愚慫空論

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』

チャーミングな爺さんがいるものです。


これは、ほんとうにおすすめです。
幸せな気分にしてもらえます。
ビル・カニンガムの幸せが伝染してくるからです。

僕がこの映画に興味をもったのは、コメント欄で紹介いただいたから。
「ファッションは現代人にとっては武装だ」
この言葉に興味を惹かれました。

確かにビル・カニンガムはこのような言葉を映画のなかで語っています。
だけど、僕が想像していた文脈とはまったく違っていました。

「ファッションに否定的な声もある。
 混乱を極め問題を抱えた社会で、ファッションが何の役に立つ? 自体は深刻だと。
 だた、要するにファッションは、ファッションは鎧なんだ。日々を生き抜くための。
 手放せば文明を捨てたのも同然だ。」

日々を生き抜くための鎧だというときの表情。
まさか、こんな柔らかい表情で“armor”と言葉が発声されるとは。
(予告動画 1'15" あたり)

ここには攻撃的な色合いは微塵もありません。
そもそもの言葉がもつイメージが見事にひっくり返されています。
とはいえ、“armor”という言葉を選んだ理由は、何かあるはず。

「最高のファッションはストリートにある」

と、ビル・カニンガムは言います。
このセリフはキャッチーで、動画にも取り上げられていますが、その映画のなかではその理由も語られています。
といって、「蕩々とした説明」があるわけではないんですけどね。

「誰にもセンスはある。ただ勇気がないだけ」

「鎧(armor)」というのは、言い換えれば「ペルソナ(仮面)」でしょうか。
自分という仮面です。
偽りのない自分をいかに演じることができるか。
文明社会では、それはファッションにこそ現われる。
――と、ビル・カニンガムは言ってはいませんが、きっとそんな風に考えているんだろうと思います。

お金にとらわれることなく、〈生きる〉ことが仕事になっている。
課題を分離した生き方の、見事な標本です。

いきなり出てきましたが、「課題の分離」というのはアドラーです。

  

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』は何度も愉しめる映画だと思いますが、愉しむだけではなくて、ここから「人生の意味」みたいなもの(あくまで“みたいなもの”)を引き出そうと思うなら、上の二冊は最高の参考書だと思います。

いや、逆かな? 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の参考映画が『ビル・カニンガム&ニューヨーク』。

「勇気」という言葉は、かなり重たい。
上の二冊は勇気の大切さを蕩々と説いてくれます。
その理路が理解すればするほど、勇気を持つということは、難しくて大変なことだと感じてしまいます。

難しくて大変なのは間違いではないでしょうけど、そこに無意識のうちに付随してくるイメージが問題です。
重たい。

ビル・カニンガムが示してくれているのは、勇気です。
それは、現代文明においては、ファッションという形でストリートに現れている。
彼は魅せられて、ただただ追いかけているだけ。
この生き方もまた勇気です。
自分に必要なものだけしか必要としない。
「禁欲」とか「節制」とかいったような“重たいもの”ではない。
魅せられたものを追いかけていくと、ごく当たり前にそうなったに過ぎない。

とても軽やかな勇気。
この勇気が、映画を視ている者を幸せな気分にしてくれます。

断わっておきますが、あくまで幸せな“気分”です。
幸せになるには勇気が必要ですが、さすがにそこは自身で調達するしかありません。


もっとも、ビル・カニンガムはこのようにも言っています。

「誠実に働くだけ。それがNYではほぼ不可能だ。
 正直でいることは、風車に挑むドン・キホーテのようなものだ」

彼はファッションを武器にカテゴライズされる「鎧」と言った理由は、ここにあるのかもしれません。


YouTubeで全編視聴することができるようですね。300円から。
 僕はネットでレンタルしましたけど。送料別で80円なり。

コメント

Sick City

カーネギーホールを擁するマンハッタン区はおよそ6,000haで、都心4区(新宿区/中央区/千代田区/港区)とほぼ同じ広さです。マンハッタン区域内の居住人口はおよそ150万人超。
コントラバシストの岡本哲史が在マンハッタンで、彼によれば、リンカーンセンター近くのファミリー向け1LDKの家賃が50万円。これが平均的な家賃だそうです。ハーレムやマンハッタン北部も家賃が高騰していて、30万円台で抑えようとすればある程度安全を犠牲にしてリスクを取るしかないとのこと。

