愚慫空論

『きみはいい子』




とてもシンプルな映画です。
起承転結の「起」と「転」だけ。

前半は観ているのが辛いです。
前半だけにタイトルをつけるなら

 「オマエは悪い子」

でしょう。つまり、

 「起」=「オマエは悪い子」
 「転」=「きみはいい子」

というだけの構成。

 「起」=「呪い」
 「転」=「解呪」

と言ってもいいでしょうか。
よくもまあ、こんなにシンプルに作ったものです。

何のひねりもないシンプルな映画なのに、ダレません。
俳優たちの演技に目を見張るものがあるとか、そういうものでもありません。
ここに描かれているテーマが、人間というものに近しいモノだということです。


この映画のシンプルさから思い起こしたのは、とあるシンプルな歌です。これまた何のひねりもない、ただまっすぐな歌。ちょっとカトリック臭いですけど、ジブリの『魔女の宅急便』程度です。気にならないと思います。

その歌は、ここから聞くことができます⇒クリック!




シンプルというのは怖ろしいもので、ことの核心にスッと迫ってしまうんですね。


「子どもに優しくすれば、世界は平和になる」


あまりにシンプル過ぎて、ウソみたいに思われるかもしれません。
ウソとは言わないまでも、盛り過ぎだと思われるかもしれません。

ウソでも盛り過ぎでもありません。ごくごくシンプルな真実です。


世界は必ずしも優しくありません。
神様は(がいるとするならば)イジワルだから。
いや、人間がバカをしでかしたから、罰せられたのかな?

でも、世界がイジワルなのはヒトにだけではない。
他の生き物にもイジワルです。
イジワルな世界で生命は全力で生きていて、
そんななかでもヒトに近いケモノたちは、みんな子どもに優しい。

人間くらいです、子どもに優しくせずに呪うのは。


「呪い」なんて言ってしまうと、いささかアッチ系な感じですが、
ちょっと他に適切な言い方が思い浮かばないんです。
強者が弱者の生命力を抑圧してねじ曲げてしまうような振る舞い。
こうした行為を言い表すのに、「呪い」以上に適切な言葉を僕は知りません。



この映画は、リトマス試験紙のようなものとして機能するかもしれません。「呪い」がかけられているかどうかが判明する。

好悪どちらであっても、感情が強く反応する人には「呪い」がかけられています。反応の強さは「呪い」の強さに比例する――、
いえ、「呪い」が感受性を奪う域にまで到達していたら、反応できないかもしれません。そんな人には専門家の治療が必要でしょう。

「ふ~ん、そうだよねぇ~」
「こんなの、ふつうのことじゃん」
くらいの感じで、あまり反応しない人は幸いです。


『きみはいい子』の構成は、よくよく考えられて練られたものなのか、あるいは考える以前の直観のヒラメキで作られたのか、どちらかだと思います。細部は練られた形跡を感じますが、骨組みはおそらく後者でしょう。

キモは「結」がないことです。
「解呪」はそうそう簡単には終わらないからです。





コメント

こちらにも。 (^^)

何の映画か忘れましたけど、観に行ったときの予告編でこの映画を知り、当時「観たい!」と思いながら時間が合わず 流れてしまい、そのうち愚慫さんがこうしてエントリーをあげたのを読んで、「早く観なきゃ」とまたまた思いつつ時間が流れ、ようやく最近 観ることができました。

>この映画は、リトマス試験紙のようなものとして機能するかもしれません。「呪い」がかけられているかどうかが判明する。
<
これ、そうかもしれませんね。
僕自身は、観ているのはある意味辛かったけれど、記憶としての(潜在的なものを含め)感情は動きませんでした。
ご承知の通り、シロです。 (^^;)

確かに「呪い」。
少しいろんなことを想っていますが、原作の中脇初枝さんの短編集も読んでから、そのうちレビューと想いを書こうかなと思っています。

映画の最後、もうちょっと その後の展開を観たかったなぁ。
・・というのが、とりあえずの感想でした。

あと一点、ちょっと愚慫さんに訊いてみたいことがあります。
子どもが2人いる 仲良しのお母さんがいたでしょう?
現実のこととして見た場合、ああいうふうになり得るんでしょうかね?

遅レスになってすみません。

>子どもが2人いる 仲良しのお母さんがいたでしょう?

