愚慫空論

年の暮れには『第九』

またもや、というべきか。ここ半月ほど自沈モードに陥ってしまっている。

昨年もそうだった。寒くなってくる時分からブログ更新に気が乗らなくなってしまい、開店休業状態に。自分のところだけならまだしも、UTSで約束していたコラムも何の断りもなくすっぽかしてしまった(UTSの皆さん、改めてお詫び申し上げます)。で、半年ほどの間、ほとんどネットと接続することもなくなってしまっていた...。

その間、うだうだ考えることまで止めていたわけではない。当ブログにアップするような訳の分からない思考は、自沈モードのような状態の時に方がむしろ活発化する。ただその思考にまったく自信が持てなくなって、誰にでも閲覧できるネットに挙げようという気力がなくなってしまう。いや、それ以前に思考を言葉に載せることができなくなってしまう。自分の思考を言語化したもの自分の思考であるような気がまったくしなくなる。

もともとから思考を100%言語化できるなどと考えているわけではない。言語化できるとしてもそれはほんの一部でしかないと思っている。ただ、ほんの一部であっても言語化しようとする営為、努力...、そうしたものに立ち向かう気力がなくなる。

なぜこんなことになってしまうのか、我ながら情けない限りだが、その原因には思い当たるフシがないでもない。だが、それについて触れるのは年が改まってからのことにしよう。
第一、そんなことを書き始めたら時間が足りない。PCの前で年を越す羽目になってしまうし、また、そんな気力も現在自沈モード中の私にはない。

で、年の暮れということで『第九』。『第九』とはもちろん、ベートーヴェン作曲の交響曲第9番ニ短調作品125。終楽章に混声4部のコーラスが加わる、あの『第九』。


このテーマ、昨年末の自沈モード中にも書きたいと考えていたテーマだった。書きたいと思って、実際に書きかけていた。結局アップしなかった未完のエントリー草稿は記憶の片隅に残っているだけでなく、探せばHDDのどこかにデジタルデータとして存在だろう。昨年書けなかったから、今年取り上げる...、というわけではないことはない。そういうことも多分にある。ただ、吐き出したいと思っている内容は、昨年とはちょっと違う。

昨年は、私自身と『第九』という楽曲についての関わりを単に独白しようと考えていただけ。出会いの経緯とか、今現在、一番好きな部分とか。それに多少、クラシック音楽を愛好しているという証として、ウンチクを加えて。つまりはスノビズム。

で、今年はどうなんだというと...、今までの『第九』に誤魔化されていたのではないか? ということ。もう少し正確に言うと、『第九』という楽曲の“一般的な解釈”に誤魔化されていたのではないか、と。


こうした考えの鍵になったのは第3楽章である。Adagio molto e cantabile と指示された緩徐楽章。有名な『第九』の4つの楽章のなかでもっとも知られていないであろう音楽。けれど『第九』を愛好する者たちには、最も愛されているかもしれない美しい音楽。

この美しい音楽は、“天国的”“瞑想的”といった形容詞をつけて語られることが多い。逆に言うとそれだけ刺激が少ない音楽ということでもある。お待ちかねの第4楽章が始まる前のお眠りタイム的なモラトリアム音楽ということもできようか。実際、安らかに眠り入りたくなるほどに幸せな音楽だ。

だが最近、あの美しさを形容するのに“天国的”“瞑想的”といった彼岸的な言葉を用いるのは誤っているのではないか、と思う。あの美しさは、あくまで現世の美しさ。“夢想的”とならば形容できるかもしれないが、それは夢よりも美しい現世という意味で“夢想的”なのであって、その“夢”もまた現世の一部なのである。

第3楽章を一般的な見方に従って2つの主題(AとB)が交互に現れる変奏曲形式だとするならば、ABA’B’と主題が提示・変奏された後、Aの主題が再び変奏された現れる部分、それまで主として弦で奏されていたA主題が木管に現れて弦はピチカートで伴奏にまわるところ、透き通るような不思議な感触の音楽、これが“夢”であろう。自他の境界線すら溶けてなくなってしまったかのような音楽、“夢見心地”とはまさにこのこと。そしてホルンの牧歌的な吹奏に応答して弦の息の合ったピチカートがちょっとしたクライマックスが築いた後、滑り込むように再び弦で新たなA主題の変奏が始められる。夢から目覚め、夢よりもさらに美しい現世に身を委ねる瞬間。それは幸福と呼ばれる感覚の、おそらくは最上の形態であろう。

母親の胎内の中で生きるような自他の境界も定かならないような状態を“天国的”だというのなら、第3楽章の美しさをそう形容するのは誤りではないのかもしれない。だが、それならばその“天国”はあの世のことではない。この世のことである。確かに私たちは現世でいる限り自己の限界を常に認識せざるを得ないけれども、それだからこそ、自他の境界線が溶けてしまうような感覚を幸福だと感じる。その幸福感はもしかして、私たちが彼岸にいた時の記憶からくるものなのかもしれない。だから“天国的”なのかもしれないが、たとえ“~的”であっても、それはあくまで現世のものである。

続く第4楽章。嵐の不協和音で自他の境界をこれでもかと提示するところから始まる。そして、否定につぐ否定。第1楽章の論理の葛藤も、第2楽章も快活な諧謔も、第3楽章のこの世のものとは思えないほど美しい幸福も否定した上で、新しいテーマが登場するというストーリー。そのテーマが「歓喜」であり、そのテーマはさらに合唱という人間そのもの声で彩られて、さらに膨らむ。「歓喜」が一段落すると「抱擁」のテーマが現れ、やがて「歓喜」と「抱擁」が2重フーガとなってひとつに溶け合い、クライマックスを迎える...。


こうした音楽の形は「平和」や「人類愛」のひとつの体現であるように言われているし、私もその通りなのだろうと思う。いや、そうだと思っていた。いやいや、今でもそうだと思っているが、ただ、無条件にはそうだとは思えなくなっている。では、その条件とは? それは「否定」のあり方だ。

この「否定」の部分にはベートーヴェン自身が歌詞をつけている。“おお友よ、このような音ではない! 我々はもっと心地よい、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか” 

第4楽章に表現されている「人類愛」や「平和」の理念が崇高なのは、この「否定」があるからである。より高みを目指しての苦渋に満ちた「否定」。それを乗り越えてたどり着いたところに「人類愛」や「平和」がある。だからそれらの理念は何よりも尊い。他のものは捨て去り、「人類愛」と「平和」を希求しなければならない! 

だが、本当にそうなのだろうか?

この「否定」は、その前段の論理・快活・幸福を捨てなければならないという「否定」なのだろうか? ベートーヴェンの歌詞を素直に解釈すればそうなる。第4楽章のストーリーをみてもそうなる。だが、そうなのだろうか?

この「否定」は廃棄ではない。止揚の意味での「否定」であるはずだ。それは捨てるのではなく、それでは足りないという「否定」。論理と快活と幸福がすべて揃った上での「人類愛」「平和」でなければならない。そうでなければ、論理と快活と幸福のどれかが抜け落ちたならば、それは「人類愛」とも「平和」とも呼べないはずだからだ。


第3楽章の現世に拘ったのも理由はここにある。もし、あの美しさが彼岸のものであるならば、その上に実現される「人類愛」や「平和」も彼岸のものだろう。「人類愛」や「平和」が彼岸のもの、つまり現世のものではないとなれば、現世に平和を求める運動など空虚な自己満足にしか過ぎないということになってしまう。

だが、第3楽章に拘った理由はそれだけではない。ここで表現された幸福は自他定かならぬところから生み出されるもの。しかし、私たちが今、「人類愛」「平和」と希求するとした時には、自他の境界が明確に引かれていることが前提されている(=『第九』の“一般的な解釈”)ように感じられて仕方がないのである。もしそうなら、その「人類愛」「平和」からは第3楽章のこの世のものとは思えないほどの幸福は抜け落ちてしまっていることになる...。


年の終わりにまたまた訳の分からないことを書いてしまった。この訳の分からなさ(私自身にとっても)は間違いなく年を越しての持ち越しになるだろうが、もうひとつ、持ち越さなければならないことがある。「自他の境界線」の問題である。

ごくごく大雑把に言ってしまえば、「自他の境界線」を自明のものとして「平和」を目指そうとする左派的な運動と、「自他の境界線」を溶解させる方向で「幸福」を求める右傾化の流れ。「自他の境界線」を境にした方向性の違いが両者の相互理解を妨げているように感じているのだが、これを少しでも整理できるものなのかどうか? 

コメント

夢想的

>“夢想的”
今晩は、& (日付上では、)
あけましておめでとうございます。
これが Utopiaの正しい訳語かもしれませんね。
これを「他人のために」ではなく「あくまで私的に」
追究しろと、諭吉なんかも言っていたのかもと
思えてきます。
>止揚の意味での「否定」
これが野党(批判)精神ってやつなのかも?

本年もよろしくお願いいたします。

あけましておめでとうございます

愚樵の記事の内容と重なる部分の少ないコメント、失礼します。

普段はテレビを見ないのですが、今夜は祖母の家に行ってNHKの紅白歌合戦を見ました。「歌の力」と言うことが強調されていましたが、とうとう歌までも力が奪われてきてしまったのかという印象を受けました。ちょっと前に、朝日新聞が「言葉の力」と謳いあげていたことが思い起こされました。

また、歌を聴いていて、ちまたの「愛」という言葉の軽さにしさを覚えました。そして、今の歌と昔の歌が描き出す世界の違いを感じ、「自他の境界線」が異なるような気がするなあと・・・音楽を聴いていました。私のような思考回路では、音を楽しめませんね。年明け早々長々とコメントを書いてしまいましたが、今年もよろしくお願いします。

うちの事務の子が

  NHKの第九でステージに立ったそうです。音大を出て研究生をやっている子です。
  第九というと、このエピソードを思い出します。

「板東俘虜収容所」が残した遺産から~鳴門市とドイツの国際交流
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/town/175_2/index.html

  収容所の所長さんが「会津人」だったというので、私が贔屓をしている面はあるのかもしれませんが・・・(奥羽越列藩同盟のファンです)。

  遅ればせながら、当ブログでも愚樵空論をリンクさせていただきました。今年もよろしくお願いいたします。

それはうかつなことで、失礼いたしました。早速本文を訂正しておきます。

同じ番組を見ていたはずなのに(涙)

私も同じく、第九を見ていましたが、
ここまで沢山のことを考えることができてませんでした(涙)

包容感の大きな詞で、単なる「歓喜」だけでない、
その点が、歌う人にとって案外難しいのかな、とか考えて、国立音大の人たちによる合唱団の表情を見ておりました。

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