マンハッタン内の単身者向けワンルームの場合、安全なところだと最低20万円。
ブルックリンやクイーンズを選べば家賃は下げられるけれども、場所によっては途方もなく危険である場合もあるそうです。日本の大都市とは別の貌を持っていると言えましょう。華やかだけれども、決して安全と言える街じゃない。

金が無ければ、安全が買えない街。

ビル・カニンガムが被写体を見定めているエリアは安全なのでしょうけれど、無論そこに住める人は一部で、域外であったり区内のより危険な場所から通っている人も少なくないと思います。
そういう場所で、衣服で自己表現をし尽くすということはそれなりのリスクを覚悟することでもあると私は推測します。
単に“躊躇せずに/同調圧力に流されずに”自分が選んだ服を纏い、他者に対して己の美意識をプレゼンスするということと異なるレベルでの意志決定が介在してくるのではないでしょうか。

まあ私はマンハッタンに住んだことなどないので、実感としてどの程度危険なのかは判りませんが、少なくともファッションに関しては表参道や麻布十番をぶらつくような感覚で着飾って出歩けるものでもないと思います。ツーリストがドレスアップしてツアーバスで観光地とホテルを往復するのとは異なります、ビル・カニンガムが捉えているのは生活者の姿ですから。
「私」であるためのファッションなんだけれども、リスクを取る覚悟もあってのものだと思います。部族社会で戦に出て行く時に目一杯着飾ることがあるじゃないですか。同じような覚悟があるのだろうと思います。
そういう意味も含んだ、武装。

追記。
ファッションにリソースを割くことはリスクを背負うことでもあるという、一例。
当該のコラムも面白いです。エントリの主題からは外れますけれどもね。
https://twitter.com/Thermari/status/725160325515890688?lang=ja

・残酷さになれる訓練さん

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』を視てから、なぜ残酷さになれる訓練さんが「武器」と言ったのかが気にかかっていました。その理由を説明して頂けたわけですが...。

水と安全はタダ。しばしば挙げられる日本の特徴ですね。彼の地では、仰るように、日本のような感覚でファッションを身にまとうわけにはいかないでしょう。ファッションについては詳しくないのでなんとも言えませんが、日本人のファッションは、一部の例外を除いて、柔らかいのではないかと思います。

いま、例外といいましたが、僕の念頭にあるのはフォーマルなスタイル。ユニフォームの類いです。ビジネスマンのスーツなんかも一種のユニフォームですよね。あれらはどことなしに攻撃的な印象を受けます。

そういえば、着物の国だった日本が洋装を採用するのになったのは、西洋のファッションを輸入するという文化的な理由以上に実際的な理由があったそうですね。軍服としては、着物より洋服の方が合理的にできている。

余談になりますが、大正天皇のお妾さんだっかかが、軍服を着て馬に跨がる天皇を姿をみて、「こんなことでは日本はダメになる」といったとか。

しかし、そうしたことを踏まえると、なおのことビル・カニンガムの「鎧」というときの表情は柔らかい。この人は、僕と同じくw、性善説の人でしょう。根拠はないけれど、確信しています。

といって、僕は文明に対しては彼のように好意的ではありません。その点は、僕の目からはビル・カニンガムはナイーブに映ります。才能もあったでしょうし、努力もしたでしょう。しかし、なによりラッキーだったんだろうと。もちろんそれらは祝福すべきことで、そこを攻撃して呪うなどという行為がバカげたことであるのは言うまでもありません。


「鎧」をもっと攻撃的な「武器」と言い換えられた残酷さになれる訓練さんは、性悪説の視点なんだな、と思いました。一方で文明に対する立ち位置のほうは近いみたいですね。

Little Black Dress

>愚慫さん

返信ありがとうございます。
ファッションに関して、折しもtwitterで批判を浴びている記事があるのでコメントに絡めてご紹介します。
とある防災アドバイザーが熊本地震の発生を受けて、被災者に向けた避難所での服装に関する「助言」をブログ記事としてアップしました。この方の「助言」はネットニュースの記事に採り上げられ、被災した女性は「女を捨てろ」「赤やピンクを着るな」という主張が衆目に晒されました。
↓件の防災アドバイザー・岡部梨恵子氏のブログエントリです。
http://ameblo.jp/keinaonao/entry-12081746810.html

これに対して、フェミニストを中心に猛反発・批判が捲き起こっています。
以下は一例。
https://twitter.com/lije_bailey/status/727712568081534977
https://twitter.com/c_ssk/status/727522565187637252
https://twitter.com/00kate22/status/727526504796581888
https://twitter.com/mtzw1004/status/727701395130847232
https://twitter.com/kizury/status/727712129625763841

