愚慫空論

「呪い(のろい)」の構造



映画『きみはいい子』の記事では、「呪(のろ)い」という言葉を用いました。

呪い(のろい)とは、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう


上のwikipediaでの定義は呪いという行為の本質を誤解したものだと考えます。呪いとは、具体的かつ直接的な行為ですが、wikiではそのように記述されていません。

人間の身体から遊離した霊などという存在は呪いとは関係がありません。ゆえに、霊的な手段などという記述も不要です。一方、呪いは具体的な行為なのですから、物理的手段ではありえます。
悪意であることも必須の要件ではありません。善意から呪いという具体的な行為を為すことは十分に考えられます。

意識があって行為が為されるという認識が一般的ですが、この順序は逆だということが明らかになっています。行為が先で意識は後。呪いという行為でも、行為が為されたあとに悪意が認識されるのですから、呪いの行為の視点は悪意ではありません。

そのあたりを修正すると、

「呪いとは、人間が、物理的手段ないしは精神的手段で、他の人間や社会全般に対し災厄や不幸をもたらしめようとする行為」

と記述されることになりますが、これでもまだ不十分です。センテンスの前半が具体的なのに対し後半が抽象的でアンバランスになってしまっています。



まず、呪いという行為の具体性を映画『きみはいい子』から読み取ってみます。



この映画は「起」と「転」の二部構成のシンプルな映画です。「起」で呪いがかけられ、「転」じて呪いが解かれていく。そんな映画のなかに前半と後半でほとんどに同じシーンが出てきます。

映画では母親に虐待されている、つまりは呪われている子どもが登場します。


その子に、他所の母親が「うちの子にならない?」と勧誘しているところです。仲の良い家族の間ではありがちな場面ですよね。


子どもはその提案を全身で拒否します。前半の終盤です。

後半の終盤にも同じ登場人物の構成で、同じ提案がもう一度繰り返されます。


そしてまたもや、子どもは全身で提案を拒否します。

同じく全身での拒否なのに、前者と後者では、発しているメッセージは180度異なります。

子どもは母親に対して「私を愛して!」と訴えかけています。
子どもの(母親に対する)メッセージは、前半も後者も同じです。
が、母親のメッセージは異なります。
前者は(子どもの)拒絶。後者は承認です。

拒絶が具体的な呪いの行為です。




あらゆる生物のなかで、ヒトほど子どもが無力で生まれてくる生物種はありません。

赤ん坊は無力で生まれてきます。しかも長期間にわたって無力なままです。このことは種および個体生存戦略上の大きなリスクですが、そうしたリスクを冒してでも得ることができるリターンがあるはずです。リスクを冒してリターンを得るのが戦略の意味するところです。

ヒトがリスクを冒してえるリターンは社会性です。
ヒトは社会を営むことで、他種との生存競争を勝ち抜こうと選択しました。
もちろんこの「選択」は、事後的にそのように解釈できるというだけのことです。意識に先立って行為が為されるのは、種の生存戦略でも同じです。


いわゆる高等動物は複雑な身体を持ちます。
複雑な身体が生成されるにはそれなりの時間が必要。ところが未完成な身体を抱えるということは、生存上のリスクです。

動物の社会性の起源は、未完成な身体を抱える時間という生存上のリスクにあると考えられます。種の保存のためには子孫を生存させなければならない。しかし子どもとは未熟な存在ですから、子どもの存在そのものが大人の個体にとってはリスクです。そのリスクテイクのために社会性が生まれてきました。社会性とはリスクのリターンであり、同時にリスクテイク能力です。

社会性をもつ動物はヒトの他にも存在します。しかし、ヒトほど大きく社会性に依存している動物は他に存在しません。他の動物は、群れを作って生活する種でも、ヒトよりずっと個体としての身体能力に依存して生存しています。それは子どもというリスクテイクをする場合でも同じで、ヒトほど子どもというリスクを負うに当たって社会性に依存する種はありません。


草食動物の赤ん坊は、生まれてすぐに立ち上がり、程なく駈けることができるようになります。肉食動物は草食動物に比べれば子どもの成長は遅いですが、そこは子どもの生存リスクの差でしょう。子どもが捕食される危険が草食動物より低いと考えられます。草食動物の中でも武装を持たず逃げ足に生存を賭けた馬などは、駈けることができるようになるまでの期間が短い。

このような違いはリスクテイクのあり方の違いです。草食動物は長期間母体の中に子どもを抱えておくという方法でリスクテイクをする。母体にとっては、なるべく早く子どもを切り離す方がリスクは少なくて済むはずですが、そこは子どもの生存リスクとのバーターになります。完成度の高い子どもを出産する方が子どもの生存率は高くなりますが、その分、母体へのリスクが増します。母体には、そのリスクを負うだけのリスクテイク能力が要求される。


ヒトを含む類人猿のリスクテイクは、草食-肉食動物のリスクテイク方程式から逸脱しています。子どもというリスクの大きさが個体の身体能力というリスクテイク能力に比べて大きい。特にヒトにおいては際立っています。そのアンバランスを克服するために、ヒトや類人猿は、個体としては甚だ未熟な状態で子どもを産んで、未熟なうちに社会性を発達させるという戦略を採用した。

社会性は、母体の中にいる間は成長させることができません。また、未熟なうちに学習を始めるほど、社会性は生来のものとして個体にインプットされていくことになります。ヒトはそうした戦略を採用して大成功を収めています。その表れが現代の文明社会です。


以上のような観点から見ていけば、愛情というものが社会性の産物であるということが理解できます。未熟な子どもが大人に要求する愛情は、大人へのリスクテイクの要求に他なりません。リスクテイクを要求することも、その要求に応えることも、どちらも愛情です。愛情を発露させることで、子どもも大人も双方ともにリターンを得ることができる。リスクとリターンとは表裏一体なのです。

リスクとリターンが一体となった形で愛情が発露されることで、種としてのリスク/リターン、個体としてのリスク/リターンの間に存在する矛盾が解消される。愛情は社会性をもつ動物における生存戦略の発動です。

愛情が生存戦略の発動であるならば、子どものリスクテイク要求への拒絶は、生存戦略が不発に終わっていることを意味します。これこそが「呪い」の意味するところです。


大人が子どものリスクテイク要求を拒絶してしまうのは、その能力が不足しているからに過ぎません。しかし、身体的には十分に能力は備わっています。現に(映画では)物理的には育児をしています。身体的物理的能力がなければ、育児放棄をするほかないはずなんです。

虐待はリスクテイク拒絶の表れですが、その能力欠損は身体に由来するわけではない。だとすれば、問題は社会性にあることなります。個体(個人)の社会性がすなわち精神性です。大人の社会性の欠損が愛情の発動を妨げ、子どもというリスクテイクを拒絶せしめてしまうわけです。

育児は為されつつも虐待を受ける子どもは、「オマエは(社会的)リスクだ」というメッセージを受け取ることになります。そのようなメッセージを受けつつ社会性を発達させていった子どもは、自身をリスクだと認識するようになります。自身をリスクだと認識することとは、自己否定・自己嫌悪に他なりません。

虐待が世代を超えて連鎖する理由がここにあります。子どもの頃に自身をリスクだと感じてしまっている人間は、大人になってもそのまま自身をリスクだと感じています。自身をリスクだと感じている人間が、加えて子どもというリスクテイクをできるはずがありません。自身に十分なリスクテイク能力があると認識していて始めて、リスクテイクをしようという意志すなわち愛情が生まれます。社会性の欠如は、身体的には十分に備わっているはずの愛情の発動を阻害してしまう。その状態で子どもに接すると、虐待が生まれてしまいます。

愛情の発動を促すには、その発動を阻害している原因を除去すればいい。社会的な承認を与えればいい。それがすなわち「きみはいい子」とメッセージです。子どもはもちろんのこと、大人もそのメッセージを必要としている。大人は十分にリスクテイク能力を備えて、もはやそのようなメッセージを必要としない状態であるのが本来のはずですが、そうなっていないのなら、大人になってからでも承認メッセージは与えてあげなければなりません。


リスクテイク能力とは、言い換えれば生命力です。生命力が身体的にも精神的にも十分に発育することで、子どもというリスクテイクを行なうことが出来るようになる。してみれば、「呪い」というものの構造も明らかになります。

呪いとは、生命力の発動を阻害されることです。生命力が十分に発動できないと、個人や社会が不幸に陥っていくのは自明の理です。逆に言えば、おかれた状況がどうであれ、生命力を十全に発揮することができさえすれば、幸せと呼ばれる状態になります。

結論。

呪(のろ)いとは、人間が、物理的手段ないしは精神的手段で、他の人間の生命力の発動を阻害し、社会全般のリスクテイク能力を低下させる行為。

コメント

Red Football

「呪われた」子供は、大きくなってこんな歌を作りました。
https://www.youtube.com/watch?v=AwmYvc56wLI

以下は身辺の話。
昔馴染の女友達には、4歳ほどになる子供がおります。
女友達の夫つまり子供の父親は作家で、育児含む家事は主に父親が担っています。
父親は激高すると「何故これが出来ないのか!」といった体の高圧的な叱責を3時間ものあいだ子供にすることもあるそうです。
子供はとくに説明を受けているわけではないものの、そういう時の父親が「おかしい」ことを理解しているとの由。
父親は女友達と結婚する前から、重度の双極性感情障害と診断されていました。彼の言動は躁鬱の周期に支配されています。

以前観た育児に苦しむ親(全員母親)のドキュメンタリーで、ある母親はこう漏らしていました。
「この地獄は何? こんなの聞いていない」
「呪う」側に振り分けられる親の眼には、地獄が見えている。

女友達の幼い子供には「おかしくなっている」父親がその時地獄で苦しんでいることが見えているのでしょう。たぶん。
子供を呪っている時の父親自身が、自らの病に呪われていると。
子供は呪いを自ら引き受けることで、父親を支えているとも言い得るかも知れませんね。

・残酷さに慣れる訓練さん

呪いを引き受けることで他者を支えるなんて、とても人間的な行為だと思います。

呪いが通じるのは、呪いを引き受ける感受性があるからです。
石にいくら呪いの言葉を投げかけてみたところで、石はビクともしません。
石に呪いがかかることはありません。

父親の呪いがどこからきたのはわかりません。
先天的なものなのか、あるいは後天的な原因によるものなのか。
wikiを眺めてみましたが、おそらく双方の要因が絡んでいるのでしょう。
「ストレス脆弱モデル」という言葉がありました。

子どもは自分が呪われていることを理解しているらしい。
だけど、理解しているからといって、呪いの影響から免れることはないでしょう。残念ながら。
その子も長じて地獄を見ることになってしまう確率は高い。

その子どもにも呪いを引き受ける他者が必要でしょう。
できれば、その子のなかで呪いが大きく育ってしまう前に、呪いを引き受けて解呪できれば。

とはいえ、呪いを解呪することは、大人であっても難しい。
まして、子どもに大人の呪いの解呪は無理でしょう。

earthbound

他人様の呟きを拝借するのも気が引けますが。

「嫁ぎ先の風呂が外にあって家族7人入る間ずっと火吹き番して最後自分の時は誰も火の番やらないから冬なんか超ぬるいほぼドロ水が足首くらいまでしかなくて、そんな風呂に20年くらい入ってて辛かったわぁ」
https://twitter.com/sakurajimanini/status/750660385506635776

実家には「出戻り娘なんか出したら村八分にされるから」と戻るのを許されず、旦那にも姑にも滅茶苦茶いじめられて
https://twitter.com/sakurajimanini/status/750662041468231681

離婚したかったけど旦那がやる事やるから子供が次々出来るし、実家も戻れないのに女の働き口なんて田舎にはないから出てく事もできないし本当の地獄だよ
https://twitter.com/sakurajimanini/status/750664727345278976

特異な家族の、特異な話ではないでしょう。
「出戻り娘なんか出したら村八分にされる」
こういった因習の刷り込みが、私たちの社会がかつて隠然と保持してきた「呪い」の実態でしょう。こういう様々な呪いを親は子供に掛け続けてきた。成人しても呪いは解けることが無い。
家族はこういう呪いをまるごと背負わされる者の上に成立してきた。
呪いを引き受けることを慣らされた者の上に。呪いが社会を駆動してきた。

私は「親」に関してはラッキーカードを引いたので、イージーモードな子供時代を送りました。とても運に恵まれました。
しかし私の父親は小児期、祖父(父の父親)によって庭木に逆さに縛られていたそうですよ。
父はそれを特段珍しいこととは思っていないようです。村では子供はせいぜいその程度の扱いだったのでしょう。
祖父が早世したため父は温和な長兄に守られて成長しました。ですから父は今でも長兄をとても慕っています。

親が子供を逆さ吊りに縛り付けても誰も止めもしない。珍しくもないからわざわざ記録する人もいない。
呪いが日常であれば誰もそれを呪いとは感じられなくなる。

追記。
引用した最上段の呟きに、こういうリプライが付いています。誰も語り継ぐことも採録することもなく、いずれ時間がかき消していくであろう光景。
>これ、信じられないかもしれないが、福島の田舎の嫁の姿だったよ。ほんの45年前に、実際に見たもの、子供だった僕の目に焼き付いてる

Bodies

1つ目のコメントと2つ目のコメントでは、異なった呪いについて書きました。
更に別のバリエーションについて述懐しましょうか。これも身辺の…というか私の話です。

父の生家には小児期~児童期に良く遊びに行きました。父の長兄、私にとっての伯父が世帯主でした。
家の間取りは、母屋と厠が別棟になっており厠は母屋の土間とこれもまた別棟であった二階建ての納屋との中間に建てられていました。母屋には幼児の胴回りほどはある梁がさし渡されていました。父の先祖はかつて地元の郷士でした。昔は蔵もあったらしい。

私が厠の小便器で用を足していると、通りかかった伯母がじっと覗きこみ、にやりと笑って言いました。
「ちんちん、小っちゃいねえ。ダメだよ、そんなんじゃ」
私は小児だったため、男性器の機能については当然知りません。何故「小さいことは不可」なのか疑問に思った。
でもそれ以上に奇異に感じたことがありました。
伯母が私と私の男性器を覗きこんだ時の「眼」です。平生と違う変な眼をしている、と感じた。
その眼がどんな情動を含んでいるのか、成長して女性と付き合うようになり、同じ眼差しをみて初めて解りました。

大人が子供に対して向けるそういう眼差しの意味を、小児は通常理解しません。しかし違和感は感じる。
今風に言えば「性的消費」「客体化」という表現になりましょうか。それは子供に何か不吉で不快なものを感知させる。
これは子供にとっては、「呪われる」ことですよ。自分の何かを吸い取られて、喰われていると感じる。
その時、大人は子供を呪っている。自分では呪っているつもりはないでしょうが。子供の生命力を吸っているんですよ。

私は子供の頃、『エスパー魔美』で父親が魔美をヌードデッサンのモデルに使っているシーンが薄気味悪くて嫌いだった。
『ドラえもん』の、しずかちゃんの入浴シーンやのび太の風呂覗きも嫌いだった。
何故それが嫌いだったのか、今は良く解ります。自分がされたように、そうやって大人が子供に呪いをかけて、生命力を吸っている。
「お前らの小さい体は、こういうことのためにあるんだよ」と大人が子供に誇示している。

日本人はもともと性におおらかであった、という言説がありますね。あれは放恣に他者を性的な眼で見たり玩弄したり出来る側の言い分に過ぎないですよ。おおらかに他者から吸い取ることができた、という。
私は友人から「告解」(比喩ですよ)をされたことがあります。少年時代に実の妹に対して性的虐待をしたことがあると。妹とは今日まで断絶していると。当人も後悔しているからこその「告解」でしょうが、妹さんにかけられた「呪い」の重さを思うと慄然とします。私は家族の中で相対的な弱者が性的に「見られ」たり使役されたりする事例は、精査すれば相当数は出て来るのではないかと疑っています。呪いをかけられている子供は少なくないと思います。

件の映画『きみはいい子』、私は予告を観たのみですが、もしも劇中の呪いの内容が肉親から子供への性的虐待であったならば、どうでしょう。視えて来る光景は全く異なったものとなるでしょうね。そして、教師の「親御さんに抱きしめてもらってください」は、これ以上ないほどグロテスクで残酷な宿題となりましょう。

・残酷さに耐える訓練さん

残酷さに耐える訓練さんの、上記のようなコメントを頂くと、僕は、残酷さに耐える訓練さんがなぜ「残酷さに耐える訓練」と名乗るのかが気になってしまいます。

残酷さに耐える訓練さんは、「親」に関してはラッキーカードを引いたと仰る。けれど、その言と、残酷さに耐える訓練さんのコメント内容と、「残酷さに耐える訓練」という名乗りが、僕のなかでは整合しません。ミッシングリングがあるようにいつも感じています。

