思っている。だけど、できない。能力が不足しているからできないのではなくて、《魂》が縛られているからできないんです。そのような能力を開発し発揮するたびに強権的に罰せられてきた経験を持つ人間は、「呪い」がかかってしまっていて、そこから《魂》が動けない。身体が動けないんです。

重ねて言います。「動かない」ではありません。動くことはできるはずなのに「動けない」んです。

動くはずができるはずなのに「動けない」ことが生じるもの。それを【怨】といいます。

内田さんは、盛んに「呪い」という言葉を発現します。内田さんの「呪い」という言葉が意味するところは、《魂》《身体》の作動を止めようとする抑圧的な行為ことなのだろうと解釈しています。そうした行為が、今の社会ではシステマティックに行われていると指摘しておられる。本当にその通りだと思う。

だけど、そう指摘する内田さんが「呪い」を識らない。「呪い」という行為を観察して知っているにもかかわらず、それがどのように身体に作用するかに思いが及ばない。識らない。このギャップを埋めるのは、内田さんにそういう体験がないから、という推論の他、僕には思い当たりません。


内田さんは幸せな人なんでしょうね。ここで僕のいう「幸せ」は、皮肉でもあり、正直な願望でもあります。動きたいのに動けない人間が、「動くこと」をどれほど渇望し、そして、どれほど動くことができない自分に絶望しているか。幸せなことに、内田さんには想像がつかないでのしょう。

だから、あたかもハラスメント被害者の方に原因があるような書き方ができてしまう。とはいえ、その意図に邪心がないことはよくわかるから、「残念ですね」くらいにしか言いようがありません。わからないものはわからないのだし、かといって、それをわからしめるといった、他人に不幸を求めるようなこともしたくない。

識っているからこそ、できません。

だけど、それをすることがどれほどの快感をもたらすことになるかは想像がつく。
それが、悪魔的な行為であるという「裡なる善」の叫びがなければ、その快感に身を委ねて、破滅願望を抱えることになっても構わないと思う。それで「死にきれる」のなら、それが楽でいい。楽であって、なおかつ「全力」であるとさえ思う。

でも、それでは「死にきれない」ということをなぜか識ってしまっています。
なぜだかは、わかりませんが。


余談で、引用。

内田「(前略)
 最近思うんだけど、母語と外国語の最大の違いっていうのは、母語についてはそれまでに存在しなかった語義を付け加える権利が母語話者にはあるということだと思うんだ。(中略)」
平川「それ、“ヤバい”話ね(笑)」
内田「そうそう(笑)。学生が二人、僕のあとにジャボンって露天風呂に入ってきて、“ヤベェー”っ叫んだのね。でも、その瞬間に、僕はこの学生が使った“ヤバい”という形容詞が“大変快適である”という意味であることが理解できた。もともと“ヤバい”には“大変快適”なんていう辞書的意味は存在しないわけだけど、それが今ここでまったく新しい語義で使われたということを僕は瞬時に理解できた。“君たちそれは誤用だよ、そんな意味はないよ、そういうふうに使うことは僕は認めないよ”、じゃなくて、“なるほど”と思った。(後略)」



取り立てて修練しているわけではなくても、この程度のことを理解することができる身体柔軟性は、普通の人なら持ち合わせているものですよね。このように言語化する言語能力は別として。


余談の引用、その2。

内田「働いている人って、要するに不払い労働をしている人なんですよ。ほんとに。組織内のトラブル処理とか、(略)。でも、それやっとかないと後でもっともっと仕事がふえることがわかっているから、今のうちに“芽のうちに摘んでおく”つもりで多少面倒でも手入れしているわけ。
 働かない人って、要するにその不払い労働をしていない人なんですよ。給料もらうために“これとこれをしなさい”ってことは規定されているから、その仕事はする。でも、それ以上の仕事はしない、と平然と言う人って結構多いでしょ。本人としてはそれで給料分の仕事をしているつもりだろうけど、それは違うよ。その人が給料分の仕事だけでも組織が回るのは、不払い労働を担っている人がいるからなんだよ」
「(中略)あのさ、言うと角が立つけど、フェミニズムと成果主義って、すごく相性がいいんだよ。裏の仕事というのは、“シャドウワーク”であり、不払い労働であり、それはこれまですべて女性に押しつけられて来たという話だと、“不払い労働しないと組織は回らないよ”というような発言は許しがたいものに思われるらしい。そういう仕事は全部表にだして、労働にカウントして、それにふさわしい賃金を受けるべきだ、と。
 いや、それは正論なんだけどさ。でも、人の愚痴聴いたり、学生の人生相談乗ったり、学内合意の根回ししたりなんていう仕事はどう転んでも表の仕事にならないんだよ。そんな労働で賃金を請求するわけにはいかない。そういうのは“オレがやらないと誰もやらないからな”と思っている人間が泣く泣くなっているわけ。
 だからさ、別に金がほしいわけじゃないし、そういう裏方仕事を労働として評価してくれと言っているわけでもないの。ただ、まともな組織を運営しようとしたら、不払い労働は必ず発生し、誰かがそれを引き受けなければならないことを事実として認めて欲しいだけなの



これは、某所にコメントした「仕事レベル2」の話。

「事実として認めて欲しいだけ」。はい、よくわかります。認めてくれさえすれば、「泣く泣く」ではなく「嬉々として」やることができたりするものです。なぜかというと、そうした承認は、人間を「レベル3」へと高めてくれるから。

結局、人間は、「欲しいものを見る」んですね。「見ているもの」は「欲しいもの」に過ぎない。「レベル1」が欲しい人間は「表の仕事」しか見ないし、見えない。

ハラスメントを体験した人間が欲しいのは、「レベル3」です。「個」としての尊厳の承認ですね。尊厳を冒されているんだと認めてもらいさえすれば、ただそれだけで、「欲しいもの」は手に入る。たったそれだけのことなのに、身体が思うように動かない、動いたと思えば攻撃になってしまう――といった悪循環にハマって、自ら進んで「レベル1」に堕ちていこうとしてしまう。

それを阻んでいるのが、実は「レベル2」で満足を得ることができる人だったりもする。内田さんが示しているように。

フェミニズムに対して角が立ってしまうのは、本人の認識では「相手が悪い」なんだろうけど、内田さんの言い方でいうなら「情理を尽くせていない」。この人たちは、もともと「レベル3」はみたされている人で、だから「レベル2」は自然にできる「幸せな人」なんだけど、自然にできてしまうから、自然にできないことが理解できない。それゆえに、「レベル1」へ堕ちる理由がわからないから「情理を尽くすことができない」。したがって、角が立つことになってしまう。

この本は、「情理を尽くす」話もいっぱい出てきますけど、そうでない話もちらほらあって、そういう話は、仲間内で「相手がわるいよな? な?」と「同」に堕ちてしまっています。

――といって、そう指摘する僕自身が「情理を尽くす」ことができているわけではありません。ごめんなさい。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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