本件に関しては、フェミニスト諸氏の仰っている通りだと思います。
「この非常時に」を錦の御旗に掲げた、毎度毎度の女性に対する抑圧であり、先回りして被災者/被害者の「実際にはどこにも存在しない落ち度(※)」を叩く行為以外のものではありません。他方、こうも言えます。人間は他者を抑圧することにどうしようもなく耽溺する面があると。被災だなんだは口実に過ぎないと。

ファッションとは、常にこういう抑圧者にとって格好の対象となりがちなのです。
現代において、ファッション(なかんづく衣服)は単に寒暖をしのぎ体を守るためだけの存在ではありません。
個人のアイデンティティや、プレゼンスといった文化の根本にかかわる存在です(但し、その存在の大小は個々の被服に関する意識やプライオリティに依存しています)。

そして、美意識やプライオリティが先鋭化すればするほど、前述の如き抑圧と鋭く相克・対立することとなります。
衣服が「武器」たり得るのは、そうした抑圧(者)に対する抵抗を形で主張出来るツールだからですよ。
着ることそのものが戦いであり、抵抗なのです。

私は勤め人時代、他の男性社員が皆スーツで勤務している職場で、ノータイ/ジャケット/PVCのパンツで平然と仕事をしていたんで、色々言われてました。「何でスーツを着ないのか」と面と向かって言われたことも何度かあります。
「上と交渉してスーツ・ネクタイは着用しなくてよいと言質を取ってあります(筋は通してあるしアンタ等に断りを入れる必要はないでしょう)」と即答していました。結構回りからは嫌われていたと思いますよ。陰口も叩かれていたようです。
自分で戦わない者というのは、決まってそういう陰湿な抑圧に淫するものですよ。もう見飽きました。
所詮、自分の甲冑すら自分で選べない連中です。

愚慫さんは私を性悪説の人と見做していらっしゃるようで、それはそれで構いませんが、私自身は性善説にも性悪説にも関心はありません。そもそも大半の人間は善悪を精査して行動できる相に居ないと思っています。
彼らは例えば「俺が我慢していることを奴が我慢しないのは許せない」というような、私から見れば理解も共感も出来ないモチベーションで動いている。そういう心理を理解するためにリソースを割く意欲はもとより私にはありません。
文明に関しては、映画を観ていてビル・カニンガムの文明観を明瞭に感じる瞬間は私にはありませんでした。
ただ、ビル・カニンガムは文明に対して正攻法で適応しているわけではないと思います。ニッチで生き延びている。
腹を括った上での、一種のサバイバルですよ。そこは参考になりました。
別に私はこの文明社会を好きでも肯定してもおりませんが、かと言って「自然」が要求する他人との距離・関わりに適応できるとも思えないので、生き延びるために消去法でこちらを選んでいる。別の道を進めばまた新手の抑圧が待っている。そう予感しているわけです。

※性犯罪(レイプ/痴漢等)と被害者の服装との間には、統計的に有意な相関関係は見出されていません。これは物盗りとは異なる特徴で、物盗りであれば約20年前にNIKEのAir Max95が大ブームとなった際に所謂「Air Max狩り」が問題になったように、着衣それ自体が盗難の対象/目印となる場合があるわけで、リスクの発生源が異なります。
性犯罪に対して、女性がリスク回避のために女性であることを止めることは不可能です。そして加害者から標的にされた場合、社会生活を営みながらの回避は極めて困難となります。

・残酷さに慣れる訓練さん

ご紹介のブログについて。

僕はこの件に関して、フェミニスト諸氏の主張の通りだとは思いません。
非常においては、岡部氏の主張が的を射ていると思います。

「この非常時に」という御旗が有効なのは、実は非常時ではありません。非常時を横目で見ている平常な人々に対して、です。

非常事態にはすべての人が抑圧されています。老若男女を問いません。平常にいる人はこのことが理解できていない。現に非常事態にいる人が心配しなくてはならないのは、さらなる不幸です。その確率は、非常時であるがゆえに平常時よりずっと高いのです。

エラそうにいいますが、僕はふつうの人よりも非常事態に居合わせた経験が多いでしょう。戦場は幸いに経験はありませんが、生死に関わる事態に幾度か遭遇しています。平常モードと生死がかかった非常モードでは、感覚がまるで違います。バチッとスイッチが切り替わります。

