愚慫空論

『「つくす」若者が「つくる」新しい社会』


いい本を読むことが出来ました。


オビの選挙権云々の売り文句はどうでもいいです。



第1章 「自分が主役」になる環境で育った
       ~つくし世代は、上の世代とどう違うのか
第2章 コミュニケーションは「広く、深く、軽く」
       ~つくし世代は、他人とどう関わるのか
第3章 お金より大事なもの
       ~つくし世代が本当に求めている「居場所」と「仕事観」
第4章 若者が生き生き働ける環境とは何か
      ~コーディネーターの存在と「ナナメ」の関係
第5章 恋愛、結婚、家族よりも優先されるもの
      ~つくし世代の恋愛・結婚・家族間
第6章 「身近な」ところから「しか」変えられない!
      ~つくし世代にとって「政治」とは何か
第7章 つくし世代の良さを引き出すために  
      ~「それな!」で共感するとき、ものすごいエネルギーを生む


一読どころかナナメ斜め読みですっ飛ばしてしまいましたが、読後の第一感は

  羨ましいな!

です。みんながみんな「うらやましい」の対象にはならないし、若き頃をバブルで過ごしたオサーンからすれば気の毒というか申し訳ないという感想もあるのですが、全体としては羨ましいな~、いいなぁ~、と感じます。

つくし世代は、先祖返りだという印象を受けます。

先祖返りというと、全世界的にそういう傾向にあるという指摘があります。
それはたとえば、この本なども指摘するところです。


「世界をその手につかまえろ!」という売り文句。
まさにオッサン世代です(笑)
想像ですが、つくし世代に人たちはにはこの手の文句は響かないだろうと思います。

「身近な」ところから「しか」変えられない!

と感性がネイティブであるならば、世界云々といったような“大きなコトバ”は効かないでしょう。

その点、僕のようなオッサンには、こういう“大きなコトバ”がネイティブなので、どうしても効いてしまうんです。もはやそういった「大きな話」はダメだよ、ということは理解していますが、そこはネイティブな感性で捉えているのではなくて、思索・思考という過程を経ています。ネイティブで捉えられるのが羨ましい。

  ⇒『小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉』

もっとも「大きな話」が無効だというわけではありません。

日本が高度成長期の時代、その頃は「一つの、職業で地道に続ける」ことに、名実ともに「価値があった」のです。

しかし今の生きる若者には、いくらでも職業的な選択肢があっても、「たった一つの選択」にすべてを捧げる殊に対しては疑問を感じています。現在から10年スパンの未来においてすら、若者自身が何を選択すれば長期的に安定した雇用が維持されているのかどうかを予測できないからです。つまり、若者にとっての最大のリスクは、未来を保証しえない不透明な「今の時代」そのものになります。

(p.208~209)



これは「大きな話」ですよね。


つくし世代の第一の特徴としてあげられるのは、まず、
 ・自己が確立している
ということだそうです。この特徴があるからこそ
 ・つながりを求める
という欲求が強くなる。

この特徴は、「社会を営むことで人間になるヒト」の生物としてのデフォルトな設定に沿っています。当たり前ですが、人は「ヒト」として生まれてきます。最初から「人間」として生まれてくるわけではない。すでにある社会に適応して「人間になる」のです。

本書では、このような特徴をもつつくし世代が出現した原因を社会の成熟としていますが、僕はこの見解は一面的だと思います。社会の成熟であるにしても、「大きな話」の視点からいえば、そういう条件が成立してたまたま出現した状況に過ぎないし、そのバランスはとても危うい。別の捉え方をすれば、社会が解体しつつなかで、人間関係の密度が薄くなっていったからこそ、必然的に子どもたちが「自立」する環境が整った、と言えるのかもしれません。

しかし、どのような流れであれ、つくし世代の若者たちが自己を確立して自立しているという事実に変わりはないでしょう。以前の世代より比較的薄い社会の中で生まれたからこそ、ヒトとしてのデフォルト(本能)が発揮されて、既存のものとは違った種類の社会を作りだそうとしている――羨ましいですね。

同じ学校、クラス、同じ会社に属しているなど同じ属性だからとって「つくす」とは限りません。しかし「同じ方向性を向いている」「同じ価値観を持っている」等の共感ポイントがあれば、彼らは連携し、お互いに仲間と認め合い、「つくし」「つくされる」仲間関係を構築していきます。つくし世代とは、いわゆる「それな!」で共感し合い、その共感をつなげ、広げていくことを最大の喜びとする世代。そう定義することもできそうです。



次につくし世代の特徴としてあげておかねばならないのは、
 ・デジタルネイティブ
だということ。これもまた羨ましいところです。

僕のような世代の者にとっては、IT技術で広がったコミュニケーションの世界は、どこか別世界だという感触があります。インターネット黎明期からの流れを体感しているという利点(?)はあるかもしれませんが、ツールを扱うにあたっての習熟度は、ツール発展の速度の追いつかず、未熟なままです。

その結果、どういったことが起こっているかというと、ネット世界との折り合いが上手くつけられずに都合よく使ってしまうということになっている。Facebookでの「リア充」の強調、「いいね!」の強要、ヘイトなコメントの投稿など、実社会では作法が確立されていてやらないような行為を、ネットではやってしまいます。

ネット上のヘイトな行為は満たされない若者たちの行為だという先入観が以前はありましたし、今もあるのかもしれませんが、それは先入観に過ぎないことが研究の結果で明らかになっているようです。

デジタルネイティブな若者だちは、本書によるならば、僕たち世代などよりもずっとIT技術を扱う上での洗練度はずっと上。すでに作法すら確立しているように思えてしまいます。


ヒトとしてデフォルトな社会性の発現とデジタルネイティブという特性から生まれてきているのは、従来の血縁や地縁を拠り所とした社会とは異なった形態の、「仲間」というコトバで言い表される共同体です。デジタル技術によって時間的空間的な制約が解き放たれて、自身の個性に沿った「共感ベース」で「仲間」を見つけ出すことが従来よりも容易になった。その結果、第4章にあるように、恋愛や結婚や家族についての観念も従来とは違ったものになった。

こうしたIT技術による可能性は、別につくし世代だけに広がっているものではないはずなんですが、ネットコミュニケーションのでの不作法と「大きな話」に依拠したアイデンティティが障害になってしまって、つくし世代より上の世代では芽が出なかった。個人レベルでは障害を突破している人はいるでしょうが、それが「仲間」というレベルにまでなるには、個人を超えた社会的なレベルで「障害」が超えられなければ実現しない。つくし世代は、世代というレベルでその「障害」を超えた、ということなのでしょう――羨ましい。



本書『「つくす」若者が「つくる」新しい社会』に接しての所感は以上ですが、以下、いつものように本題的で空想的な余談(笑)に入っていきたいと思います。


本書に描写されたつくし世代の生態から連想したのは、「交換様式A」です。


つくし世代のコミュニケーションが織りなしている「仲間」は、まだ「社会」と呼べるレベルにまでは達していないと思います。本書のタイトルが示しているように、課題であり可能性というに留まっているようです。

その可能性が実現すると、どういった形になるのか。
あくまで僕個人の予断ですが、それは先祖返り的な「交換様式A」に近いものになると感じます。つくし世代のコミュニケーションのあり方に、どこか懐かしい感じがする。地縁血縁をベースにした「有縁」な社会を構築しながらも、同時に「無縁」なアジールの存在を許していたような社会におけるコミュニケーションのあり方。


「共感ベース」のコミュニケーションは、上掲書で提示されている「無縁」の領域でのコミュニケーションに近いものがあるように感じます。ここで言われる「縁」とは地縁や血縁のことですから、IT技術の出現によって、そうした従来の「縁」とは違ったところをベースにするとなると、歴史的に見れば「無縁」ということになっても不思議ではないでしょう。

現在の日本で「無縁」というのは、甚だネガティブなコトバです。『無縁社会』という本などもありましたが、ここでいわれる「無縁」とは社会のセーフティーネットの網から漏れている、といったような意味です。しかし、中世日本では「無縁」は必ずしもネガティブでない。社会的にはネガティブだったからこそ、実はヒトとしてデフォルトなコミュニケーションが機能していたという、ネガティブ否定のポジティブな意味合いがありました。

明治維新を経て日本社会が近代化への道を歩み始めた後、敗戦・復興・経済高度成長と、自民党経世会が中心になって推し進めた日本列島改造によって、日本社会は国家権力(交換様式B)と商品交換経済(交換様式C)が全域化しました。このような社会での「無縁」とは【システム】(交換様式B&C)の機能不全に他なりません。

しかし、【システム】が全域化する以前の社会では、ヒト・デフォルトに近い交換様式Aが広範に作動していました。共同体間の「有縁」な交換で様式B&Cがすでに支配的でしたが、「ムラ」という共同体内部で交換様式Aが十分に機能していたし、「有縁」なネットワークから外れた「無縁」な世界では、交換様式Aか、ヒト・デフォルトそのものの共同寄託が機能していていました。

つくし世代たちの「共感ベース」のコミュニケーションの形態が(「有縁」に対する意味での)「無縁」的なものであるとすると、そこで優勢になる交換様式はAになるだろうと予想するのがとりあえずは順当でしょう。


可能性としては、柄谷行人さんが期待している交換様式Dでありえるとも考えられます。というのは、つくし世代たちの社会的な基盤は、交換様式Aのそれとは異なっているからです。

交換様式Aが機能した時代は、人類の生存基盤が現代ほど確立されていなかった時代です。社会を営むのは人類の生存戦略ですが、交換様式Aは社会を営むという行為の初期段階。初期段階であるがゆえに、ヒト・デフォルトの社会構築能力からさほど逸脱はしていなくて、現代社会と比べれば物質的には貧しかったかもしれないが、精神的には豊かであったかもしれない時代。「幸せ」という基準においては、おそらく現代よりもずっと豊かであっただろうと考えられる時代です。