呪われている子どもは、世界にたくさん存在します。たくさんどころか、大多数は呪われています。「呪い」は文明病であり「人間という病」なので、文明社会では呪うことが当たり前。だから怖ろしい。戦争も止まない。原発も止らない。アドラーがいうところの「共同体感覚」が喪失してしまいます。

「呪われた子ども」は、自分が呪われていることを識って、その場所から自ら立ち上がっていくことでしか、呪いの連鎖から解脱することができない。他人にできることは「あなたは呪われている」と告げることだけです。「解呪」というのは、この「告知」に過ぎません。

「告知」を受けて覚醒したら、「悟り」を開くべく努力するしかない。
個人主義的な考え方で行けばこの上なく理不尽です。
他人から呪いを自分で解決しなければならないのですから。
だけど、これもまた「生命の顕れ」です。
ヒトがどうしようもなく社会的な生き物であるがゆえに、「呪い」もまた有効なのです。

世界は残酷です。それはヒトが「性善」だからです。社会的な生き物として「呪い」のレセプターを保持しているからです。

「解脱」や「悟り」というのは、アナロジーではありませんよ。
ゴーダマ・ブッダは、社会的な生き物であることを拒絶する、つまり「呪い」を有効たらしめるレセプターを排除することで「悟り」を得、「解脱」に至ったのですからね。

ブッダが見落としていたのは、「呪い」のレセプターは「祝福」のレセプターでもあるということです。この『きみはいい子』という映画が示していることは、まさにこのことです。

「きみはいい子」というメッセージは「祝福」に他なりません。


もし『きみはいい子』の子どもたちの中に、性的虐待を受けていた子どもがいたとしたら――。
とても意地の問いだと思います。「抱きしめられてください」という宿題はセカンドハラスメントでしかないでしょう。

現実にはそういうことはあると思います。しかも、かなりの確率で。
が、現実を(都合良く)切り取ることで成立している作品にそういった問いかけをすることに、僕は意味を見いだせません。それは「切り取る」ことの否定にしかならないと思うから。どのような意図で製作者が「切り取り」を行ったのか、その意図を無視することになると思うから。

僕は、残酷さに耐える訓練さんが、そうした「無視」がなにを意味するのかを理解しているだろうと思います。少なくとも「祝福」ではありませんよね。だけど、残酷さに耐える訓練さんは、それをする。その動機が奈辺になるのか、気になるところです。

個人としての人間は有限です。想像力においてもです。だから、想像を為すにはそれなりの理由がある。誰かの想像を理解し得ないということは、その人が高スペックであるか、ミッシングリングが存在するかのどちらかです。

Restless Tundra

>その人が高スペックであるか、ミッシングリングが存在するかのどちらか

以前からたまに触れていますが、私はオカルト体質なんですよ。
愚慫さんは理路で世界を定位しようとしますよね。「語る人」じゃないですか。
そこで欠けているパーツがあると感じるなら私は言葉でそれを供しなくてはならなくなる。でもそれは無理なんですよ。私の感覚そのものを移植できたら、ああなるほどと思うかも知れませんね。

で、たぶんその体質のせいでしょうね。呼ぶんですよ。呪いがかかって苦しんでいる人を。
助けを求めて来る。「告解」してくる。聴いてほしいんですよ。苦しみや憎しみを受け止めて欲しいんです。
中には自分が犯した罪の赦しを求める人もいる。自分を慕って頼ってきた女性をレイプした男とかね。
寺とかで一休みしてると、そこの住持に言われますよ。お坊さんですかって。
初対面の人に、宗教の人ですかと言われたりもします。

私はそういう人ではないから。
自殺未遂の話とかされても、聴くことしかできないから。
愚慫さんは「共同体感覚」と仰いますね。こういう感覚がパッカーンと開いていたら、「告解」を受けるたびにごっそり持って行かれるんです。ヴァイタルを。
よりたかつひこさんでしたっけ、イルカセラピーを主宰してたらセラピーに起用していたイルカが次々に死んでったそうですね。そりゃ、死ぬに決まってるでしょ。死んで初めて分かったのかね。あなたバカじゃないのかって思いました。

「告解」を受けて、そういう話を大して親しくもない人間に対してするのは危険なこともあるよ(他人の弱みに付け込んで操ろうとする人間は世間にうようよいます。そもそも心の痛みを感じないサイコパスとかも)と告げると、信じていたのに拒まれたと陰で非難される。
実際のところ、うんざりします。どうして人間と人間の間にこれだけの憎悪や嫌悪、侮蔑、背信、排他性が満ちているのか。平素は笑顔で隠しているものを、皆じつはと言って裏で私に開陳してくる。解ってくれますよね、と。
あなたたち、皆嘘で嘘を塗り固めて生きてるのかよって、そう思いますよ。

それとHNは、残酷さに慣れる訓練です。「慣れる」を「耐える」とタイプミスするのには、愚慫さんの心情が入っているように思えます。耐えてるわけじゃない。ただ、失望してるだけです。

付記。
『きみはいい子』について、性的虐待の可能性を絡めたコメントを入れたのは、まさに「口当たりの良い」「呑み込みやすい」「安心して摂取できる」形態の虐待を描くことで、皆が触れたがらない・無いことにしたい形態の虐待が不可視化されかねないからですよ。
それって、作り手側の隠蔽に堕する可能性があるでしょう。

私が虐待を描いた映画で評価するのはミヒャエル・ハネケの『白いリボン』です。ただ、奨めはしません。とても嫌な映画ですから。

・残酷さに慣れる訓練さん

ありがとうございます。いつもコメントを面白く拝見していますが、今回は特に興味深かったです。
ミッシングリングが見つかったような気がしています。

オカルト感覚という言葉が適切かどうかはわかりません。だけど、その言葉で言わんとするところは伝わった――もっとも、僕がその言葉でもって勝手に埋めたのかもしれません。

残酷さに慣れる訓練さんは、僕を「語る人」だと仰いました。それはそうかな、と思いますが理路で世界を定位するといわれると、ちょっと違うかも、と思います。なるほど、表現の仕方は理路です。だけど、その裏にあるのは、「オカルト感覚」です。残酷さに慣れる訓練さんの感覚とは違うと思いますけどね。

「スペック云々」は冗談というか、仕返しみたいなものです(笑)。以前、そんなふうに言われたので、使ってみただけ。本命は「ミッシングリング」の方です。

こういう言葉の出方は理論的なのかもしれませんが、僕の感覚だと、こういう言葉が出てくるというのは、そういう準備ができているということなんです。感覚がオープンになっているという感覚。なので「オカルト感覚」という言葉でなくても、ミッシングリングは埋まったろうと思います。

言葉の意味が問題ではないんです。「意志」が問題。残酷さに耐える訓練さんは、残酷さに耐える訓練さんのやり方で応えてくれたという感触があって、その感触が「言葉」を理解しようとする方向へ脳細胞の働きを誘導するんでしょうか。「言葉」よりも先に「意志」です。


「共同体感覚」が開いていたら、ごっそりとヴァイタルを持って行かれる――というのは「共同体感覚」ではないとは思いますが、言わんとすることはわかる気がします。

僕も「呪い」に敏感なところがあると自認しています。だけど、僕の場合は受け入れない。反射的に撥ね除けてしまう性質がある――というのは、以前、アキラさんからリアルな場面で指摘されたことで、自分でも納得しています。

この感覚は、同族嫌悪と言い表すのが適切でしょう。僕自身にも呪われているという感覚があって、「呪い」を憎悪している。憎悪しているからこそ「呪い」に敏感で、そうしたくないのにわざわざ自分から見つけてしまうんです。そして自分から近づいていったくせに撥ね除けようとする。自分でも厄介な性分だと思っています。

なのに、矛盾していますが、そんな僕自身が今では大好きなんです (^_^;)


「どうして人間と人間の間にこれだけの憎悪や嫌悪、侮蔑、背信、排他性が満ちているのか」

この問いについては、理路で僕の中に答えが出ています。
スペックオーバーなんです。社会が大きすぎて、要求される情報処理量がヒトの情報処理能力を遙かに超えている。原因はたったこれだけのことです。

小さな社会で暮らしている人は、たいてい「イキイキ」しています。大きな社会で暮らしている人は「イライラ」して「シニモノグルイ」です。「シニモノグルイ」のヒトが憎悪を生んでしまうのは、自然の理です――と、僕の「共同体感覚」が語ります。

犬ですら憎悪します。馬だって憎悪という感覚を持ち合わせていました。イルカは知りません。彼らは優れて社会的ですから、憎悪ができずに死んでしまうのかもしれません。


理が拓ければ、次は「意志」の問題です。『きみはよい子』への残酷さに慣れる訓練さんの問題提起は理解できます。ご指摘のように世界はもっと残酷です。映画は比較的飲み込み易い部分を切り取っただけ、というのは客観的に見て事実でしょう。

しかし、客観的事実に意味はありません。それをどのように受けとめるかという「意志」が意味を後付けします。「世界は映画より残酷だ」という指摘を為そうとする「意志」は、僕には憎悪の方を向いていると感じられる。だけど、テキストを介しているだけではありますが、僕と接してくれようとする残酷さに慣れる訓練さんには、憎悪と逆のベクトルを感じる。

この感覚の落差が「ミッシングリング」という言葉を僕の意識へ押し出したのではないかと想像します。


ところで、残酷さに慣れる訓練さんのHNの間違いですが、まったく気がついていませんでした。その理由はご指摘の通りでしょう。失礼しました。
(HNが長いので辞書に登録しようといつも思うのですが、なぜか思うだけ、なんですよね。なぜなんでしょうね (^_^;)

Tranceformed Beyond Recognition

>憎悪と逆のベクトル

それはそうですよ。私は愚慫さんを憎んでいないですし。
人間には色々失望してはいますが、ホモ・サピエンスが全くもって嫌いというわけじゃない。関わるのは面倒くさいものの、基本わりと好きなんでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=jAYZD0gkgng
ホモ・サピエンスにはこういうユーモアのセンスがある。
私はホモ・サピエンスの善良さや叡智よりも、無邪気なユーモアの方を信じている。
アドルフさんもこういうのを聴いてにやにやするセンスがあったら、あんなことはしなかったかもね。表現主義のデフォルメはアーリア人の容貌を愚弄するものだと迫害したアドルフさんと仲間たち。何に癇癪を起こしていたのか。

イルカは結構残酷な行為をしますよ。野生の生態において苛めもすればレイプもする。他種のイルカを食べもせずに襲い虐殺することだってあります(※)。
ただ、呪いのかかった個体に寄り付かれてダメージを受けることが通常ないのでしょう。そもそも大概の生物は注視され続けたり過剰なケアを受け続けたら弱っていって、死にますからね。
飴屋法水さんが適切に表現してますよ。「上手に無視をする方が動物は安心する」って。

http://luna.pos.to/whale/jpn_killer_dolphin.html 参照。
記事にもありますが、バンドウイルカがネズミイルカを虐殺する理由は解っていません。両種は食べる魚が異なるので食物競争が原因ではない模様。バンドウイルカが、同族の幼体を殺すための練習台としてネズミイルカを使っているという説もあるようです。

追記。
ユーモアのセンス云々という前段のコメントを自ら否定するようでアレですけど、引っかかることがあるので書きます。

>スペックオーバーなんです。社会が大きすぎて、要求される情報処理量がヒトの情報処理能力を遙かに超えている。原因はたったこれだけのことです。

性差別・性暴力(子供への性的虐待含む)・人種差別などは、愚慫さんの理路ではどうにも説明が付かないのではと思うんですよ。現代において「悪」と見做されるこれらの人間の営為は、スペックオーバーによって生じたと果たして言えるのか。

ヤノマミ族は非常に戦闘的な部族で、戦闘的な部族社会は大概男性に比べて女性の地位が非常に低い。民俗学者により比較調査がされているのですけれど、ヤノマミ族は他のより資源の乏しい部族よりも育児に投資をしないというデータがあります。食べ物の少ない部族よりも子供を大切にしない。嬰児の殺害もします。そしてサイコパス的な気質を備えた者が多いそうです。嘘をついたり騙したりすることのハードルが低い社会です。
ヤノマミ族は部族社会の中では規模が大きい方ではあります。でも相対的に見て資源の少ない部族ではないんです。
食べるために戦う必要性は他部族よりも低いはずなのに、戦闘性は高い。彼らは情報処理量がヒトの情報処理能力を遙かに超えたためにより戦闘的に/より性差別的になったのか。これは調べようがありません。
もとより彼らの社会の中では戦闘も女性の地位が低いのも悪ではない。では部族がもっともっと小規模であった頃は、女性の地位は高かったのか、もっと平和的だったのか…。確かなのは、彼らの社会ではサイコパス性の強い者がより生きやすいのです。

私は愚慫さんの仮説を否定したいのではないです。
性善説が人間に適合するものであっても、私には何の不都合もないのですから。何も困らない。
でもね、性善説や性悪説で人間を捉えようとすると、どうしても私の中で辻褄の合わないところが出て来るんです。

“子どもの頃ハンセン病になって療養所で人生の幕を閉じた知人はほとんど指の無くなった両手を私の顔の前に出し、「この手はハンセン病のせいじゃない。わかるか?隔離され、体を痛めつけるまで働かないと生きていけなかった、そのせいだ」と言っていた”
https://twitter.com/akabanana2014/status/559357763923353600

「隔離」は情報処理量がヒトの情報処理能力を遙かに超えたために生まれたのか…?

・残酷さに慣れる訓練さん

コメントありがとうございます。
いろいろと安心しています。余裕がおありなんですね。

人間が無邪気にユーモアを発揮できるのは、余裕があるときです。
ご紹介の「ワルキューレの騎行」のパロディは、余裕のなかったアドルフさんにはおそらく許せなかったでしょうね。「退廃芸術」という烙印を押したに違いないと思います。エゴン・シーレの絵画などと同じく。

退廃を受け入れ愉しむというのも、余裕が為せるわざ。ある意味、貴族的です。

貴族は貴族であることを保証されている限りにおいて、良い意味で貴族的であることができる。が、一端、貴族であることを脅かされると感じると、悪い意味で貴族的に振る舞う。悪い意味での貴族的振る舞いは「立場主義」にも通じます。フリードリヒ・ニーチェやオルテガ・イ ガセットなどが賞賛した貴族的なものは、貴族であることが脅かされたときにこそ貴族的に振る舞うことができる能力なのでしょうが、これがなかなか難しい。

誇大妄想的であることを自覚しつつ申し上げますが、僕の人間性善説は、ネオ・ダーウィニズムのようなものだろうと思っています。永遠の仮説とでも言えばいいのか。進化という概念はそうとうに融通の効くもので、いろいろな現象が「進化」にこと寄せてそれらしく説明できてしまいます。

リチャード・ドーキンスなんかを読んでいるとよく思うのですが、なんと「都合の良い」説明を構築しているのだろう、と。特にミームとかいう概念がそうですね。とってつけたような概念ですが、不思議なことに信じる人が多い。笑。

僕は、「進化」の「都合良さ」を批判しているわけではないんです。むしろ支持します。ヒトラーではありませんが、嘘をつくなら大きな嘘をつけ、です。人類が進化した生物である「嘘」は、人類にとっては都合がよい。万物の霊長という考え方は、傲慢という意味で貴族的ではあるが、面白いことに科学は人類の貴族性を脅かしています。その恐怖に際して、人類はどこまで貴族性を保持できるかが問われています。「進化」という都合のよい「嘘」を守ることは、ニーチェやオルテガ的に貴族性を保持することに役立つだろうと思う。

話はズレるようですが、現在、AIが長足の進歩を遂げて、シンギュラリティが懸念されていますよね。人間より機械の方が賢くなってしまうという恐怖。その恐怖を見据えつつ、いかに「嘘」を守り通すか。「嘘」を守るために機械を排するか。それとも別の領域に「嘘の都合」を見出すか。

人間性善説もまた「嘘」ですが、進化という「嘘」と合わさってより大きな「嘘」になれば、シンギュラリティの恐怖を陶冶することができる「嘘」になるだろうと思ったりしています。

――というのが、人間性善説は辻褄が合わないという疑問への答えですが、答えになっていますかね? 性善だと信じていさえすれば、それにこと寄せた答えを人間は編み出す。そういうヒトはそういう生き物だろうと僕は思っています。「嘘から出た誠」ということが、人間には起きてしまう。


「嘘から誠がでる」という現象は、別の言い方をすれば〈学習〉であり、〈学習〉を阻むのが余裕の無さ。これまた言い換えれば「イライラ」です。

 子曰、學而時習之、不亦説乎、
 有朋自遠方来、不亦楽乎、
 人不知而不慍、不亦君子乎


子の曰(のたま)わく、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。

〈学習〉が「説(よろこ)び」であるだなんて、都合のいい「大嘘」です。
この「都合の良さ」の「善」なること。笑。
その「嘘」を呑みこんでしまえば、

それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。

となる。そしてその「嘘」を呑みこめないでいる人に対しても、

そのよろこびを知らない人を見ても、心を波立たせないでいる。それこそ君子ではないか。

と思うことができるようになる。
「慍」=「心を波立たせる」=「イライラ」なのは言うまでもありませんし、また〈学習〉という「嘘」を「真」たらしめることを阻害するのもまた「慍」。

このことは科学的根拠を問うまでもなく、直観で理解できるだろうと思います。

「慍」こそが僕がいうところのオーバースペックです。コンピュータですら、処理を要求される情報量が過大だと、時に熱暴走を起こしフリーズしてしまう。ヒトでいうなら「鬱」でしょうね。

もちろん、コンピュータのフリーズとヒトの鬱を同等に語ることは不可能ですが、アナロジーで語ることができるくらいの類似性はあるでしょう。



ホモ・サピエンス・サピエンスが、たとえばモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスに比べてより攻撃性が高いであろうということは事実だろうと思います。これは、チンパンジーがボノボよりも攻撃性が高いということと、同等の現象に過ぎないのでしょう。イルカに関しては、よくわかりませんが。

科学的根拠がないので推測でしかありませんが、攻撃性の高さ、特に牡については、睾丸の大きさに比例するのかもしれません。ホモ・サピエンス・サピエンスの中でも、白人種>黒人種>黄色人種の順番があるのだとか。睾丸の大きさをそのまま攻撃性とするのは人種差別になるでしょうが、テストステロン分泌量の大きさには比例するでしょうね。

ヤマノミ族は黄色人種ですが、睾丸の大きさを周囲の部族と比較してみると、何かわかることがあるかもしれませんね。

このような記事があります。

『企業経営者には強いサイコパス気質がある』
http://toyokeizai.net/articles/-/79411?display=b

ヤマノミ族の攻撃性の高さに関して、関連して語ることができるかもしれませんね。


The Inheritors

>人間性善説もまた「嘘」ですが

ここらが対人コミュニケーションの限界なのかもしれませんが、愚慫さんが本当に「嘘」(←Fiction、寧ろFaithというべきなのかも)と思っているのか、それともこの表現はあくまでレトリックであり、愚慫さんにとっては裡から湧き出て来る抗いがたい実感として善があるのかが私からは良く解らないんですね。
方便なのか韜晦なのか。
希求なのか感得なのか。

いちいち他者が懐疑するようなものはないかも知れませんが、対話の動機って煎じ詰めればそんなものでしょう。
相手に興味があるからする。

オリバー・サックスが著書の中である女性の患者について触れています。
その女性はかつて売春婦で、仕事で梅毒に感染していた。往時、梅毒は娼婦の職業病みたいなものでした。患者は症状が進行した状態でサックスを訪れ、進行を止めて欲しいと言ってきました。仕事仲間を見ていて脳梅毒の終末期がどういうものか良く理解していたから。
同時にその患者は、症状の根治はしないで欲しいとサックスに求めました。梅毒が脳を侵すことで、彼女は多幸症になっていたのです。彼女は幸せだった。老いて経済的にも決して豊かではない中、病が幸福感を齎してくれた。それを失いたくなかった。
サックスは具体的にどういう施療をしたのかまでは書いていませんでしたが、彼女の望み通りにしたそうです。

私は多幸症になったことがないので、彼女が病によって得た「裡から湧き出る強い幸福感」がどういうものか解らない。
でも幸福感というものについては、解ります。
幸福とは即ち、善でしょう。幸福感とは自らが善と共にあるという感覚と言い得る。そしてそれは脳が作り出すもの、感じる者のもの。

私が書いていることは性善説それ自体についてではないですね。ただし、幸福感抜きの幸福がありえないように、内なる善と共にあるという感覚抜きの善はありえないのではないかと私は思います。
愚慫さんは、どうですか。内なる善と共にありますか。
たとえ私たちが十全たる善を認識し得ないとしても、それでも善と共にあると感じますか。

こういう書き方をすれば、私が何故サイコパスについて触れるのかも、なんとなく解ると思います。

>人間より機械の方が賢くなってしまうという恐怖

皮肉でも何でもなく、何故恐怖するのかが解りません(愚慫さんが恐怖しているわけではないでしょうが)。
シンギュラリティがAIを人間以上の賢者にするのであれば、そしてその賢さがより十全たる善への理解と、善と共にあるという感覚を齎すなら、それは善いことです。彼らが後継者になればいい。
機械が人間のように生物(生命)に対する親しみやノスタルジーを感じるかは解りませんが、機械の獲得する知能が世界に対する本質的な理解に於いて人間を超越するのなら、かかる存在を生み出すことは人間にとって最大の業績となるのではないですか。
願わくば、蜘蛛や芋虫を愛でたり草花を育てて喜ぶAIが生まれることを。蠅やゴキブリを嫌わないAIが生まれることを。

追記。
コチレドン属とクラッスラ属の挿し木が上手く行きました。発根するまでに1か月くらいかかったんで、ダメかと思ったんですけどね。コノフィツム属が脱皮・分頭しました。秋になればまた花が咲くかもね。
私にとって世界は残酷です。でも生命を育てるのは幸福です。

「虫に良いも悪いもあるかい ただ来る道が違うだけじゃ」
秋山亜由子『稲虫』より

人間性善説は、今の僕には実感、いえ、身体感覚です。だけど、かつてはそうではなかった。アタマでは理解できても、身体はそのように理解していませんでした。

宮沢賢治が法華経の行者たらんとしたことは有名です。法華の政治結社にも加わろうとしたことがある。幸いにも政治活動家にはなりませんでしたが、その賢治の言に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのがあります。この言は、ほとんどの人間にとっては「嘘」でしょう。

ちなみに僕には「嘘」ではなくなりつつありますが、まだ「嘘」です。というより、この言を「真」にするために要求される〈学習〉の量がなんとなく見積りがついて、僕にはとても無理と思ってしまう、という感じ。ヒマラヤの高峰に憧れながら、生涯憧れで終わるだろうという憧憬の思い。少年の老い易く、学成りがたし。

以上のニュアンスからすると、僕の「嘘」という言葉の用い方はレトリックであり韜晦なのかもしれませんね。

世の中には幽霊が見えるという人がいますよね。見える人にとって幽霊は「本当」ですが、見えない人にとっては「嘘」。が、世界は「本当」と「嘘」にキレイに切り分けられるわけではない。自分は見えないけど、幽霊がみえるという人の言葉を信じる人もいる。そういう人にとっても、幽霊はやはり「嘘」でしょうけど、みえないから「嘘」と断定出来てしまう人の「嘘」とは違いますよね。

僕の言葉の用法を用いるなら、前者は〈嘘〉、後者は【嘘】となるでしょう。〈学習〉に向かって開かれている〈嘘〉と閉じている【嘘】。

僕の「嘘」は〈嘘〉のつもりです。


世界が残酷なのは疑いようのない事実です。このことは善でも悪でもない。地球上に存在を許された生命の宿命です。人類はそんな残酷な世界で、社会を作るという戦略でもって生き残るという選択をした。この選択こそが僕にとっては善です。ヒトには個性やら体癖やらいろいろあります。また、形而上な善の概念も存在します。それらは、生存戦略という人類の絶対善を前にしては些末なことだと思います。

他の生命を育むという行為は絶対善に寄与する行為なのでしょう。だから幸福感を感じことができるます。幸福感を憶えるというのは、その善が身体感覚だということです。


余談として披露しますが、僕には育てることが不幸な惡だという「実感」もあるんです。ご存知のように樵をやっていましたからね。

梅雨時は、林業では下草刈りの季節です。10年未満の苗木は下草に負けてしまいますから、造林という「人間の都合」の手順としては、下草を刈ってやらないといけません。炎天下で黙々と草刈り機というエンジンとシャフトと刃のみという単純構造の機械を振り回し続けることは、苦痛以外の何ものでありません。幸いなことに人間は自分に嘘をつくことができるので、この作業が一日いくらの収入になるという理解に自身を落とし込むことはできる。