池脇千鶴の役ですよね。

ありえないとはもちろん言えませんけど、やはりフィクションっぽいなぁとは思います。

どこかフィクション臭いか。

「抱きしめる」ということは、あると思うんですよ。
抱きしめて、抱きしめられた方のお母さんが泣き出した。
抱きしめた方は、笑顔ですよね。

僕の想像だったら、抱きしめられた方が泣てしまったら、抱きしめた方も泣きます。

同じような「呪い」にかかっているという自覚がある。
だから抱きしめる。
それはわかります。
それで笑顔でいられるというのは、「解呪」が終わっているということになると思います。
だけど、そう簡単に「解呪」できるのか...、現実は難しいと思う。

抱きしめた方のお母さんは「解呪」が始まっているとしても、まだ「呪い」も残っていて、そうなると、抱きしめられたお母さんが泣くと、その残っている「呪い」と共感して、抱きしめているお母さんも泣かずにはいられないんじゃないかな....。

あれ、抱きしめたお母さんも泣いたっけ?
記憶が曖昧です。(^_^;)

ありがとうございます。

そうそう、その彼女。
抱きしめたときには、泣いてましたけど、笑ってもいました。

で、僕の持った疑問は愚慫さんと同じなので、愚慫さんの答えで納得です。
全体的に彼女は「解呪」が終わっているように見えたので、『そう簡単に「解呪」できるのかな』と疑問だったんです。

「現実は難しいと思う」、、ですよね。 (^_^;)
ありがとうございました♪

現実的にありうる、もっと嫌な想像を――。

件の抱擁の場面ですけど、心理カウンセラーのような専門家からみれば、おそらくは、危なっかしいと感じるのではないかと思うんです。

あの抱擁は、専門家からすれば「共振」といって、プロとしてはやってならない行為だと思うんです。
「共振」とは、感情的に同情してしまうことですね。

同情してしまうと、自他の区別が付かなくなってしまって“同じ穴のムジナ”になる。
愛情と支配は紙一重の関係ですが、「共振」は“紙一重”をいとも簡単に突き破ってしまいます。
そうなると、予想されるのは共依存関係。片方が片方を支配しつつ、支配している側も支配しているということに支配されるという、もっと酷い状態が起ります。

この映画はお母さん同士という設定なので想像が付きにくいですが、そういう年頃の男女だと想像してみてください。同じ傷を持っているがゆえに惹かれあって、それがいつしか共依存関係に陥っていく。ありがちなことだ思えますよね。

おそらく、同性、異性を問わず、そうした罠に高い確率で捕まると思います。ですから、専門家は「境界線」を重視する。あくまで「それはあなたの問題だ」といって突き放す。「課題の分離」です。

でも、これって、冷たいですよね。だから、一方の現実としては、専門家に頼る人、頼ろうと決意ができた人は、問題の半ばを自身で解決できてる人が多い。本当に問題のある人は、問題が顕在化――この映画の設定で行くならば、児童虐待が発覚して行政なりが強制介入してくるといった場合――しないと、専門家に出番は回ってこない。

その意味では、つまり「間口の広さ」という意味では、「抱擁」は効くんです。これも現実にで言いますと、商品として【価値】のある少女などが心に傷を負っていたりすると、こういった「抱擁(のようなもの)」にいとも簡単に捕捉されてしまう。捕捉する側は、最初から【商品】としてしか捉えていないので「共振」は起りませんが、だけど、捕捉される側からみれば、その真贋を見抜くことは非常に難しい。それこそが、意識の上には登っていなかったにせよ、その者が渇望していることだから。いったん距離を置いて、じっくり真贋を見極める余裕などあるはずがないわけです。


この話は、野口整体においても通じるところがあろうかと思います。なぜ晴哉師が、その能力があったのも関わらず気功的な療法から身を引いたのか。操法への依存を戒めるのか。ひとえに「境界線」遵守のためではないかと思います。

いろいろと情報を得る中で、最近は、いわゆるマッサージは、実は良くないという話が出てきています。マッサージを受けると「揉み返し」といわれる現象が起り、それが実は身体に良くないんだ、と。愉氣よりずっと気持ちはよくて、効いた気はするんですけどね。マッサージを受け続けると、マッサージに対する依存が生じていまう。

