愚慫空論

懺悔しなければならない

今朝、とても大切なことに気がづかされた。


我が家では犬を二匹飼っている。どちらも、もう、老犬で、12才と13才になる。名前は、フクにブー。フクが母親でブーがその娘。

朝の散歩に連れいったときに事故が起こってしまった。2匹が別の犬に襲いかかってしまった。別の犬がいるとわかっている場所で、僕がうっかりブーのリードを落としてしまったのだ。

ブーは一瞬、何が起こったの? といった反応をして、リードが落ちているのを発見すると、近くの犬に襲いかかった。ブーが襲いかかったことを見たフクが加勢しようとするのを、とっさにフクに蹴りを入れて牽制して、もうすでに噛みついてるブーを蹴り上げる。噛みつかれた犬は、情けない悲鳴を上げていた。

この2匹には、これまでもたびたびこのようなことがあった。人には極めてフレンドリーなんだけれど、四つ足の生き物には理不尽な牙を剝く。一旦スイッチが入ってしまうと、通常の命令では届かないので、彼らの暴力を制止させるのは、こちらはそれ以上に暴力的な方法に出るしかない。これも幾度となく経験してきたことだ。

蹴り上げられて圧倒的な暴力に怯えたフクとブーは、しっぽを丸めて逃げ出そうとする。非常なことと思うのだけど、それが相手の被害を最小限に抑えるには最良の方法だ。力で引き離そうとすると、スイッチが入っている彼らは、余計に力を入れて噛みついたところから離れようとしない。恐怖であれなにであれ、自発的に放させるのが最良だ。

これは、体重60キロあまりの僕と15キロ程度の犬との間の、る物理的な力の差があるからこそ可能なことである。僕は、自身のミスから暴力を行使する嵌めに陥ってしまった。


常々不思議に思っていた。なぜ彼らは、このように理不尽な暴力を振るうのだろうか、と。そういう習性だといってしまえばそうではある。けれど、僕にはずっと腑に落ちないものがあった。

母親のフクは猟犬である。和歌山で暮らしていた頃は、山に放って獲物を追わせたこともある。猟師さんから頼まれて仔犬を産ませたこともある。猟師はフクを優秀な猟犬だと認め、だから、その子を欲しがった。

対してブーは、優秀な猟犬であるフクの娘ではあるけれど、猟犬としては優秀とは言えない。優秀かそうでないかは、立ち振る舞いで判別がつく。フクはタッタッと普段から軽やかに歩くのに、ブーはドタドタと歩く。跳躍力にも差がある。頭のデキも違う。林の中のように障害物が多い場所に連れて行くとよくわかる。フクが効率のところを瞬時に見分けて通っていくのに、ブーはそれができないから、障害物に遮られて立ち往生し、戻って別の道を探すということが多い。

それよりも何よりも、意欲が違う。猟へ行きたいという意欲が、どうもブーにはあまりない。山へ行へ連れて行くとフクはみるみる精気が増すが、フクにはそういう反応はない。フクが喜んで駆けだしていくと、後を追っていくくらいが関の山だ。

もっとも、こういったことは、猟犬として役に立つという尺度で見たときの評価である。フクもブーも我が家の家族であり、ということはつまり、彼らの生存は僕たちが保障しているわけだから、猟犬としての尺度はほとんど重要ではない。むしろ不出来なブーのほうが可愛いくらいだ。ただ、この評価は個体の優劣、もし野には放たれるようなことがあれば、生き延びることができる可能性の大小へと直結するだろう。ブーよりフクのほうが、生き延びる可能性は高いと思われる。


以上の事実からするならば、彼らが他の4つ足の生き物に牙を剝くのが習性であるとするなら、ブーよりフクのほうが凶暴性が高いということにならないといけないはずだ。だが、観察される現象は、それとは異なる。なぜかブーのほうが攻撃性が高い。

先に行くのは、必ずブーのほうだ。フクは、山に放てば率先して獲物を捜索に行くが、道で遭遇する他の4つ足を獲物としては認識していないようだ。必ずブーのあとに、ブーが戦闘を開始したのを認めてから自分のその中へ入っていく。