岡部梨恵子氏の「女を捨てろ!」は、平常においては確かに強すぎるメッセージです。けれど、非常時では、この程度の強度で通常です。

話は違うようですが、『アメリカン・スナイパー』がまさにこの話なんです。戦場と平和な日常の対比です。戦場での非常事態スイッチが入りっぱなしになって解除できないから問題なんです。けれど、非常事態において、スイッチが入らないのはもっと問題です。生存に関わります。岡部氏はこのことを指摘しています。

残酷さになれる訓練さんもそうなんでしょうが、フェミニスト諸氏も、この岡部氏のメッセージが誰宛に送られているのかをよく考えてみる必要があります。平常にいる人たちにではないんです。

非常事態にいる人たちに対してのメッセージを平常にいる人が勝手に自分宛のものだと解釈して、平常時の感覚で批判する。まさに平和ボケです。


震災時などの女性の被害については、間接的ですが僕も若干関わったことがあります。神戸の地震の時です。

当時、僕は建築設備の業界で働いていました。水道や空調などの設備を施工保守する仕事です。

地震から一週間して僕も現地に入りました。被害の状況を調べて、修復に必要な資材と人員を調達するのが役割でした。まず取りかかったのは、宿舎の確保。ホテルの修復です。橋頭堡が確保できないと、次に進めないからです。

まずは機能するようになったホテルですが、そこに宿泊する人たち(現場関係者)に厳に言い渡されたことがありました。部屋の光を外に漏らさないこと。営業はしていませんでしたが、営業できる状態であることが察知されると、被災者たちが押し寄せてくる可能性があったからです。

避難所にいる人たちは辛い状況におかれていました。それは僕もこの目で見ているから知っています。だけど、だからといって、僕たちの宿泊所を明け渡すわけにはいきません。仕事ができなくなるからです。とはいえ、ホテルの状態が察知され、辛い状況の人たちが来てしまえば断ることが、通常の場合よりもずっと困難なのは容易に想像できます。だから、察知されてはダメだったんです。

ホテルの次に取りかかったのが病院。その次が風俗街でした。警察からそういう依頼があるのだと聞かされました。神戸には有名な風俗街があるのですが、ここは震災から半月後には営業していたそうです。といって、風呂などの設備は壊れて使い物にならない。苦労して営業していたそうです。

こうした場所を通常どおりに戻すことは、実はとても優先順位が高いのです。こうした場所は、平常時では抑圧された場所で、どちらかといえば後回しにされる場所です。ですけれど、非常時ではこうした場所が抑圧を解放するのに必要なんですね。


岡部氏の主張は僕のこのときの経験とも合致します。通常より抑圧の高い状態におかれた人は、抑圧を解放する機会を狙っています。風俗街の早期の復旧は、その機会を設けて抑圧解放をコントロールするためのものです。

怖ろしいのはコントロールされない解放です。これは直ちに暴力になります。岡部氏がアドバイスしているのは、そうした契機を与えないようにすることです。「女を捨てろ」というのは「通常モードの女」で間違いないはずです。それが非常時にいる人には「女を捨てろ!」になる。非常時にいても、非常時がどのようなものなのか、たいていの人は知りませんから、それで適切なアドバイスになるのです。

ファッションという自己主張が抑圧者にとって格好の対象となりがちだというのは、そのとおりだと思います。ただ、これは通常モードの話。ここの議論をそのまま非常事態の話と直結させるのには、僕は同意できません。

・残酷さに慣れる訓練さん

以下は通常モードの話です。

衣服が「武器」たり得るという残酷さに慣れる訓練さんの主張は理解できるつもりです。というか、もとよりそういう理解をしていたつもりです。『ビル・カニンガム&ニューヨーク』を観てみようと思ったのは、その理解を確認したくて、だったのです。

だけど、嬉しいことに、その期待は裏切られました。少なくとも、僕は裏切られた。
ビル・カニンガムの柔らかな表情は、そういうことを言っているのではないと感じた。

もちろん、これはいうまでのないことですが、僕の完全な主観です。その正当性を主張する根拠はどこにもありません。


僕が残酷さに慣れる訓練さんを性悪説の人だとみなしているのは、その通りです。で、これもまた、僕の完全な主観です。僕なりの根拠はありますが、それとても「僕なり」であるだけ。

そしてまた、性悪説に立つことが悪だという前提にも立っていません。なので、残酷さに慣れる訓練さんが「性善説にも性悪説にも関心がない」と仰るのは、とても助かります。というのは、大半の人間は、善悪を精査して行動できる相に居ないからこそ、「性善説に立つことは善」「性悪説に立つことは悪」という根拠のない信憑に取り憑かれていて、「性悪説に立っている」と見做すことと「悪人と見做す」ことを同一視してしまいます。それらは関連がないとはいいませんが、直接的な関係はない話です。


ビル・カニンガムが文明に対して正攻法では適応していないという指摘も、僕には興味深いです。僕の見解は逆です。

映画の終盤、ビルがパリで叙勲を受けるという場面があります。その場面で、大臣だかなんだか知りませんが、偉そうな人が「ビルは叙勲を辞退すると思っていた。彼は自身を叙勲に相応しくないと思っているだろうが、だからこそ叙勲に相応しいのだ」というようなことを述べていました。

この見解は、おそらく残酷さに慣れる訓練さんと同じです。大臣(?)もまた、ビル・カニンガムは文明のニッチで生きてきたと見做している。ニッチで生きてきたにもかかわらず、ビルは目を見張る業績を上げた。その功績を認めることは、文明の本流にいると自認している彼らにとっては、自身の文明本流意識を再確認することに他なりません。だから大臣は喜んだ。ビルはおそらくニッチにいると自覚しているから、彼らしく慎ましやかに叙勲を辞退するだろう――なんて思っていたに違いないんです。傲慢ですね。

僕はそうは思いません。ビル・カニンガムは、他の人がどのように考えようが、彼は文明の本流を生きてきたと思っているに違いない。だから、叙勲の話を躊躇なく素直に受けたんだと思います。そして、叙勲の場においても「ビル・カニンガム流の文明の本流」を貫いた。映画はそこのところを捉えていましたよね。

こういうのが「課題の分離」ということなんだと思うんです。残酷さに慣れる訓練さんや大臣の見解が不正解だというのではありません。他の人が出す正解不正解はどうでもいいんです。僕が残酷さに慣れる訓練さんを「性悪説に立つ人」と見做そうが、残酷さに慣れる訓練さんにとってはどうでもいいように、です。それはそれ、これはこれ。

なので、ビル・カニンガムの生き方がサバイバルだとも感じません。いえ、ビルが自身の生き方をサバイバルだと感じてはいないだろうと思います。別に腹を括っているという自覚もないと思います。
(腹を括っているのは、残酷さに慣れる訓練さんでしょう?)

ただ、残酷さに慣れる訓練さんとは違った意味では、腹を括っている部分はあると感じます。お金に対する距離の取り方が、そう。お金に深く関わると人生を奪われると感じているようですね。けれど、これも腹を括るというような「重たい」感じではなくて、武芸の名人がごく自然に間合いを取るような、そんな感じですよね。とても軽やか。

僕の話でいうと、僕は文明に抗ってサバイバルするのが本流だと思っています。その本流意識と性善説とが深く結びついている。だけれど、これは僕の話であって、ビル・カニンガムにおいては、文明肯定と性善説とが深く結びついているだろうと推測している、ということ。どちらが正解不正解という次元の話ではありません。

三連投、すみません ^^;

・残酷さに慣れる訓練さん

>「俺が我慢していることを奴が我慢しないのは許せない」というような、私から見れば理解も共感も出来ないモチベーションで動いている。

そういえば、そういう話を宮台さんがしていました。先月末のマル劇で。

【5金スペシャル】誰が何に対してそんなに怒っているのだろう
http://www.videonews.com/marugeki-talk/786/

5金なので、会員でなくても視聴できます。

僕も取り上げましたけれどww、一部芸能人への批判や不謹慎狩りといった現象。その根っこが

「オレも我慢しているんだ、だからオマエも我慢しろ、我慢できないのはケシカラン」

という心性ですね。

マル劇で話題になっていたのは、首都高の分岐です。どこぞの分岐では、その1キロも手前から分岐方向の車線に車が並んでいる。分岐方向に行く車は、横の車線が空いていても、列の後ろに自主的につく。ルールを遵守するだけでよいなら、もっと分岐の近くまで空いている車線を走ってから分岐方向の車線へ割り込めばいいのだけれど、なぜか多くの人間はそれをしないし、途中で割り込もうとする車に対しては敵意を剥き出しにして、割り込ませまいとする。こういうのは、日本人に独特だというのですね。諸外国では分岐の手前まで開いている車線を走るのが当たり前で、そのかわり分岐のところでは大渋滞になるんだけれども、だからといって、分岐のずっと手前から並ぶというは感覚はよくわからないし、まして、ルールどおりに並ばない者に敵意を向けるというのは理解できない、と。