お金は、社会の中で生きる人間にとって実感です。人類の生存戦略として機能している社会の中で、それも貨幣経済社会では、お金を手にしているということは、生存することを許可されているということですから、お金が「実感」になるのは、ヒトの〈学習〉の力からして当然の理です。しかし、だからといって、炎天下の下草刈りが幸福になるわけでない。むしろ、不幸を埋め合わせてくれるお金の「実感」が増す方向に作用します。しかしこれは、身体感覚を鈍らせる不幸なことだと思う。

おかげさまで、そのように不幸に抗ってきたこともあって、世界の残酷さに耐える訓練ができたのでしょう。世界の残酷さに抗うには自身の生命力を高めるしかない。他の生命を育てることは幸福ですが、その幸福は育てた生命が失われると消えてしまいます。世界は残酷なので、そういった出来事は頻繁に起きてしまいます。

サイコパス云々については、あらためて返答させていただきます。

今は時間がないので、ごめんなさい。

True Happiness This Way Lies

>愚慫さん

返信ありがとうございます。私なりにですが、愚慫さんの感覚がつかめました。
余談。私は「見える」タイプではないものの、「動くはずのないものが動く」「現れるはずのないものが現れる」タイプなので、喩えについては良く了解できます。まあ「見える」こともあるっちゃあるか。

>賢治の言に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのがあります。この言は、ほとんどの人間にとっては「嘘」でしょう

この言葉、賢治が苦しんでいるようでどうも好きになれないんですよ私は。「嘘」というよりも倒錯的で自己懲罰的に感じる。
世界が幸福ならば私も幸福だ、というなら解ります。でも賢治のは“世界がぜんたい幸福になることは叶わないので、私の幸福はあり得ない”と読めてしまう。世界の捉えにもよりますが、一歩間違うと全体主義に転落する可能性もあると思います。賢治が一時期国柱会に入会していたという経歴についても想起してしまいますよ。
国柱会については終生その思想に共鳴していた説と、早期に離別していた説があるようですが、どちらも賢治を愛する者にとっての「願望」が色濃く入っているように思えます。

いずれにせよ先ず個人が幸福感を持たねば世界が幸福であると感じることは不可能ですよね。

>その幸福は育てた生命が失われると消えてしまいます。世界は残酷なので、そういった出来事は頻繁に起きてしまいます

記憶がホモ・サピエンスを「人間」にするのでしょう。固有の記憶が個体としてのホモ・サピエンスを個人にする。
だから幸福は消えはしない。私は幸福感に満ちた幼年期の記憶を、自らのアーカイブからいつでも取り出すことができます。
それが「三年之愛」と呼ばれるものの効能なのかも知れません。それがなければ私は「残酷さに慣れる」のでなく残酷そのものになっていたかもしれません。

追記。
親が与えたくれた慈愛とその記憶だけでは、世界に満ちた残酷を消し去ることは出来ない。
寧ろそのコントラストが、残酷をより際立たせるところがあります。
昔、被虐待児の女性と付き合っていたことがあります。
私は彼女から「親にとても愛されて育った人に見える」と言われていました。彼女は美貌で頭脳明晰でしたが、何でも一番じゃないと許さない母親から殴られたり罵声を浴びたりして育ったそうです。夜遊びをして帰宅すると母親に「AIDSにかかって死ね」と罵られたという。
私は実の娘を「死ね」と呪う母親の気持ちが理解できませんでしたが、それ以上に一緒に寝ている女からそう聞かされることで「持って行かれて」いました。
呪われた者の心には暗黒が棲む。暗黒の「持って行く」力はとても強いんです。持って行かれる時に、引き換えに私に残るのが、世界は残酷だという感覚です。持って行かれるたびに、私の中に残酷が積み上がっていく。

でも私には、その残酷を生まれるずっと前から知っていたような感覚もあるんですよ。私の親に出会うずっと前から。

・残酷さに慣れる訓練さん

「幸福感とは自らが善と共にあるという感覚と言い得る」

そうだと思います。ただ、善は幸福の必要条件ではあっても、十分条件ではありません。幸福ならば、必ずしも善であるとはいえない。例示してくださった多幸症、それからサイコパスは、個人が幸福ならば、それがすなわち社会的な善であるとは言い得ないということを示しています。

幸福は個人的なもの、善は社会的なもの、です。

とはいえ、ヒトは社会的な生き物なのですから、個人的幸福と社会的善が必要十分であってもおかしくはない。ヒトが機能的に正常なら、幸福と善は必要十分の関係。ただ、残念なことに、というより世界は残酷であるが故に、ヒトの生体機能は常に正常であるとは限らない。

サイコパスは生来的に生体機能に問題がある例。
娼婦の例は、後天的に生体機能に問題がある例。

このような個体では、その個体が幸福であっても、社会的に善であるように機能しません。個体の幸福と社会善は相克状態になってしまいます。

では、正常ならば心配ないのかというと、そうではない。正常であっても、社会善を維持するための情報処理量が個体のスペックをオーバーしてしまうと、個人の幸福が社会に喰われていってしまうようになる――このことは幾度も指摘したので、繰り返しません。


善が社会的なものであるとするなら、それは内にあるのか、外にあるのか。

僕もずっと「内にある」と考えてきました。しかし、最近は「外にある」と感じるようになってきています。《魂》とは「具体的な形」なんだいう偈が降りてきてから、「内にある」というのは、単なる刷り込みではなかったかと考えるようになっています。つまり形而上だということです。

僕自身の幸福感を点検して別の言葉に言い換えれば、「接続感」と言うこともできると思うんです。特に「自分よりも大きな何か」に繋がっていると感じられている状態。接続できているという対象が大きいほど、幸福感も大きい感じがします。ただし、その対象は健全な状態のものに限ります。接続対象が不健全だと「持っていかれて」しまいます。

「ヒト」が生まれて「人間」になるまでの三年間の間、習得するのは「社会化」だけではないのだろうと思います。「接続技術」もこの間に習得する。その技術の習得の仕方で、「社会化」のあり方が違ってくる。「接続技術」習得はもっとも基本的な「ヒト」の課題であるような気がします。

そう考えると、ヒトが甚だ未熟な状態で生まれ落ちてくる事実が腑に落ちます。技術は、分離があって始めて習得可能です。母親の胎内にいる状態では、一体ですから技術が入り込む余地がない。隙間を埋めるのが技術、隙間があってこその技術です。

ヒトが身体的に未熟なうちに母親から切り離されるのは、まだ未熟なうちに「接続技術」を学ぶためではないか。子どもを「三年之愛」で満たすということは、ヒトが本能的にもっているであろう「接続技術の芽」を十分に育むことではないのか。孔子が「仁」と名付けたのは「接続技術」のことではないのかと考えています。

「世界が幸福なら私も幸福」

このように感じられるとするならば「接続技術」が十分に発揮されているということでしょう。その前提なしには「世界が幸福ならば私も幸福」だということを理解(想定)することはできません。


「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

この言の前提もまた「接続技術」だろうと思います。強すぎる嫌いはありますが。
ただ、この言を開かれてたものとして受け取るか、閉じたものとして受け取るかは受け取る者の構え次第だろうと思います。

法華経を学んだ賢治が上のような確信に至ったということは、アタマでは理解可能なことです。というのも、法華経に書かれている内容がそのようなことだからです。華厳には「世界の仕組み」を理解しようと欲した財善童子の物語という体裁で、「世界の仕組み」が記述されています。法華経は「世界の仕組み」を理解した菩薩たち(人間)が出現するという物語。

「世界の仕組み」は「釈迦の説法」という形で示されますが、これは「仏教の形式」でしょう。「世界の仕組み」を理解するには「世界への十分な接続」が必要です。それには「十分な接続技術」が欠かせません。

では「接続技術」で必要十分かというと、そうではない。「理解」に情報処理が要求される。「接続技術」が十全で入力される情報量が大きいほど、要求される情報処理量も大きい。情報処理が為されないと、それは「理解」とは言えません。理解は、そこへ至れば「接続の喜び」を得られますが、そうでないと苦痛になります。


次のような例え話。僕の好きなクラシック音楽の話です。

友人とのドライブをしていたときのこと。車中のBGMでワーグナーの管弦楽曲集を流していました。ドライブに使っていた車はトヨタの高級車で、高速クルージングをしていても静粛性が高く、逆に言えば、スピード感と身体感覚を切り離されるようなマシンでした。“曲集”つまり“アルバム”ですからいくつか音楽が流れるのですが、クラシックに馴染みのない友人にどれが一番気に入ったのかと尋ねると、帰ってきた答えは「タンホイザー序曲」。

https://www.youtube.com/watch?v=gI7AOI40oZY

その理由を尋ねると、「音楽が盛り上がるに連れてアクセルを踏みたくなる、クルージングを応援してくれているように感じる」とのこと。危険ですが、まあ、「そういうドライブ」をしていたわけなので、目的にはかなっていたのですが。(^_^;)

