愚慫空論

断食をしながら思ったこと。断食の後の思ったこと。

先週は断食をやっていました。
たぶん4回目になります。

自分自身のことなのに「たぶん」は情けないんですが、三日間の断食ではないプチ断食もその間に行っていて、記憶が曖昧になっています。三日間やるつもりでできなかった、というのもありましたし。

最初の断食がいつだったかは、外部記憶に留めてあるので正確にわかります。

今回は、思い立ったのが7/5の火曜日でした。断食についての文章を7/5に書いていると外部記憶にあります。だから、これは間違いありません。

火曜日に断食しようと思い立って、でも、冷蔵庫には買い置きの食糧があったので、始めるのは金曜日あたりからかな、と計算しました。ところが、なぜか木曜日から断食を始めてしまった。

いえ、外部記憶によって正確に書けば、断食の開始を意識したのは金曜日7/9でした。ただ「食べていない時間」という換算で行けば、前日の木曜日から始めていたことになると逆算した。金曜日の朝に、身体のほうが「もう断食になっているよ」と告げてきたような気がした。アタマが後追いで「あ、そうか、もう断食が始まっているんだね」と認識した。そんな具合で今回の断食は始まりました。


今回の断食は成功だったと思います。ええ、断食には成功と失敗があるんです。

三日間食を断つことが出来たか否か成功の基準ではありません。その断食が「痩せ我慢」だったかどうかが基準です。
三日間くらいなら、痩せ我慢でもなんとかならないわけではない。でも、それでは聞こえてこないものがある。「生命の在処」みたいなものが、痩せ我慢でやっているとわからない。単に辛いだけの断食になってしまいます。そういうことが過去に僕自身の経験としてあったんです。

今回は、身体の方から「断食はじまっているよ」というサインが出て、それを受けとめることができたという時点で、すでに成功していたと思っています。もし、「アタマの都合」で予定通りに金曜から始めていたら、おそらくは失敗していたでしょう。



断食をしながら思ったこと。これは実は、選挙に関連しています。直接は関連していませんが「思うこと」の始まりになった「考えること」のきっかけが、選挙を巡るニュース記事だったんです。

「いろんな総理がいたけど、安倍さんは最悪」村山元首相

朝日新聞 2016年7月9日23時59分

「本音を隠して都合のいいことばかり言い、国民をだまして選挙に勝とうと。こんな魂胆を持っている総理は初めてです。」


村山元首相が語った安倍晋三のイメージは、あのアドルフ・ヒトラーに重なります。そしてヒトラーといえば、


他人をだますことができるためには、自分自身をだますことができていなければなりません。

親は子どもに何をしたか。
自分自身を欺さないと生き延びられないということを教えた。
この本は、そのことを「告発」した本です。




改めて眺めて見ましたが、凄いですね。
何が凄いかって、「意志」がです。ヒトラーの。残念ながら(幸いなことに?)安部さんとは比較にならない。

いつものように脱線していきます。お許しください。
ここからしばらくは、今「思っている」こと、です。

ヒトラーのベースにあるのは「イライラ」です。この人はとても「イライラ」しています。でも、その「イライラ」は、少なくとも演説の時間においては、完全にコントロールされています。コントロールをもたらしているのが「意志」なんですが、「イライラ」が強い程、「意志」もまた強くなければならない。この両者がマッチングすると、カタストロフ的な「快感」が生まれてきます。


僕にはこの「快感」に覚えがあります。



ベートーヴェン作曲の「エグモント」序曲。指揮棒を振るのは、ウィルヘルム・フルトヴェングラーです。

フルトヴェングラーといえば、ヒトラーに反抗しつつもドイツに留まった音楽家として知られています。彼はヒトラーの嘘つきな政治手法に反発し、誠実な構えてドイツ人に奉仕しようとした音楽家でした。その「構え」を僕は立派だと思うし疑いませんが、だけど、その「快感の表現」はヒトラーと瓜二つ。

今、始めて気がつきました。
だとすると、この「快感の構造」はヒトラーだけのものなのではないのかもしれないという疑いが湧いて来ます。ドイツのもの。ドイツ人がヒトラーもフルトヴェングラーも支持した理由は、ここらにあったのかもしれません。