こういうのを僕は「過適応」といいますけれど。

ちなみに関西では、このような過適応はあまり見受けられません。いえ、見受けられませんでした。最近はそうでもないという話も聞いていますが。

宮台さんは日本人のこうした振る舞いはバカバカしいという感想を持っているようでした。けど、僕は理解出来なくはない。これこそ日本流の資本主義エートスですからね。

みんなでがんばって、みんなで稼ぐ。
これは、みんなでがんばって、みんなで田植えや稲刈りをしていた文化からつながっているんだと思います。そうした文化の堕落した形。

首都高で、分岐の遙か手前で並ぶのは僕はいいと思います。これは「課題の分離」ができている。自身の進むべき方向を認識することで、それとは別に利益を受ける人間が出てくるわけですから。電車の乗り降りで秩序正しく列を作るのも、そうすることで、みんなが効率よく課題を達成することができる。

だけど、残酷さに慣れる訓練さんが指摘されているファッションに関するケースは違いますよね。主張する者を抑圧してみても、誰も利益を得る者がいません。みんながそれぞれ嫌な思いをし、しかも、みんなが他人に嫌な思いを原因を押しつけています。

ユニフォームを着用すべき合理的な必要性があるなら、従うべきでしょう。警察官は制服を着用した上で銃を携行するのは、社会秩序の維持という観点から有用性が認められます。私服の警察官は、逆に、隠密に捜査をするという観点から、ユニフォームを着用しないのが合理的。

上長がスーツの非着用に対して許可を出していると言うことは、スーツ着用への合理的な必要性はないということですよね。それでもルールを過剰に遵守することで利益を得る者がいるならいいんですけど、誰もいないならば、バカバカしい話だと思います。

Land of Rape and Honey

>愚慫さん

返信ありがとうございます。
見解が著しく相克している件にのみ返信しますね。
本田靖春が満州引揚げ者の証言について書いたルポを読んだことがあります。
引揚げ者が貨車で移動中、ソ連兵が貨車の屋根を剥がして襲撃してくる。引揚げ者たちは若くて容貌の美しい女性を隠すようにして守っているのですが(当然見た目が女らしく見えないよう扮装もさせている)、ソ連兵たちは容姿の良い女性だけを探し出しピックアップして拉致して行ったそうですよ。
帰国して、後年学校長の職に就いた女性は、悲鳴を上げながら為すすべなく拉致されていく娘たちを目の当たりにしつつ、自分が美しい容姿に生まれなかったことをこの時ほど感謝したことはなかったそうです。

非常時であれ平時であれ、加害者は自分が襲う相手を仔細に検分して、ターゲットに選ぶのですよ。服装の種類や色で相手を選別するわけではない。それは過去の強姦者たちによる様々な供述からも明らかです。
彼らは冷静に計算高く、弱い者/抵抗できない者/己の嗜好に沿う容貌の者を選別して犯行に及ぶのです。
それは常に害を被ってきた者こそが、肌身に染みて理解していることです。

繰り返しますが、女が女を捨てることは不可能です。性的魅力をアピールする服装を避ければ性犯罪の被害から逃れられるというなら、小平義雄はモンペ姿の女を強姦していましたよ。何の意味も効力もないどころか有害極まる「助言」ですよ。
もしODのカーゴパンツにチャコールグレーのマウンテンパーカを着た女性が強姦される事件が起きれば、被害者はまた別の「落ち度」を探され、やれ不用心だの警戒心不足だの抵抗できたはずだのと謂れのない非難を受けるわけでしょう。いつだってそうじゃないですか。

付け加えると、こと性暴力に於いて女性には「平時」は無いですよ。常に男性からの加害を警戒して生きている。大抵の男性はそれに気が付いていないだけです。
資料となる文献も置いておきます。PDFファイルがダウンロードできます。私もまだざっと目を通しただけですが、避難所等の「非常時の」性暴力の多くが極めて計画的且つ理性的に行われている事例が多数挙げられています。
非常時に抑圧からの解放として性暴力が発生するのではないです。非常時の混乱を奇貨として、その機会を利用して性暴力が行われるのですよ。

東日本大震災「災害・復興時における女性と子どもへの暴力」に関する調査報告書
東日本大震災女性支援ネットワーク・調査チーム報告書 Ⅱ
http://risetogetherjp.org/?p=4879#more-4879

・残酷さに慣れる訓練さん

仰ることはよくわかりますけど、問題点がズレてきていると思います。
焦点は、「女を捨てろ!」というのが抑圧か否かというところだったと思います。

平常時に女を捨てろというのは抑圧になるというのは、議論するまでもありません。
異常事態においても、結局は女を捨てることができないというのも、仰るとおりなんだろうと思います。

残酷さに慣れる訓練さんの論理は、こうです。
・異常事態においても、女を捨てることは不可能である。
・ゆえに、「女を捨てろ」というのは抑圧である。

僕の主張は
岡部氏は「非常事態とはどのようなものなのかを認識してスイッチを切り替えろ」と言ってるが、賛成である。

僕からすれば、残酷さに慣れる訓練さんの議論は、やはり平常時のものなんです。平常時の議論としては説得力があるし異議もありません。

平常時と非常事態では合理性が違うのです。だから「スイッチが切り替わる」のです。ここが大切なところで、そのためには強いメッセージが必要だと岡部氏は考えたろうし、僕も同意します。

ご紹介のような閉鎖された環境では、女性は逃げる場所がないので女を捨てようが捨てまいが、最終的な結果は同じかもしれません。だけど、震災時の状況はそうではない。

女性だと認識されると危険性が高まります。
だから、認識されないようにせよ、というのは合理的です。

非常時は「生き延びる」ことが最優先です。
どれほど困難な状況であっても「可能性に賭ける」という決意が必要です。
乱暴を目的とする男と遭遇しても、女性だと認識されなければ逃れられる可能性がある。可能性の追求が非常時の合理性です。

そんな可能性はないよ、というのは平常時の議論であり合理性です。

Despair

>愚慫さん

https://twitter.com/low0l/status/727519173773955075
↑これが、防災アドバイザーの有害極まる「助言」に対する被災当事者女性の言葉です。
被災当事者女性の心を削る働きしかしていないんですよ。
愚慫さんがロジックで算出した正解は、男のものです。平時・非常時というレギュレーションもです。
ピンクや赤の服が性犯罪を誘発する効果があるなら、平時だって女性はピンクや赤を着るわけが無いでしょうに。
こういう見当はずれの「助言」は、被災当事者女性にとってはダイレクトに自分に向けられた攻撃になるのですよ。場合によっては二次加害を生みかねない。
その「合理性」は、あなたが平素単純化と批判しているものよりも更に質が悪いです。

また、先般の返信の内容で驚いたのはこれです。

>その次が風俗街でした。警察からそういう依頼があるのだと聞かされました。神戸には有名な風俗街があるのですが、ここは震災から半月後には営業していたそうです

この事実に対して私は愕然としたというか、戦慄し絶望しました。
男様はどれだけ甘やかされているのか。
「非常時」「抑圧」などというベロベロに甘ったれた慮りと共に、男が性欲を律せずに垂れ流すこと(ただし私は性暴力=性欲とは見做しませんが)は男社会によって看過され医療並みに優先的にケアされ続けてきたわけなんですね。防犯という名目で。
男様は、セックスしないと死ぬの? 即死するの?

女を捨てろと言うなら、まず、男が性欲捨てろよ。男を捨てろよ。非常時を口実にすんじゃねーよ。
甘ったれるなクズが! (この「甘ったれるな」は愚慫さんに向けたものではありません)
……というのが私の率直な感想です。ネットで感情を出すのは嫌いなのでなるべくこういう文面は書かないようにしているのですけれどね。
全く、自分が男性の一人であることに絶望しますよ。こういう事実を知らされるとね。

件の報告書が明示していることは、以下の事実です。

P65 / 社会構造的弱者である女性のなかでも、家族がいない女性、シングルマザーなど夫がいない女性など、より脆弱性が高い人たちを標的にした加害は注目に値する。一人暮らしの男性、非婚の男性が暴力や搾取の対象となる可能性は、女性と比べ極めて低い。

P79 / 加害をはたらく男性は、脆弱性が高い標的を選び、女性が拒絶できないような状況をつくり、被害を訴えられないようにもくろむ。このような言動は平常時にもみられ、その手口は、ことば巧みに被害者の警戒心を解いたり、さも被害者も同意したかのように思わせたり、あるいは、武器や言葉によって恐怖心を植えつけたりなど様々である。未曾有の死者、行方不明者を出した今回の大災害がもたらした影響のひとつは、加害者が武器や言葉による脅しによって恐怖心を植えつけなくても、死ととなりあわせの状況にあった被害者の恐怖心は計り知れなく大きい。抵抗したり拒絶したら自分や家族の身が危ない、被害を訴えたことが加害者に知れたら報復として避難所から追い出されるのでは、などという極限状況下の恐怖心を利用した加害である

加害者のこういった緻密な標的選別を回避する方策として、防災アドバイザー氏の「助言」は何一つ有効でないのですよ。
愚慫さんはまさか、女性が地味でみすぼらしい、垢抜けない格好をしていれば加害者から女と認識されづらくなると、本気で信じてるわけではないですよね……。

・残酷さに慣れる訓練さん

感情が振幅が大きくなってきましたね。良いことだ思います。危ういけれども。

仰るとおり、男は甘やかされていますよ。否定しません。いつの時代もどの場所でも、被害に遭うのは力なき者たち。これは哀しく残酷な現実です。
僕は残酷さに慣れる訓練さんが列挙する現実を否定しようというのではありません。それは非難に値することですし、どうにかしていかなければならないことです。

そういう話を僕は「平時の話」と言っています。わかっていないわけありません。岡部さんだってその程度のことは理解しているはずです。

ご紹介の当事者のツイート拝見しました。ですけど、僕が言いたいことはまったく変わりません。このツイートはむしろ僕の主張する非常事態における合理性を補強するものです。

有り体に言いますね。非常事態では、他の人がどうなろうが知ったことではないんですよ。残酷さに慣れる訓練さんは、岡部氏のアドバイスは全体としては向こうだと主張します。その主張を僕は否定しません。そういう論理に立っていないからです。

仮に女性の50%が何らかの被害に遭うとしましょう。この50%という数字はアドバイザーがどうあがこうが動かせないでしょう。それが残酷な現実です。

では、どうすればいいのか? 被害に遭わない方の50%に入るようにする行動するしかないじゃないですか。「自分が被害に遭わない。他の人は知ったことではない」という合理性に立てば、被害の絶対数はほぼ決まっているのですから、自分以外の誰かが被害に遭ってくれれば、その分だけ自分が被害に遭う可能性が減少するんです。

(こんなことを書くのは胸くそ悪いです。)

ご紹介の女性は、岡部氏のアドバイスを自分宛のメッセージだとは受け取らなかったようです。このことは、もし僕が女性で被災地にいるなら、ラッキーだと捉えます。この人は自分宛のメッセージだと受け取らないことで、犯罪者の標的になる可能性を自ら高めた。そういう選択をしたと考えるからです。

嫌になりますけど、「生き延びる」というのはこういうことでしょう?

また、僕がその人と知り合いなら。

「加害者の批判なんて後でもできるから、今は、できるだけ気をつけて下さい」

とメッセージを送ります。「岡部氏のアドバイスは参考になると思います」というのも付け加えるでしょう。
(合理性を貫徹させるなら、「他の人には内緒にしておいた方がいいですよ」というのも付け加えるところですが、さすがにそこまではしません。)

残酷さに慣れる訓練さんならどうしますか? ここでコメントされたような事実を列挙して、「被害に遭う可能性は全体としては何も変わらないから、その時になったら被害を甘んじて受け入れて下さいね」と言いますか? まさか、ね。

けど、言にそういうことを言っているんですよ、残酷さに耐える訓練さんは。もしこの遣り取りを被災者の女性が目にしたら、「だったら黙って被害に遭えというのか!」と怒りのメッセージを送ってくる人だって、いないとも限りません。

もっとも、そういうことがあったら、僕は「残酷さに耐える訓練さんの主張はあなた宛ではありません。あなたが怒る気持ちはわからないではないが、筋違いです」と仲裁します。いくらなんでも残酷さに慣れる訓練さんが、被災の現場でこんな遣り取りをするとは思いませんから。ここが「平常」だからこそのやりとりでしょうから。

けれど、これは公開ですからそういう批判がないとはいえないんです。けれど、そんなのを恐れていたら、こうしたやりとりを「抑圧」しなければなりませんよね? 僕はそんな「抑圧」には徹底的に抗いますけど。

これと同じなんです。フェミニストたちの怒りというのは。岡部氏のメッセージは、被災地の女性、それも、岡部氏のメッセージを自分宛だと受け止める人宛てのメッセージです。それをフェミニストたちは横から筋違いの批判している。それも正義を気取って。

公開のメッセージだから? そんなの、誰宛かを読み解くリテラシーがないと言っているような告白しているようなものです。

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