反対に、一番嫌いなのは、僕が尋ねるまでもなく応えてくれたのですが、『トリスタンとイゾルデ 前奏曲と愛の死』でした。

https://www.youtube.com/watch?v=J-qoaioG2UA

この音楽では、盛り上がるにつれてクルージングを邪魔されているように感じた、というのです。

「応援されている(快感)」「邪魔されている(不快感)」という感覚はそれぞれ「理解」「不理解」に繋がっています。音楽への理解があると快感になり、クルージングの快感との相乗効果を生む。逆に音楽の不理解はクルージングの快感への阻害感になる。

が、「理解」にせよ「不理解」にせよ、それは「音楽への接続」があってのことです。「接続技術」がなければ、音楽はそもそもノイズに過ぎません。「不理解」で「不快感」が生じたということは、接続技術>理解力=情報処理能力だったということなんです。

事実、クラシック音楽好きなら知っていますが、要求される情報処理量において「トリスタン」>「タンホイザー」なんです。


クルージングを「人生」に、音楽を「他者との関わり」にそれぞれ置き換えても、「理解」「快感」/「不理解」「不快感」の構造は変わらないと思います。もちろん、「人生」「他者との関わり」の方が圧倒的に複雑ですが。

「接続技術」に長けている人は、情報は常に入力過多の傾向にあるでしょう。能力を超えた要求は〈生きること〉の阻害になってしまう。だけど、世界は残酷なことに、接続記述の発揮もまた〈生きること〉に他ならない。〈生きること〉に長けているが故に〈生きること〉が阻害されてしまうと言う皮肉が生じてしまう。

〈生きること〉と一言にいっても、その内容は複雑です。なので、どうしてもアンバランスが生じる。バランスが崩れた〈生〉を苦痛に感じるのは、感性としては実に健全でしょう。

――と、ここまで書いてきて、思い起こしたのは『鹿の王』です。

「敵の前にただ一頭で飛び出して、踊ってみせるような鹿は、それが出来る心と身体を天から授かってしまった鹿なのだろう。才というものは残酷なものだ。ときに、死地にその者を押しだす。そんな才を持って生まれなければ、己の命を全うできただろうに、なんと、哀しい奴じゃないか、と」

それができる者を「王」と呼ぶ。この「王」の哀しさ。世界は残酷であるが故に、「接続技術」に長けた者に「才=高スペック」を要求する。これはもう、仕方がないことだと思います。


賢治は、この伝でいうならば「王」になろうとしたのだと思います。賢治をして「王」への志を抱かせしめたのは、おそらくは「三年之愛」という他力によって培われた「接続技術」だったでしょう。さらに推測を重ねれば、その親もしくは周辺環境は貧困だったのでしょう。貧困の中で「三年之愛」を授かった。賢治は東北岩手の産ですから、十分にあり得ることです。

そんな賢治が「我が幸福」と「世界の幸福」を同一視したのは、いささか行きすぎの感があるにせよ、ごく自然なことだろうと思います。いくつもの条件が一致したときに出現する「希な自然」ではあるでしょうが、そうした「自然」がしばしば出現するからこそ法華経といったような書も生まれ、理解され、少なからぬ人間の人生の指針となってきたのだろうと思います。



>でも私には、その残酷を生まれるずっと前から知っていたような感覚もあるんですよ。私の親に出会うずっと前から。

「希な自然」という感覚があるのかもしれませんね。孔子なども、そういう感覚を持ち合わせていたのではないかと思います。そうでないと「天命を知る」とは言わなかったはず。また、孔子でなくても「calling」ということは、人類世界のなかで広く言われていることですよね。

Sunbather

>愚慫さん

「気」の入った返信、ありがとうございます。やはりそれなりのものを出してもらうには、こちら側もそれなりのものを出さないとならないのでしょうね。自分の話を出すのは、自らを切り売りしているようで落ち着かないところもあるのですが、色々と解るところが多いです。
賢治の話については、「暴走しない(スイッチの入らない)」ごんさんと愚慫さんの対話を読んでみたかったですね。彼は私よりも遥かに優れた賢治の読み手でしょう。暴走さえしなければね。

>善は社会的なもの、です

これに関しては思うところがあります。また幼時の自分語りでうんざりさせるかもしれませんけれど、保育園児~小学校一年生くらいの時分かなあ。まだ街中をバキュームカーが走っていた頃です。私が棲んでいる家もその頃は汲み取り式だったんですよ。
私はバキュームカーで汲み取りをしている業者さんを見るたび、何といえば良いのか、畏敬の念を感じていました。
便臭と不潔さに耐えて働いているのが立派だから、という理屈ではないんです。今でも理由はわかりません。ただただ己の裡から彼らを尊いと思う感情が湧いてくる。
汲み取りの業者さんに出くわすたびにじっと見つめる私を見て、ある時父が言いました。ああいう人たちは世の中の落ちこぼれだよ、と。出来の悪い人がああなるんだよ、と。

私がその時にハッキリと感じたのは正しくないものへの怒りでした。そして私に対しては優しく、人の好い父がそのような正しくない思いを私が尊いと思う者に向けたことへの失望でした。
私は当時の年齢まで「職業で誰かを差別することは正しくない」と教わったことはなかった。そもそも差別という概念自体を誰からも教えられていなかった。
でも私は既に汗を流して働く人を蔑むのは悪だと裡から感覚していたのです。善が裡になければ自ら概念し得ない差別を悪と感覚することは不可能ではないのでしょうか。

だったら私は性善説の側に付きそうなものですが、そうはならなかった。同じ時期に、つまり記憶している限り最初に出来た同い年の遊び仲間が典型的なサイコパスだったからです。彼の話は以前ちょっと触れた記憶があります。
窃盗・虚言癖。スリルを楽しむために盗み、騙すことが面白いから騙す。悪を一切の屈託もなく純粋に楽しむ性格。そしてその性格が高い知能と結びつくとどれほど危険か、人格形成の初期に私は知ることとなりました。

まあ長くなるので、本エントリでのやり取りはこの辺で一旦筆を置きます。
私が愚慫さんに対してしばしば「残酷」サイドの話をぶつけていたのは、愚慫さんがどこまで本気なのか確かめたかったのだろうと思います。愚慫さんは文章が極めて巧い、半端なプロライターよりもよほど巧いので、ひょっとして担がれているんじゃないかという気持ちがどこかにあったんです。文章に逡巡とか自己に対する懐疑みたいなものがほとんど表れないから。饒舌すぎるものには懐疑してしまうところがあるんです。

ワーグナーとドライブの話も、とても面白かったですよ。コメント欄で蔵出しするのは惜しいくらいのネタですよ。まあブログの読者全体に向けたものでしょうが、対話の中でこんなん出してもらってかたじけないって感じです。
接続感覚(技術)と理解、これも孔子っぽいですよね。

あと「社会善」というのは交感可能な善と捉えて良いのですかね。
社会化された善(オーソライズされた善)と読むと、これが呪われた心に入った場合更にたちの悪い状態になると思います。暴力が起動する。

・残酷さに耐える訓練さん

「社会善」という言葉の使い方は良くなかったと思います。

僕が言いかったのは、善は社会的なんだ、いうことなんです。主体はあくまで個人です。個別である個人が感じるのは幸/不幸ですが、それは、仰るように交感可能。個別的な幸福が交感されることで個人の枠を超える、つまり社会的になる。

それを「社会善」とつづめて表現するのは間違いではないでしょうが、解釈としては「オーソライズされた善」と読まれる可能性が出てきます。可能性というより、オーソライズの方が主流になるでしょう。オーソライズされた方が情報処理量が少なくて済みますから。ヒトの「脳」にとっては、そちらの方が好物でしょうね。


ヒトがその脳力を越えた大きな社会を営むことが可能なのは、ひとえにオーソライズへの嗜好性ゆえだろうと思います。脳は多量のエネルギーを消費する器官なので、生命維持の必要性からでしょう、省エネ構造になっているらしい。オーソライズへの嗜好性の生物学的根拠は、脳の省エネ構造に求められるのではないかと予想します(そのような学説が存在するかどうかは知りませんが...)。