日本の知識人に、丸山真男をはじめとしてフルトヴェングラーファンが多いこともまた、同じ構造に根ざしているのかも。

もうしばしの断線をお許しください。
この気づきで、ひとつ謎が解けました。フルトヴェングラーの『田園』の不可解さです。

ベートーヴェンという人格のなかにはふたつの流れがあります。ベートーヴェンのなかには「イライラ」と「リラックス」の両方がある。「イライラ」の典型が『運命』であり、「リラックス」の典型が『田園』なんです。

フルトヴェングラーといえば、ベートーヴェン演奏の大家です。なのに、僕の主観ではありますけど、『田園』は下手くそなんです。ベートーヴェンはヒトラーと同じく、同じ言葉(モチーフ・音型)が繰り返し出てきます。同じ「型」が反復されるたびにテンションが高まっていく構造になっている。そのことを表現するのにフルトヴェングラーは長けていたし、ヒトラーにも同様の特長があります。

ところが『田園』においては、同じ「型」の繰り返しは見られるものの、方向性は逆で、「型」の反復のたびに緊張が解けていって「リラックス」していくという構造になっている。フルトヴェングラーは、なぜかそれを上手く表現できない。音楽は大らかに流れているのに、反復を神経質に扱って「イライラ」な音楽を作ってしまいます。

反復⇒「リラックス」に長けていたのは、ブルーノ・ワルターという音楽家でした。『田園』の演奏においてはフルトヴェングラー以上に高く評価されています。この人が指揮棒を振ると『運命』でさえ「リラックス」の音楽になってしまうから不思議です。

かの吉田秀和さんの文章で思い起こすことがあります。ワルターの指揮姿をビデオでみたことがあって、その姿がたまたま知り合いが演じてみせてくれた太極拳を彷彿させるものだった、という話。さもあらん、と思います。


さて、脱線はこのあたりにして、「断食しながら思ったこと」に戻ります。

「魂の殺人」というのは重い言葉です。

アリス・ミラーの『魂の殺人』のリンクを探すのにgoogleで「魂の殺人」という言葉を検索にかけたわけですが、そこで上位に引っかかってくる言葉に「強姦」があります。

断食導入の文章で出産について触れたことがあったかたでしょう、「強姦」という言葉はかなり響きました。


強姦という行為は、ハラスメントの最もたる行為のひとつです。にもかかわらず、というか、ハラスメント全般がそうなのですが、それがハラスメントであるということの理解が届かない場合が多い。ことに「イライラ」な人には、そのことが届かない。

そもそもハラスメントを為す人が「イライラ」であり、ハラスメントがまた「イライラ」を生む行為だと言えます。


こんなことを考えていました。
僕は今、意識的に食事を断っている。このことは、しかし、自傷行為であると言えないか。

断食成功の鍵は、痩せ我慢ではないことだと記しました。導入の文章でも書きましたが、「痩せ我慢でないこと」とは「イライラを排することができること」でもあります。
ということは、断食で「イライラ」が生じているとすればそれは痩せ我慢であり、自傷行為だいうことになります。

そういった伝で、セックスという行為を考えてみればどうなるのか。

断食はひとりで為す行為です。だけど「身体に食事を与えない」という行為自体は、他者によって為されることができます。考えていたのはこういうことです。

僕はいま、自分の意志で食を断っている。だけど、これがもし、他人から強制されて食を断たなければならない自体であったとすればどうか。他人は僕の「身体のサイン」になど考慮してくれないだろう。だとすると、他人から強いられる断食は、最初から失敗を約束されているようなものになるに違いない。

男女和合のセックスという行為は、断食におけるアタマと身体の関係と同様の構造が、男と女の関係に存在するように考えられる。さらに女性のなかには、アタマと身体の関係があるだろう。つまり、

 「身体(男)→アタマ(男)」→「アタマ(女)→身体(女)」

という二重構造になっている。もっとも、上のような矢印に端的になってしまえば失敗であろう。成功の場合の端的な図式は、

 「身体(男)←アタマ(男)」←「アタマ(女)←身体(女)」 

になるはず。

上の図式は「イライラ」を生むだろう。
また下になれば、生まれるのは「イキイキ」だろう――

「イライラ」をヒトラーやフルトヴェングラーのようなやり方で「意志」によってコントロールするならば、そこで生じる事態は「シニモノグルイ」になるでしょう(これは、今「考えたこと」)。

身体には固有の「自然な意志」があります。
それとは別にアタマにはアタマで意志があって、それが一般には「意志」と呼ばれ、なかでもアタマから身体へと降りていくベクトルのものが「意志」だとされるます。

僕の考えでは、その一般的な意志を【意志】と表現されることになりますし、身体の「自然な意志」に沿おうとするアタマの意志は〈意志〉という表記になる。さらに言えば、身体の「自然な意志」は《意志》という表記になり、これは《魂》に他なりません。

(このあたりまでが、断食しながら「思ったこと」)

断食やセックスを「イキイキ」へと導く鍵は、《意志》に耳を傾ける〈意志〉にあります。ところが、社会を営む人間には【都合】というものがあって、その【都合】がなかなか《意志》と合致しないことが多い。【都合】に合わせようとアタマが意志することは、もちろん【意志】です。

〈意志〉や【意志】が働くのは、食やセックスだけでありません。経済全般、個人でレベルでいえば「労働」に「意志」は大きく関わってきます。

僕が最初に断食の段取りを組み立てはのは、食糧の買い置きという【都合】でした。この程度の【都合】は無視してもほとんど差し支えはありません。だけど、食事を賄うという役割を背負っている主婦(もちろん主夫も)だとしたら、【都合】はもっと大きくなるでしょう。

また、断食などというものは所詮は個人の振る舞いですけれど、「労働」「仕事」「稼ぎ」となれば、【都合】に縛れてしまう度合いは強くなります。

「政治」などは、ウソで塗り固めた【都合】の塊でしかない。そのことを最も具現したのがアドルフ・ヒトラーでしょう。

(身体がその域に発育したという意味での)大人なら、セックスだって【都合】に左右されることを知っているはずです。現在は、いわゆる“草食化”の流れを受けて、【都合】をどのように〈意志〉に似せて都合良く振る舞うかといったような技術が【意識が高い人たち】を中心に関心を持たれていたりします。

思いつくまま並べますが、『サラエボの花』という映画がありまして。


この映画を端的に表すると、「政治」「宗教」という名の巨大な【都合】によってもたらされた悲劇を、〈意志〉に沿って「物語」を再編集した物語です。

セックスに及ぶ動機が【意志】であれ〈意志〉であれ、身体は独自に《意志》を持っている。つまり、することをすれば子どもは生まれる。子どもには《意志》がある。というより《意志》しかない。母親は(子どもの生物学上の)父親から植え付けられた【意志】に従って子どもを遇するか、あるいは母親自身の中に生きている《意志》に沿って子どもに接するように〈意志〉するか。不幸にも、その帰路に立たされてる。この映画が「イキイキ」とした「物語」として成立しているのは、〈意志〉に沿った〈物語〉であるからに他なりません。

そもそも「物語」は、すべからく〈物語〉です。



〈意志〉であれ【意志】であれ、伝染します。この「伝染」を宮台真司さんなどは「ミメーシス」と呼ぶ。ヒトラーの【意志】も伝染する。フルトヴェングラーの「意志」(これは【意志】か〈意志〉か、判別不能)も伝染する。ガンジーの〈意志〉も伝染する。ティモールには伝染するまでもなく〈意志〉が満ちていた




社会には【都合】が満ちあふれています。なぜそのようになったのかはここではさておきましょう。【都合】がいっぱい、ということは【意志】もいっぱいだということ。個人の【意志】は、“立派”であれば「ミメーシス」によって伝染していきます。立派でなくても「人情」によって伝染します。

「人間」とは、生物としての「ヒト」が生存戦略の「都合」(←【都合】ではない)で、進化発展した「脳力」を駆使して組織だった「社会」を営むことによって出現した人類社会的存在のことです。つまりヒトには社会を作るという《意志》がある。「人情」とはその《意志》でしょう。

社会ができて人間が生まれると意識が生まれ、〈意志〉と【意志】との分岐が生じる。「ミメーシス」は《意志》ではいけれど、〈意志〉だとは言い切れない。【意志】だとも言い切れないが、宮台さんの言動からは【意志】に近い感触を受けます。

社会が生まれれば秩序が生まれ【都合】が生まれ【意志】が生まれ、【意志】が作動すると【都合】の感染が広り【人間の都合】が生じる。「ヒト」が社会的生物であることと【人間の都合】が生まれることは同根。だから厄介です。

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