ところが人類社会は「発展」してしまいます。「発展」の理由は生存戦略をより確立することにあったのでしょう。「小さな社会(氏族・部族)」よりは「大きな社会(王国・帝国)」の方が、人類という単位で考えたときには生存能力が高い。人類は社会を大きくすることで生存リスクを低くしようと試み、成功してきました。

より確実な生存戦略を可能にしたのは技術の発展です。農耕による定住革命、国家と世界宗教の出現、貨幣の現近代国家の成立、貨幣から資本への移行、資本の全域化、すべてが技術発展の成果です。農具の開発、武器の開発、文字の発明、コインの発明、印刷技術の発明、兌換紙幣の発明、貨幣のデジタル化――。社会の発展と技術の発展は協働作業によるものです。

技術と社会の発展によって人類は、他の生物種に対しては圧倒的で非対称な優位性を獲得しました。現在社会では、「ヒト」は「人間」でありさえすれば、ほぼ間違いなく生存が保証されます。それほどに人類の生存戦略は成功してしています。成功しすぎて、人類自身が人類の生存リスクになってしまっているほどです。

一方で現代社会で全域化してしまっている交換様式B及びCは、ヒト・デフォルトから遠いがゆえに「ヒト」が社会に適応して「人間」になるコストを高くしてしまいました。「ヒト」が「人間」になる(「ヒト」を「人間」にする)には「教育」が必要ですが、現代の日本でも教育コストが高騰してしまって、一部の者しか「教育の再生産」ができないような状況に陥っています。

「ヒトが人間になるコスト」が上昇して限界に達してしまったときに起る現象が「革命」です。革命は古くから起きてきましたが、その原因は主に交換様式Bの失敗によるものでした。近代になってからは交換様式Cの失敗である「恐慌」も頻繁に起きるようになり、交換様式Cが「コスト」を高くしてしまっている(労働の再生産ができなくなる)とみたマルクス一味が新たな革命を試みました。が、その試みは交換様式Bに帰着してしまって失敗に終わっています。

革命や恐慌は「失敗」であると同時に「リセット」です。人類社会は革命に失敗するたびに交換様式Aに立ち返り社会をリセットしてきました。そうしたリセットを最も多く経験しているのはおそらくは中国文明でしょうが、その中国の詩人杜甫は「国破山河在――」と詠みました。この詩のタイトルは『春望』ですが、それはすなわち「リセット」でしょう。


そうして人類社会がリセットを繰り返すうちにも、技術は進歩してきました。そしてIT技術によるコミュニケーションに習熟し作法まで確立しているデジタル・ネイティブな人たちが出現しました。また、その人たちは、交換様式AからBおよびCへ移行し発展してきた「社会」を前提に生きています。そんななかで、「(すでにある)社会への適応」よりも「自分たちにとって良い社会のつくる」ことに関心がある――というのは、『「つくす」若者が「つくる」新しい社会』に記されてあるとおりです。

つくし世代の若者たちのコミュニケーションは(「有縁」に対する意味での)「無縁」的なものです。「縁」となる要素よりも「共感ベース」でコミュニケートして「仲間」を集めて共同体を作ります。彼らの共同体は、まだ社会には至っていません。「仲間」と呼ばれるコミュニケーション集団に留まっています。

つくし世代の「仲間」が社会へと発展するには、まだもう一段のブレイク・スルーが必要なように思われます。そのブレイク・スルーは技術的なものなのか、すでにある技術を使ってのイノベーションなのか。僕はイノベーションの方だと予想していますが、まだわかりません。

いずれにせよ、ブレイク・スルーの方向性は定まってきているように思います。「小さな」方向です。

交換が始まる以前の「ノマド」の時代から定住革命を経て交換様式Aが始まり、B,Cへと主要形態が遷移していく中で、変化しなかったのは「大きさ」への志向でした。国家、帝国、グローバル経済、いずれも「大きさ」志向です。

しかし、大きく成熟してむしろ崩壊の危機にある社会で生まれてきたつくし世代の人たちは「大きさ」を志向していないと言います。社会を新しくつくることに関心を持ちながらも「身近な」ところから。この志向は、僕たちのようなオッサン世代にはないものです。

『世界史の構造』の著者である柄谷行人さんは、僕の世代より上の人です。当然、その志向は「大きさ」を向いています。そういった人が期待した新たな交換様式Dは、当然のごとく「大きさ」を志向しています。マルクスの残滓を引きずって「世界同時革命」などと、もはや実現の可能性が甚だ低いことが判明している可能性に未だ囚われてしまっています。

「小さく」しかし、ネット技術を用いて「広く、深く、軽く」コミュニケーションを取ることが出来る人たちが、新たな交換様式を編み出すとするなら、「世界同時革命」が必須であるような手段にはならないでしょう。「小さく」始まって「大きく」育つ。きっとそんな交換手段を編み出してくれるだろうと思います。期待したいところです。

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