愚慫空論

「マインドフルネス」への違和感


僕の中で、『仏教思想のゼロポイント』を震源とする衝撃の余波が続いています。(^o^)



今、僕を揺るがしている振動は、実は連動型です。
『仏教思想のゼロポイント』に誘発されたわけではないのですが、続けざまに大きな衝撃に襲われています。(O_O)


『世界史の構造』について思ったことは、また機会を改めて文章にしてみたいと思いますが、ざっくり触れておきますと、マルクス経済学の発展・継承です。つまり人類社会の生態学です。

マルクス経済学は伝統的な労働価値説を基礎に「生産様式」の変遷で資本主義社会の成り立ちを説明しようとしました。『世界史の構造』では「生産様式」が「交換様式」に置き換わっています。交換様式の変遷に沿って社会のシステムも変遷する――という視点から、論考が組み立てられています。

この視点の転換は、瞠目に値すると思います。


さて、『仏教思想のゼロポイント』と『世界史の構造』のふたつから、こんなような概観が僕の中に出てきました。



あくまで私見ですが、ゴーダマ・ブッダの思想はハラスメント臭いです。
〈生〉の否定。
〈社会〉の否定。
それらの「否定」の受容がゴーダマ・ブッダの思想であるように考えます。
(リンク先のエントリでは「否定の否定」としましたが、「否定の受容」が正確だと考え直しました。)

ヒトはどうしようもなく社会的な生き物です。
社会を営むことを生存戦略として採用した生物種です。
だから、社会的な存在である「人間」には、社会的な要素とヒトとしての要素の両方がある。ヒトとしての要素とは〈生〉ですね。

ゴーダマ・ブッダの思想はその両方を否定することから出発して、生きていこうするもの。目指すところは「死」です。


ゴーダマ・ブッダの思想を受け継いだと考えられている大乗仏教は、ブッダの思想の換骨奪胎したものだと考えます。
換骨奪胎の鍵は「仮」という感じ方です。

仏教思想の中核は「縁起」という現象認識術です。
「縁起」は単なる因果律ではありません。

現象には原因があるという因果律は発生論になります。
発生論は遡れるだけ遡ると創造神になる。
しかし、仏教はそういった考え方を斥けています。
否定しているのではなく「わからない」と答えるのが、ゴーダマ・ブッダ以来の仏教のやり方。
そのかわり現象と現象の関係を注視しています。
すると縁起になる。

縁起に沿って生じる現象を「仮」と捉えたとき、そこには「空」が現われます。
ゴーダマ・ブッダは一切皆苦としました。が、それもまた「仮」。
そうなると、否定したはずの〈生〉が肯定へと転じます。
〈生〉を肯定するから一切衆生の救済という概念が出てきて、「大乗」となります。

しかし、大乗仏教であっても、〈社会〉の肯定はしません。
だって「救済」ですから。
人間を取り巻く環境を否定的に捉えなければ、「救済」という概念は出てきません。

禅は、そうやって生まれた大乗仏教のなかの一派です。
大乗からゴーダマ・ブッダへと帰ろうとしたのが禅です。
しかし、あくまで大乗ですから、出発点は〈生〉は肯定です。


「マインドフルネス」という考え方は欧米、ことにアメリカで生まれたものらしい。
おそらくは、ヒッピーを生んだ流れの延長にあるのでしょう。

出所は禅なのか、ゴーダマ・ブッダに近い初期仏教なのかは判然としません。
いずれにせよ〈社会〉に対しては否定です。
なのに、「マインドフルネス」は〈社会〉に対して、どうやら肯定であるような印象を受けます。
ここが僕の違和感の源泉です。


ゴーダマ・ブッダの思想が大乗へ転じたときのような「哲学」があるなら、それは真正のものだと言えます。しかし、初期仏教や禅が生んだ方法論を、健康のためであるとか、成功のためであるとかいった目的に迎合して転用しているのであれば、それはカッコつきの「宗教」だろうと僕は思います。

新興宗教は、全てとは言いませんが、大半は「宗教」ですね。
「マインドフルネス」もそれ臭い。
その臭いを誤魔化すために「科学」という消臭剤を振りかけているような気配が感じられて仕方がありません。


「マインドフルネス」の効用については、僕は否定しません。
その思想的基盤が怪しげなものであっても、禅や科学はしっかりしたものですから、それなりの効用はあると思います。

だから、余計に気持ちが悪いと思ってしまう。
カトリック的な言い方をすれば、天使が堕天するような、そんな感じ。
もしくは、科学技術が生命倫理を脅かすときの危惧感に近い。


とはいえ、「哲学」がなければダメ、とは言えません。
「哲学」なんて、後付けで十分だから。
今はなくても後から出てくるなら、それで十分ではあります。

そういった「芽」があるのかどうか。

いえ、「芽」はいずれ人間が創造するでしょうから、大丈夫なんです。
懸念は「芽を摘む構造」になっていないかどうかです。
端的に言えば、資本主義ベースの科学思想に乗っ取られているかいないか、という点です。

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