愚慫空論

『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』


やっとこの二冊に順番が回ってまいりました。

  



早くからアドラーは取り上げたいと思っていました。
何度か書きかけていたんですけど、そのたびにボツになって。
これらの本の読書後にうけた別の本からの衝撃でアドラーの位置づけが揺れ動いてしまいまして、
やっと揺れも治ってきて位置づけが落着いてきました。


いつものように大回りします。
今回は少し親切に見出しを付けることにして、先に見出しを案内しておきます。

・アドラー心理学は宗教である
・人間をして宗教と感じさせるもの
・宗教の目的
・「編集の自由」が人間にはある
・アドラーとゴーダマ・ブッダの共通点と相違点





・アドラー心理学は宗教である。

アドラー心理学は宗教である――なんていうと、アドラーは心外に思うに違いありません。

『嫌われる勇気』に記述がありますが、アドラーは「共同体感覚」というものを提示します。すると、それまでアドラーを支持してた者たちの少なからぬ者が、宗教だと感じてアドラーの元を去って行った。そのように考えられてしまったのはアドラーにとっては心外なことで、アドラー自身は、自身の思想を宗教だとは考えていなかった。

哲学とは考えていたかもしれませんし、上記二冊の本のアドラー紹介の体裁も、哲学のスタイルを採っています。

しかし、アドラー自身がどのように考えようとも、アドラーの思想には宗教性があると思います。

そもそも宗教性というものは、自身がどう感じるか、です。アドラーがどのように考えていようとも、アドラーの思想を受容した者が宗教性を感じたならば、宗教性はある。

もっとも、時代の文脈からして、心理学と宗教は相容れないものと捉えられていた。この「時代性」は現在でも継続中ですが、それゆえ、宗教性を感じてた人がアドラーのもとを去ったという事態は、やむを得なかったろうと思います。それはアドラーの責任でも、去った者の責任でもない。時代の責任です。

僕の感触では、アドラーの宗教性は「共同体感覚」にあるのではありません。いえ、共同体感覚は宗教的だけれど、アドラーの宗教的なものはところは、それ以前から芽を出しています。その「芽」を見てみれば、宗教性とは何なのかということが見えてくると思います。


・人間をして宗教と感じさせるものは「何ものか」

宗教は難しい概念です。明確に定義することが困難で、どのように定義しても反論が予想される。
例によってgoogle先生のお伺いを立ててみると、アタマにはwikipediaがでてきます。その定義を曳いてみると

宗教(しゅうきょう、英: religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり[1]、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。

と出てきます。

重要なのは、“一般に”という言葉です。この言葉が要請させるのは“例外もある”からです。例外がたくさんあると、それは定義としては成り立ちません。Wikipediaの文言には、“無難な解釈”という評価が適切だろうと思います。

例外を考えてみましょう。大きなところでは、儒教とか。

一般に日本人は、儒教を宗教だと認識します。欧米人もおそらくそうです。しかし、当の中国人たちは儒教を宗教だというと反発するのだそうです。中国人に言わせれば、儒教は実践的な政治学だそうです。

しかし、いくら中国人がそのように主張しても、また政治学であるという実績を示してみたとしても、私たちは儒教が宗教であるという感覚を拭いきれません。そのただ中にいる中国人は気がつかない宗教性を感じさせる「何か」が儒教にはあると言わざるを得ません。

儒教と対照的なのはイスラム教です。イスラームが宗教であることはムスリム自身も認めますが、その宗教認識は日本人や欧米人とは異なります。社会的・政治的でもあって、儒教と似通って部分がある。違いは、信者たちが宗教と自認するか否か、に過ぎないという感じです。

逆に宗教とされてはいるものの、あまり宗教性を感じさせないものもあります。仏教です。
大方の大乗仏教は宗教臭プンプンですが、禅や上座部仏教などゴーダマ・ブッダの初期仏教を志向する一派は、宗教性は稀薄で哲学的な色合いが濃い印象を受けます。

無神論を誇る日本人にも、どこかしら宗教性があります。


人間をして宗教と感じさせるものは「何ものか」は、言い換えれば宗教性ですが、それはまず“観念”ではないかと考えられます。しかし、日本人の宗教性を鑑みてみると、それも怪しい。日本人の宗教は、観念的ですらありません。アミニズムやシャーマニズムもそうですが、もっと根源的というか原始的な感じします。宗教性は観念以前の感覚的なところにありそうです。

宗教性の在処を教えてくれたのは、何度も取り上げますけれど、この本です。



例えば、私たちは日常生活でごく自然に「異性」を認識し、それに執着することがあるけれども、その「異性」というのは実際のところ、感覚入力を素材として捏ね上がられたイメージなのであって、比喩論的に言えば「物質」に過ぎないものである。

実際、私たちが認識している「美しい顔」は、よく分析にしてみれば目に入っている色の組み合わせに過ぎないし、その「美しい声」は、単に鼓膜を振るわせている音波によって形成されているものに過ぎない。つまり、私たちが持つ「美しい異性」という認識は、そのような感覚入力を素材として構成された単なるイメージ、もしくは物語に過ぎないわけだ。(中略)

では、なぜ私たちは、そのような「ありのまま(如実)」でないイメージを形成し、物語の「世界」を立ち上げてしまうのか。それは、私たちが(中略)認知を形成する諸要素に欲望を抱き、それに執着して実体視する(「我」だとみなす)からである。


ゴーダマ・ブッダの認識の鋭いところは、観念(イメージ)を経ず、「認知を形成する諸要素」に直接欲望を抱く、と喝破した点にあります。そして、その欲望が観念と物語を形成する。

「認知を直接欲望する」と考えるのは、「認知には予め価値がある」と考えるアフォーダンス理論と同じ捉え方です。価値とは欲望の対象ですからね。ここでゴーダマ・ブッダ(というより『仏教思想のゼロポイント』では、次に形成されるものとして「観念」と「物語」を同値に置きましたが、僕の感触では、「物語」のほうが先で「観念(イメージ)」は後です。つまり、

価値 ⇒ 認知 ⇒ 欲望 ⇒ 物語 ⇒ 観念

という順番で形成されていく。

「物語」のほうが先という感覚は一般的ではないかもしれませんが、実際に物語を創造している作家さんたちの感触は僕のそれに人が多いはず。すぐに実例は思い浮かびませんが、多くの作家さんたちが、ストーリーのプロット(観念)より自分でも上手く制御できない創造性に重きを置いておられる。

「創造性」は「物語性」です。
「物語」を言葉で表現すれば文学になり、色と形で表現すれば絵画になり、音で表現すれば音楽になり、――(以下略)


・宗教の目的

宗教性とは何なのか。上の問いの結論を先延ばしして、宗教が目的とするものはどこかを探ってみます。題材は物語から採ることにします。



あらすじ等には触れません。この物語の裏の主人公がウィルスであること。ウィルスとの戦いが主題の一つであること。ウィルスとの戦い方を巡っての対立があること。以上だけ、記しておきます。

ウィルスとの戦いを巡っての対立とは、ズバリ、科学者と宗教家の対立です。物語の世界では「エホバの証人」を彷彿させるような宗教が設定されていて、科学者が精製するワクチンに宗教的拒否反応を示す。そのことが治療ひいてはウィルスとの戦いの障害になっています。

少し引用します。

・・・
 ミラルは深くため息をつき、目を閉じて頭を垂れた。
 長いことそうしていたが、やがて、目を開けると、鷹匠の妻子に静かに声をかけ、お悔やみを言い、遺体を清めたら呼ぶから、それまで少し他の部屋で休んでいて欲しいと告げて、彼女らを部屋の外に連れだした。
 真那が一緒に出てきた。
 廊下に出ると、彼は、そっと鷹匠の妻子に近づいて声をかけた。
「祭司医の真那でございまする」
 鷹匠の妻子は、はっと顔を上げ、すがるような目で真那を見つめた。その視点を包むように受けとめて、真那は穏やかな声で言った。
「苦しい最期であられましたが、天の神はあの苦しみを見ておられました。いま、神はその御手に御夫君を抱き、よく頑張った、よく生きた、と御認めになって、天上で安らぎへと導いておられます」
 微塵の揺らぎもない言い方だった。それを聞くや、妻子の目に涙が盛り上がった。
 真那は静かな声で続けた。
「おつらいでしょう。しかし、頑張って、よく生きてください。神は見ておられます。神に与えられた、この地上でのいっときの生、見事に生き遂げれば、やがて、天上にて、御夫君と、いま一度抱き合うときが訪れます。それまでの辛抱です。どうか、よく生きてください」
 妻子が声をあげて泣き始めた。その泣き声は、しかし、さっきまでとは違う、どこか、解き放たれたような、ほっとしたものを感じさせる泣き方だった。
 ミラルが茫然と、その様子をながめている。
 マコウカンは、わずかに腰をかがめて妻子を慰めている真那を見ながら、
(祭司医は、やはり医術師というよりは、神に仕える者なのだな)
と思った。
 人の力では及ばぬところへ来たときは、祭司医の方が、人を救えるのかもしれない。そんな思いが、ふと心によぎった。
 ・・・


ミラルというのは医術師、すなわち科学者です。真那はいうまでもないでしょう。

人がひとり死んでしまった。人間の力(科学)が及ばなかった。
しかし、その遺族には「何らかの力」が及んで、遺族の何か変わった。
「何らかの力」は、あきらかに宗教の力です。
では、遺族の「何」が変わったのか。

人間が
価値 ⇒ 認知 ⇒ 欲望 ⇒ 物語 ⇒ 観念

という順序で何ごとかを考えるとしたら、どこで何が変わったか。

遺族にとって、死んだ人であっても「価値」は変わらないはずです。
「認知」は、身体の機能ですから変わりません。
「欲望」も変わりません。大切な人が死んでいようが生きていようが、「大切さ」に変わりはない。

変わったのは「物語」です。
「大切な人が生を全うする物語」から「大切な人が生を全うした物語」に、遺族の心の中の「物語」が変わった。そのことによって、亡き人への「思い(観念)」も変わった。
宗教の力で変わりました。

すなわち、「物語」を再編集することが宗教の目的です。
となると、宗教が宗教たる宗教性とは「物語性」ということになります。
先の問いに答えると、人間の認知の過程の「物語」の部分に何らかの作用を及ぼすものが宗教として感じられる、という結論になります。


・「編集の自由」が人間にはある

宗教が宗教たる宗教性は「物語性」にあります。人間が認知そのものを欲望することによって紡ぎ出す「物語」が宗教性の鍵です。となると、宗教とは、人間の物語性を再編集するための物語、ということになるでしょう。

鷹匠の妻子は宗教によって「大切な人が生を全うする物語」から「大切な人が生を全うした物語」へと「物語」を再編集した。その宗教には宗教独自の「物語」があって、その上に観念であるところの「神」がある。神の物語である神話、宗教の教義や儀礼も「物語」であり、宗教施設や組織は「物語」を支えるための「装置」です。

宗教に仕える祭司もまた「装置」です。上の物語に出てくる真那は、「装置」としての役割を見事果たした言えるでしょう。宗教の「物語」が彼の「物語」になっていたからです。だから逆に、彼はその「物語」を堅持しようとします。彼の「物語」、すなわち宗教の「物語」が揺らいでしまうと、他の者の「物語」を再編集する力を振るうことができなくなってしまいますから。


さて、やっとアドラーに辿り着きました。

『幸せになる勇気』の帯には、「人生を再選択せよ!!」という言葉が踊っています。しかしこれは、冷静に考えると変な言葉です。人生は選択できるものはありません。
言葉足らずなんですね。何か言葉を補えば、きちんと意味が通るようになります。

では、どのような言葉を補えばよいか。
そう、「物語」です。

   人生の物語を再選択せよ!!

かなり意味が通るようになってきました。が、まだ違和感があります。
「物語の再選択」といっても、人生において、全く別の物語をあれか、これか、と選べるわけではない。全く別の物語を選ぶというのは、別人になるというのに等しい。物語を構成する要素、すなわち「経験」は再選択不可能です。ならば、正しい言葉としては、「選択」より「編集」でしょう。

   人生の物語を再編集せよ!!

アドラーの目的はこれにつきると思います。そして、物語を再編集する行為には「勇気」が必要だということです。


・アドラーとゴーダマ・ブッダの共通点と相違点

宗教が人間の「物語」するものだとすると、アドラーは立派に宗教です。といって、一般の宗教ほど宗教臭くはない。むしろ哲学臭が強い。その理由は、「物語」を編集するための「物語」を持たないことにあります。

いわゆる宗教と哲学の違いは何か。
「物語」の編集権が誰の手にあるか、ということです。
宗教では「神」に、哲学では「人間」にその編集権があります。
自身の「物語」を自身で編集する。そのための方法論がアドラーの心理学なんです。

アドラー心理学が目的とするところは、人生の物語の再編集ですから、宗教です。
一方、その方法論は「物語」に頼らない、哲学的なもの。
つまり、アドラー心理学は、哲学的な宗教だと言えます。

哲学的な宗教であるという特徴は、ゴーダマ・ブッダと似通っていますね。


アドラーが目的とするところはシンプルです。
「自分自身を嫌いな物語」を「自分自身を好きな物語」へと再編集すること。

そのシンプルさを支えている方法もシンプル。

「かわいそうな私」
「悪いのはあなた」
「これからどうするか」

人それぞれ多種多様なはずの「物語」をこの3つに収斂させてしまいます。

「かわいそうな私」「悪いのはあなた」。この2つはどちらも「自分自身を嫌いな物語」です。「嫌いな物語」の受容を促し、「これからどうするか」と問いかけることで、「自分自身を好きな物語」を引き出そうとします。

価値 ⇒ 認知 ⇒ 欲望 ⇒ 物語 ⇒ 観念


この流れでいうならば、「かわいそうな私」「悪いのはあなた」のどちらも「観念」です。自己嫌悪という名の観念。その「観念」を支えている「物語」がある。

『幸せになる勇気』では、犬に噛まれた経験という例を取り上げています。

「自己嫌悪な観念」のもとでは、犬の噛まれたという不快な経験しか思い出しません。その後に、大人に助けてもらって慰めてもらったという体験もしているのに、そのことは「観念」に合わせて都合よく隠蔽してしまいます。

こういった現象は事実であろうと信頼できます。というのも、アドラー心理学は、エビデンスをもとに仮説を組み上げる科学でもあるわけですから。

そうした現象が広く観察されるのであれば、もとから人間は「物語」を編集しているということになります。アドラーの入口である目的論は、科学的にいうのであれば、「そもそも人間は「物語」を編集する生き物である」という事実をもとに組み立てられた仮説、ということができるはずです。

そもそも人間が「物語」を編集する生き物であるなら、再編集することだってできる。
そもそも人間が「物語」を編集する生き物であるという仮説が成立するなら、「物語」を再編集することができるだろうという仮説を組み立てることもできる。

ここがアドラーのキモであり、ぎりぎり人間的なところです。
つまり、これ以上行ってしまうと人間的ではなくなってしまいます。
そして、それを行ったのが、ゴーダマ・ブッダです。


自己否定的な「観念」がある。
自己否定的な「物語」がある。

この2点は、アドラーもゴーダマ・ブッダも認めました。
アドラーとブッダを分けたのはこの先、「欲望」です。
アドラーは「欲望」を否定的に捉えなかった。ブッダは煩悩だとして否定的に捉えた。

この次元での「欲望」は、生理的欲求との境も曖昧な根源的な部分です。人間は誰でも自分自身を愛したいという欲望を抱えている。なのに、体験から組み立てられる物語は、自己否定的なものになってしまっている。

ハラスメントとは、「欲望」と「物語」の“逆接”だと定義していいのかもしれません。

アドラーは“逆接”を“順接”に組み直そうとした。
ゴーダマ・ブッダは「逆接」のまま進み、「欲望」を否定した。
「欲望」の否定はもはや〈生〉そのものの否定になってしまいます。

深さで言えば、ゴーダマ・ブッダは深い。ただしそれは、ハラスメントの深さでもあります。



〈生〉の否定に至ったゴーダマ・ブッダが、その方法論として「出家」、つまり〈社会〉の否定に至ったことは、自然なことです。〈社会〉は〈社会〉で肯定の論理が働きますから、社会を肯定するわけにはいきません。

アドラーは、哲学的手法を駆使する宗教ですが、対象はあくまで「個人」です。〈社会〉についてはノータッチ。もちろん〈生〉に対してはぎりぎり肯定。ぎりぎりということは、根源的ということでもあります。

「共同体感覚」ということになると、〈社会〉の肯定へ一歩足を踏み出していくことになります。ただ、そのための方法論をアドラーは提示していません。なので、現実的には、やはりノータッチという評価でいいだろうと思います。


コメント

State Of The Nation

そもそも生物の認知機能(各種および各個体に所与の諸感覚能)とは至極目の粗いもので、欲望はその目の粗い認知機能にただただ依存しているわけですから、価値も事物における本質を捉えられないまま仮構的に顕れるに過ぎないのですね。

私はゴキブリという生物が別に嫌いではなく、部屋の中に現れたら素手で捕まえてそのまま戸外にリリースしていますが、私は個体であるゴキブリの本質を認知するに足る感覚機能を持っていない。故に好き・嫌いという価値判断も十全たる認知に則ったものでなく仮構的なものであると当然の如くに感じます。
素手で捕まえてみればわかりますが、ゴキブリは温和な生物なので例えば肉食性の強いフタホシコオロギのように噛みついてくることもなく、マツモムシのようにバンバン刺してくることもありません。「不衛生」「病原性の菌・ウイルスを媒介」とも言われますが、私には個体としてのゴキブリにどのような菌がどれだけ付着しているかを視ることの出来る感覚能はありません。
故に衛生という相においても本質を認知しているわけではない。
ゴキブリをリリースした後に石鹸で手を洗うのは、記憶野にストックされた物語を引き出しているに過ぎません。事物そのものからダイレクトに感受した情報に従って手洗いしているのではありません。

そんなの、ロジックを頭の中で組まないとわからないものなのでしょうかね。
感覚的にわかるものじゃないのですか。

それと、根本的に解らないことが一つ。
私は自分(という奇妙でよく解らない生物)を結構気に入っていますが、それってそんなに大事なことなんでしょうか。
縷々前述したように、私が捉えることの出来る私という存在とは、所詮目の粗い感覚能から構成される実相とはほど遠い何かに過ぎないですよ。エクステリアとインテリアとエンジンルームだけを見て「このクルマ格好いい」とか「格好悪い」とか言うのと大差ないでしょう。
十全たり得ぬ感覚能・認知から生ずる「私が好き」「私が嫌い」なんてどうでも良い問題ではないのですか。
余人はこういうことで苦しんでいるのですか?
私は私が好きですが、生物の個体としては一匹のゴキブリと大差ないどうでも良い生き物だと思っています。

ひょっとして、愚慫さんは自分が好きじゃないのですか?

Perfume Garden

私が自分を好きなのは、例えば路上で拾ったカブトムシ(♂)を腕に乗せたら交尾器を出して私の腕と交尾しようとしたり、やはり路上をよたよた歩いているアブラゼミの幼虫を(バカだなあ、踏まれて死ぬぞ)と指に止まらせたらそのまま羽化を始めたり、戸外でパンを食っていたら野鳥が近くに飛んできて頻りに囀るので「食べるか?」と掌にパンの欠片を載せて差し出したら掌の上からついばんで食べたり、屋内のハエトリグモに手を差し伸べたら指先から腕をピョンピョン跳ねて渡ったりするのを見て、彼(女)らには私自身には感受し得ない私が見えて(感じられて)いて、その私自身には認識不能な私をどうやら肯定しているらしいのが何となく解るからです。

山川草木悉皆成仏みたいな観念には特に関心はありません。否定も肯定もしないし、言ってみればどうでもいい。私には関係ない。

ただ、他の生物を通して、私が自身の認識とは異なるレベルの存在「でもある・でもあり得る」という知らせのようなものを受け取ると、そのわけの解らなさや了解不能性が面白いのですね。だから自分が面白いし好きでもある。
所詮、他人にとってはどうでも良い類のつまらない話ですけれどね。自分が面白ければそれで良いんです。

・残酷さに慣れる訓練さん

生きとし生けるもの、すべて自分自身のことが好きですよ。

残酷さに慣れる訓練さんには、それが見えないんですか?
それとも見ようとしていない?

Angel, Devil, Man and Beast

>愚慫さん
>生きとし生けるもの、すべて自分自身のことが好きですよ

私にはそういったことは解りません。特に興味もないです。
私が「体質的に感じる」のは、自分が育てている植物や、コツコツ集めている鉱物、かつて育ててきた諸々の生物等々と接してきた中で、啓示のように訪れるもののみです。
生物なり無生物なりには真の姿があり…「好き」「嫌い」といったバイアスの介入する現象世界はその影のようなものだという啓示。
でもそれは誰かに教わったものではない。体質の問題ですから。体質的に感じることが真理であるかどうかも、どうでも良いです。自分にとってあるものはあるのだから、受け入れるだけのことですよ。

本エントリのコメントは、愚慫さんを知るために打った探針音です。
私は異形の者に興味がある。愚慫さんは私とまったく異なるタイプであり、紛れもない異形の者ですよ。
愚慫さんの論考は私にとっては精密に組み立てられた模型です。私には到底作れない類の。
模型そのものより、そういう模型をせっせと組み立てる異形の「動機」に興味があるんです。
何故「この方」はかかる世界観の記述を必要とするのか、という動機に。

横から失礼します

ワタシには残酷さに慣れる訓練さんもかなり異形の者だと思います。
ワタシは私自身に対し異形の者が好きなのだろうと感じています。
ワタシの場合は好きなときの興味と、嫌いなときの興味が若干違います。この辺りの私は普通多数の者であり、残酷さに慣れる訓練さんの域とは異なります。
残酷さに慣れる訓練さんに質問に対して愚慫さんのレスには興味があります。
ワタシの予想では愚慫さんもやはり「動機」ではなく「体質」、なんですが、違っていたら楽しいです。という意味で興味です。これは好きな時の興味であることは言うまでもありません。

世界には普遍の真理というものがあるらしい。

もし本当にあるとするならば、それが普遍の真理であるかどうかを敢えて問う必要はない。
個別的に真理にたどり着けば、それが真理である限り普遍的であるはずだからです。

上のコメントでは、残酷さに慣れる訓練さんを挑発的してみました。
残酷さに慣れる訓練さんの言い方に倣えば「探針音」です。
挑発には下地はあって、以前、ご自身を健常発達者だと任じていたので。
健常発達者であれば、わかるだろう、と。


「好き」あるいは「嫌い」とシニフィエが指し示す観念か情動が欲望かはわかりませんが、、とにかくシニフィアンは、個別の真理ですが、それが真理ならば、普遍的でもあるでしょう。

僕がそういった真理を必要とするのは、体質的に「好き」「嫌い」ということをあまりよく感じられない人間だからです。なので、こうやって論理で補強する必要があります。

そうやってみることでわかってきたことがあります。それは、論理補強が僕にとっては具合がいい、ということです。体質的に「好き」「嫌い」が足りないところと、論理的に過剰な部分がうまく補い合ってくれるのでしょう。

さらに言えば「具合がいい」ことは「快い」ことだし「好き」なことです。

このレベルでの「好き」は、論理で補強される前の「好き」と、原理的にはおそらく同じ。だけど、個別から普遍へと一歩、レベルアップしているとは思っています。


「生きとし生けるもの、すべてじぶんのことが好き」というのは、個別レベルで「すき」なのはもちろんのこと、普遍レベルにおいても「好き」という観念だか情念だかメカニズムだかが働いている。そういういったことを言っているのだと、僕は解釈しています。

それでいうならば、残酷さに慣れる訓練さんも、個別レベルではともかく、一歩普遍に近づいたレベルにおいては「自分自身を好き」なんだろうと思いますし、「体質的に受け入れている」ということは、そういうことなんだろうというのが僕の理解です。


余計なところかもしれませんが――、

なぜ残酷さに慣れる訓練さんが「残酷さに慣れる訓練」と名乗るのか、という問いを以前から抱いています。この名乗りには、「嫌いなもの」を受け入れようとする趣があります。自分を嫌いでいようという方向へのベクトルを感じる。そのベクトルと残酷さに慣れる訓練さんの探針“音”のベクトルは一致しているようにも思えます。けれど、答え全体には「自分自身を好き」というベクトルがある。

この齟齬はどこから来るのだろう、と僕は興味を抱いています。
「それとも見ようとしないのか?」
という問いかけが出てしまったのは、根っこにそうした興味があったから、です。

毒多さん

僕の残酷さに耐える訓練さんへの答え(前半は特に残酷さに耐える訓練さんだけにむけたつもりではないのですが)、「体質」だったでしょうか「動機」だったでしょうか?

感じたところをお聞かせ願えれば。

Touched by the Hand of God

>毒多さん&愚慫さん

論語によれば「孔先生は語りえぬものについては話すことはなかった」と子貢が言ったそうです。
これを“語りえぬものについては語らない”と記述すると大きく意味が変わります。
記述すること自体が語りだからです。既に語ってしまっています。
記述から内容を排除・消去することは出来ません。内容を排除・消去すればそれは呻き声のような何かにしかならないでしょう。

記述には常に記述の内容を固定的に見せてしまう宿命もあります。
「コップ」と記述すればそれは常に「コップ」です。漸次的に指示内容が犬や五寸釘に置き換わることはない。それが記述のルールです。
「非在」「無」これらが一旦記述されれば語が捉えようとしているはずの非在や無は概念としての実在性を避けがたく固定的に帯びてしまいます。

「好き」「嫌い」という記述もです。
twitterで面白い呟きを見つけました。tweetしているのは女性で、大好きな彼氏と川へ遊びに行ったそうです。
川から彼氏が上がってきたら海パンに田螺が付いていて、それを見た瞬間彼氏が嫌いになったと。
(大好きな)彼氏に蠅が止まったのを見た途端に、彼が嫌いになったという呟きも見かけました。
好き/嫌いと記述されるとリジッドな感情に見えるけれども、実際は炎がその形を刻々変化させるように、感情それ自体は不定形で揺らめくものです。容易く極端から極端へ移相することもあります。
私は彼女たちの言っていることがとても良く解るのです。解り過ぎるくらいに解ります。

愚慫さんが「好き」「嫌い」という言葉を異なった体感の相で使っていることは理解しているつもりです。
しかし、記述としては同一になってしまう。そして記述された語の含意するニュアンスは受け手次第でどうしても変わってしまいます。

個人の「好き」「嫌い」も突き詰めれば語りえないものに突き当たると私は感じます。
私は自分の好きなものについて記述することは出来ます。でもその記述自体は私の「好き」ではあり得ない。「嫌い」もまた同じ。
さらに、事物を記述しようとすれば時に多くのものが零れ落ちてしまいます。個人の神秘体験などはその典型です。反証不能で再現性もなく、ノイズにしかならない。

普遍とはそういう個別の反証不能なノイズを捨象して初めて成り立つものでしょう。

自身の「自分を好き」をもっと感覚に寄せた言葉に置き換えると“Touched by the Hand of God”になるのかな(まあ、コレNew Orderの曲名なんですけど)。
そういう感覚があります。と言っても創唱宗教を信じているわけでもなく、カミが何を考えているのかも解らないんですけどね。私は普遍から零れ落ちてしまうものの方へ傾斜する資質があって、それ故に記述された「好き」「嫌い」に嵌ることを避ける方向性があるのかもしれません。
愚慫さんには普遍を見つけ出そうとする心性があるようです。基本は記述する側、好むと好まざるとに関わらず捨象する側という印象です。

挑発については、私は特にネットでは挑発には乗りません。挑発もしません。
「探針音」というのは潜水艦が海中で他の艦を定位する時のイメージから借用しました。海中では他艦の姿は見えません。探針音を打てば他艦を定位できますが、代わりに自艦の位置も相手に知れてしまいます。ネットでの対話って、ある程度踏み込もうとすると潜水艦的でしょう?
幼児期は同世代と付き合うよりも感情表出と言動が秩序だっている成人とコミュニケーションする方が楽だったので、定型発達者だと思いますよ。幼児は自分の感情表出の意味を自分で理解していない子が多いので、扱いに困ることが多かったです。また成人は打算・建前で嘘をつくけれど、幼児はその場の思い付きとか願望を虚言として表すので、却って面倒です。下手をすると幼児は嘘を事実であると自分自身に信じ込ませてしまいますし。
ハンドルネームは、カミ/悪魔の存在を仮定した上で、そういった超越的な創造者に向けた皮肉以上のものではないですよ。

普遍の真理なるものがあるとして。
それはそもそも「語りえぬもの」だろうと思っています。

「語りえぬもの」であると思いつつも、なお語ろうとする。
それは単に「語ること」が好きだからです。
もしかしたら、「語る」ための口実として普遍の真理が要請されているのかもしれませんね。


普遍が「語りえぬもの」であるという見方からすれば、反証性のみを採用しあとはノイズと切り捨てる態度は、悪い意味での宗教に映ります。まあ「科学教」ですね。

「普遍」と「共通」とを取り違えているのだと僕は考えます。
「普遍」は「特殊」と対義語を為しているとされますが、「普遍」から「特殊」を取り除くと、もはや「普遍」ではなくなりますよね。ですから「普遍」のなかには「特殊」も包摂されます。ノイズもまた普遍の一部。

というより、人間はノイズのなかから普遍を見出す能力を持っているようです。
科学の世界ではノイズから普遍を見出す認知モデルによって人工知能を作ろうとする試みが進んでいます。この試みは成功を収めて、シンギュラリティということが議論されるようになってきていますね。

孔子は、人間の認知のあり方をよく識っていたと思います。

  知之為知之、不知為不知。是知也

と言ったのだと思っています。

 知/不知 ⇒ 知

というダイナミックな知の作動。
ソクラテス流に言えば無知の知。
愚慫流に表記すれば〈知〉になります。
普遍もまた〈普遍〉ですし、〈好き〉もそう。
また孔子なら〈好き〉を〈仁〉と言ったかもしれません。

孔子のこの姿勢からすると、「語りえぬものは語らない」という態度は当然です。

 知/不知 ⇒ 知

というダイナミックな運動が示しているのは、「語るもの」「語りたいもの」がイコール「語ることができるもの」だからです。


また孔子が「不語怪力乱神」と言ったことと「知之為知之、不知為不知。是知也」と言ったことは対を為しています。というより、同じことを正反対の視座から表現したに過ぎません。
「怪力乱神」とは、〈知〉のダイナミックな運動を止めてしまうものです。
僕なら【知】と書き表すもの。
「語らないもの」「語りたくないもの」が「語りえないもの」です。

残酷さに慣れる訓練さんのいう「ノイズ」は、孔子に言うところの「怪力乱神」に当たりますね。


以上のような見方からすれば、「普遍からこぼれ落ちるものを見る資質」というのもまた「普遍を見ようとする資質」に他なりません。「普遍」という言葉に込められた(この場合は残酷さに慣れる訓練さんの)意味の裏側を行くというだけのこと。しかし、普遍は〈普遍〉であり、

 普遍/特殊 ⇒ 普遍

というダイナミックな構造を持っていますから、普遍の裏もまた普遍です。

「好き」を【好き】だと解釈するのも、普遍を【普遍】だと解釈するのも、それはその人の自由です。しかし、そのような自由を主張する人が、〈好き〉や〈普遍〉を語りたい僕のような人間と対話をしたいと欲することが、不思議なこと。矛盾することです。

交わらないはずですから。
交わらないのに交わろうとしているということは、僕に表現させれば

 交わる/交わらない ⇒ 交わる

というダイナミックな〈知〉を行っているに他ならず、それは〈普遍〉であり〈好き〉だということになります。

この理論は強力です。語りたい者に認知されるものを全て取り込んでしまいます。
取り込まれるのを避けたいのなら、自身を怪力乱神だと認定して、語ることが出来る範囲の外へ行くしかありません。

まあ、なんですねぇ...

孔子が本当に「語りえぬもの」は語らなかったのなら、孔子はいわゆる「コミュ障」だったろうと推測が出来ます。

コミュニケーションとは、コミュニケーションすることが自体が目的であって、何かを「語ろう」とする目的をもって為すものではありませんからね。
孔子のコミュニケーションが常に「語ること」、すなわち、何らかの目的を持ったものであったとするなら、そのコミュニケーションはコミュニケーションのそもそもの目的からは外れているということになります。

通常のコミュニケーションには「語りえぬもの」はふつうに語られますし、「語りえぬもの語ること」は、コミュニケーションを阻害しないどころか、コミュニケーションの活性剤になります。

それを一切しなかったというのは、そのように自身を戒めたのか、体質的に出来なかったか、どちらかでしょう。後者だとすれば、現代なら高機能自閉症と診断されるでしょうね。

Hunter Not the Hunted

>「怪力乱神」とは、〈知〉のダイナミックな運動を止めてしまうものです。
僕なら【知】と書き表すもの。
「語らないもの」「語りたくないもの」が「語りえないもの」です。

普遍を志向する性質が前提として/意識的にあり、普遍について記述する上で必ず要請される体系化を念頭に置き「語りえないもの」を保全しつつ(命脈を保ちつつ)、その中から「〈知〉のダイナミックな運動を止めてしまうもの」を切り離す作業を行っていると考えてよいのでしょうか。
それともアプリオリに「〈知〉のダイナミックな運動を止めてしまうもの」に対する認知があり、そこから逆算しての「語りえないもの」の措定であるのか。愚慫さんにとってその辺はどうなのですか。
いずれにせよ、「〈知〉のダイナミックな運動を止めてしまうもの」を「怪力乱神」に割り当てたのは立論としてとても練れていると思います。そもそも怪力乱神はそういった運動とは遊離したところにあるものですし。

私自身の身体感覚では「語りえないもの」「怪力乱神」は相互に侵食し合っているというイメージです。
明瞭な切れ目がなく未分化な状態で混ざっている。

ちょっと思い出したエピソードを引きます。
大川興業の大川豊さんのところにファンか知人か、ある女性がやってきてこう言ったそうです。
「部屋の押し入れから蟹が這い出てくる」
飴屋法水さんは自分の部屋からハムスターがいなくなって、後日他の部屋の住人が「押し入れから出てきました」とハムスターを届けてくれたそうですが、当該の女性のケースは蟹が他の部屋から来訪したのではなさそうです。
で、大川さんは女性にこういったそうです。
「蟹が押し入れから出てきて、何か困ることがあるのか」
女性は「……ありません」と。
後日、女性がまた大川さんのもとを訪れて、こう言いました。
「蟹は、出て来なくなりました」

愚慫さんはこのエピソードを「語りえないもの」の枠で捉えるかも知れませんね。
私の中では半分くらいが「怪力乱神」の中に溶けている。普遍の領域から滲み出している感覚がある。
大川さんはとても賢明な方にも見えるし、憑き物落としにも見える。

私が愚慫さんと時折対話するのは「怪力乱神」側からの要請とも言えるかもしれません。こういう表現は愚慫さんには解りにくいかもですね。

>コミュニケーションとは、コミュニケーションすることが自体が目的であって

コミュニケーションって、なんだかよく解らないものですよね。
幼児~小児期には既に、子供って大人の嘘を割と簡単に見抜くじゃないですか。大人が相手は子供だと思って本気で騙しにかからないからというのもあるでしょうが、表情や声のトーンと言語の内容のズレみたいなものを感受する。大人は子供に悪意を持って嘘をつくのでなく、大概は事情があってするのであり子供自身の生存に影響するものではないのだけれど、でも何となく解るでしょう。
だから私は幼児~小児に嘘はつかない。
でもって、嘘が解るというのは(自覚的に)解ろうとして解るのではなく、勝手にそうなる。嘘が解った時には既に自動的にコミュニケーション(受取だけですが)が完了している。子供の側から見て。
現在公開中の『エクス・マキナ』という映画を観に行ったら、ちょうどシンギュラリティが題材で、AIを搭載した人造人間が人間と虚々実々の掛け合いをするのですけれど、機械には人間(生物全般)と異なり合目的性があるじゃないですか。
故に合目的性に立脚したコミュニケーションの戦略・戦術を構築可能です。
でも人間は違う。生存戦略上嘘を見分ける能力は重要だけれど、リソースの消費量も多い。身体を駆動する能力が未発達な年齢で、既に嘘を見分ける能力が発動しているのは随分バランスが悪い気もします。そのくせ自分が何で不機嫌なのかも解らなかったりするから余計奇妙なんですけどね。全くもって不可解です。

・残酷さに慣れる訓練さん

『仏教思想のゼロポイント』は、ほんとにいろいろな示唆を与えてくれました。「怪力乱神」というのは「我」です。肥大した「我」が怪力乱神なのです。つまり、〈知〉のダイナミズムを止めてしまうのは【我】に他なりません。

ゴータマ・ブッダは【我】が漏れて〈知〉のダイナミズムを止めてしまうことを「有漏」と言ったのだと思います。「無我」になるとダイナミズムを止めてしまうものがなくなる。それが「無漏」であり「涅槃」です。

ダイナミズムを止めてしまうものを認知する働きは、おそらく理性の働きです。理性もまたダイナミックな運動です。理性のダイナミックの運動は、自省へ向かいます。

知性も理性も、どちらも元から人間に備わったものだと考えて良いと思います。その働きを活性化させていくと、ダイナミズムというものが明確に把握できるようになってきて、そうするとダイナミズムを止めるものを認識できるようになってくる。

そういうことをおそらくは「成熟」といるのだろうと思います。


ずいぶん偉そうなこと言っています。そう自覚しますが、僕に成熟の自覚があることは偽らざるところです。

残酷さになれる訓練さんはもしかしたら、どこかで成熟を拒絶しているのかもしれませんね。

・残酷さに慣れる訓練さん、コメントを分けますね。

ご紹介いただいたエピソードですけれど、このお話しも僕にとっては「語りうるもの」です。
なによりこの話は、本文で取り上げた「物語の再編集」そのものです。

>「蟹が押し入れから出てきて、何か困ることがあるのか」
>女性は「……ありません」と。

「蟹」が何を意味しているのかはわかりません。ここは「語りえぬもの」です。
大川さんは「語りえぬもの」は「語りえぬもの」として扱って、「語り得るもの」を語ったんだと解釈できます。すなわち

「何か困ることがあるのか」

と。その問いが発せられるまで、「蟹」は女性にとっては

 かわいそうな私
 悪いのはあなた

を象徴する記号だったのでしょう。その記号の意味するところ(シニフィアン)は不問に付して、「蟹」というシニフィエだけを問題にして、「何か困るのか」と問うた。そのことで、おそらくは女性の中でゲシュタルト崩壊が起ったのだろうと思います。女性の内面の物語と「蟹」との繋がりが断たれた、あるいは関係性が変化した。それで女性にとって「蟹」はもはや必要でなくなり、以後、登場しなくなった――。

大川さんの女性への接し方は「無漏」だと感じます。「何が困るのか」と素直に問うているだけですし。これがもし下手に知識があったりして「蟹は何を意味するのか」などと解明しようとしたら、そうはいかなかったでしょう。

「解明しようとする」のは「欲」であり「有漏」です。

「生存戦略」というのは、まあ、なんと言いますか、方便なんだろうと思います。
人間を含めた生物の行動を、合目的的に解釈しようとして出てきた答えが「生存戦略」であって、別に生物が生存戦略を念頭に置いて生きているわけではありませんよね。生物はそれぞれ「ただ生きているだけ。」

これも「有漏」「無漏」の話につながりますが、【我】のある人間はどうしても合目的的でないといられない。AIを作ろうというのも「欲」があってのことですから、作り出したAIが合目的的であることは原理上避けがたい。人間が作る以上、そういうものしか作れない。

ただ、もし、AIがAIを作るようになったら、事情は違ってくるかもしれません。AIがAIを作る、つまりAIが自生的秩序を形成し始めるというのが「シンギュラリティ」の意味ですが、そうしたブレイク・スルーのあとの人工知能はもはや「人工」とは呼べない。それらが合目的性に沿ったものかどうかは疑問です。

しかし人間は「欲」という合目的性から離れられないので、シンギュラリティを非常に恐れます。そうなったらなったで、人間が怯えてつまらない行動をとりさえしなれば、案外平和な世界になるような気がするんですけれどね。


残酷さに慣れる訓練さんの仰る子どもの不可解さも、仮に合目的性を当てはめてみると、納得がいくのではないでしょうか。子どもは身体が未発達だからこそ、つまり大人の比護が必要であるからこそ、嘘を見抜く能力に長けている。いや、これは言い方が逆で、自分を庇護してくれる大人を嗅ぎ分ける。犬や猫のように。

それはおそらく、ヒトが社会を作る種として生まれてきた本能であり生存戦略の一環なのだ、と。それが生育して自分の子孫を残せるようになると、自分を庇護してくれる者を見分ける能力は必ずしも必要ではなくなります。なので、その時々の合目的性に応じて、必要でない能力は退化する。別の言い方をすればリソースを割かなくなる。

以上、話としてはスジは通ると思いますが、どこかウソっぽいといえばウソっぽいですよね。

Get The Message

>「怪力乱神」というのは「我」です。肥大した「我」が怪力乱神なのです。つまり、〈知〉のダイナミズムを止めてしまうのは【我】に他なりません

単純な疑問です(テキストのみのやり取りだと、こう断りを入れないと「挑発」と取られかねないので)。
例えばタンザニアのマコンデ族には、黒檀を彫って、夢に登場する悪霊を彫像にする風習があるのです。
悪霊の像を「シェターニ」と呼びます。マコンデ族はシェターニを太陽が出ている時間帯にのみ彫ります。
日が沈むと悪霊たちの時間になるから。

夢に出てくる悪霊をそのまま彫琢する(自ら想像した悪霊を彫ることはしない)行為は、愚慫さんの規定する知のダイナミズムとは経路が根本的に異なり、まさに「怪力乱神」を記述する行為に他ならないでしょう。
愚慫さんにとっては、マコンデ族は我が肥大していると定義されるのでしょうか。

Possession

蟹が押し入れから出てくる女性についての愚慫さんの解釈は、心理学的なアプローチによるものですよね。
ゲシュタルト崩壊という術語に端的に表れているように。

個人的にこの話が非常に印象に残っているのは、当該のエピソードが大川豊さん自身の回想なのか大川興業のメンバーによる聞き書きなのかが記憶にないのですけれども、何故「何か困ることがあるのか」と問いを発したのかの説明が一切無いところです。大川豊さんの心象が一切描かれていない。女性の心象も描かれていない。

だからこそ、読み手の思想というか解釈が丸ごと浮き上がって来るんです。

>「何が困るのか」と素直に問うているだけです
この「読み」は私には全く無かったです。

>大川さんはとても賢明な方にも見えるし、憑き物落としにも見える
ご覧の通りです。私は解釈を放棄しています。
そもそも私の視点から見て「部屋の押し入れから蟹が出て来る」と語ることそのものが怪力乱神を語る行為であり、エピソード中の「押し入れから現れる蟹」は現象として理解不能な故にどうにも怪力乱神に見えてしまいます。精神医学的な解釈は可能ですが、それは私の体感とは異なります。

正味の話、見えるものは見えるんですから。

愚慫さんの解釈だと、解釈の放棄&理解不能なものに対して判断を留保することは我が肥大しているということになりましょうか。いや、解釈を放棄しているのだから怪力乱神については語らないとなるのか?
でも、見えるものは見えるというスタンスは、完全に怪力乱神を受け入れる側の筈ですよね。

・残酷さに耐える訓練さん

面白いですねぇ^^; 確かに挑発と受けてしまう可能性はあります。
大川豊さんではありませんが、それで何が困るのでしょう?

コメント一読して思ったのは、同じ「怪力乱神」という言葉であっても、文脈が違っているなぁということです。

同じ言葉をテコにして文脈を変えるのは、コミュニケーションそれ自体を目的とするコミュニケーションを続ける際に活用されるテクニックですよね。意味のない(コミュニケーションを目的とする)コミュニケーションが得意なJ(C,K,D)ふうに書けば

 「怪力乱神っていえばさぁ~、、」

という具合。これでは挑発にはなりませんね。いや、なることもあるか。


夢に出てくる悪霊をそのまま彫琢する行為はダイナミズムだと思います。彫琢という行為を〈自己対話〉だと解釈すればですが。
しかし、塑像ができあがって、それを拝むようになると対話は止まってダイナミズムは停止してしまうと考えられます。

孔子は自身で「怪力乱神」を掘ったりはしなかったでしょう。できあがった「怪力乱神」を、語るに値しないものだとしたのだろうと考えたのだろうと思います。

もっとも孔子が彫刻をする人であったなら、もしくは現代人がするように、その「怪力乱神」をアートとして鑑賞する視点をもては、そこに「語りたいもの」は生まれてくるでしょうね。

怪力乱神を「受け入れる」ということと「語る」「語らない」というのは、違ったベクトルですよね。

「語る」ことによって「受け入れる」場合もあれば、
「語らない」ことによって「受け入れる」場合もある。
「語る」ことで「受け入れない」場合もあれば、
「語らない」ことで「受け入れない」場合もある。

僕が大川さんを素直だと表したのは、「蟹」については「語らない」ことで「受け入れた」ように見えるからです。

解釈という行為を考えてみれば、上で示したように、解釈を為す者のなかに予め「型」が存在して、そこへ当てはめようとする行為だと言えると思います。

では解釈そのものが【我】かというと、そうではないと思います。解釈自体は「知」的行為ですから、〈知〉的にも【知】的にもなり得えます。

どのような「型」を用意できるかは、解釈を為す者の「知」的能力によるでしょう。自分が見たとおりに「型」への当てはめを行うならば〈知〉的でしょうし、誘導したい「型」があっての当てはめならば【知】的になる。

【知】的であると解釈が完了した時点でダイナミズムが止りますよね。
〈知〉的であるならば止らない。というのも、実は「見る」ということ自体が再び掘り下げて解釈可能な行為だからです。「見る」ということが「そのように見たい」という【知】的行為です。

再びゴーダマ・ブッダの話に戻りますが、「漏」という時を用いるのは理由がまさにこれです。ある次元で〈知〉的行為を行っても、掘り下げるとまだまだ【知】の部分がある。〈知〉のなかに【知】の「漏れ」が見つかる。この「漏れ」を見つけることが

 知/不知 ⇒ 知

というダイナミズムなんですね。

そういう考え方からすると、「解釈を放棄している」といっても「見ている」ことには変わりはないわけですから、「解釈の放棄」は〈知〉的ダイナミズムを放棄しているように解釈できます。もちろん、この解釈には僕の【知】的な部分があります。


心理学的云々というのは、「解釈の「型」」の解釈ですよね。確かにそのような「型」の流用はしています。「流用」というのは「仮に」というような意味ですから、ここにはそれ以上の意味はありません。他の解釈の「型」を流用することも可能でしょうし、たまたまアドラーに触れていたので、当て嵌めただけです。


解釈の「型」を用いて〈知〉的な操作を行い、自身の【知】を発見する。その際のポイントは「語りえぬもの」と「語り得るもの」の嗅ぎ分けを行うことだと思います。

「蟹」については語りえない。
「何が困るの?」という問いかけについては語り得る。

「語りえないもの」を語ろうとしてしまうと、「語り得るもの」が純粋に語り得なくなってしまいます。そうなると自身の「漏れ」がどこにあるのかが見つけられなくなってしまいます。

Beyond My Control

やはり愚慫さんとの対話は面白いです。頭の良い人間と話すと人間について学習できます。

>それで何が困るのでしょう

蟹ならたかが知れていますが、相手が人間となると危険性が比較にならないでしょう。
愚慫さんが危険だとは感じていません。でも愚慫さんもやはり人間ですからね。
知らずに逆鱗に触れて逆恨みとか、最大限回避したいです。
嫌われるのは実生活で慣れていますしどうということはないものの、怨みを買うと厄介です。
人間は怨む生き物です。用心に越したことはありません。どんな些細なやり取りの場でも。

追記。
これは実生活の方の話ですけれども、全く面識のない相手から怨みを買ったことがあります。
当時住んでいたマンションの部屋に関してあることが起き、相手と対面しました。初めて見る顔でした。彼はにやにや笑っていましたが、眼に明瞭な悪意が浮かんでいました。
怖いとは思わなかった。ただ、直感的に厄介な相手だなと感じました。
その後、日が経つも何事も起きず私も彼のことを忘れていたころ、たまたまマンションの共有部分の清掃などに雇われている近所の中年女性と雑談中に妙な話を聞きました。
何階か上で出火騒ぎがあって警察が来たと。どうやら上階で他にも幾つか不審事があったと。
私は「彼」だなと、ピンと来ました。探りを入れたものの、女性はそれ以上のことを知らないようでした。
「彼」と対面したと書きましたが、彼はあることが起きた後、私の部屋を訪ねてきたのです。私はとぼけて「あること」には一切触れず「あなた何かしたんですか?」「何号室の方ですか」とのみ尋ねました。彼は質問には答えず、私の顔をにやにや眺めた後、去っていきました。

何故彼が何階も下の、面識もない私を選んだのかは判りません。ただ、対面した際の対応次第では私の部屋から出火していたかもしれません。

横から失礼しました

ダイナミック対話は一旦おちついたでしょうか?
横からはいったきり、感想を聞かれてもレスをしなかったので申し訳なく思っています。ただ、お二人の対話がオモシロすぎて、「横から」が雑音にしかならなさそうなので止めました。面白くはあるものの咀嚼しきれず、ちょっとワタシにはオーバースペックかな、と素直に思っています。
置いて行かれ気味なのを「横から」などと焦らず、認めて、落ち着くことにします。

・毒多さん

律儀にコメントを恐れ入ります。

咀嚼しきれずということですが、、、、
残酷さに耐える訓練さんへの言い回しを再び用いるなら、

 それで何が困るんですか?

まあ、困るとは思っていないでしょうが、なにか差し支えがあると思っておられるのでしょうねぇ...もしかして、失礼とか?

失礼は僕もやらかしますが...

ああ、「焦り」というのもありますね。
何を焦っておられるんだろう?

困っても焦ってもいませんよ。今は。
中途半端な横は余計だったな、と、反省しているだけです。

Sickness Divine

>毒多さん

面白いと言っていただけて率直に嬉しいですよ。まあ8割がたは愚慫さんの功績ですけれども。
何よりも耐え難いのは、つまらないと言われることです。
むかし、毒多さんはご自身のブログで、Armed Love Powerさんというコメンターに向かって「あなたのコメントは面白くないです」と仰ったでしょう。
あれを見て、私は自分がこれ言われたら即死だなと思いました。死刑宣告。

それとこの機会だから書きますが、私は自分をコメンターとしては「カプセル怪獣」だと思っています。
カプセル怪獣ってのは、子供の頃見ていた「ウルトラセブン」で、本命のセブンが登場するまでの前座を引き受ける怪獣です。
本命は毒多さんやアキラさんね。
カプセル怪獣は普段カプセルの中にいて運動不足だから、弱いんですよ。
私は変則型の邪道コメンターですしね。本来あまり目立つのは宜しくない。

余談。件のArmed Love Powerさん、twitterで36,000人くらいにフォローされていて(その代り同数分のフォローもしている)、他人のツイートを読んでいるのだろうかって印象だったのですけど、先日覗いたらアカウント凍結されていました。
何かやらかしたのかも。

残酷さに慣れる訓練さん

いくら気心知れた愚慫さんの庭といっても流石にエントリーと関係ない雑談は気が引けるのでここでは一度だけにします。レス不要です。
カプセル怪獣の例えにも笑いましたが、愚慫さんアキラさんに並べられるほどワタシは何も解ってはいません。でも、まあワタシなりにいろいろな形で継続するつもりですので、ウチでは過去にはいろいろあり迷惑もかけましたが「水に流す」ってのもありでしょ?、またいつかコメを頂ければ幸いです。
Armed Love Powerさんという方のことは忘れていました。一度ブログに戻って振り返ってみます。そのとき「面白くない」と言っても今なら面白いかもしれません。ただ、言葉遣いには気をつけたいと思います。まぁ、36000人もの営業が出来る方とは今も合わないかもしれませんが、、、

そもそもがコミュ障の僕としては、変則型の方がありがたいかも。

それに、コミュニケーションに邪道もなにもないでしょ。
対話ができさえすれば、それで万事OK。(^o^)

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