愚慫空論

アフォーダンス


ストーリーにはクライマックスがあります。

クライマックス。英語です。climax.
「登る」という意味の“climb”と、「最大」という意味の“max”が合成されて、「頂点」。

「頂点」という意味からすると、ストーリーのクライマックスというのは、もっとも盛り上がるところ。
即物的にいうなら、感覚刺激が最大になるところ、という言い方が適切ではないでしょうか。
「ストーリーにはクライマックスがある」なんてごくありふれた言辞です。

もちろん、そういうありふれたことを言いたいのではありません。
僕がここで言いたい「クライマックス」というのは「感覚刺激の最大点」などではありません。
刺激の大きさは関係ない。
これも即物的に言うなら、ストーリーの転換点といったほうが適切かもしれません。

それが適切ならそちらを使えばいいではないかと思うんですが、どうしても「クライマックス」という言葉を当てはめたんです。「最大点」ではあるので。物理的な刺激ではなく、「意味」における最大点。


ストーリーは、意味の連なりというふうに解釈もできます。
小説は言葉で記述されますが、言葉にはひとつひとつに意味がある。ひとつひとつの意味を連ねていって、大きなまとまりとして「意味」を表現しようとする営為の結果が、小説というものでしょう。
小説全体が意味しようとしているところがもっとも良く現れている場所。そこを「クライマックス」といっても間違いではないし、その場所が感覚刺激の最大である必要性もないことは理解していただけると思います。


例えば、昨日取り上げた『いなくなれ群青』です。
主人公くんは、大好きな彼女が彼の目の前に現れたことを許せないんです。そこは“捨てられた島”だから。そこに彼女が現れたということは、彼女は“捨てられた”ということを意味しています。

誰に捨てられたのか。そう、彼女自身にです。彼女が大好きだけど、決定的に彼女とは会わないと思っている主人公くんは、遠くで彼女が幸せでありさえすればいいと思っていた。自分がいようがいまいが、彼女は彼女だから。なのに、よりによって“捨てられた島”で再会した。これは彼女が彼女ではなくなったということです。

その事態を主人公くんは、どうしても許せない。自分が捨てられていることは、むしろ心地いいくらいに思っているのに。だから、彼は決意をします。彼女をこの島から脱出させよう、と。

『いなくなれ群青』の「クライマックス」は、主人公君の決意が露わになるところです。

ストーリーは「クライマックス」を迎えたあと、終結に向かって進んでいきます。一般的な意味でのクライマックスは、大抵、終結の手前で現れる。意志が実現した瞬間か、あるいは折れた瞬間か。前者だとハッピーエンドだし、後者ならバッドエンド。


ストーリーには「クライマックス」がありますけど、「クライマックス」はストーリーにしかないわけではありません。

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』というドキュメンタリー映画は、ストーリー仕立てではありません。ビル・カニンガムとはどういう人物なのかを紹介することがこの映画の目的ですから、ストーリーになる必要性はありません。そういう演出も可能だろうけれど、そういうのは作り手の作為が入ってあざとくて、ビル・カニンガムという人の魅力をかえって棄損してしまう恐れが強い。

では『ビル・カニンガム&ニューヨーク』に「クライマックス」はないかというと、それがあるんです。記事でも紹介しましたけど、「ファッションは鎧だ」といったあとの彼のの笑顔がそこです。僕はあの笑顔に、彼の人生観が集約されていると感じました。だから、そこが頂点であり「クライマックス」です。


次は、これ、いってみましょう。


「The Berlin Celebration Concert」です。1989年です。

1989年でベルリンというと、「ベルリンの壁の崩壊」と歴史的事件があった時と場所です。その崩壊をcelebration したときのコンサートの記録です。他にもベルリンの壁崩壊を祝うイベントはいろいろあったでしょうが、それでも“the”という定冠詞を付けて語られるのは、これになる。そして、演目はベートーヴェンの『第九』になる。もちろん理由があるんです。

その理由は、当然、『第九』の「クライマックス」と関連しています。では『第九』のクライマックスは、どこか。この動画だと、1:22:50 あたりからがそうです。

ここは何かというと「祈り」です。平和を希求する祈り。

『第九』のキモは何かというと、「人間の声」を導入したところにあります。「歌」ではなく「声」なんです。
楽器で奏でられる器楽に、楽器としての「声」を導入した。それが『第九』という音楽のアイディアでした。

どうもベートーヴェンは、はじめからそのアイディアをもとに『第九』を作曲していたわけではないらしい。いろいろ考えあぐんで、あるときそのアイディアに目覚めんた。ベートーヴェンは作曲途中のスケッチが詳細に残っているんですが、なので作曲過程が詳しく研究できるんですが、1~3楽章はかなり苦労して作曲していたのに、「声」が入る4楽章は一気に書き上げたらしい。アイディアが降りてきて、勢いが出たんでしょうね。だから、プロのなかにはもっとも盛り上がり、かつ『第九』の結論である第4楽章を批判する人もいる。純粋に音楽の構造としてみると、出来が悪いんだそうです。

プロの意見は尊重しなければなりませんが、しかし、聴くのは素人です。どう聞いても第4楽章が結論だし、“the Celebration Concert”の演目にもなる。「クライマックス」が「祈り」の音楽のだからこそ、ふさわしい。

『第九』の「クライマックス」では単に楽器として扱われていた「声」が、ここでだけは「歌」になるんです。まず器楽で[世界]が提示され、そこに「声」が登場して[社会]が表現される。ここだけ抜き取るとまるでダーウィニズムですが、この音楽を無神論として批判する人はいません。「クライマックス」が「平和への希求=神への祈り」になっているから。ここは人間性の表現である「歌」でなければならない。

「クライマックス」とは、「表現の構造」と「意味の構造」が一致する場所というふうにいうこともできます。『第九』はその典型例だと思います。


同じベートーヴェンでは、以前、31番のピアノ・ソナタも取り上げました。この作品には「〈悲〉響き」があるという話をしましたが、そこがまさに「クライマックス」。ここの「クライマックス」は、音と音のあいだの「間」です。楽譜には音符として書かれないことで表現されているところが「クライマックス」になっています。

「間」に意味を見出すなんて「水を感じるために水を抜く」という枯山水の手法みたいですが、そういうことが表現には起きます。伝統的に日本人は、そうした手法に意識的だったと思います。「引き算」ですね。


こういったふうに、ストーリーのような“構造”のある作品を「クライマックス」を探しながら鑑賞すると、とても面白くなります。「クライマックス」を見つけることができるというのと、作品の意味を理解するということは、ぼほ同じと言っていい。

ただし、これは構造のあるもの、という限定がつきます。たとえばポップスなどは、構造をもつには短すぎる。作品全部がクライマックスという感じで、ということは、クライマックスはないということです。なので、意識的かどうかは知りませんが、何かを伝えたいと考えているアーティストは、短い作品を集めた「アルバム」といったものを作ろうとする。「アルバム」になると構造ができあがりますからね。

また「クライマックス」はあっても、それが「表現の構造」と「意味の構造」の一致でないようなものもある。音楽なら、バッハなんかの純音楽とか。「表現の構造」はあるけど、「意味の構造」がありません。そういう意図が始めからない。「伝えよう」という意志がない。意志のない表現があるだけ。




新しい認知理論であるアフォーダンス理論の出発点は、新しい理論がすべからくそうであるように、それまでの前提の否定です。何を否定したかというと、「形」を否定した。視覚で知覚する対象には「形」があるはずだ。アフォーダンスでは、そんなものはない、というんです。

では何があるかというと「動き」だといいます。情報は絶え間なく変化しながら感覚器官に入力されて続けている。私たちが「形」と認識するのは、変化のなかの不変なものです。アフォーダンス理論の提唱者ジェームズ・ギブソンはそれを「不変項」といいましたが、私たちが行っているのは、常に変動する環境からの入力のなかから「不変項」をピックアップすることだというのです。

