愚慫空論

『バケモノの子』



楽しませてもらいました。
気構えずに観られるのが、この手の映画のいいところ。アニメは好きだし (^o^)

ここのところ映画をいくつか観て、久しぶりにアニメを観て感じんだけど、その情報量の少なさ。
やっぱり実写の方が圧倒的に情報量が多いですね。
もちろん、情報量の多寡と映画の良し悪しが比例するわけではない。
情報量が少なければ少ないなりにやり方はあって。

発想の意外さ、ですよね。
発想が意外で、表現に説得力があれば、面白くなる。
これは映画だけに限らないことだけど。

『バケモノの子』はその両方を兼ねて備えていると思いました。
だけど、欲を言えば、説得力がありすぎるというか。

細田守監督の作品は前作の『おおかみこどもの雨と雪』も観ました
『おおかみこども』とくらべると『バケモノ』は、説得力が高くなっている。完成度が高くなっていると思います。
だから、楽しめる。
だけど、その分、考えさせられる部分が少ない――という気がします。


人間は心に【闇】を抱える。バケモノにはそれがない。
我田引水ですけど、僕は、バケモノとはヒトなんだと思うんです。
ヒトが社会に適応して人間になるんだけど、その過程で【闇】を抱える。

バケモノの熊徹(くまてつ)と人間の九太(きゅうた)の師弟コンビ。
そのライバルとして、猪王山(いおうぜん)と一郎彦(いちろうひこ)が対比する。
九太は人間として物語に登場するけど、そして一郎彦も人間なんだけど、そのことはストーリーの終盤で明かされる。

面白いのは、熊徹と猪王山のキャラクターの対比です。
どちらもバケモノなんだけど、熊徹はガキで、猪王山は立派なオトナ。
オトナに育てられた人間の子の一郎彦は、立派に(?)人間になって【闇】を育ててしまう。
ガキと一緒に成長した九太は、逆に、人間社会の中で芽生えた【闇】を育てることなく成長する。

一匹と一人のガキが互いに高めあう描写には、なんだか、安心させられるものがあります。

とはいえ、一度抱えた九太の【闇】は、消えてなくなったわけではない。
何かのきっかけがあれば大きく育とうとする。

そうした【闇】に呑まれないためには、【闇】を相対化する必要があります。
【闇】の相対化はオトナの仕事なんだけれど、『バケモノ』のストーリーでその役を果たすのは、楓という女子高生。
楓は、オトナの社会に適応するようにとオトナから求められ、オトナの期待に沿うように頑張って【闇】を抱えるんだけど、同時に【闇】に気がついて【闇】と闘ってもいる。


【闇】とメタファには共感を呼ぶもの、すなわち説得力があります。
誰しもそういうものを少なからず抱えていますからね。
【闇】が破壊衝動となってすべてのものをぶち壊してしまおうとするのも、体感的に理解ができる。

【闇】を発動させてしまった一郎彦と勝負をしなければならなくなった九太が、一郎彦に勝つために自らも【闇】を発動させて相手を呑み込もうとします。
これはまさに戦争。
戦争に向かおうとする男性の心と、そこに寄り添いつつ抗う女性の心と。
よく表現できていると思います。

でも、熊鉄が神になって九太の「心の剣」になるというメタファはよくわかりません。
ここのわからなさは、『ムスカ大統領のスピーチ』が投げかける問いへの答えのなさと、たぶん同じものです。
だけど『バケモノの子』では、ここをストーリーの説得力で丸めてしまっています。
エンターテイメントなんだから、それでいいんだけど。

でも、少し考えてみると、ここの丸め方はちょっとズルい。
熊鉄と九太の成長物語の最初に「心の剣」というキーワードを投げておいて、その伏線の回収をもって説得力としているだけだから。実は中身は何にもない。
ここのところは『おおかみこども』のときのように、説得力は低くても考えさせられる展開になれば、と思わなくありません。
とはいえ、戦争が出てきてしまうと決着を付けないわけにいかないし。
つくづく戦争というものは厄介です。

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