愚慫空論

〈複雑さ〉を制御するもの

別の文章を書いていたんだけど、気分転換にと思って『内田樹の研究室』を訪問してみたら、「おや、おや、それはちがうんじゃないかなぁ~」という感じになってしまいました。

『日本はこれからどこへ行くのか』(内田樹の研究室)

これ、3月13日に投稿された記事なんですね。
ここのところ、内田さんの文章は毎週という感じで接していますけど、ブログの方は読みに来ていませんでした。
まあ、どうでもいいか。

また、ここのところ僕自身が批判モードになっているのも気にかかりますが、それも、まあ、いいか。


一読して思ったのは、理解がスタティックであること。内田さんはダイナミックな理解をされる方だと思っているんですけど、そうでないところもあるんだなぁ、と。

「ウチだの論文は、話は面白いが論証は雑だ」と批判されてきたというのは、ダイナミックであることの証です。論証を緻密にするとなると、どうしても話の展開はスタティックにならざるをえません。ダイナミックかつ緻密にというのは不可能ではないんでしょうけれど、不可能性に挑むようなものでしょう。挑戦しがいはあるでしょうが。


だれかがそうしようと決めたわけでもないのに、集団的叡智が発動して、相互に無関係なさまざまなプレイヤーが相互に無関係なエリアで同時多発的に「ブレーキを踏む」という選択を始めた。つまり、世界史的スケールで観ると世界は「縮小」のプロセスに入り、「無限のイノベーションに駆動されて加速度的に変化し続ける世界」というイメージは終わりに近づいている――

以上のように内田さんは言いますが、概ね同意です。「概ね」というのは、意見が異なるところもあるという含みですね。

身体が壊れ始めたことに気がついて、「ブレーキを踏む」という選択肢を選ぶ人は確かに増えています。ですけれど、それはあくまで個別的です。身体的なんだから原理からして個別的です。

一方で、イノベーションというのは、そもそもからして全体的。内田さんがいうところの「飼い慣らされたイノベーション」は、ちまちまとニッチを埋めるようなものですが、大手新聞の発行数がゼロへとカウントダウンが始まってしまうような破壊的イノベーションは根底的・全体的です。なかでもグローバル資本主義は根源的に破壊的なイノベーションで、個別的な「ブレーキ」で止まるかどうか、甚だ心許ない。

僕は「個別的ブレーキ」では止まらないと思っています。人間は根源的に社会的な生き物だから。

もっとも、個別的ではない、いいかえれば身体的ではない「社会的ブレーキ」も存在します。内田さんが指摘するイスラーム共同体がそれです。イスラーム共同体がグローバル資本主義に立ちふさがった事実をもって、内田さんは「ブレーキ」だと認定しています。ですけど、僕にはそうは思えないんです。互いの存在が「アクセル」になる危険性が高いと危惧します。

内田さんは「地球を覆い尽くすことができないグローバリズム」というのは形容矛盾である、と指摘しています。しかし、この理解は甚だスタティックです。ダイナミックというのは、そういう単純な論理に落とし込めるものではありません。

グローバル資本主義というのは、それ自体がメカニカルな意志を持っているかのように運動する自律的【システム】です。この【システム】のキモは、グローバルになっていこうとする「志向性」です。最終的にグローバルが完成するか否かは問題ではありません。
いえ、むしろ、グローバルが完成しない方がグローバル資本主義にとっては都合がいい。グローバルが完成しない限り「グローバル志向」は働き続け、メカニカルな意志は終わることがないからです。

「地球上を覆う」という地理的・平面的理解でいくなら、グローバル資本主義はイスラーム共同体によって拡張を阻まれた、ということはできるでしょう。だけど、内田さん自身が指摘しているとおり、グローバル資本主義は、人間の内側へ内面化していく性質も持っています。
だからこそ、あちこちで「身体的個別的ブレーキ」が作動するんです。人間への内面化が度を超したためでしょう。

ですが、だから歯止めがかかるだろう、と楽観はできない。ことに日本においては。

内田さんも指摘していることですが、日本は世界でも希なほど人的資源に恵まれた国です。ここでいう人的資源というのは、グローバル資本主義の基準で言っているのではありません。共同体を営むためのリソースという意味です。複雑な社会性です。

グローバル資本主義は人間共同体の運営という複雑な運動を、単純でメカニカルな運動に置き換えていきます。複雑さから単純さへと置き換えていく、その触媒がイノベーションです。

内田さんはおそらくここのところが理解できていない。だから、

人間が集団的に生きるために安定的に管理運営されていなければならない制度は複雑系に委ねてはならならない


なんて言ってしまう。ここは逆です。安定的に管理運営されなければならない制度は複雑系に委ねなければならないんです。

これは実に単純な話です。人間そのものが複雑系だからです。内田さんが常々発する「身体感覚」というのは、複雑系の発動ことです。その内田さんが複雑系に委ねてはならないと主張するのは、複雑系というものを理解できていないと考えるほかありません。

複雑系が制御できなくなるのは、単純に、つまりは線形的に制御しようとするときです。複雑系は非線形ですから、単純な計算では追いつかないから、線形的に制御しようとすると、わずかな入力が大きな誤差となって出力されてしまう。だから、複雑系は複雑系で制御するしかない。身体感覚で制御するしかないんです。

内田さんほど身体感覚と言語感覚が近接してる方がこのように基礎的なところで誤りを犯すのは、これは推測ではありますが、内田さん自身がその内面を【単純さ】に犯された経験がないからとしか考えれません。【単純さ】に無自覚に犯されている人間は内田さんの身体感覚に沿った話を理解することができませんが、逆に、【単純さ】に犯された経験がないと、その恐ろしさを身体感覚として識ることができないのかもしれません。【単純さ】の恐ろしさを識っていれば、こんな間違いをするはずがないのです。

グローバル資本主義は「停止」局面を迎えた。何度も言うが、私はシステムの理非について述べているのではない。停まるべきときには停まった方がいい、と言っているだけである。「停めろというなら対案を出せ」と言われても、私にはそんなものはない。


この言は、その経験の欠落を裏付けているように感じます。

グローバル資本主義はメカニカルな意志を自律的に持っているので、止めようと思っても止まりません。グローバル資本主義の真の意味での「グローバル」は、その【システム】の中で生きている者すべてがステークホルダーだということです。カネさえ持っていれば、その世界では生き延びることが出来る。グローバリズムはローカルなアメリカニズムの全域化などではありません。

カネの分配の不公正はあるでしょう。剥き出しの資本主義に沿えば不公正になってしまうのは、すでに知られた事実です。ピケティが資本主義の傾向について改めて指摘したのは、記憶に新しいところです。自然環境との折り合いを慮外にするのであれば、剥き出し資本主義の修正方法は幾つか提案され、実行に移されてきました。ケインズのマクロ経済学もそうだし、シカゴ学派の新自由主義もそうです。

レーガミノックスやサッチャリズム、新しいところはアベノミクス。これらは、貨幣でカウントされる成長を取るか、可へ分配の平等性を取るかという、国家権力による資本主義ドライブの問題であって、グローバル資本主義の枠内の話です。

それらが不調に終わっているのは、内田さんがいうところの「(限定的)ステークホルダー」たちの不誠実ゆえです。彼らが誠実でさえあれば、修正資本主義はそこそこうまく機能するはずです。資本が国境を越えてグローバルに移動するというなら、国家間でルールを定めて課税する仕組みを作ればいいだけのことです。資本の移動に課税しようというトービン税というアイディアだってあります。これが実現すれば、社会保障の財源問題など一気に解決すると言われています。

それが実現しないのは不誠実さの問題。民主主義の問題です。
資本主義と民主主義は深い関係にありますが、所詮は人間社会の仕組みだと考えるなら、ルールが敷けないわけはないんです。

ただ、現実はというと、グローバルなルール設定のハードルは非常に高いように思われます。なぜか。身体を疎外するほどに速まったグローバル資本主義の成長速度とおそらく関係があるでしょう。民主主義の不誠実さとも深いところで交わっているはずです。

このあたりは『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』が焦点を当てているようですが、僕はまだ読むことができていません。内田さんもまだなのかも知れません。

それに、残念ながら、人間社会とだけ折り合いを付ければいいという局面では、もうすでになくなっています。グローバル資本主義は自然環境を冒しています。グローバル資本主義のメカニカルな意志に委ねていては、私たちの生存基盤そのものが取り返しがつかないほど棄損されてしまう蓋然性が高い。

ということは、私たちはグローバル資本主義のステークホルダーから降りなければならないということです。限定的ステークホルダーに惑わされず、自らもステークホルダーだということを自覚する必要があるということです。

とはいうものの、私たちは社会の中で生き延びていかなければなりません。ここにオルタナティブへの要請があります。

しかし、この要請は、自らもステークホルダーであると自覚した者にしか感知できません。自身を(限定的)ステークホルダーに疎外された者と定義しているうちは、その要請に気がつくことができません。これが「意志」あるいは「天命」の問題、あるいは「CALLING」ということですが、これはまた内田さんが話題にしていることでもあります。

グローバル資本主義はいつどういう仕方で終わるのか、社会はどのようなプロセスを辿って定常的なかたちに移行するのか、脱市場・脱貨幣というオルタナティブな経済活動とはどのようなものか、といった緊急性の高い問いに今の経済記事は一言も答えていない。


とメディアを批判する一方で、「対案はない」と言い放つようでは、オルタナティブへの要請を感知できていないと思わざるを得ません。

内田樹さんもまた、グローバル資本主義のなかの無自覚なステークホルダーのようです。

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