ブーの4つ足への攻撃性は度を越していて、凶暴性と行ってもいいくらいだ。かつては体重差が圧倒的に違う馬に向かって行ったこともあった。馬の後ろ足に後ろから噛みついて、見事に逆撃を喰らって、頭を蹴飛ばされた。パコンといい音がしてブーはしっぽを巻いて退散したが、しばらくすると足が棒のようになって歩けなくなり、抱きかかえて連れて帰ると、泡を吹いて倒れ込んだ。脳震盪だったろう。死ぬかと思ったけれども、翌朝にはケロリと治っていた。ただ、以降、馬には怯えるようになった。

フクは馬へは行かなかった。体重差のある鹿や猪には向かって行くが、馬はさすがに差がありすぎるのだろう。怯えはしないが、適切な距離を保って近づこうとしなかった。ちゃんと犬としての常識(本能)が機能していると見える。


ブーのこの過剰な攻撃性は、何なのか。ずっと考えていた。そして、今日、やっと思い当たった。

「怯え」だ。


ブーは、フクよりも謙虚である。飼い主である僕や家内にはもちろん、他の人にも、近づいていくときには“下手”から行く。フクが頻繁に厚かましいのに対して、ブーはあまりそういうことはない。撫でてよう思ってフクとブーを呼ぶと、フクはぐいぐい前に来るが、ブーはどこか遠慮がち。フクが居座ると、ブーはすぐに諦めてあちらへ行く。あちらへ以降とするのを、改めて声を掛けて呼び止めることが多い。

これはブーの個性なのかもしれない。そして、過剰な攻撃性も、個性で片付けられるのかもしれない。それぞれ個性と言ってしまえば一応のアンサーにはなって、安心することができる。この「安心」は居心地がよいが、ここに棲みつくのは「怠惰」だろう。そんな批判を僕は展開していたりする。

「ブーの謙虚と攻撃性には関連がある」と考える。考えることは意志である。意志していると浮かびかがってくることがある。それは「言葉」という形になって登場する。この場合は「怯え」という言葉である。

ブーの「謙虚」の正体は「怯え」である。「怯え」は負であり、バランスを取るには過剰な「正」が必要になる。

犬が狩りをするのは、正でも負でもない。彼らの生存戦略だ。フクが山に行くと生き生きしだすのは、犬が犬としての「生命のあり方」が発現できると感じるからだろう。その「生命のあり方」のなかの、狩りは大切な核心であるはずだ。

ブーは、犬としての「生命のあり方」から、一歩引いたところに普段はいる。だから謙虚だ。そのかわりに、一歩引いた分を埋め合わせようという欲求を抱えている。攻撃してもよい対象を探している。普段から“一歩引いている”から、普段から“一歩出よう”として攻撃対象を探している。

「攻撃をしてよい対象」というのは【敵】である。

フクは獲物を探す。獲物を見つけると攻撃する。「獲物」に対する攻撃も【敵】に対する攻撃も、同じ身体能力を使ってなされるので、現象としては同じようにみえる。だけど、動機においては異なる。

フクとブーには、タイムラグがある。ブーは他の四つ足を見かけると直ちに【敵】と認識するが、フクはそうでない。フクには「獲物」→【敵】という回路が働くから、ブーのように相手をいきなり【敵】だとは認識しない。ブーの攻撃を確認してからではないと、攻撃に移らない。

なによりブーは、まずもって「獲物の探索」という欲求に欠けている。この点においても“下手”だ。なのに過剰な攻撃性を発揮するという事実を説明するには、ブーには【敵】が必要なのだと考えるしかない。

ブーは、彼女の生命力のバランスを取るために【敵】を必要としている。
彼女は普段から“下手”に出て生命力を抑制している分だけ、常に“上手”に出て補いを付けようともしている。
そうしてバランスを取ることを、ブーの生命力がブーに要求している。

このアンバランスは、ブーの個性なのだろうか。そうでないと僕は考える。個性だと考えておくと楽だけれど。

ブーのアンバランスが個性ではないとすると、環境に原因があることになる。

フクとブーはほぼ同じ環境で暮らしている。となると、ひとつ考えらるのは、フクとブーの身体能力の差。身体能力においてフクに劣るブーは、同じ環境の中でも常に出遅れる。その結果がブーが常に下手に出る構えにつながったと考えることはできる。

