愚慫空論

『世界史の構造』の問題意識


正確に言うと、『世界史の構造』に反映されている僕の問題意識、なんですけど。



その問題意識を、僕なんかが語るより、もっと雄弁に語ってくれている人がいます。
黒板五郎さんです。



「草太のことは悪く思うな。
 アイツはアイツで一生懸命なんだ...」

「オレのやってることは時代に合わん。
 草太の言うとおりだ。」

「考えてみると、今の農家は気の毒なもんだ。
 どんなにうまい作物を作っても、それを食べた人から
 直接ありがとうって言われることないもんなぁ。」

「だからオイラは小さくやんだぁ
 ありがとうの言葉が聞ける範囲でなぁ。」




五郎さんは第一象限〈生命〉領域で生きています。ただし、ご自分でも言っているように“小さく”です。
五郎さんの大部分は第四象限〈浄土〉領域にあります。
そうです、アキラさんが言うように五郎さんは“聖人級”です。

草太兄ちゃんは、主に第二象限【ハラスメント】領域で生きています。
だから彼は嫌がらせをする。してしまう。
聖人である五郎さんは、そのことをよく識っています。
だから「草太のことは悪く思うな」と純を諭します。


五郎さんが「草太の言うとおりだ」と言うとおり、時代は【ハラスメント】領域にあります。
〈生命〉領域で生きようとすると、第四象限〈浄土〉に身を置きつつ“小さく”行くか、
もしくは以下の形を取るしかありません。



【ハラスメント】領域に本体を置きつつ〈生命〉領域へと貫通していこうとする「成功者」の生き方。

また「成功者」は別の概念で表すことができます。
アブラハム・マズローの「自己実現理論」です。



「自己実現の欲求」を満たすことができた者が「成功者」です。

世のあまた出回っている自己啓発の書は、「自己実現の欲求」の満たし方を指南してくれます。
そして、誰でも自己実現欲求を満たすことができる、という。

しかし、それはウソです。
交換様式という視点からみてみれば、誰でも自己実現欲求を満たすことができるというのは、その領域で生きている限りは原理的に不可能だということが理解できます。

その領域で生きる、ということはすなわち、その時代で生きる、ということに他なりません。
私たちのこの時代は、支配的な交換様式によって規定されている【ハラスメント】領域の時代です。
ですから、大部分の者は自己実現欲求を満たすことができません。

そうすると、残された道は五郎さんの生き方に行くしかない。
しかし、その道は容易ではありません。
僕に言わせれば「アクロバット」が必要です。
〈生〉を否定せざるを得ないような絶望を経なければならない。
絶望からの回帰が必要になってしまいます。
「絶望からの回帰」はアクロパット級の難易度になってしまいます。
その有様は『北の国から』がよくよく活写するところです。

しかし、絶望に追い込まれてしまうと回帰するしか〈生きる〉方法がないとはいえ、そもそも、この世の〈生〉を受けた者の誰が絶望を望むというのでしょう?

ここが黒板五郎さんを通じて見る『世界史の構造』の問題意識です。


ちなみに五郎さんの言葉にもひとつウソが混じっています。

今の農家は気の毒なもんだ」

これはウソです。
もちろん、意識してウソをついているわけではありません。
無意識にそのように物語を捏造しているだけです。

五郎さんが尊ぶ「ありがとう」は交換様式Aです。
そして、農家つまり農協共同体は、交換様式Bによって出現するものです。
なので、昔から、農家が直接消費者から「ありがとう」と言われることはなかったのです。
そういう回路がなかった。
むしろ、ネットが発達した現代のほうが直接「ありがとう」をもらえる回路ができています。

五郎さんは勘違いをしているんです。
「ありがとう」というのは、同じ共同体のなかのメンバーである完次と交したものです。
同じ共同体だから交換様式Aでいいのであり、交換様式Aで営まれるのが共同体です。

共同体外部との、つまり農家と消費者との交換は、様式BかCになります。
そこに「ありがとう」という言葉が添えられることはあるでしょうが、気の毒だとかそういう話ではありません。
そんなのは五郎さんのストーリーを正当化するための後付け理論です。

ただ、そういう理論を捏造したくなる気持ちはわからなくはありません。
『北の国から』で描かれているのは、共同体の交換様式がAから主にCへと移り変わっていく有様だからです。その先頭を切って走っているのが草太に他なりません。五郎さんを筆頭に様式Aに愛着を感じている人は、違和感を感じながらも「時代の流れ」に逆らうことができず、絶望からの回帰を経て生き方を“聖人級”へと転換するほかなかったのです。



追記を綴っておきます。
非常に「上から目線」なことを書きますので、読むにはワンクッション必要な「追記」に綴っておきます。

五郎さんが“聖人級”に留まっている理由です。
足りないものがあるんです。

それは自覚です。〈浄土〉領域にいるという自覚。
その自覚を阻んでいるのが、先に挙げたストーリーの捏造です。


聖人クラス五郎さんに近い正真正銘の聖人をあげるなら、親鸞だろうと思います。
その親鸞が帰依したのが阿弥陀如来です。

大乗仏教の教義では、仏性に目覚めて利他の修行を行っている者を“菩薩”といい、その主教を完成させた者を“如来”と言います。阿弥陀さまな如来ですから完成者です。
どのような修行を積んだのかは想像もできませんが、悟りを目指して如来になるにあたって、修行の目的とした「本願」は伝わっています。

 「念仏を行う衆生を救い、極楽浄土に往生させる」

というものです。阿弥陀さまは完成者なので、そこから、

 「念仏を唱えさえすれば極楽浄土に往生できる」

という論理が組み立てられました。
現代の目で見れば、神話に過ぎません。

しかし、100%神話だと否定することはないかもしれません。
阿弥陀さまに実在のモデルがいたのか、完全なフィクションキャラなのかは知りませんが、何の根拠もなく一切衆生を救済できると考えていたというのもまた、神話であるような気がします。仏教というのは、表現の仕方こそ異なりますが、現代の目で見ても十分に通用する思想体系なのですから、初めから奇跡を前提として阿弥陀さまの物語を組み立てたと考えるのは、現代人の「上から目線」のような気がするのです。

どういうことかというと、阿弥陀さまには【ハラスメント】が見えていたのではなかったか、ということです。原因が見えていたから、衆生の救済が可能だと論理的に思考していたのではなかったのか。

(このあたりは浄土教の基礎理論である浄土三部経あたりを吟味してみると判明するかもしれません。が、それは僕の仕事ではありません。)


僕のこういった着想は、ゴーダマ・ブッダの思想が【ハラスメント】から完全に脱却できていないと見たところから始まっています。仏教思想から【ハラスメント】を洗い流したのは龍樹だろうと思いますが、伝え聞く伝説によると、龍樹こそは生命力に溢れる人だったようです。高い技術を持った野生児という印象を受けます。そんな人物だったからこそ、ゴーダマ・ブッダの思想の中に組み込まれた【ハラスメント】をひっくり返して、大乗仏教への流れを作っていくことができた。あくまで僕の空想ですけれども。

しかし、一方で反〈社会〉という部分は受け継いだ。正〈社会〉という視点は、セム系の思想であるように思います。僕は近代経済学や科学思想は【ハラスメント】領域の思想だと感じますが、これらの発端はセム系です。

では、セム系とインド系がであったところで何が起るのか。
実はその実例があります。イスラーム思想がそうだと思います。詳しくはまた機会を改めたいと思いますが、井筒俊彦さんの著作あたりを参考にすると、そのように考えることができそうです。

ただ、イスラームには大きな欠点がある。その欠点故に、文明間抗争を構造的に忌避できない。

柄谷行人さんが志向している交換様式Dは、そうした欠点の克服を目指すものであるという印象を持ちます。
しかし、まだマルクスに囚われているような気がします。

現代的な「大きな乗り物」は決して実現不可能ではないう思いが強くなる一方です。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/853-371d9d9c

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード