愚慫空論

『桐島、部活やめるってよ』


映画シリーズのバリエーションということで。

桐島といえば、バレー部のキャプテンです。


『桐島、部活やめるってよ』というタイトル名は、どこからともなく僕の耳にも届いていました。
「桐島、部活やめるってよ」という口語がタイトルになっているというだけでも、かなり印象に残るものでした。よい作品らしいという評判も、なんとなく。

そういう噂がいつの頃のものだったか定かではないのですが、今回、観る映画(安く視られるもの)を探すなかで、目にとまったのが、『桐島、部活やめるってよ』だったというわけです。

面白かったです。

この映画を観てまず思ったのは「スクールカースト」でした。これは多くの人もそう思ったみたいで、"桐島、部活やめるってよ" "スクールカースト"で検索をしてみると、記事がいくつもヒットしてきます。

そういった記事を幾つか読んでみると、映画の『桐島、部活やめるってよ』というのは小説を原作にしたものであるということがわかりました。

小説と映画ではストーリーが異なるのかもしれません。上記検索では、映画と小説の感想が一緒になって出てくるので、僕が気になった点が映画だけのものなのか、小説に共通するものなのかがわからない。そこは調べようと思えば簡単に調べはつくのだろうけど、別にいいや――ということで、映画のほうで話を進めます。

この『桐島、部活やめるってよ』という映画には、実はタイトルロールが登場しません。桐島君が出てこないんです。
桐島君は、どうもスクールカーストの頂点に君臨している人物らしい。バレー部のキャプテンで、勉強だってできる。すなわちスペックが高い。当然、彼女は校内一の美少女。登場してこないけど、イケメンであることも、疑いなし。

そのような「頂点」には、周囲から要求される振る舞いがある。バレー部のキャプテンであることは「頂点」の威光を表すツールであると同時に、周囲から要求でもという二重性があります。この二重性があるからこそ、カーストは固定的な身分ではなく、一種の生態系として機能する。

ところがその桐島君が部活をやめてしまう。理由は不明です。ストーリーのなかでも明かされません。

明かされないのには理由があるのでしょう。つまり、そんな理由はどうでもいいんです。どうでもいいから桐島君も登場しない。「頂点」がいなくなるとカーストは動揺します。この映画が描いているのは、カーストという秩序構造の動揺です。動揺があるからこそ、その構造のなかで生きている者たちが生き生きと描き出される。

そう、とても知的な映画です。

どんなふうに描かれているかは、知っている人はすでに知っているだろうし、まだ観ていない人は楽しんで欲しいところなので、ここでは触れません。

ただ、ここの話の都合上、触れなければならない部分もあります。

『桐島、部活やめるってよ』という映画は、単にカースト構造を生きる者たちを描いたというだけではなく、メッセージ性もあります。そのメッセージは、下部カーストの上部カーストへの抵抗という形で出てくる。

 「今を精一杯生きよう」

『桐島、部活やめるってよ』のメッセージは、これ。

他の批評を読んで知ったのですが、昨今では映画部というだけで、もうすでに“下”という位置づけがなされているんだそうですね。要するに(何が“要する”なんだか)、“オタク”ということか。確かに映画部員のキャラはオタクっぽい。

映画部は、映画のなかでも見下されています。この見下され方は、あるいはあからさまに、あるいはあからさまではない形で、とてもリアルに感じます。いまどきの高校生はこんなんだんだろうなぁ、というオサーン世代の目線です。

ここはリアルではないと願いたいところですが、映画部は顧問からも見下されています。コンテストに入賞したと持ち上げられつつ、映画のシナリオはお仕着せのもの。部員が希望するシナリオにはNG。『教室内(スクール)カースト』という著書では、教師もカースト翼賛体制のなかに組み入れられているという指摘がありましたが――。

映画部の上部カーストへの抵抗は、お仕着せ教師への反抗に端を発します。どんな形で展開するのかは、知っている人はご存知でしょう、そうでない方は映画をご覧あれ、ということにして、ここで言っておきたいのは、この映画のメッセージは、受信する者の立場によってとらえ方がまったく異なるだろう、ということ。

スクールカーストなどというものから無縁なところに生きている僕からすれば、「今を精一杯生きよう」というメッセージは心地よく感じられます。スクールカーストを実感したような気にもさせてくれますし。けれど、メッセージが心地よいのは、実は、無関係で無責任だからです。無責任でいられるから、都合のよいところだけ楽しむことができてしまう。

現にスクールカーストの中で生きている者は、そうはいきません。無責任ではいられない。そんな者にとって、『今を精一杯生きよう』などというメッセージは、嘘くさいものに感じてしまうかもしれない。

カースト頂点が突然いなくなるなどという事態がそもそもリアリティに欠けます。リアリティに欠けるからこそ敢てスルーしているのがこのストーリーの知的なところですが、知的だから楽しめるというのが、そもそもにおいて無責任です。関係のある当事者にとっては、知的では片付けられないシャレにならない話だろうと想像します。

シャレにならないなら、嘘臭いことにしてしまった方が気楽です。もとから作り話だし。そうなると、この物語は「つまらない嘘話」で、「クソッタレなメッセージを発する駄作」という評価になる。この物語はカーストの埒外にいる部外者のための物語です。



クソッタレなメッセージを発するという意味において、桐島君とオバマ君は、共通のものがあります。
片やリアルで、片やフィクションではありますが、また、カースト規模も圧倒的に違いますが、どちらも「クソッタレなメッセージ」を発してきます。受け手の立ち位置によってクソッタレかそうでないかが違ってくるという点も、同じです。

報道によれば、オバマ大統領は今年日本で開催される順番になっているサミットに参加する機会に、広島へ訪問するのだそうです。原爆投下の謝罪なしに。

クソッタレです。
僕は別に腹を立ててはいませんけどね。けど、腹を立てている人はたくさんいると思います。

アメリカが2つの原爆を投下したおかげで犠牲者が少なくて済んだ。
そんなの嘘だと思うけど、でも、そういうこともあったかも知れないと思うけど、どっちにしたって関係のない話。新兵器の試し撃ちでたくさんの犠牲者が出たという事実とは。

戦争をしたことは謝らなくていいだろうけど、だからといって、原爆を落としたことも謝ってはならない、というのは、スジとしては別の話です。

しかし「スジとしては別」というのはカーストの埒外にいるからこそ言える無責任な言葉ではある。

ここでいうカーストとはつまり、“パックス・アメリカーナ”です。アメリカの軍事力による平和。軍事力だけではないけど、こと広島に関しては、軍事力だけを語ればよい。平和をもたらしている軍事力は「正義」でなければならない。そのように要請されています。カーストの「頂点」に君臨しているオバマ君は、もはやレームダッムであったとしても、要請された役割を果たさなければならない。「オバマ君、広島を謝罪したってよ」というのは、そのカーストのなかで生きている者にとっては、シャレにならないことなんです。

アメリカの軍事力行使が「正義」だなんて心の底から思っている人など、誰もいないでしょう。あちこちでやらかしてしまっていますから。加えてロシアのしたたかさが際立ってきたし、中国の台頭もある。パックス・アメリカーナは揺らいでいます。だからかえって「正義」であることににしておかければならないという要請は強くなる。

そう考えれば、オバマ大統領が謝罪なしで、それもわざわざ事前に謝罪なしと宣伝して、広島を訪問するというのは知的な行為です。最近では池上彰さんや佐藤優さんなどが啓蒙する“インテリジェンス”とかいうものでしょう。

けど、どれほど知的であっても、オバマ君の行為が、当事者にとってはクソッタレであることに変わりはありません。知的であろうが関係ない。知的だからそれでいいのだというような人間もいますが、本当にそう思っているなら、サイコパスの類いです。

そして厄介なことに、その当事者というのは私たち日本国民です。
ここにジレンマがあるわけです。
当事者なんだからクソッタレと感じるのは当然なんだけど、そう言ってしまうと無責任になる。

こんなときは、為政者の振る舞いは難しいですね。クソッタレと伝えつつも責任ある態度を取らなければならない。矛盾した態度を人格で統合しないといけない。難度の高い演技を要求されます。こうした演技を付けるのは、これまたインテリジェンスでしょう。

いちばんダメダメは振る舞いは、どっちつかずの態度を取ってしまうことです。カースト秩序の維持に貢献するでもなく、蛮勇をふるってクソッタレと言い放つでもなく、己のカースト内のポジションを維持するために振る舞う。

『桐島、部活やめるってよ』のなかにもそういうキャラクターは登場してきていました。そりゃ男なら、女子からキスしよって言われれば喜びますよ。肉体で男を釣って、男を狙っている別の女に見せつける。そうしてカースト上位の男の彼女という地位を守ろうとする。

こういう振る舞いは嫌らしいですよね、安倍くん?
自分の肉体でも嫌らしいのに、アンタの場合は....、ふうっ

中学生高校生という存在は、子ども以上大人未満。大人になろうしている存在です。スクールカーストは高校生たちの特性ではなく、大人の振る舞いのコピーです。大人の振るまいが、大人未満の時点ですでに内面化してしまっているから、彼らの特性であるかのような形で現われてしまう。

大はパックス・アメリカーナ。日本の視点でいえば安保体制。小はそれこそキリがない。至る所に「カースト」が蔓延っている。大人未満の少年少女たちが、そのことを身をもって表現している。

そう思えば『桐島、部活やめるってよ』は、大人が無責任に楽しむ作品ではないはずです。

コメント

観ましたよ^^

まぁオモシロかった、、かなぁ・・・どうなんだろう?
スクールカーストねぇ??、、、おそらく昔からあったんだろうし、今でもないところもあるだろう。スクールカーストという言葉を思いついた人が定型化して分析した気になって喜んでいる、ような気もしないでもない。
ワタシ自身は全く実感がないからねぇ。
少し想像するとスクールでなくても狭い世界では、ありがちなんだろうけど。
空気読めよ!!ってやつも関係してくるのかなぁ。
昔のお小言の常套句、他人を思いやりなさい、とか、友人の身になって考えなさい、ってのを不満を隠匿しながら表面的に実践しているってのがこんな風になってくるのかなぁ、とかね。
この映画を観て不快に感じる人は、オノレの不満の隠匿と裏腹な処世術に気づいている人だろうか?
この映画を面白いってのも結構悪趣味かもしれないねぇ。
おっしゃるように、無関係、無責任ですね。
上からで小馬鹿にした面白さでさ。
空気に与しない単独者、コミュ障には「ああ、そうなんだぁ、、」くらいの映画かもしれないなぁ。

といったところが、取り敢えずの第一感です。

・毒多さん

観て頂けましたか。話に乗っていただいて、ありがとうございます。

スクールカーストが存在するや、否や。ある思えばあるし、ないと思えばない。だれかが「ある」と言ったから意識されるようになったに過ぎない――。

まあ、それはそんなところでしょうけれどね。ただの「空気」かもしれません。ただ、それに苦しんでいる者はいるんだろうと思います。大切なのは「カースト」と呼ぶかどうかより、そっちの方ですよね。

検索でこんなのが引っかかってきました。『桐島――』についてのひとつの意見です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12120131342

なかなか鋭いと思いませんか? 「大人」としてどう応えるか。

「これを絶賛してる大人も「今どきの若者のこういう閉塞的な現状に共感できてるオレかっけえ~」がハナに付きすぎて臭いです。」

だって。笑ってしまいましたww いや、本当にそうだから。ただ、それが全部ではない。

この意見が興味深いのはストレートのに【毒】を吐いているところだと思います。そういう【毒】を味わっているからこそ、こんな意見が出てくる。

「スクールカースト」を構築しているのは【毒】です。スペックが高い者は、コミュニケーションを通じて、下位の者に【毒】を押しつけます。そう、たとえばサックスを抱えた女子とか。彼女の屁理屈はなんなのか。上位男子への憧れが【毒】になっていて、映画部相手だったら吐き出してもていいと思っているでしょうね。

【毒】がカーストを構築するのは、学校だけの話ではありません。文明社会とはそういうものだし、聖域でなければいけないはずの家庭も相当深刻に浸食されています。

けど、本当にコミュ障だったら、【毒】には冒されませんよね。【毒】に対する感受性があるから、冒されるわけで。だから、たぶん、上記の意見を書いた人は、現実ではコミュ障を装っているでしょうけれど、本当はコミュ障なんかではない。「カースト」に抗えないだけで、それは大人も同じです。

同じだから、感受性があるだろうと想定しているから、【毒】を吐く。そうでないと【毒】を吐く意味がありませんからね。

Reflection Through Destruction

>愚慫さん

>けど、本当にコミュ障だったら、【毒】には冒されませんよね

揚げ足を取るつもりは一切ありませんが、それは違うと思いますよ。
5月15日の25:00からNNNドキュメントで『障害プラスα~自閉症スペクトラムと少年事件の間に~』が放映されました。
公式サイトから内容の紹介文を引用すると、
“「人を殺してみたかった」2年前の佐世保女子高生殺人事件の加害少女は動機をそう語った。少女には自閉症スペクトラム障害の鑑定結果が出た。しかし、障害がそのまま少年事件に結びつくわけではない。「2つの間には、プラスαの要因がある」と専門家たちは語る。〝プラスαの要因〟とは何か。少年院や児童自立支援施設の子どもたちの生の声を聞くことで、子どもたちの中にある〝生きづらさ〟の正体を探る。また矯正施設で行われる国内初といわれる、再犯防止のためのトレーニングにも密着する”
というものです。
(5月22日(日)11:00~ BS日テレ、5月22日(日)5:00~/24:00~ CS「日テレNEWS24」で再放送があるので、視聴できる環境と時間があったらどうぞ)

番組内で引用されるデータがあります。浜松医大の教授がサンプリングした児童自立支援施設の入所者のうち75%が自閉症スペクトラムに該当したそうです。
自閉症スペクトラム=問題行動・反社会的行動、なのではなく、そこにはプラスαの要因が必ず存在しているのです。
そのプラスαというのは、愚慫さんの言葉を借りれば「毒」を飲まされることですよ。

「アスペ」がネットでコミュニケーションの苦手な人へのカジュアルな蔑称として定着していることからも明らかなように、コミュ障という術語は自閉症スペクトラムを包含しています。自閉症スペクトラムに付随する諸々の症状がコミュ障という言葉のイメージに取り込まれています。
そして、自閉症スペクトラムは「毒」に苦しむのです。毒に冒されないということは決してない。

番組の最後に、取材者が施設(或いは少年院)の少年(自閉症スペクトラムであり、且つ何らかの犯罪行為を働いて入所している)に対して「将来の夢は何?」と問います。少年の答えは「言うことはない」です。
少年はその理由をこう答えます。「自分は必ず失敗するから」

・残酷さに慣れる訓練さん

まったく仰るとおりです。「プラスα」は【毒】です。
【毒】への感受性を持っています。だから、俗に言われる「コミュ障」ではあるかもしれないけれど、本当の、すなわち完全な「コミュニケーション障害」ではありません。

そのことは、自閉症スペクトラムである僕自身がよ~く識っています。

【毒】に対する感受性があるということは、ひっくり返せば、「必ず失敗する」わけではないということです。失敗の原因が少しは理解できるからです。

確かに、理解はなかなか進みません。だけど、まったく進まないとのは大違いです。

俗に言う「コミュ障」は、「なかなか進まない」のと「まったく進まない」のを同じカテゴリーに放り込んでしまいます。僕はこの行為に非情な醜さを感じます。このことこそが【毒】なんです。

その【毒】を呑んでしまった「コミュ障」は、自身を「まったく進まない」というカテゴリーに配属してしまう。そこに安住して隷属する。愚かで醜く、そして可哀想なことです。

そうではない。確かに障害はあるけど、完全なものではない。その証拠は【毒】に冒されているあなた自身だろう、と。あなた自身がそう得心して、他者からの「コミュ障」というレッテルをはじき返すことができれば、前へ進むことができる。それは同じく「コミュ障」である僕が保障します。

失敗しないという保障はできませんけどね。

ワタシに関しては「コミュ障」という言葉を安易に使っていたかもしれません。
最近あらためて感じているのですが、ワタシには多数の常識(ex極悪人による本の出版はとんでもないことで読んではいけない)が「毒」と感じてしまう。でも言っている多くはそれは「毒」を吐いているとは思っていない。周囲にはむしろ、「ケッ!!アホちゃうの?・・」から続くワタシの吐露が「毒」だと受け取られている。
そのうち世間的で常識的な言葉によるコミュニケーションが面倒に感じられる。
面倒に感じられるというそのこと自体をコミュ障と言っていました。
ワタシにとっては【常識的】なコミュニケーションを軽視するようになった。

そんなワタシ自身を多数が常識的コミュという観点から「コミュ障」という素敵な言葉で表しましたが、、安易に使うほど「毒」について理解しているわけでもない。

「毒」と意識して発せられるものはさほど「毒」ではなく、「毒」と意識せずに発せられるものが【毒】。

+α【毒】でコミュ障に陥るなら、そちらのほうが真っ当であり信用できます。
番組の紹介ありがとう。観たいと思います。

・毒多さん

言葉を安易に使うというのは、思索を言葉で表現しようと志す者にとっては戒めなければならないことです。

言葉は「区分け」です。本来は区分けできない〈世界〉から、表現を為すために、〈私〉が切り取ってきて、提示するのが言葉です。

言葉を曖昧に使うというのは〈他人〉の言葉に乗っかってしまっていると言うことです。

〈他人〉の言葉に乗っかること自体は構わない。というか、乗っかることができるからこそ、言葉です。けれど、乗っかったままで〈私〉の思索などできようがはずない。できないはずの思索を進めようとすると、正誤の判定に進むほか道はなくなります。

そして正誤の判定をしようとする【行為】こそが【毒】の源です。

『桐島――』においても、ネット上のコミュニティサイトにおいても、またリアルな社会においても、どれほどこうした【行為】が溢れているか。

〈私〉の言葉と〈他人〉の言葉を腑分けすることができれば、【毒】を分解していくことはできます。ここは、アドラーに言わせれば「課題の分離」になると思います。たしか『嫌われる勇気』はお読みになっていましたよね? 新刊のほうの『幸せになる勇気』は、まだでしょうか?


なお、残酷さに耐える訓練さんご紹介の番組は、
https://www.youtube.com/watch?v=KFgjvTk1KD0
で視聴できるようです。僕も観てみます。

youtube観ました。
ネット上で使われる「コミュ障」(省略語で充分ということも含め表される軽視、安易さ、を含有)という言葉を、このドキュメント同じ文脈で使うのは困難だと感じました。

・毒多さん

逃げましたね? ^^;

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