しかし、フクだけが原因だとは考えるのは難しい。ブーは、何よりも僕にもっとも怯えているからだ。ほぼ同じ環境で暮らしているといっても、まったく同じ環境ではない。僕たちのフクとブーへの接し方もまったく同じというわけではない。

といって、僕がブーにより暴力的に接しているというわけではない。むしろ逆。ヒトと犬の力の差を行使する機会は、フクに対してのほうがずっと多い。ブーは常に下手だから、人間の顔色を見て行動する。人間の嫌がることを察知してしようとしている。スイッチさえ入らなければ。その点、厚かましフクは、そういった配慮に欠ける。街中でも野山でいるかのように振る舞おうとするフクには、どうしても“注意を与える”機会が多くなってしまう。

同じ強度で接しても、フクとブーとでは、受容の仕方が違う。これはある程度個性ではあるだろうが、それ以上のところもある。「絆」の強度の問題だと思う。

フクと僕の間には、ブーとの間以上に強い絆がある。それはフクの猟犬としての適性が遠因となって生じてしまった差異だ。特に、こんな出来事があって以来、僕とフクの絆は深くなったようだ。家内もそのように言う。


僕は、その絆に甘えていたのだと思う。今朝、そう気がついた。

フクは多少、手荒に扱っても大丈夫だ。なぜなら、僕とフクの間には絆があるから。フクに与える「注意」が暴力的あっても、僕とフクの絆は揺るがない。どれほど怒っても、フクはすぐに僕の顔色を窺いながら、低く小さく尻尾を振りながらすり寄ってくる。僕が怒りを解いたのがわかると、フクは大きく尻尾振り、頭を撫でるように要求してくる。

そういうフクに僕は満足していた。
いや、違う、フクにではない。そういう具合にフクを調教している僕自身に満足していたのだ。

ブーとは、残念なことに、それほどの絆はできていない。そのことは僕も自覚していたから、注意を与えるときは、フクよりもずっと気を遣っていたつもりだった。だけど、ブーは、フクに注意を与えているときでも怯えてしまう。犬はバカではないから、誰に注意を与えているかはしっかり判別している。にも、かかわらず、ブーは怯えてしまう。

困ったことだと思っていた。
困ったことだと思いたがっていた。
困る原因はブーの個性にあるのであって、僕の対応も上手いとはいわないけれど、仕方がないと思っていた。

「僕の満足」を失いたくなかったから。
「僕の満足」を保つためには、ブーは困った犬でなければならない。

ブーは確かに困った犬になってしまったが、そうしたのは100%ではないかもしれないが、僕が原因だと思う。
ブーは彼女なりに生命のバランスを取っているだけだ。

僕は懺悔をして、彼女たちとの接し方を改めなければならない。

絆が深いのは誇らしいことだと思う。
これからもフクとの絆は変わらないと思うし、そう願っている。

だけど、絆を都合よく利用するのはダメだ。
そんなことのために絆はあるのでない。
絆はツールではない。勲章、つまりは“飾り物”ものだ。

絆は飾り物で充分。道具として使って、泥を塗ってしまってはもったいない。


コメント

ブ~は、ワタシ

これぐらいのエントリーがワタシにとっては身の丈に合いコメントできそうな感じ。
とはいっても、ワタシは犬を飼っていないうえに今後も飼う予定はないので「犬の気持ち」「犬の飼い方」としてのエントリーならば、あまり意味をなさない。おそらくそれらを書こうとしたエントリーではないのだろう、という前提で、^^。

読みながら思ったことは、あっ!!、ブ~はワタシだ、ということ。
まるで、「ブ~は・・・」、と書きながら、ワタシを解析されているような気分、、、^^;

身体能力は平均以上にはあると思うのだが、思考能力はたしかに低い。
ブ~にとっては山(自然)だったが、ワタシにとっては社会。社会のなかに放たれる不器用さはまさにワタシ。四足ではなく優良な社会人に牙を剥く攻撃性、ブチ切れるまでの嘘つきな謙虚さ、他者の顔色を見ての自重。絆なんぞ誰にも感じない。
・・・はい「怯え」です。
はたして何に「怯え」ているのだろう。
以前のエントリーの銃の携帯もやはり「怯え」だとワタシは感じるのだが、そうした具体的な「怯え」とは違う気もする。

