愚慫空論

『世界史の極意』『資本主義の極意』


このところ、佐藤優さんの著作を興味深く読んでいます。今回はこの2冊。これらはセットで読まれるのがいいと思います。

  


佐藤優さんの考え方は、当人も何度も言及していますけど、基礎は神学にあります。
まず、現象を徹底的に相対的に捉える。そうすることで、もろもろの現象に通底する内在的論理を読み取っていく。

この内在的論理が“極意”というやつです。

相対的に捉えることには、自分を突き放さなければなりません。それは「神」というものを捉えようとする努力によって培われるようです。ヨーロッパでは、神学部のない大学は総合大学(University)だと見なされないということのようですが、その理由は、彼の地がキリスト教の文化の土地だからというだけではないんですね。知識をUniverseする要が神学であって、その要がたまたまというか、文化的な背景からキリスト教神学になるということなんでしょう。

なので、相対的に捉えること自体の下地は、別にキリスト教でなくてもいい。

面白いのはその先です。
現象を相対化して内在的論理を読み解くと、そこに対峙している読み手の意志も浮き彫りになってくるんです。佐藤優さんは、そういったところに自覚的です。

 さて、本書で世界史を通じてアナロジー的思考の訓練をすることには、以上の実利的目的とあわせて、別の狙いもあります。
 それは「戦争を阻止すること」です。

『世界史の極意』


実利的目的というのは、ぴじねすパーソンとしてのセンスやプレゼン能力を磨くといった類いのことを指しています。けど、これは言い訳というか釣り餌であって、佐藤さんの意志は「戦争を阻止すること」にあると感じられます。


注意して頂きたいのは、「戦争を阻止する」というのは、「戦争はダメ」というのとは根本的に異なるということです。

「戦争はダメ」は、個人的な願望です。それはとても大切な願望ですけど、あくまで個人的なものでしかありません。
一方で「戦争を阻止する」という意志は、近代以降の世界史の内在的論理が「国民国家は戦争をする」ということに対峙するところから出てくるものなんです。

国民国家や資本主義経済というのは【システム】です。「システム」は「系」という言い方もしますが、もっと具体的にいうと、非平衡開放系です。生命活動も非平衡開放系です。
福岡伸一さんが“動的平衡”という言葉を流行させましたけど、「系」という言葉に動的平衡の意が内包されています。動的平衡をなすある一定の塊(?)が「系」です。その「系」が非平衡で解放されているというのは、自己完結していないということ。外部から物質なりエネルギーを取り入れることで、「系」の動的平衡を自律的に維持している。

人間の作った機械なども、非平衡で外部に解放されていますけど、「系」ではない。自律的に活動を維持しているわけでありませんから。機械にはかならず起動スイッチがありますが、そんなものが存在するということが自律的ではないということです。動的平衡な「系」には起動スイッチなんてあり得ません。

『世界史の極意』や『資本主義の極意』ではその成立過程が説明されますが、「起動スイッチはここ」という指摘は為されていません。そんなことは不可能だから。あ、ここでいう世界史とは、国民国家が成立した近代以降に限定されています。

起動スイッチがないということは、境目がないということでもあります。世界史も経済も、人類が誕生して以来すっと継続している活動です。だけど、それらはずっと同じではなくて、近代や資本主義という名辞でもって他と区分される特徴がある。では、なぜ、そのような変化が起こったかというと、人間の内在的論理が変化したからです。

内在的論理という言葉を別の言葉言い換えれば、“一般意志”というふうに言えるでしょう。その時代の社会を構成している人間の多くに、無意識的に共有されている価値観といってもいい。

社会という「系」は自律的に運動をするけれども、しかし、その構成要素は人間です。ゆえに、大部分の人間に無意識的に内在している価値観が、社会を駆動することになる。そして、「系」は、それが生命活動であろうとなかろうと、その「系」の振る舞いを熟知する者にとっては、あたかも意志があるかのごとく感じられます。自律的に運動をしているのだから、意志があると感じるのは不思議なことではないはずです。

ということはつまり、意志は〈複雑さ〉とは関わりがないということです。【単純な】ものであっても、自律的運動でありさえすれば意志があるように感じられるということです。そういうふうにヒトはできている。

人間は本来複雑なものです。だからその意志のありようも、本来複雑です。複雑な意志を僕は《魂》と読んでいるわけですが、では、国民国家や資本主義経済システムに《魂》はあるのかというと、そうではない。というのは、これら【システム】の内在的論理は単純だから。単純だから多くの人に共有され論理になる。複雑であるということは非線形であるということですが、論理というものは線形です。


非線形が線形へと収斂する実例を提示してみましょう。

『資本主義の極意』では、資本主義に内在する論理を浮き彫りにするのにマルクス経済学を用いています。注意が必要なのは、イデオロギーを含んだマルクス主義経済学ではない、ということ。具体的には宇野弘蔵さんの経済学です。

現在、経済学といえば主流は近代経済学ですが、これは資本主義に内在する論理を所与のものとして体系を組み立てています。なので、内在的論理を明らかにするということは原理的にできない。それをやってしまうと近代経済学という論理体系そのものが崩壊します。

カネが崇拝の対象になる
 ひとたび、貨幣のような一般的等価物が生まれると、貨幣と商品の立場は不平等になります。つまりカネがあれば商品を買えるけど、商品があるからといってカネになるかどうかはわからない。
 マルクスはシェイクスピアの『夏の夜の夢』から引いて、商品とカネの関係を次のようにたとえています。
「まことの恋がおだやかに実を結んだだめしはない」
 つまり商品はお金を愛する。商品を持っている人は、それをお金に換えたいわけです。しかし、必ずしも売れるとは限りません。
 一方、お金があれば、必ず商品を買えます。恋愛でいえば片思いの状態です。マルクスは、この非対称性を「商品体から金体への飛躍は、(中略)商品の生命がけの飛躍である」(『資本論』)と表現しました。

『資本主義の極意』


下線は僕が施しました。その理由は、これらの言葉が誤用されていると考えるからです。

商品はお金になろうとする、だから愛していると表現する。適切と思えなくはありません。しかし、商品がお金になろうとすることを「堕落しようとする」と表現しても、これもまた適切に思えます。
「堕落」と「愛」は違います。同様の作用でありながらベクトルは正反対です。マルクスは、同様の作用ということで「愛」を表現として採用しましたが、僕はこれは誤りだと考えます。それは〈複雑さ〉という概念を導入してみればわかります。

商品群は多様です。つまり複雑です。交換は経済の基本ですが、複雑な交換より単純な交換の方が効率的なのは言うまでもない。交換が効率的だと要するコスト、エネルギーが少なくて済む。効率的であることは生存に有利に働きます。
だから、貨幣という一般的等価物が一旦発明されると支持されることになる。けれど、それは愛ではない。効率性と愛は、相容れないものです。効率性は【単純さ】への志向であるのに対し、愛は〈複雑さ〉を志向するものです。

同様に、“生命懸けの飛躍”というのも違和感を持つ。生存に有利という意味で生命がかかっている、というのなら理解できます。マルクスの内在的論理はおそらくそうなのでしょう。だからこそ、マルクスは唯物論なんだと思います。【単純さ】を志向している。

ですけど、にも関わらず『資本論』などは【単純さ】が〈複雑さ〉を疎外する機序を示しました。このあたりがマルクスの凄いところだと思います。

引用を続けます。

 ここで考えないといけないのは、お金というのは人間と人間の社会的関係から出てくるものであるということです。先述したように、一般的等価物は、商品の交換から生まれる。商品の交換は人間と人間の社会的関係ですから、お金の根っこには社会的関係があるということです。
 にもかかわらず、お金と商品は非対称であり、お金を持っている方が、欲望を満たすことができる。そうすると、お金自体に価値があるように思えて、崇拝の対象になる。これが物神信仰です。お金を信仰する宗教になるわけです。
 カネに対する信仰は、意識的に変えられるようなものではありません。お金は実体として力を持っているからです。

『資本主義の極意』


僕はカネに対する信仰を意識的に変えることができないとは思いません。それができないと思うことは、怯懦であり怠慢だと思います。それは佐藤優さん自身がそこへ安住したいのだと捉えます。つまり、その部分に関しては自身を突き放すことができていないのです。

僕は、宗教には〈宗教〉と書くべきものと【宗教】とするべきものの二種類があると考えています。物神信仰はあきらかに【宗教】です。【単純さ】を志向しています。

そもそもの宗教は〈宗教〉です。〈複雑さ〉の極意が〈宗教〉なんです。唯一神を全知全能だとするのは、複雑すぎて理解が及ばないからです。理解が及ばないことが現に存在すると了解し、了解することで意志を感じる。そこから創造神が創造されます。複雑で理解できないなら、創造神自体の存在も把握できない。できないけれど、意志は感じられるから信仰が生まれる。〈複雑さ〉を志向する生命活動の延長です。
イエスがなぜ、「人はパンのみによって生きるに非ず」といったのか。これは〈複雑さ〉を志向している言葉です。

神学を学んだということは〈宗教〉を学んだということのはずです。その成果として、現象を徹底的に相対化する見識を身につけた。だけど、自身の相対化は不完全です。「カネに対する信仰は意識的に変えられない」としているのがその証拠です。〈宗教〉とは正反対の【単純さ】に堕ちている。【単純】になって、内在的論理になっています。

しかしそれでも、物神信仰だと認識しているのは、まだマシです。この信仰は【信仰】ですが、それでも【信仰】だと認識しているということは、まだ非線形であると捉えているということです。これが近代経済学になると【信仰】すら抜け落ちる。そうすることで、非線形だったものが線形なものにさらに【単純化】されます。近代経済学によって把握される経済は、もはや平衡であって閉鎖されています。だから、貨幣数量説といったものが支持される。

貨幣数量説への批判は『資本主義の極意』にも登場します。貨幣数量説への支持から為される施策が金融緩和、すなわちFRBのQEやらアベノミクスですが、現象として狙いどうりに機能していないにも関わらず、都合のよいところばかりを捉えて都合の良いように解釈し、成功だと喧伝する。反知性主義というやつです。

反知性主義な人は決して善意がないわけではありません。むしろ十二分に善意がある。善意が余って自身を突き放すことができなくなっているから、知性を自身の都合のよいようにしか使役することができなくなってしまう。善意があることが、知性を都合よく使うことの免罪符になっています。だから、怯懦であり怠慢です。

反知性主義との絡みで、佐藤さんはこのように述べています。

ヘイトスピーとの背景
 ・・・
 現代がどのような時代であるかを完璧に説明することはできません。そこで、過去の歴史的な状況との類比を考えることによって、現代を理解するという作業が必要になるのです。
 この作業は、現在を理解するための「大きな物語」をつくることだと言い換えることができるでしょう。
 「大きな物語」とは、社会全体で共有できるような価値や思想の体系のこと。・・・
 (中略)
 人間は本質的に物語を好みます。ですから、知識人が「大きな物語」をつくって提示しなければ、その間隙をグロテスクな物語が埋めてしまうのです。

『世界史の極意』


このグロテスクな物語の典型的な例が、排外的なヘイトスピーチというわけです。知識人の役割は「大きな物語」を作ることだとも言っています。

しかし、その一方で佐藤さんは次のように言います。

 どれだけ閉塞状況に陥っているとはいえ、序章で述べたように、予見される未来に資本主義に変わる新たなシステムが到来することは考えられない。私たちは、死ぬまで資本主義とつきあっていかなければなりません。

『資本主義の極意』


もはや、資本主義のオルタナティブとなる「大きな物語」はない、と言っているんですね。

 映画の寅さんの名文句に、「労働者諸君! 稼ぐに追いつく貧乏なし」というのがある。私はこの言葉が気に入っており、あちこちでよく引用します。というのもこの文句は巧まずして、現下資本主義社会での生き方の真実をついているからです。

『資本主義の極意』


僕には、この言いぐさは反知性的に感じられてしまいます。佐藤さんの都合に合わせて寅さんの文句を引っ張り出してきたように思うからです。

「稼ぐに追いつく貧乏なし」という文句の基盤にあるのは、学問的に言えば石田梅岩の石門心学でしょう。「分を弁える」というのがその極意ですが、それが日本人の血肉になっていたからこそ(←過去形です)、マルクス主義イデオロギーのスローガンをパロって笑いに変えるということができた。

石田梅岩は江戸時代の学者です。ということは、江戸時代に成立した内在的論理が昭和の時代まで引き継がれていたというがあった。「稼ぐに追いつく貧乏なし」というセリフは、前時代の内在的論理の上に出現したものだということです。しかし、佐藤さんが分析して見せたのは、そうした前時代的内在論理が資本主義によって駆逐されていったということ。ということは、もはや「稼ぐに追いつく貧乏なし」というセリフは時代にそぐわないものになっているということです。

前時代の駆逐されたものをもってそれが現下の時代を生き方の真実だというようなことは、知識人の態度としては認められない。僕は認めるつもりはありません。ネタをベタにすることが知識人の態度だとは思えません。

とはいえ、佐藤さんが誠実であり善意で寅さんのセリフを提示しているということには、何の疑いも抱いていないし、大いに認めるところです。だけれども、知識人だと自負するのであるなら、それでは善意が足りない。怠慢だし、その奥には自身を完全に突き放すことを阻む怯懦があると見るわけです。

そして、その怠慢と怯懦とが「大きな物語」のオルタナティブを創造することから、佐藤さん自身を疎外しているのだと思います。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/835-b2b276dd

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード