愚慫空論

傷つくことができる幸せ

新年最初のエントリーがこのようなタイトルになってしまうとは、我ながら呆れている。傷つくことが幸せであるなんて、ずいぶん捻ねくれたものの言い方だ。お正月らしく、もう少し気分が明るくなるようなテーマで書けないものなのか...。

年の初め、お正月がおめでたいものだということは認識はしているつもりだが、その認識はあくまで意識の表層のものしかないようだ。意識というラインの奥から吐き出されてくる私のうだうだ思考は、表層の認識などまったくお構いなし。仕方がなく、めでたくあらねばならないという認識とのギャップを意識しつつも、うだうだした思考の言語化を試みてみる。以下がその試み。


このテーマは昨年からの持ち越し。このうだうだ思考が始まったきっかけは、ある人から“傷ついた”と言われてしまったことにある。もちろん、私が傷つけてしまったわけだ。

私が傷つけた相手、傷つけた行為、日時、場所、そのような情報は必要ないから記さない。

私はそのように告げられて、慌てた。傷つけようと思ってその行為を為したわけではなかったのだから、当然の反応だろう。心ならずも相手を傷つけた己の行為の浅はかさを恥じ、慌てて弁解に努めた。これも当然の反応。相手の方は当方の弁解に何とか納得してくれたようで、安堵した。これもまた当然の反応だろう。

いま、いちいち“当然の反応”なんてうるさく書いたが、それは私の行為に端を発した相手の方とのやり取りのなかで“当然の反応”とは思えない反応が私の中にあったから。つまり、相手の方から“傷つけた”と告げられたことに、なぜか嬉しいという反応もあったのである。

もちろん、その嬉しさを相手に伝えることはしていない。そんなことをすれば恐らくは誤解を招くだろう。そこはそう判断し、その判断に従った。たぶんこれは常識的といわれる判断だったろうと思う。あまり自信はないが。(というのも、私は己の常識にあまり自信がないので σ(^_^;))

しかしこの常識的判断のために、私の中には“嬉しい”という反応が宙ぶらりんの状態で残ってしまった。そして宙ぶらりんになってしまった感情を処理するために、うだうだとした思考が始まった。

これは当然の反応だろう。


それにしても、“傷つけた”と告げられたことが嬉しいとはかなり捻くれている。私が最初から相手を傷つけることを目的としていたのなら、話は簡単だが。そうであるなら私の行為は成功したことになり、相手から“傷ついた”と告げられたことは自分の成功を確認したことになる。成功したから、嬉しい。当然の反応である。

だが、そうではない。私は失敗したのである。

私は相手を傷つけることを目的として行為を為したのではない。“傷ついた”と告げられたとき、私は自分が失敗したことを知った。失敗したことは嬉しくない。私は自分の行為で相手を傷つけたばかりか、自分も傷つけることになった。罪の意識を持った、とでも言おうか。もちろん、私の傷の程度は相手よりもずっと軽症だれども。


誰だって傷つくのは、嫌だ。傷つくと痛みを感じるから。そしてそのことを私は知っている。しかし、それは他人の傷ついた痛みを感じられるということではない。他人の痛みは私には感じられない。私が感じられるのは私の痛みだけである。ただ、私は他人も私と同様、傷つくと痛みを感じるということを知っているので、他人の痛みを想像することはできる。だが、それはあくまで想像でしかなく、私が痛みを感じているというわけではない。

では、他人の痛みは想像することしかできないのか、痛みを共有できないのかといえば、そうでもない。他人の傷が自分の傷となることもある。

ひとつは罪の意識を持ってしまう場合。自分の失敗で他人を傷つけ、他人も自分と同様に傷つけば痛いのだということを知っている、想像できるゆえに罪の意識を持つ。その罪の意識が自らを傷つけ、痛みを感じることになる。ただ、この場合では痛みの共有とまでいえるのかどうかは疑問だが。

もうひとつは、他人が傷つき痛みを感じていると認識することが自らの傷となってしまう場合。例えば、家族が病気で苦しんでいる、などという時に感じる痛み。こうした場合は痛みの共有といえるのだろうが、そうなると逆に、痛みが共有できる関係が成立している相手を他人と呼んでよいのかどうかが疑問になる。


脱線した。話を元に戻すと、私は自分の失敗で自分も傷つくことになった。だから相手から“傷ついた”と告げられたことは嬉しいことではなかったはずである。確かに嬉しくなかったので、慌てて釈明することになってしまった。だが同時に、なぜか嬉しいという感情も持つことになった。この嬉しいという感情はどこから来たのだろうか?

その答えを言葉に載せると「ゆとり」となるだろうか。私は“傷ついた”と告げてきた相手のなかに「ゆとり」を感じたのだと思う。言い換えれば、まだ傷つくことができる余裕。私が傷つけた程度の傷ではまだまだ相手の底には届いていないという安心感。そして、私と相手との関係が十分に修復可能であるとの見通し。それらのものが、私に嬉しさをもたらしたのだろうと思う。

タイトルの『傷つくことができる幸せ』とは、まだまだ傷つくことができる「ゆとり」を持ちあわせている幸せのことである。


誰もが傷つくことは嫌だけれども、この世で生きている以上、傷つくことを完全に回避することはできない。それはいつ、どのような形で、どのような大きさでやってくるのか、予測することはできない。つまり不運というやつ。傷つくことの予見が不可能、不運の予見が不可能な私たちに残されている手段は、守りを固めることだけである。もっとも如何なる守りも歯が立たないほど衝撃力の大きな不運に見舞われることもあるが。かけがえのない人を奪われてしまうとか。

とはいえ、人は守備を固めざるを得ない。“運が悪けりゃどんな守りもムダ”なんて境地にはなかなか至れるものではない。傷つきやすい心と身体を抱えて、人は守りに入る。守りの手段にはさまざまなものがある。いくつか例示してみようか。またわき道に入るけど。


①は、昨年流行した「鈍感力」。これは感性の感度が高いほど心は傷つきやすいという特性に着目して、敢えて感度を下げるという方法である。確かにこれは有効。感度が高いと情報を多く得られ、多く情報を得るほど不運に見舞われる可能性も高い。だから情報の摂取量そのものを減らしてしまえという方法。これと、もうひとつ人間に備わっている情報のフィルタリング機能(人間の感性をアンテナ・チューナに例えるならチューニング機能)とを組み合わせれば、かなり有効な防御手段となる。

②には、鎧を纏うという方法。これは一で挙げたフィルタリングと似かよっているが、チューニング機能を働かすのではなく、物理的に情報を遮断するいわば偏光フィルタを装着する如き方法である。そのフィルタには種々あって方法も細分化されるが、もっとも一般的な方法は外形的な記号を纏う手段であろうか。外形的記号には社会的地位、金銭の多量保有などが含まれる。

こうした外形的記号を纏った場合、情報は自ずからフィルタリングされることになる。情報発信者は受信者の外形的記号により発信する情報を選択するからである。未成熟な子供には発育に有害な情報は与えてはならない、とか。社長には不機嫌になる情報を与えてはいけない、とか。金持ちにはへつらう、とか。国民にはいい加減な選挙用の公約を与えておけばよい、とか。これらは皆、自らが傷つかないための情報操作である(最初は違うかも)。相手を傷つけると自らも返り討ちにあうという知識から為される情報操作。相手を大きく傷つける外形的記号(というだけでなく権力という内実も伴うわけだが)を纏えば、それだけで自らが傷つけられる情報を受信する可能性が減るのである。

この②の方法は自分でチューナーを操作する必要はないが、誰もが自分の思うままに身に着けることができないという欠点がある。外形的記号は外形的であるがゆえに有限で、それを身に纏うには競争を経なければならない。しかも昨今は競争が至上のものと考えられる社会になっているから、外形的記号同士の間でも淘汰が行われて多くの外形的記号が有効性を失ってしまった。もともと限定されていた外形的記号がさらに限定され、少数の者に占有されるという事態に陥ってしまっている。①の方法に流行の兆しがあるのは、②の方法が寡占状態に置かれてしまったことに原因があるのかもしれない。

さて③は、①②の中間的な方法。②が物理的フィルタリング、ハードウェアによったフィルタリングなら③はソフトウェア制御によるフィルタリングといえようか(①はマニュアル操作によるフィルタリング)。③の代表的な方法は学問を修めるという方法である。

学問にもさまざまあって、フィルタリングを取り払う役割を果たす学問もないではないが、現在はフィルタリング学問が全盛の時代である。なかでも経済学がその最右翼だろう(経済学の中にもフィルタリング抑制方向のものも中にはあるようだが)。こうしたフィルタリング学問を修めるということはフィルタリングのアルゴリズムを習得するということであり、思考がそのアルゴリズムに従って進められるように自己プログラミングが進むと、自ずから自己が傷つく情報を無害化することができるようになる。

④はかなり特異で“攻撃は最大の防御なり”を実践する方法。特異とはいっても昔から広く分布してはいる。穏やかなのは“なんでも人の所為にする”という性向となって現れるが、これが極端になると犯罪行為にいたることが多い。通信技術の発達によって出現したネット社会にはこの方法の極端に偏ったケースが多く見られるが、最近は現実世界でも増える傾向にある。なかでも著しいのは自殺で、これは自己を防御するはずの攻撃が自己に向いてしまった場合。


ほかにもまだ類型を作ることはできるかもしれないが、わき道はこのくらいにしておいて話を元に戻すと、どの防御手段も結局のところは情報を制御するだけのことしかできない。如何に上手く傷つく情報を排除するか、有用な情報のみをピックアップするか、その技法も人さまざまだが、どう技法を駆使しようとも完全なフィルタリングなど不可能だ。さらに皮肉なことは、人が人として成長するのに最も有用な情報はその人にとっては未知の情報であるということだ。未知の情報はフィルタリングすることができない。その情報についての情報がないからである。もしフィルタリングするなら、未知の情報であるという理由ですべてフィルタリングするしかない。だがこれは人としての成長を放棄するのと同義だ。成長しようとするなら未知の情報に接することをしなければならず、未知の情報に不運なものが紛れ込むことは避けられないし、成長させる情報が同時に傷つける情報であるということも往々にしてある。詰まるところ、人は傷つくことなしには成長できないのである。

傷つくのは誰もが嫌だが、成長を望むなら傷つくことを避けられない。傷つくことが成長に必要なことすらある。だとするならばフィルタリング技能を向上させることは人間としての成長には繋がらない。人間として成長することを望むのなら、必要なのはフィルタリングによる防御機能を向上させることではなく、傷ついても大丈夫な「ゆとり」をたっぷりと持つことである。

(フィルタリング技能を向上させるべきなのは、教育者であろう。教育者は発信する情報をフィルタリングして被教育者に受け渡さなければならないから。ただこれは職業としての教師という意味ではない。人は誰もが後輩の教育をすべき存在であるわけだから、結局誰もが教育者であり、誰もがフィルタリング技能を向上させるべきということになる。またここから導かれる結論は、傷つくことからの防御手段は、自己のためではなく他者のために用いるべきものだということになる。)


では、どうしたら「ゆとり」をたくさん持つことができるようになるのか? ここが問題である。私が傷つけてしまった相手の方は幸いにして「ゆとり」を十分にもっていた。だが、これは運が良かったのであろうと思う。私にとって相手の方にとっても。今の世の中を眺めていると、「ゆとり」ある人間に出会う確率は猛烈な勢いで減っていってしまっているように思えてならない。

このことは、わき道として記した④の特異な方法を採る者が多くなっていることとも関連しているように思う。①②③の防御方法を鍛えるには多少なりとも「ゆとり」がないとできないが(特に①はふてぶてしいほどの「ゆとり」が必要なように思う)、④はまったく「ゆとり」のない者が追い込まれて選択せざるを得なくなる方法であることが多いからだ。“攻撃は最大の防御なり”は同時に“背水の陣”でもあるというわけだ。

こうした人は自らに「ゆとり」がないことを無意識なりとも自覚しているせいか、他人の「ゆとり」に極めて敏感だ。フィルタリングがかかるので全方向の「ゆとり」に反応するというわけではないが、そのアンテナに「ゆとり」が感応すると攻撃にかかる。攻撃対象の「ゆとり」を撃滅しようとする。

この攻撃をかわすのはかなり難しい。対象者は攻撃をかわすうちに自分が持っていると思っていた「ゆとり」が実は砂上楼閣であったことに気づくことになるからだ。さまざまなフィルタリングを経て自らにとって有用な情報を元にして組み上げられただけの「ゆとり」。「ゆとり」に極めて敏感な攻撃者は「ゆとり」の元を巧みに嗅ぎ分けて攻撃し破壊していく。こうした攻撃に耐えることができるのは、本物の「ゆとり」だけである。

では、本物の「ゆとり」とは何か? これはたぶん、自ら築き上げることができないものだ。他人から与えられるしかないものだろうというのが、現時点での私の感触である。もっとも本物の「ゆとり」を与えてくれる者を他人と呼ぶべきかは問題だが。というのも、本物の「ゆとり」は自他の境界線も定かならぬような幸福の場で得られるものだと思うから。


いつの世も人は傷つくことを避けると同時に「ゆとり」を求める。今の日本で「ゆとり」を求める人に与えられるのは、なぜか偽りの「ゆとり」ばかりになりつつある。「ゆとり」すらも自ら見出さなければならないのだと思い込むようになりつつある。そのことが日本の社会をとても暮らし難いものに変えてしまいつつある。社会のなかにイライラが募りつつある。そんな気がしてならない。

もはや傷つくことすらできなくなってしまった者が増えてしまった日本の社会。そんな社会の中では、傷つく「ゆとり」のある者は幸せなんだと思う。

コメント

効能と副作用

近頃の若者達の会話で、気になって仕方が無い事の一つに『断定しない』『曖昧表現』が有るが,最も大きい理由は『致命的論争をしたく無い』『相手を傷つけたくない』が有るらしい。←私(自分では若輩者)も語尾を曖昧にしている気分。
相手を傷つけたくない優しさが、すべてに優先してしまい、『極度に傷つける』ことを恐れる心象風景。見ているこちら側は、心温まるよりは、なにやらいらいら、はらはらしている。
これは『相手を傷つけたくない』優しさと同時に、『相手に傷つけられたくない』本心が垣間見れるから。

将来の無い、変化を恐れる年寄りが『現在』『現状』が傷つくことを怖がるのは分かるが、これからの若者が『傷つかない』でどうする。
『変化』『進歩』とは、安定した今(現状)が破壊(傷つく)された後にだけ実現する可能性が有る。
何かを捨てるから、何かを手に入れられる。
誰かを傷つけるのも、誰かに何かを与えるのも薬の効能と副作用のようなもので、複合的な相互作用で一概に善悪は決め付けられない。

>相手の方から“傷つけた”と告げられたことに、なぜか嬉しいという反応もあったのである。

全く同感。

年始の挨拶をば、、

どうも、どうも、すっかり明けました。年が変わっても愚樵節炸裂で、おめでとうございます。って何か変かな。
「ゆとり」ですか? うらやましいですね。傷つけるようなことを言ったほうも、「傷ついた」と言ったほうにも「ゆとり」があって。
ワタシなど、ワタシが言ったことで「傷ついた」などと言われた日には、慌てふためき夜も寝れず、オタオタオロオロが目に見えている。
また、ワタシが傷つくようなことを言われても、フィルタではなく「傷ついた」とは言わないでしょう。
第三者からみていると、傷つくだろうことを言えるのも、「傷ついた」といえるのも「ゆとり」のうえに、人間関係ができていてのことで羨ましいかぎりです。(もっとも今回の愚樵さんは傷つくだろうと思って言ってなかったか……)
ワタシも今年はもう少し素直に言葉にしてみようかな。
いずれにしても今年もよろしくお願いします。

そうそうfc2にTBが通りません。残念です。

愚樵さん、あけましておめでとうございます(^^)

なかなか更新されないので、どこでご挨拶しようかと思ってたところでございました。本年もまたよろしくお願いいたしますm(__)m

新年早々、これまた難しいお話ですね。。 私はよく家族に傷つける言葉をぶつけてしまうんですが、他人相手には言いません、つまり本音は言わないんです。なぜならそこまでの関わりを求めてないからです。それでも些細なことにいちいち傷つく人は勝手に一年中傷ついてろ、と思ってしまいます。
その分ブログでは言いたい放題ですけど、、。
愚樵さんはきっとお優しい方なのですね。

布引さん、ご挨拶が遅れました。今年もよろしくお願いします。

>これからの若者が『傷つかない』でどうする

あはは、まっとうでやさしいお怒りですが、「ゆとり」がないものは仕方ないじゃないですか、彼らには後がないんですから。

dr.stoneflyさんも、ご挨拶が遅れました。今年もよろしくです。

>もっとも今回の愚樵さんは傷つくだろうと思って言ってなかったか……

ギクッ、見透かされてますね。「傷ついた」と告げられて最初に返した言葉は「やっぱり」でした。

それにしても「ゆとり」のある関係って、どうしたらできるんでしょうねぇ。今回はたまたまラッキーだったんですが、「ゆとり」ある関係ができるマニュアルなんかがあるととても助かるんですけどね。

文部科学省よ、「ゆとり」教育を復活させよ! 


ママちゃん、こんばんは。

家族には傷つく言葉を吐けるということは、甘えてるってことでもありますよね。許してもらえる、と。でも、外では甘えられないから、本音は吐かない。甘えられる関係が「ゆとり」ある関係ってことでもありますね。

「ゆとり」ある関係が築くことができる能力は、家族のあり方に大いに関係していると思います。布引さんも傷つくことから逃げる若者を憂いておられますが、たぶん、今、日本の若者たちがそんなことになってしまったのは家庭がおかしくなってるからなんでしょうね。

「ゆとり」教育は家族にかかっている。とするなら、そんなところに文科省のアタマデッカチ官僚なんかに切り回されたんじゃ目も当てられないことになりそう。

文科省よ、「ゆとり」教育は復活しなくていい!

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新年明けましておめでとうございます!

A Happy New Year! 今年もどうぞ宜しくお願いします! 「誠実」を実感しあえるような一年になりますように。

コメント欄より・・

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