脳の省エネ嗜好からすれば、オーソライズされた観念を解体するといった多大なエネルギーを要求される行為を好まないでしょう。オーソライズされた観念の方に「適応」することを好む。この「適応」が「~すべき」という「正しさ」への嗜好性を生むのだろうと思います。

言葉は、それも「書き言葉」は広く伝播します。書き言葉の拡散性と脳のオーソライズへの【適応】嗜好が相まって、脳力以上の大きな社会の運営が可能になった。

しかし、そうした【適応】は「交感(接続)」を阻害するものとして機能します。「交感(接続)」は、脳にとって多大なエネルギーを要求される作業なのだろうと思います。


こんなふうに考えていくと、思い当たることがあります。身体を大きく運動させて大きなエネルギーを消費したときに得られる快感と、何かを複雑なことを理解したときの快感。どこか似ていると感じませんか? 自身の能力(脳力)を大きく発揮できたことへの喜び。これはすなわち〈生きる〉喜びと言っていいと思います。動物はもちろん植物にだってそうした喜びはあると思うし、その上、神秘的としか言いようがありませんが、なぜか交感可能です。動物はもちろん、植物とも。ヒトは交感力に長けた生物です。

その理由は、上のコメントで記したように、未熟な状態で母親から分離されるという危険を冒すからでしょう。

だけど、一方で、生命には省エネ嗜好もある。常に全力で稼働しているわけではありません。必要に応じて全力を発揮できるような構造になっている。それが、動物も家畜化してしまうと、せっかくの全力発揮の構造が廃れてしまうんですね。全力発揮がなくても生存可能なら省エネ運転の方を選択する方が合理的ではありますからね。合理的ではあるが、危険を冒したことは無駄になってしまう。無駄にしてしまうことを「退化」と言っても間違いではないでしょう。

ヒトの脳の省エネ嗜好に言葉の伝播性が加わって「大きな社会」ができあがる。社会はヒトにとっては生存基盤ですから、生まれ落ちた社会に適応した人間になろうとする。ヒトが社会に適応するに当たっては「接続(交感)技術」が必要ですが、必要以上の技術力は社会にとっては都合が悪いということがおきてしまう。オーソライズされた観念を解体してしまうから、です。


残酷さに慣れる訓練さんが体験したというご両親への「失望」は、「社会の都合」への【適応】に対する反撥だったのだろうと解釈することができると思います。その反撥が生じたのは、「接続(交感)技術」が高く、「接続(交感)」の喜びをすでに識っていたからでしょう。労働する大人に畏敬の念を抱くということは、「接続(交感)」なしでは考えられません。

しかし、残酷さに慣れる訓練さんのその能力を育んだのはご両親に他ないのに、職業に関してはご両親自身「接続(交感)」を拒否し、残酷さに慣れる訓練さんにも拒否するように薦めた。この行為を失望、あるいは裏切りと感じたのは「技術」が順調に、「社会の都合」にとっては必要以上に発育していたからなのだろうと考えます。

哀しく思うのは、ご両親が残酷さに慣れる訓練さんにそれだけの「技術」を育むだけの環境を与えることが可能だったのは、ご両親が「社会(の都合)」に十分【適応】していたからこそだったろうと推測されることです。「適応」によって「(不健全な)社会からの防波堤」としてご両親は機能し、残酷さに慣れる訓練さんを育む環境である「(健全な社会である)家庭」を営んだ。防波堤として「遮断」を可能たらしめたのは、オーソライズされた【社会善】でしょう。

今日では、ヒトの社会への【過適応】が進んで大人の「防波堤」機能は喪失しつつあります。「防波堤」機能を発揮できるということは、今日ではもはや、一部の人間の特権にすらなってしまっています。これは社会がそのように変容してしまったから、端的に言えば格差社会になったから。マルクス流に言えば「(健全な社会たる)家庭」の再生産コストが高騰したからです。

ですが、そうなる以前は、残酷さに慣れる訓練さんのご両親は、ごく(普通であることが難しいという意味で)「普通」の、大人(社会人)だったろうと思います。

なお、ご理解頂けるものと期待しますが、僕が批判の目を向けているのは、そうした「普通」です。「(健全な社会たる)家庭」を営むには、大人が「防波堤」として機能することが「普通」であるような社会です。オーソライズされた「社会善」によって省力化秩序化され、〈(全力で)生きる〉ことを構造的に阻害している社会。


僕にとって、こうした社会を受け入れることは、「残酷な世界」を受け入れることよりもずっと困難です。世界は残酷であるからこそ〈生きる〉ことに価値がある。「王」に憧れるということは「残酷な世界」を受け入れるということです。残酷な世界であっても、生命は幸福になることができます。〈生きる〉ことさえできれば、幸せです。

世界の残酷さが際立つのは、〈生きる〉ことが阻害されてしまうからです。世界の残酷さを受け入れる「接続(交感)技術」を、そもそもは生存のためとはいえ「都合」で矯めようとする社会。「都合」に沿えば沿うほど、世界の残酷さが際立っていく。際立つ程に〈生きる〉価値は増すと言えなくはありませんが、わざわざ際立たせなくても世界はすでに十分に残酷ですし、生命はその中で〈生きる〉力を持って生まれてくる。ヒトにとって社会は必須ですが、「大きな社会」は必要ないと思っています。

承前になるかどうかは不明ですが。

僕は最近、「魔境」という言葉が気にかかっているんです。

wikiから引用しますと、

「魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。ユング心理学で「魂のインフレーション」と名づけられた状態だという指摘[誰?]もある。

臨済は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている」

最近、自分でいうのも何なのですが、ある種の覚醒感があるんです。すっと展望が開けて、遠くまで見通すことができるようになったというイメージ。もちろん、それですべてが理解できたというのではなく、新たに理解したいことが増大したのですけども、、、

覚醒感には喜びを感じています。一方で不安もある。その不安の最大のものは魔境への怯えです。僕は「師」というものを持たない。今までいろいろな人からいろいろなことを教わったと思っていますが、誘導してもらったとは思っていない。自分で道を切り拓いてきたと自惚れているところがあります。

だから、魔境が怖い。覚醒感がエゴになりはしないかと恐れる。これは、エゴというものの性質上、自身では把握できないことですから。


こんなことを綴るのは、サイコパスが話題に出ているからです。サイコパスの人というのは、生まれながらにして魔境に居るような人なんだろうなあ、と思い至ったから。正確かどうかは自身がありません。

残酷さに慣れる訓練さんのサイコパスな友人の話には、覚えがあります。


エゴというものは、「遮断」があって成立するものだろうと推測します。エゴにせよアイデンティティせよ、何処かに「定位」しないと成立しない。魔境というのは神格と呼んで差し支えのないような、言葉では定義不能な領域に定位するものだろうと想像するのですが、「言葉で定義不能な領域への定位」という意味では、サイコパスもまたそうであるような気がします。

「言葉で適宜不能な領域への定位」というのは、しかし、相当に高機能な「遮断」です。【社会善】といったような領域なら、知性を働かせれば「遮断」の理由を語ることが可能になる。語ることが可能のなれば、【社会善】を生みだす脳の機能の逆用になりますが、適当に「遮断」を回避することが可能です。

しかし、サイコパスだとそれが難しい。
いえ「サイコパス」という病名が腑に落ちれば、これも(レベルは低いものの)「定位」ですから(レベルの低い)回避は可能でしょうけど。

しかし、言語機能が未発達の幼少のころに「魔境」と接していたというのは、相当の負荷だったろうと思います。

しかし、それ以前に驚くのは、それが「魔境」だということを把握していたということの方です。高機能な「遮断」ですから、その「遮断」に気がつくことができるだけの「接続技術」がないと感得不能なはずです。サイコパスが根の深い部分で反社会的にであるにもかかわらず、やすやすと社会の中に入り込むことができるという事実は、サイコパスであることを感得するにあたって要求される「接続技術」のレベルの高さを傍証になっていると思います。

まあ、社会への【適応】によって「接続技術」を自ら鈍化させている大人社会にでは、接続なしに合理的に振る舞うことができるサイコパスが優位に立つのは当然かもしれません。だから、言語機能が未発達の子どものほうがサイコパスを嗅ぎつけ易いとはいえるかもしれません。

が、それにしても、鈍い子どもなら、彼らの「遮断」されてれている故に純粋な喜びの方へ感化かされてもよさそうなもですが――いえ、そういう感化もあったろうと予想しますが、感化に抗うだけの「接続感」をすでに保持していたこと、そして、その「接続感」を今もって保持し続けようとしておらえることは、誇りに感じて良いことだろう思います。

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