ワタシはオノレを社会的に「困った奴」だと認識している。認識していても治らない、多分治す気がない。ちょいと人間の言葉で代弁してみるが、、ブーも実は「オノレの困った」を認識しているのかもしれない。別に個性とも思っていない。わかっちゃいるけどやめられない。どこかで「困った奴」がオノレだけのステイタスになっていたりして、「困った奴」でも付き合ってくれる奴しか付き合ってやんないよ、、、と、ブ~の代弁。

・毒多さん

お待ちしておりました。(^o^)

そうですか、毒多さんはブーですか。
けど、そう言われてみると、納得しないでもないですね....(^_^;)

成熟した人間社会のなかで生きて行くのに必要な能力はコミュニケーション能力です。
そんな社会のなかの「困ったヤツ」を端的に表す俗語が“コミュ障”。

毒多さんも現実社会ではコミュ障なんでしょうかね?
毒多さん“も”ということは、僕“も”ということですが、僕の場合は、自分がコミュ障だということにずっと気がつかなかったという意味で「困ったヤツ」、もとい「迷惑なヤツ」です。

はたして何に怯えているのでしょう?
それはもう「社会」にでしょう。だってコミュ障なんだもんww
社会のなかでしか生き延びていくことができないのに、社会とうまく渡りあう能力が欠如しているなら、そこに「怯え」が生まれるのは自然なことだと思います。

だけど、直す気がないというのでしたら、怯えなくていい居場所があるということなんではないですか。だったら、とても幸せなことだと思います。

レスありがとう

お待ち、されるほどのコメが出来るわけでなし、、、orz
ちゅうか、>納得しないでもないですね、、、.(^_^;)
納得すなぁ!!爆。

人間は社会的生物でしかありえない、、から、怯え、、かぁ、、、。
人間は社会的でしかありえない、生存し得ない、のに生存している、程度のコミュ能力はあるのかもしれません。ワタシも愚慫さんもね、笑
そしてそれほど、「怯えている」という実感がないのも、多分同じですね。
生存し得ないほど怯えているだろう人は、3万/年ほどいるわけで。日本ね。
引きこもりまでカウントしたらもっともっとだな。

なんてことを考えていると「コミュ」とは嘘つきということが浮かんできました。
「困ったやつ」とか「コミュ障」ってのは嘘つきに気づいてしまったみたいな。

思いつくままに書きますが、ネット空間は社会でしょうか? リアル社会では、コミュ能力に優れた(この社会に適応という意味で優秀な)人が、ネット空間においてはコミュ障って人はいそうですねぇ。ネット空間は実生存に関係ない、ということになるのか、、ただ、ネット空間が実生存とするほど嵌っている人は、そこでコミュ障になるのは致命的とか。
ワタシはリアルコミュ優秀人がめちゃくちゃツマライ奴に感じています。
リアルコミュ優秀ってリアルカーストに適応できるのがコミュ能力ってこともいえてますか?つまらない。

ワタシに関しては、リアルもネットもさほど変わらない嘘つきコミュで、それ以上に踏み込んでくる者にキレるか深くなるか、かな。深くなる人はあまりいない、爆!!
とりあえずツレアイと構成する家族が深くなる存在でよかったとは思っています。

とりとめもなさすぎるなぁ、、すみません。

・毒多さん

ネット空間は社会の一部ですよね。それも新しい部分ところでしょう。

ネットは所詮は道具ですからいろいろな使い方ができますが、誰でも匿名で発言できるという特性から【毒壺】として使うのにとても向いています。それまでだったら、便所に落書きするくらいしかできなかったような【毒】がネットには吐き出すができるというか、やりやすいですからね。

そうした【毒吐き】はみっともないことですけど、そうすることで救われている者も少なからずいると思うんですよ。【毒】を吐きたいとは吐かずにはいられないんだから。吐けば少しは楽になりますよ。

コミュニケーションにもいろいろあります。【毒吐き】だってコミュニケーションの一形態でしょう。コミュニケーション能力と一口に言っても、いろいろです。ふつうにコミュニケーションできるひともいれば、「ふつう」な振りをした【毒吐き】に秀でている人もいる。

『桐島、部活やめるってよ』を観てみてくださいよ。いろいろなコミュニケーションが見て取れます。しかも高校生という設定だから見やすい。自分から距離を置いてみることができますからね。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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