愚慫空論

『神なるオオカミ』


まず、映画で観ました。


映像美については満足のいく出来映えです。
が、肝心の〈物語〉については、、、、正直、ピンと来ません。

次に、松岡正剛さんの書評に目を通してみました。

つまり本書は一から十までが今日の中国体制批判であり、儒教に象徴される中国的保守思想の歴史的な批判なのである。

松岡正剛千冊千夜1494夜より



なるほど、映画の〈物語〉が中途パンパなわけがわかったような気がしました。映画は中仏合作。小説の(主題であるらしい)政治性を〈物語〉の組み込むわけには行かないでしょう。
映画の「枠」はラブロマンスかな? と思っけど、それにしてはラブの方の決着も付けずに終了。よく分かりませんでした。

というわけで、現在、小説の方を読み進めています。



こちらは実に面白い。例によって読みかけ途中でのブログアップで、この小説が宿しているという政治性は、まださほど姿を現してはいません。記述の8割はオオカミにまつわるエトセトラですが、これが実に面白い。

この小説は、著者自身が中国文化大革命時に下放の憂き目に遭った知識青年であることから推しても、ほぼノンフィクションなのでしょう。オオカミの生態の記述がリアルなだけではなく、オオカミへの人間の感情もまた、とてもリアルです。

なかでも際立って面白いのが、オオカミの知恵の高さ。戦略性。すなわち社会性です。

オオカミの身体能力は高い。といっても、モンゴル草原の他の種と比べると、たとえば足の速さなどでは、劣る部分があります。そこをヒトと同じく社会的戦略性で補って余りある行動を採る。結果、人間を除けば、草原の食物連鎖ピラミッドの頂点に立つことなります。

草原という大きな生命のなかで機能するオオカミの役割。それは人間と同じく社会性を有するが故にでしょうか、非常に重要なものとして捉えられています。オオカミこそが、草原の生命の流れを左右するキーポイント。


オオカミを通して描写される草原の生命のあり方は、森林を主とする日本のそれとはかなり違います。日本よりずっと血生臭く、艶めかしい。



モンゴルへ行くと、観音様がこんなふうになるんですね。生命の円環はモンゴルの草原であれ日本の森林であれ、同じ原理で回っているはずです。なのに、その顕れの姿は違います。「草木国土悉皆成仏」の日本にはない慈悲の姿です。

が、『神なるオオカミ』の記述を読み進めると、艶めかしい慈悲にも違和感がなくなるから不思議です。



それにしても思うのは、確かにオオカミの社会性は素晴らしいけれども、種にとっての社会性の重要度・依存度という点において、ヒトより大きな生き物はいないだろうということです。だからこそヒトにおいては社会性が政治性へとつながっていく。

それは逆に言えば、オオカミの社会性の方がヒトよりも“自然”に近いだろうということです。

ところが中国人である著者は、オオカミと草原の生命を讃えながらも、生命の自然性にアプローチしていく感がありません。オオカミの社会性もまた、生存のための戦略性という解釈の型へ嵌められていくようです。それは自然での生存競争の枠もを超えて、人間同士、文明の社会性の優越という視点へ収斂していく。松岡さんの書評を見る限り、そのようです。

そうした社会性の突出は日本人である僕などとは違った感覚で、本書は儒教批判とは言いながら、しかしその批判のありかたもまた儒教的な感じを受けます。その(ヒトとしてではなく)人間としての感覚の違いもまた、この小説を読み進める上での面白さです。



(※読了後に追記か、あるいは続編をアップすることになると思います。)


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