ではなぜ「不変項」がピックアップされるかというと、それは主体にとって「意味」があるからです。入力されてくる情報のなかのある一定の特徴が、情報を探索する主体にとっては予め意味がある。主体は意味のある特徴を見出そうと情報の探索を常に行い、発見した意味ある特徴を「不変項」つまり「形」として認識します。

 アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。アフォーダンスとは良いものであれ、悪いものであれ、環境が動物に与えるために備えているものである。アフォード(afford)は「~ができる、~を与える」などの意味をもつ動詞であるが、英語にアフォーダンス(affordance)という名詞はない。アフォーダンスはギブソンの造語である。
 アフォーダンスは事物の物理的性質ではない。「動物にとっての環境の性質」である。アフォーダンスは知覚者の主観が構成するものでもない。それは環境の中に実在する、知覚者にとって価値ある情報である。



物理的性質でもなく、かといって主観でもない。私たちは「主観vs客観」という二項対立でものを考えるのになれてしまっていますから、そのどちらも否定されてしまうとイメージすることがなかなか難しい。

本書はそこいらをイメージしてもらうことが目的なわけですから、詳細なイメージを欲するならば本書を読んでもらうとして、ここでは僕の言葉で表現させてもらいます。

アフォーダンス理論のキモは、情報が時間を含んでいると(いう言い方はしていませんが)したことです。「形」というのは無時間であるのに対し、「動き」は時間がないことには成立しません。
時間という観点から見れば、主観も客観も、どちらの無時間です。無時間という前提でどちらが正しいかを探っても、情報の実体が有時間であるなら意味がない。アフォーダンス理論は無時間というものの限界を示したものだと考えます。

しかし、無時間がまったく意味がないのかというと、そうではない。上記引用に「価値」という言葉が出てきますが、この「価値」は無時間です。知覚者が価値ある情報をピックアップするということは、有時間から無時間をピックアップしているということになります。私たちの環境で生起する現象は有時間であり、ゆえに環境から常に入力されてくる情報も有時間です。それを無時間にすることによって私たちは知覚を行っている。

この有時間から無時間への変換は、人間の性質だろうと思います。環境は、別の言い方をすれば複雑系で非線形空間です。ですけれど、私たちの理解はどうしても線形へと単純化されたものでないと難しい。人間は有時間から無時間、非線形から線形への変換を無意識のうちに行っていると考えられます。

ただ、変換が人間だけのものなのかは疑問です。ギブソンはアフォーダンス理論は動物の認知理論だと考えていたようですが、だとするなら、有時間・無時間変換は動物の特徴だということになります。

また、僕は、この無意識の変換を「意志」だと捉えています。その理由は後ほど述べますが、なるほど、この意志は動物的ではあるのです。人間に固有の「意志」もありますが、それはもっと顕在的で意識的なものだと感じています。


さて、では、前半の「クライマックス」の話とアフォーダンス理論を結びつけたいと思います。
「クライマックス」の話を「クライマックス理論」と呼ぶことにすると、クライマックス理論とアフォーダンス理論は、アナロジーで語ることができると思う、つまり相似形だと思うのです。

アナロジーの軸は、無時間/有時間です。

言葉というのは無時間です。一方で、言葉によって紡がれるストーリーは有時間。物語を読むという行為は、無時間である言葉を時間のベルトコンベアの上に乗せて鑑賞していく行為です。

無時間→有時間という行為のなかで、言葉たちはその輪郭を失っていきます。有時間な言葉たちの集合は、たんなる言葉の集合以上の意味を持ち始めるようになる。言葉以上に意味がある言葉の集合の意味を「ゲシュタルト」と言います。

ストーリーをアフォーダンス理論に準えるなら、それは環境です。ストーリーに没入した体験を持ったことのある人なら、ストーリーが環境に相当するという考え方は、感覚的に理解出来ると思います。

