愚慫空論

『アムリタ』

「君が、どんどん変化していくのを見ていると、人間っていうものは本当に、いれものなんだ、と思うんだ。いれものなだけで、中身はどうにでもなるって。別人にもなるんだって。道を歩いている誰かと、基本的には何も変わらないんだ。運命の成り行きで、君はつぎつぎ新しいものを中に入れていくけど、その変化するいれものにすぎない君という人間の底の底のほうに、なんだか『朔美』っていう感じのものがあって、たぶんそれがっていうものだと思うんだけど、それだけがなぜか変わらなくて、いつもそこにあって、すべてを受け入れたり、楽しもうとしている。それは君が死ぬまでそこにあると思うと、何だかいじらしいような、苦しいような気がして、いてもたってもいられなくなるんだ。」


ここがこの小説の〈クライマックス〉だと思いました。

  


いやはや恐れ入りました。吉本ばななさん。

僕はお父さんの吉本隆明さんをあまり評価していなし、どちらかといえば小説は読まないしで、喰わず嫌いをしておりました。ところが気まぐれに手に取ってみると、実に面白い。ずんずん読み進めるのがもったいなくて、ちびちび読んでいます。

実はこの文章を書いている時点でも、まだ最後まで読み通していません。
最後まで読み通しても、引用したところが〈クライマックス〉であるという確信は揺るがないと思います。

隆明さんとばななさんには、明確に異なる一線があると思います。
「共同体感覚」です。
共同体感覚なしにこの文章は書けません。
恋人を捕まえて「道を歩いている誰かと、基本的には何も変わらない」ということができる感覚。

この『アムリタ』は共同体感覚を描き出すための小説です。


唐突に「共同体感覚」という言葉を持ち出しましたけど、これは


で知ったアドラーの言葉です。この本でも共同体感覚が〈クライマックス〉です。そこが理解できると全体の風景を見渡すことができる場所です。


いつものように余談ですが、吉本隆明さんを評価できない理由は、共同体感覚を持ち合わせていないと思うからです。

人間を筆頭に、生命は複雑で多様です。
この〈複雑さ〉を【単純さ】に還元しないで受け入れるのに必要な感覚が共同体感覚。
共同体感覚のない人間は、どうしても恣意的な評価基準を用いての評価をしてしまいます。

共同体感覚のあるなしは、原発への態度をみればわかります。
原発を容認できる者は、共同体感覚を欠いている。
原発に反対だからといって共同体感覚があるとは限りませんが、
容認できる者に共同体感覚があるとは、少なくとも僕には思えません。

そのあたりの詳細は、また別の機会に。
その前に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を取り上げないと。


コメント

Irrlicht

自称アスペルガー(医師の診断を受けているという確認が私には取れていないので)の愚慫さんが、引用部分から見て取れるハイコンテクストの典型のような記述(の小説)を好むというのは、面白いですね。
自閉症スペクトラムの方というのは小説の「心理描写」にあまり親しまないと聞きます。自閉症スペクトラムの方が著した自伝や、そういった方の内的世界について観察した本を読んでも、「他者の」内的世界に波長を「合わせる」、或いは想像を逞しくするといった性向やモチベーションを感じることが少ない印象があります。
小説の記述している内容が愚慫さんの追究するテーマに重なっているから、愚慫さんを引き込んでいるという面もありましょうが、それだけとも思えません。前述したハイコンテクストな部分に感応しているように見えます。

寧ろ、その辺に転がっているありふれた定型発達者の一人に過ぎない私の方が、引用された小説の下りを読んでも何やらむず痒い感覚ばかりが先に立ってしまうという、奇妙な顛倒が生じています。
何といいますか、両掌を合わせ指と指を組んで握りこむ時、右手か左手、どちらの親指が上になるか決まっているでしょう。通常下になる親指が上に来るように指を組み替えて握りこむと、得体の知れない違和感がありますよね。そういう感じです。
記述の内容が間違っているとかおかしいという話ではないですよ。そもそも虚構における登場人物の心象に正しいとかおかしいとか、そんなものは存在しないですから。

登場人物の心象を文脈から把握可能だが、得体の知れない違和感がある。こんな風に言えば伝わりますか。

それはさておき。
共同体感覚。これを喪失するとデヴィッド・フィンチャー監督『ゲーム』の主人公みたいになるんでしょうね。
かつての友人・知人に、電車に乗れなくなったとか、人前でものが食べられないとかいう方たちがいましたが、共同体感覚を失えば当然そうなりますよね。他人が自分と同じコードで動いているという感覚が崩壊するのですから。
大概の人間は「人間不信」などと嘯いてはみても、赤の他人と一緒の電車に乗り込んで平気で座席に座る程度には他者を信用しているし、その程度には鈍感なものです。

・残酷さになれる訓練さん

好むというわけではないんですよ。
僕は感情が書き連ねてあるような小説は、苦手というよりりかいができない、だから楽しめない、だから読まない、という感じでした。
この「感じ」は、現在進行形です。
感情を排した論説文なんかのほうが、ずっと僕には読みやすい。

愉しむことができるようになってきたのは、最近の現象です。自分の性質を理解するようになってから。

迂回回路が生成されてきたのではないかと自分で思っているんです。
脳梗塞などで脳細胞の一部が死んでしまったようなときでも、リハビリをすると新たなニューロン結合ができて、別の回路で失われた身体機能を回復するという現象が起きますよね。そんなようなことが、自身の性質への自覚によって、引き起されたのではないかと。

だから、小説の愉しみ方は、一般の人のそれとは違うと思います。僕は小説を読んでいても「構造」を読もうととしています。「構造」を読み取ることが僕の愉しみなんです。文章に表れている感情も、直接理解して愉しんでいるのではなくて、あくまで文章読解から浮き上がる「構造」として理解していると思います。その自覚があります。

Friend Or Foe

返信を頂いて、今まで愚慫さんと対話して来て折々に感じていた微妙な違和感が何なのか自分なりに得心がいきました。
ただし、テキストベースの対話で感じる違和感をアスペルガーの特性に回収させてしまうのは、それはそれで宜しくないと感じますので、保留にしておきます。

小説の引用部分に対して覚えた違和感は、寝て起きたら呆気なく正体がわかりました。
私は登場人物の発話を「ポエム」として感受してしまったんですね。内容がポエムだというのでなく、良く推敲され洗練されたアウトプットの体裁が「ポエム」と感受させたという話。
書き手の描写力の高さがデチューンされずにそのまま台詞として出力されたり、台詞を読者に向けた説明のために使う際に、ままそういうことが起きる。本来台詞と発話は似て非なるもので、小説の中の発話はほとんど台詞としてしかアウトプット出来ないのですけれど、台詞として受容されると読者にとっては発話に感じられなくなります。スピーチやポエムのような別物になってしまいます。

定型発達者が小説を読むのにも、それなりの労苦がありますよというお話です。
大概は「お約束」としてオミットして(或いは、作中の世界では人々はすべからく発話を「ポエムの形式」で行う…という風に頭を切り替える)、流れに乗って読み進めることになるのですけれど、エントリのように抜粋/引用すると引用されたディティールに意識が集中するため、違和感が際立ってしまうのでしょう。

・残酷さに慣れる訓練さん

定型発達者であっても、それなりの苦労はあるでしょうねぇ。
ただ、どうなんでしょう? 苦労の度合いを定量的に比較することは難しいですが、論説文などのほうが定型の人にとっては苦労があるのではないでしょうか。僕にとっては、なぜわからないにか不思議だったんですけどね。

このエントリは、申し訳ありません、甚だ不親切です。『アムリタ』という小説を取り上げていながら、紹介しようという意思がまったくありません。^^; 僕が「読み」と、そこから派生したことをかいてあるだけ、なんですね。

なので、コメントを頂いているのにアレなんですが、コメントへ期待はないんです。誘導するつもりがありません。
残酷さに慣れる訓練さんは、だから自分の思ったことをコメントしてくださるのではと思っていますが。ありがたいことです。

ストーリーの文脈から離れた洗練された文章がポエムに見えるという指摘は、腑に落ちます。文章を洗練するということと、詩的になるということとは同一の振る舞いなんでしょうね。もっとも、僕にはそういう感覚はほとんどないのですが。

Dialogue

愚慫さんが本エントリを上げられたのが5/25、私がコメントを入れたのが5/29。
間の数日は、待ちの時間です。『アムリタ』を既読の方、或いはエントリを読んで『アムリタ』に触れてみようと考えた方がリアクションを起こす時間を考慮してのインターバルです。それは遠慮とも言い得ますし、よりエントリの内容に寄り添うコメントが入った方が望ましかろうという、1コメンターなりの判断です。
定型発達云々と連呼するのも何ですけど、定型発達者的配慮です。ゲーム上の制約のひとつと言っても良いかも。愚慫さんは気が付いていると思いますけれど、私はストライクゾーンを外した球を投げるのが主義です。意識して、真ん中には投げません。
そこは例えば毒多さんとは対極です。

その代り幾つかの制約を設けています。
単なる逆張りはしない。自分の美意識に反することはしない。危険球は投げない。手が合わない時は深追いはしない。
論破を目的にしない。呪いをかけない。

で、論説文についてですが、所謂一般書の論説文を難読であると感じることは少ないです。
難しいのは法律関係の条文と、西洋哲学の哲学書ですね。前者は、読み慣れれば一般的な散文よりもずっと理解のしやすいものだそうですが、そこまで頑張る気持ちにならないです。後者は、たぶん使用言語の問題があると思います。そもそも日本語は表象や観念をカッチリ定義したり即物的に解析し、それを記述するのに殆ど向いていない言語だと思います。
フランス語なりドイツ語なり、語学を修めて原書で読めばもっと解りやすいんだろうなあと感じますね。

日本語の記述はたぶん詩句に向いているのでしょうね。
だからポエム的な心象の描写やポエム的な散文が美的に優れているように感じられます。
『アムリタ』の引用部分も適宜改行し、展開すればそのまま一篇の詩になるでしょう。
でも対面コミュニケーションの上で、殆どの日本人は詩的な発話を為さないですよね。
主語もなければ語尾も明瞭でない、断片的なフレーズの集積であることが常です。
対面コミュニケーション上の発話・対話を物語の中で記述しようとすると、様々な細工を施さねばならなくなります。それが作為の徴として刻まれてしまいます。

・残酷さに慣れる訓練さん

なるほど、ご配慮頂いていたんですね。痛み入ります ^ ^

ストライクゾーン外しの趣向には、もちろん気がついておりますとも。
コメントのやりとりでもそれは感じますが、時々ストライクに入ってくるのが面白いです。
(と、ストライクへ投げる ^^;)

論説文と小説、特に差異はないわけですね。なるほど、ありがとうございます。

日本語がカッチリした構文に向いていないのは、ご指摘の通りだと思います。もともと日本語に主語はありませんからね。現代文ほ主語を用いて書かれることがほとんどですが、そのような構文になったことがあちらの言語の影響でしょう。後付けなんですね。

そうした「後付け」は、自身で文章を書いているとよくわかります。精確に書くのが難しい。いつも、何かどこかが外れるような感覚があります。象徴的、比喩的にしようとすると、しっくりくる。もっともこれh、日本語に由来するのか、文章をそのものがそのようなものなのか、それとも僕も感性何か、よく判別できていません。その差異を直観出来るほど外国人を修得していません。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/846-94ca79d9

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード