愚慫空論

『鹿の王』


『アムリタ』に続いて、小説のレビュー。
いや、レビューというんじゃないなぁ、こんな文章。なんて言えばいいんだろう?



『アムリタ』同様、読みかけで書いています。しかもまだ半分も読んでいません。〈クライマックス〉はまだまだの予感。

とてもいいです、この物語。
こんな文章を書き始めたのも、きっと読み進めたくないからだと思います。

(6月11日読了し、追記しました。)

著者の上橋菜穂子さんについては、少し前から視野に入っていました。『精霊の守り人』シリーズがドラマ化されて話題になっているというようなことは知らなかったんですが、知人からいいよ、と薦められていたりしていましたので。

なので機会があったら読んで見ようと思っていました。機会があったら、というのは具体的には図書館で本を借りられたら、ということなんですが――(^o^) 

そんな感じで関心を持つようになったところで、昨年の本屋大賞を『鹿の王』が受賞していたという情報を僕のアンテナが感知したりするようになってきました。それまではあまりそういう方向にアンテナの志向性が向いていなかったんですけど、まあ、機縁なんでしょうね。

機縁は続きます。「cakes」というサイトの上橋菜穂子さんのインタビュー記事が目に留まったんです。

 上橋菜穂子【前編】人の社会がウイルスと重なって見えた
 上橋菜穂子【中編】自分の体が見えないように、自分の物語は見えない
 上橋菜穂子【後編】ひとつの場所にはいられないし、いてはいけない

これらの記事を読んで、『鹿の王』は読んで見ようと決めました。
決め手になったのは、上橋さんがアボリジニーの研究家でもあるということ。

「決める」というのは「機会があったら」よりも積極的です。
機縁を受け身ではなくて、自ら求める。

とはいえ、他にもまだ読むべき本や為すべき作業があったので、ペンディング状態になっていました。

そうしたら機縁が向こうからやってきました。上巻だけですが、図書館にありました。大抵は貸し出し状態なんですけどね。(『精霊の守り人』もあったので、借りてきました。読了済みです。)


現時点で読みが進んでいるのは、第三章の「トナカイの郷で」というところ。上巻の半分くらいのところです。物語としてはまだ地ならしの段階ですね。物語の背景と主要人物の紹介が一通り済んで、それらを再度掘り下げて、物語にリアリティというか立体感というか、そういったものを読者に感じさせていくところ。

この「立体感」に、僕はやられてしまいました。その感触を僕自身のなかで確かなものにしたくて、この文章を書いている。

上橋さんは「生命の営み」というものをよ~くよく識っておられると感じます。『精霊の守り人』でもその気配はありましたけど、まだまだ観念的というか、アタマでこしらえたものという感じがしていました。もっとも、まだ読んだのは第一作だけなので、続編がどのようになっているかは楽しみにしているところではあるんですけれど。

『鹿の王』で展開されている立体感は、ずっと具象的です。具象的であって、なおかつ客観的ではない。主観的。小説なんだから客観的でないのは当たり前かもしれませんが、読み進めていると、こうした記述には、上橋さんがアボリジニーたちと一緒に暮らしていた経験が生きているんだろうなぁ、と感じずにはいられない。アボリジニーたちを単なる研究対象として観察していたわけではなく、寄り添って一緒に暮らしていたんだろうなぁ、という想像が働くんです。

こんなことを書くのも、そうでない感じを受けることが多いから。上橋さんの研究者としてのカテゴリーは文化人類学ということになると思うのですが(確かめていません)、この分野の著作には、僕はどうも馴染めないところがあります。対象を観察する“冷たい目”が感じられて、どうも好きになれない。そこから得られる知見は素晴らしいものですけどね。


『鹿の王』を途中まで読み進めて、この文章を書き出すまでの間に、実は別の本を取り出して読み返すということをしています。『鹿の王』を読んでいるうちに、以前読んだある文章に当たってみたくなった。その文章に当たってみたら、このエントリを書いてみたくなった。そんな流れです。

その、以前読んだ文章を紹介して、このエントリの締めとします。

播磨国高砂の浦につき給うに、人多く結縁しける中に、七旬あまりの老翁、六十あまりの老女、夫婦なりけるが申しけるは、わが身はこの浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業(わざ)とし、あしたゆうべに、いろくずの命をたちて世をわたるはかりごととなす。ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。上人あわれみて、汝がごとくなるものも、南無阿弥陀仏ととなうれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生すべきむね、ねんごろにおしえ給いければ、二人とも涙にむせびつつよろこびけり。




【追記】
読了しました。



「鹿の王」の意味がよくわかりした。

「王」とは一体、どういうことか。
どういう者を指して、「王」と言うのか。

ヴァンが語った父の話。
ここが物語の〈クライマックス〉です。

「父は、〈鹿の王〉を見たことがあったそうだ」
「我が身を賭して、群れを守る鹿?」

「飛鹿は足が速いし、断崖絶壁にも強いから、めったに狼や山犬などにやられることはない。それでもな、平地で狼や山犬に襲われると、追われて走るうちに仔鹿が遅れてしまうことがある。
 そんなとき、群れの中から、一頭の牡鹿がぴょん、と躍りでて、天敵と向かい合ったのを見たことがある、と、父は言ったんだ。もう若くもない、いい歳の牡が、そんなことをした、というんだよ」

「群れはどんどん逃げて行く。逃げ去っていく群れを背にして、その牡鹿は、ひとり狼たちの前に立ち、まるで挑発するように、跳ね踊ったのだそうだ」

「一頭になってしまった鹿は弱い。いかに体格の大きな牡鹿でも、狼の群れの前に、敢えて残るなど無謀なことだ。それなのに、まるで、目の前に迫った死を嘲笑い、己の命を誇るように跳ね上がり、踊ってみせていたそうだ」

「馬鹿な奴だ、と、父は言ったよ。いかに強かろうと、何頭ものも狼に囲まれたら逃げられん。自ら窮地に跳びこんで、自分の命を危険に晒すなど、馬鹿がやることだ、と。
 俺たちは若かったからな、むっとしたよ。そんなことはない、群れを守るために我が身を犠牲にするなんて、凄い。それこそ、群れを守る〈鹿の王〉だ、そう口々に反論した」

「そうしたらな、父は笑った。――おまえらも馬鹿だ、と
 ひとり、ひとりを指さして、父は言ったよ。おれは英雄になれる。氏族のために命を捨ててみせる、とでもおもっているだろうが、思い違いも甚だしい。
 おまえらみたいな、ひよっこはな、生き延びるために全力を尽くせ。己の命を守れたら重畳。戦の最中では、我が身を守ることすら、なかなか出来やしない。敵が圧倒的に強ければ、必死に逃げろ。逃げて命を繋ぎ、子を産み、増やせ。それがおまえたちの務めだ、と」

「だけど、逃げられない人がいたら? と、おれは父に問うた。逃げ遅れた子どもがいたら、たすけるのが戦士の努めじゃないか、と」

「・・・お父さまは、なんと?」
「いきなり真顔になって、言ったよ。――それは、それが出来る者がやることだ、と」
「敵の前にただ一頭で飛び出して、踊ってみせるような鹿は、それが出来る心と身体を天から授かってしまった鹿なのだろう。
 才というものは残酷なものだ。ときに、死地にその者を押しだす。そんな才を持って生まれなければ、己の命を全うできただろうに、なんと、哀しい奴じゃないか、と」


王たる者とはどうのような者か。

  死地に押しだされてしまうほどに才のある者。
  ぴったり「全力」で生きる者。


それを出来ない者が、たとえ群れのためだとしても、「全力」以上を為そうとするのは、馬鹿だ。
それを出来る者が自分の身の丈にあった「全力」で事を為す。
死んでもいいように「全力」を出す。
「全力」の結果が死んだとしても、ぴったり「全力」であったならば、悔いは残らないだろう。


「そういう鹿のことを、呑気に、〈鹿の王〉だのなんだの持ち上げて話すのを聞くたび、おれは反吐がでそうになるのだ、と、父は言ったよ。弱い者は食い殺されるこの世の中で、そういうやつがいるから、生き延びる命がある。たすけられた者が、そいつに感謝するのは当たり前だが、そういうやつを、群れをたすける王だのなんだのと持ち上げる気持ちの裏にあるものが、おれは大嫌いなのだ、と」


このお父さんの感性は、七種体癖的だと思います。笑。

それはともかく、「持ち上げる気持ちの裏にあるもの」とは何でしょう。

「ぴったり」からはみ出ようとする欲。それは、羨望でもあり嫉妬でもある。


それにしても、この「王」のイメージは、この上なく男性的です。
著者は女性なのに。
むしろ女性だからこそ、このようなイメージを練り上げられたのかもしれません。

女性だからこそ最上に男性的なイメージが練り上げられるのだとしたら、その逆もそうでないといけないことになります。男性こそが、実は最上の女性的イメージを表現できる。

(何をもって最上かは突っ込まないでくださいね...(^_^;)

『鹿の王』は生命の物語です。
僕にとって物語とは生命の物語以外の何ものでもありませんが、
僕が触れた物語のなかで、『鹿の王』は双璧を為しています。
もう片方の「壁」は、こちら。


ヤナーチェクの歌劇『利口な女狐の物語』。
男性の手になる最上の女性の生と死、そして生命の連環の物語。

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