心身を同一と観る視点からすれば、マッサージと「抱擁」は、同じものだという気がします。

や、ヤバイ。

そのシーンで泣いてしまった私は、、いったい、、、orz
想像ですが、そのシーンは監督演出家の「泣かしてやろう」という意図がある気がします。
こいつを泣かしてやろう、ではなく、多くの人間はこれで泣くのだ、という意図。
私は結構、意図的な演出に嵌まります。
おそらくその演出が上手いければ上手いほど嵌まります。
ヘタならば嵌まりません(ex昭和枯れすすきw)
裡なるヤツが泣くんですよ。意識であるワタシはそれを制御しようとする。
おそらく、「男のくせに泣くなんて」「人前でなくなんて」という過去の外界からの【抑圧】だと思うのですが、そんな意識をものとものせず、泣きますww

これって裡なるものが、共感しようとする力ではないのでしょうか?
もちろん、画面の中の人物とは共に感じあってない、ので、「共感」ではなく「片感」ですが、いずれにしろ、そういた感性が割に多くの人に備わっているとは思いませんか?
この辺りが「社会的」外界とやりとりできる基礎になっている。

ただね、今となっては「泣いたな」ということしか思いだせない。
「泣いた」ことを思い出せても、どんなシーンだったか、ここの対話を読むまで思い出せなかった。「あの花」も泣いた記憶しか思いだせない。
「泣いて」似非共感したことで、解決してしまう。と、勘違いしてしまう。
人には、こうした能力があるのかもしれません。
「社会」とはこの程度の付き合いのほうがいい、と裡なるヤツは知っているのか?
「この程度の付き合い」のほうが【社会的価値】にのめり込むこともない、と知っているならば、問題ないのではないでしょうか?

 ところが多くは、その似非共感で解決したと思い込む。
 なにも解決していないのに。
 だから、いつまでも縛られている。

 そこで、アドラーや愚慫さんが登場するのですね。
 

確かに共依存関係は、程度の軽重はあれども、よくある話というか、いろんな面でよくある問題ですよね。

僕はアドラー関係をまったく読んでいないので分からないのですが、アドラー関連の著作などを書いている人たちが「突き放す」という言い方をしてるんですか?
基本的な態度(の内実)としては、「突き放す」という言葉からイメージされるような内的な対応はしないと思うんですけど。
一定の距離を保つ努力はすると思いますけれど。


>少女などが心に傷を負っていたりすると、こういった「抱擁(のようなもの)」にいとも簡単に捕捉されてしまう。
<
こういうの、分かります。
少女の方が自分から捕捉されにいったりしますよね。
自分では露ほどもそうとは思っていないですけど。

僕は「依存」は自然なことだと思っています。
ですので、必ず「どうするか?」問題が 僕の中では出てくるんです。

毒多さん

「泣く」のは、共感だと思います。カラダの側(毒多さん的には“ヤツ”)の作動ですから。

ただ、それで解決というわけではありません。ですが、解決(「解呪」)に向かって動き始めたことには違いありません。

勘違いは、「動き始めた」ことを「解決」と思ってしまうことです。
これは、アタマの側の問題です。

カラダとアタマの最大の違いは、時間だと思うんです。
アタマは基本、無時間なんです。考えたら、あるいは思ったら、即、実現する――と感じるのがアタマです。だけど、カラダ(それから〈世界〉)には、時間が必要。こちらは経過していくものですからね。

アキラさん

「突き放す」という言い方はしていないと思います。そこは、完全に僕の主観です。
冷たく感じるのも、そうです。

僕は「共振」してしまっているんだと思います。
もっとも、「共振」は必要だと僕は思っているのですが――


「依存」が自然なこと、というのはそうです。
だから「どうする?」という問題が付随してくる。
僕もそこは同じです。

ただ、アキラさんとは方向性が違いますよね。僕はまず、自分をどうにかしないといけないので。

「依存」も「自立」も、どちらも自然なことです。ともに、「そのような経過を辿る」ということだと思います。しかし、「そのような経過を辿る」ことを妨げられることが、現実としては多いわけじゃないですか。

「依存」はいずれ経過して、「自立」になっていく。だけど、妨げられてしまうと、ずっと「依存」のまま。これは自然な状態ではないと思うんです。

「裡なる欲求」というのは、常に動こうとしているものですよね。それが、何らかの理由で動けないとなると、その動こうとするエネルギーが別の方向へ向いて発現することになる。その別方向への発現が「妨げるもの」でしょう。

だったら、「何らかの理由」とは何なのか。
そこを洗い出す作業。
今の僕にとって、「どうするか?」はまず、洗い出し作業に取り組むことだと思います。

僕も共振は必要だと思っています。
共振しつつ、一定の距離を保つ・・ということが必要かと。

ここから先は、ちょっと聞いてみたい・・という話なんですが。 (^_^;)
愚慫さんが「まず自分をどうにかしないといけない」というのは、よく分かります。
でも、この映画の件のお母さんのように、共振を余儀なくされちゃう場面に遭遇する可能性は、当然少なくない確率であるわけじゃないですか。
そのときに「どうするのかな?」と思うんです。

「共振はしちゃったけど、僕は僕の作業(課題)があるので、あなたの課題はあなた(だけ)でやってください」と「突き放す」ことになるのかな?・・とか思っちゃうわけですよ。

負担にならないようだったら答えを聞いてみたいです。
でも、負担になるようでしたら、そのままスルーしてくださいね。

アキラさん

そこは、「よくぞ尋ねてくださいました」とこちらからお礼を言いたいくらいのところです。

そこをどうするのか? 
暫定的な答えではありますけど、「切って繋ぐ」しかないんじゃないかな、と思っています。

「共振しちゃったね」
「でも、僕は僕。あなたはあなた。」

ここまでが切断ですね。

「僕とあなたの間には、大きな隔りがあるよね」
「さあ、これをどうする?」

ここは再接続への問いかけです。
が、問いかける必要すら無いんじゃないかと思っています。
「隔り」を意識すれば、自ずから「どうする?」が生まれる。どのように繋ぐかの探求が始まる。身体が勝手に始めるんじゃないか。そんなふうに思っています。

根拠はありませんし、発見できるとも現段階では思えない。まだ「信」にまで至ってはいません。だけど、そんな気がして仕方がない。


『論語』には、そのことを指し示していると思われる記述があります。

 知之為知之、不知為不知。是知也。

之を知を知ると為し、知らないを知らないと為す。是れ知るなり。

「知」と「不知」とを分離(切断)する。「為」は、意識的にという意味です。すると「知」になると孔子は言う。後者の「知」は接続ですね。

なぜ、このようなことが言えるのか。それはそういった現象が見られるからでしょう。その現象の理由はわからない。わからないけど、確かにあるらしい。


今回のアキラさんとのやりとりは、まさに「切って繋ぐ」であったような気がしています。

今回のやりとりというか対立は、互いに顔をつきあわせて話をすれば、実はそれほど大きなことにはならなかったような気がしているんです。そして、その気になれば、互いに顔をつきあわすことはできましたよね。だけど、そういう機縁は生まれなかったわけです。

本当に根拠のないことなんですけど、機が熟したんだろうな、と思っていました。「切る」ということの。そのあと、繋がるかどうかはわかりません。だけど、とにかく切ってみなければ始まらない。そういう機でなければ、顔を合わす機会は向こうからやってきたろうと思うんです。

結果は、間を置かず再接続になったと思います。これは、互いすでにに準備ができていたからだと思う。だから、残酷さに耐える訓練さんが出てきてくれたんだと思っているんです。もし、そういう準備ができていなかったら、切れて終わりになっていたかもしれませんし、準備ができてからの再接続になったかもしれない。


ここまで書いて、思い出したことがあります。

少し前に「愉氣」は効かないと僕は主張しました。これは「共振」だったからではないのかと。「足湯」をダラダラやっていると、その効力は無くなっていきますよね。機を見つけてさっと引揚げないと〈いのち〉の力を促すことはできない。そういうことを僕はやっていて、結果、「愉氣」は効かないと言っていたのかもしれません。

だけど、よくよく考えてみると、切断したあとに自ずと「繋ぐ」が生じるのだとしたら、それこそが愉氣なんじゃないかな、という気がします。

いかがでしょう?

>だけど、そんな気がして仕方がない。
<
ですよね、分かります。 (^^)

「そんな気がして仕方がない。でも 分からない」
僕が使ってる「分からない」は、こういう感じにとても近い気がします。


整体の世界では「機・度・間」ということが言われるんですが、晴哉先生のご次男が 愉氣と「間」に関して、次のようなことを言っているんです。

愉氣というのは、こちらが集注することによって相手の体が変わるかのようにみえるけれど、事実はまったく逆で、こちらの気が完全に集注し切っている状態では 決して相手の体は変わってこない。
むしろ気がスッと抜けた瞬間に変化していく。
人間の体の変化というのは、他人から行為を加えられている間は変化が起こらなくて、その加えられているものがフッとなくなった瞬間にポッと出てくる。
それが「間」というものだ、と。

例えばお産。
ウーンと気張っているときは、実は全然出てこない。
ウーンと気張った後、一息ついた瞬間に赤ちゃんが動く。
ヒョッと気が抜けたときに、実際には何もいきんでいないときに、赤ちゃんはスッと出てくる。

例えば桜。
徐々に暖かくなってきて、一番暖かくなったときにポッと花が咲くのではなくて、4日ぐらい暖かい日が続いてきたなぁと思っていると、フッと急に寒い日がある。
このときにポッと咲く。
そして、また暖かいなぁと思っていると、フッと寒くなる。
すると、また一つポッと咲く。
そうやってだんだん花が咲いてくる。
自然の動きというのは、いつでもそういうリズムがある。と。

愉気もおんなじで、気の密度を最も濃くして集注し切って相手の体を変えるんだとか、長々と量(時間)をかければ変わるんだとか思っていると、逆にそれでは変わらない。
相手にとって息が詰まってくる。
「間」がないから。
だからといって、最初から何にも集注しないでポケーッとやっていても、「間」は全然活かされない。

このことを想うと、集注と切断(働きかけ)には、やはり「機・度・間」ということが出てくる・・ということでしょうね。

アキラさん

「事実はまったく逆で、こちらの気が完全に集注し切っている状態では 決して相手の体は変わってこない」

きっとそうなんでしょうね。僕にはそのことは直接の体感としてはわからないけれど、身体的想像(?)としてはわかる気がします。腑に落ちるというやつです。

その答えがアキラさんから聞くことが出来て、改めてホッとしました。
実は、アキラさんの「どうする?」の問いかけにはずっと違和感があったんです。

「どうする?」は、集注だと思っていたんです。
思っていたというより、今も思っている。
集注するのは、それが愉氣であるにせよ、操法であるにせよ、術者の方ですよね。
僕は、自分が術者という意識がない。
「自分自身に愉氣」をすると言っても、立場は無意識のうちに「される側」です。
視点もそう。「される側」に向く。この映画でもそうだったし、『さとにくればええやん』でもそう。

そうすると「どうする?」と言われても、困るんです。きっと無意識のうちにアキラさんのいうところの「間」を待っているからなんでしょうね。

お産ならお産。桜なら桜。身体的なものにはしっかりした機序があって、その通りに経過します。ですけど、アタマ的なもの――「物語」――は、何が出てくるかわからない。わからないから〈私〉、その人なんだと思う。私のことだけど、どのような〈私〉が生まれてくるかわからない。

そうした他者の〈私〉を僕が眺める。どちらも「される側」、「間」を待つ者です。そうなると、「あなたの「間」から生まれてくる〈私〉は、あなたの問題でしょ」と言うしかない。「あなたがあなたを信頼して待っているしかない」としか言えないんです。

そして、そういう視点からみれば、「どうする?」という問いかけを為す者は、

>こちらが集注することによって相手の体が変わるかのようにみえるけれど、

の「見えているにすぎない」という自覚のない者のように映っていたんです。その「見える」は錯覚だから、私の身体は私の領分なんだから、待ってくれよ――という感じだったんですね。

そのことは、観察者と当事者という言い方で言おうとしたことです。
重ねてのことになってしまいましたけれど、アキラさんの言葉を受けて、改めて。

僕は愚慫さんが僕にする対応に関して「甘えてるなぁ」という印象を何度も持っているのですけれど、それはきっと愚慫さんが無意識のうちに「される側」に自分を固定するからなんでしょうね。

愚慫さんが僕の足を踏んでいるときには、僕の方も「される側」なんですけどね。 (^_^;)

また、「怨」へ拘り続けるのも、僕は集注だと思います。
それが悪いことだとはまったく思いません。
けれども、そういうことに関しては、する側もされる側も関係ない・・と思っていますし、この愉気と間の話は、する側・される側 どちらにも通じる話だと思うので。

そのへんもちょっと把握が違うのでしょうね。 (^^)

>「甘えてるなぁ」という印象を何度も持っているのですけれど

(^_^;)

それは察していますし、その察しが苛立ちになったりするんですよ。
苛立ちも、これも甘えになるんでしょうね。

これは「“逆”共振」というべきものだと思うんです。
「順接」の者と、【逆接】の者との共振。

「逆接」同士の「共振」は「依存からの経過」を妨げるけれど、「“逆”共振」は、「依存」を妨げる。

だから残酷さに慣れる訓練さんの視点が、鋭いと思ったんです。

僕はアキラさんに「依存」していたではないか、それをアキラさんは許容していたではないか、と言った。そうだと思った。でも、僕はそこから「経過」しなければならないと思っている。

立ち上がるときには、力が入りますよね。
「依存」が適切な場合、負担はあっても、踏まれているという感触にはならないでしょう。だけど、そこから「経過」しようとすると、力を入れないとできない――比喩的にはこういうことなんではないかと思うんです。

そのとき、踏まれている感じている方は、より「甘え」を強く感じるでしょう。でも、立ち上がろうとする方にしてみれば、自立以外のなにものでもない。それをやめろ言われたら立ち上がれなくなります。

たぶん、僕はそういう「踏みつけ」をアキラさんだけにではなく、いろいろな人にやっている。内田樹さんにもやっているし、晴哉師にもやっているし、ブッダにも孔子にもやっている。毒多さんにも残酷さに耐える訓練さんにもね。

ブッダや孔子は過去の人だから、踏みつけても何も起らない。内田さんは生きているけど、繋がりがないから、やはり何も起らない。だけど、繋がりがある人とは、なにかが起る。

今となっては、この「何か」を詫びることはできます。
でも、最中は無理です。

詫びながら踏みつけるなんてことを続けたら、それこそ不誠実だと思うんですよ。

――というわけで、申し訳ありませんでした m(_ _)m

いえいえ。 (^_^;)
それはそれ、ということで。

「する側(術者)」と「される側」に関して、このへんに関係しそうなので、もう一点だけコメントさせてください。

心に傷を負っていたりする人は、「抱擁(のようなもの)」にいとも簡単に捕捉されてしまいがちです。
それと同時に、本人は無自覚だとは思いますけれど、自分の方から捕捉されにいくパターンもありますよね。
(そのようなものが欲しいから)
これはかなり注意を要する話なのですが(世間的に)。

その場合、「される側」にいるはずの者が、実は「術者」なんですよね。
でも端から見てるところからは、「される側」は「される側」に見えたりするわけで。

そういうことも視野に入れておいていただけたらな、と思います。
以上です。 (^^)/

>「される側」にいるはずの者が、実は「術者」なんですよね。

それ、よくわかります。
そこのところは、目下の僕の関心事なんです。

関心は、具体的に2つ。

ひとつは、術者と被術者の関係が逆転する機序です。現象として「逆転」があるのは把握しています。だから、言葉にして解析したい。

>端から見てるところからは、「される側」は「される側」に見えたりする

のは、観察が足りないからですよね。「「される側」は「される側」」という色眼鏡を通じて見てしまうので、観察された現象が「「される側」は「される側」」だという方程式をより強化するように解釈してしまう。方程式を厳密に解いていくと矛盾は見つかるものですが、そこは盲点になっていて、なかなか気がつかない。このことは僕にもよくあることなので注意をしているつもりなんですが、どうしても気づきが遅れるということはあります。

機序を言葉にしたいのは、ここでいう「方程式」を組み立てたいから、です。


ふたつめは、視点です。

「「される側」は「される側」」という記述は、術者でも被術者でもない、観察者の視点です。僕が関心を持つのは常に当事者の視点なんです。だから、上述「逆転」が起るときの“自分の風景”を把握してみたい。


このことは、前コメントでの記述と関わる問題でもあります。「依存」と「被依存」の関係です。

実は、上のコメントは、僕のなかでは謝罪で終わりではなかったんです。その続きがある。それが「逆転」と深く関わっているように思える。

「逆転」という言葉は今、出てきたものですけれど、そういうことはずっと感じていました。この場合の「逆転」は、逆ですけれど。被術者⇒術者ではなく、術者⇒被術者。


もうすこし言いますと、このあたりの関係が、アキラさんのいう「ものがたり」と、僕のいう「物語」との関係であるような気がしています。

「物語」には「順接」「逆接」がある。「ものがたり」には、ないというのは言い過ぎだけど、それもまた「ものがたり」なわけでしょう。僕は「順接」「逆接」は「再編集」可能だとみていますが、そこから生まれる問いが、「再編集」によって「物語」は「ものがたり」になり得るのか、というもの。

可能性としては、「ものがたり」と「物語」は再編集で繋がるものであるというのがひとつ。もうひとつは、視点の差、つまり観察者としての視点なのか、当事者としての視点なのかかで、「ものがたり」と「物語」は入れ替わる。

「逆転」は術者と被術者を入換えるものですから、その“風景”が見えれば、当事者と観察者の「逆転」の風景も推測できるかもしれない。その機序は共通のものにも思えます。


――このあたりのところ、言葉の記述から生じてしまう形而上学的な問題に過ぎないのかもしれませんが、そのあたりも含めて煮詰めてみたいと思っています。手がかりは掴んでいるんですけどね、固定できる言葉がうまく見つからないんです。

う~ん、毒多さんもそうなんですけど、なんかちょっと「ものがたり」と「物語」との関係性がビミョーに 僕の把握とズレてる気がするんですよね。 (^_^;)

僕が言いたい「ものがたり」とは、その人なりの「ものがたり」なので、その人が「物語」に四苦八苦している場合にも、僕としては それも「ものがたり」なんです、その人なりの。

だから「物語」は、「ものがたり」の中のある種類だということになりますから、例えば 『「再編集」によって「物語」は「ものがたり」になり得るのか』といった表現は、おかしなことになってるわけです、僕的には。

「物語」は 初めからすでに「ものがたり」なんですから。
なり得るもなにも、最初から「ものがたり」だよ?って思っちゃうんです。
愚慫さんや毒多さんが考えてるようなことを表現するためには、言葉がもう一つ足りない気がするんですよね。
「順接」している物語を表す言葉が。 (^_^;)
鉤カッコ表記を変えてみたらいかがでしょう?

基本的に観ている風景が違う気がするので、「ものがたり」をちょっと違うふうに使われてる気がするんです。
「なんか違うんだよなー」って、いつも思ってしまいます。 (^_^;)

「逆転」に関しては、「機序」というのがよく分かってないのですが、僕が感じていることとしては、『「される側」に見える術者』は最初から術者です。
自分の中に不足してるものや欠如してるものを相手の側に欲するので、それをくれそうな人に近づいて「引き込み」ます。
引き込まれた側は「させられている」格好になるわけですが、通常は端から見てれば「する側」に見える。

で、「引き込む術者」は、自分が自ら引き込んでいる自覚がほとんどの場合 ありませんから、相手の方から自分に関わってきた・・と思っている。
(だからタチが悪いのですが (^_^;)。 しょうがないけど)
(このあたりが当事者の風景じゃないでしょうか?)

僕にとっては、どこかのタイミングで関係性の転換が起こるというよりは、最初から「される側」とラベリングされてる方が 実は術者だ・・ということだと思うのですけれど。

「機序」って「仕組み」なんですね。 (^o^)

アキラさん

「機序」という言葉は、内田樹さんがどこかで使っているのを見て、気に入っているんですよ。(^o^)

「仕組み」というとスタティックだけど、「機序」というとダイナミックな感じがするんです。「序」が時間的なんだなぁ~


>ビミョーに僕の把握とズレてる気がするんですよね。

あはは、それはそうでしょう(^_^;) もし初めからピッタリ同じなら「対話」の必要がないじゃないですか。

「物語」は 初めからすでに「ものがたり」。
これは僕の持っているイメージと食い違いません。
「裡なる欲求」側からみれば、そうなると思います。
そもそもエネルギーの発散に善悪、正負はない。ただ偏りがあるだけ。「ものがたり」は偏りの記録――という感じです。

一方、「物語」には善悪、正負がある。これは「自我」の側だから。
「ものがたり」からすれば、自我の誕生も「ものがたり」の一部ですよね。

機序とすれば、「ものがたり」⇒「自我」⇒「物語」だと僕は(暫定的に)把握しています。
で、「再編集」とは「無我」(のようなもの)なんです。「再編集」を自在に行うことができるなら、「自我」は相対化される。その相対化を「無我」と言っていいのではないか? というのが、暫定的仮説です。

そして、そうなると、「物語」側からすれば、「自我」という障害物がなくなって「ものがたり」へ向かって遡ることができるようになる。それが、

>「再編集」によって「物語」は「ものがたり」になり得るのか

ということなんです。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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