言葉はアフォーダンス理論が否定した「形」に相当します。しかし、「形」としての言葉は時間のベルトコンペアのなかでゲシュタルトとなって「動き」になります。

だとすると、「クライマックス」は「不変項」に相当します。

私たちは絶え間なく変化する環境の中から常に「価値」を探索しています。ストーリーという環境の中で輪郭を失った言葉たちは、その意味が揺れ動いています。言葉たちの意味が確定するのは「クライマックス=不変項」が立ち上がってからです。「クライマックス」の出現によって、揺れ動いてた言葉たちは、一瞬にして秩序づけられ然るべき場所に配置されることになります。

リアルな環境においても、この秩序づけの作用は同じでしょう。「不定項」の出現によってその他の情報も、「不定項」の価値に沿って意味づけられることになる。そうやって私たちは環境を認識しています。

アフォーダンス理論とクライマックス理論の相違点も、もちろんあります。
アフォーダンス理論では、価値は予め定まっているとされますが、クライマックス理論では異なります。価値は知覚者が発見するものであり、後付けです。

その意味で、アフォーダンス理論は「ビフォー・アフォーダンス」だと言えます。クライマックスは「アフター・アフォーダンス」です。この違いがあります。

(あれ、この話はどこかで読んだ記憶があるぞ? 平田オリザさんだったかな?)

また「意志」の質も違います。アフォーダンス理論における意志は無意識で潜在的なものであったのに対し、クライマックス理論の意志は意識的・顕在的です。アフター/ビフォーと無意識的/意識的は相関関係にあると思われます。

しかし、最大の違いは、「価値」のあり方です。アフォーダンス理論における価値は主観が構成するものではないとされますが、クライマックス理論における価値は完璧に主観的です。完璧すぎて、共有するのが不可能なほどです。

ここを時間の観点でいうと、アフォーダンス的価値は無時間な客観にむいてアフォードしているのに対し、クライマックス的価値は同じく無時間ではあるが、主観の方に向かってアフォードしているということができると思います。

さらにもう一つ。
客観に向いてアフォードしている「意志」は、動物的です。ギブソンがアフォーダンス理論を動物の認知理論だと考えたのと合致します。対して、主観へとアフォードしている「意志」は人間的です。だとすると、クライマックス理論は人間の認知理論だということになります。


そう考えていくと、今度は、動物的「意志」と人間的「意志」は同じものか、別のものかという疑問が湧き上がってきますが、ここを考えるのはまた次の機会に譲ります。

最後に上掲書からの引用を。

 本書の「新しい認知の理論」という副題につられて読み進めてきた読者は、やや失望したかもしれない。たとえばこの本には、認知の理論には欠かせない「言語」の話がないと思われたろう。しかしアフォーダンス理論は「言語」にも応用可能である。これまでの認知理論は、人によって「話されること」を、こころが解釈する「記号」と考えてきた。言語を理解することは、知覚とは別のこととして扱われてきた。しかし「感覚・知覚」と「認知」をこのように分けてしまうことは「感覚主義」の悪い伝統である。発話を理解することは、記号を解読することではなく、知覚の問題である。
 (中略)
 もちろん環境から情報をえることと、声によるコミュニケーションから情報を得ることとは異なる。ただし、言語の研修者がすべきことは、ギブソンが視覚の領域でしたこと、つまり視覚にとって「環境」とはどのようなものであるのか、視覚が獲得する「不変項」がどのようなものであるのか、そして視覚のためには身体はどのようなシステムであるのか、ということを言語の領域で探求することであろう。言語のための「環境」、「不変項」、「知覚システム」などがどのようなものであるかが明らかにされれば、「エコロジカルな言語理論」が成立するだろう。それがどのようなものなのかはまだ見当もつかないが、もしその試みが成功すれば、感覚主義の視覚理論と生態学的視覚論がまったく異質であったように、現在の言語理論とは異質なことばの理論が誕生するだろう。



なんだか大袈裟な話になってしまいました...(^_^;)

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