愚慫空論

社会の残酷さが生まれるところ


〈世界〉とはあらゆる全体。
〈社会〉とは、コミュニケーション可能なものの全体。

――というのは、宮台さんの語法・定義です。宮台さんが誰かの定義を引用したのかもしれませんが、それはどうでもいいことで、僕はこの定義は適切だと思っています。ただ“〈 〉”の用法が異なります。

“〈 〉”やら“【 】”やら、おまけに最近は“《 》”まで使い出すようになって、自分でも煩わしいと思っています。
思っているけど使うのには理由があります。
その理由を最近まで言葉にできずにずっと待ってきたのですが、やっと到来してくれました。
感情なんです。これらの括弧は感情を表現しているつもりです。

もとより言葉は感情的なものです。
それをわざわざ強調して表現しようとするのは、言葉を客観的に扱おうとする潮流に反発があるからです。
感情的に言葉を使うこと容認しつつ、感情的な言葉を〈私〉から突き放して捉えたい。
煩わしい括弧たちは、その現れです。


『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』という本を読みました。



「社会」は残酷だ、と思いました。


一昨日、熊本で大きな地震があったようです。
意識的にニュースをスルーしているので、どれほどの被害があったのかは知りません。
また、多くの人が被害に遭われたことだと思います。

こうした災害に遭うと、「世界」は残酷だと思ってしまうものです。
傍観者がそう思うのだから、被災者の中にそのように思う人は大勢いるでしょう。
けど、そう思わない人も確実にいます。

「世界」のデタラメさ、気まぐれに気がついていないわけではない。
そういうものだと受け止め、自身もその一部だという確信がどこかにある。
ここには透明な感情が働いていて、そうなると、世界は〈世界〉になります。


「社会」の残酷さは、気まぐれさが起こす〈世界〉のそれとは別の作用の仕方をします。
その機序はシステマチックで、なおかつ隠蔽されています。

いえ、そうではない。隠蔽されているんではないんです。
僕はこれまで隠蔽されていると考えてきました。
でも、そうではない。隠蔽しているんです。
隠蔽の主体はシステムではなく、私たち自身です。


『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』が伝えるメッセージは、とても至極当然で、しかもとても善良なものです。。こうしたメッセージに惹かれることも、これまたとても善良なこと。

しかし、難しい問題を突きつけるメッセージでもあります。
【強欲】なシステムといかに向き合うか。
向き合わなければならないと、世界で最も貧しい大統領であるいうムサカさんは伝えますが、どのように向き合えばいいのかは伝えてくれません。

僕はこの本を買って読んだわけではありません。とあるところでみせていただく機会を得た。だから値段は読んだ時点では知りませんでした。知る必要もなかったのですが、興味がありした。貧しい大統領のメッセージを入手するための対価はいくらか?

1728円也。

高いとは思いません。正当な価格なんだろうと思います。
けど、違和感はあります。
この本を発行した人たちが善意で動き、努力した結果の数字だろうと思うので、価格そのものに批判はありません。

違和感のもとは、「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」という言葉から受け取るメッセージと「1728円」という価格から受け取るメッセージのちぐはぐさ。貧しい人が、貧しい大統領のメッセージを入手したいと思ったとき、「1728円」というのは、かなり高い壁になるだろうということは容易に想像がつきます。

もっとも、メッセージを受け取る手段は本の購入だけではありません。現に僕は買ってないし。買った人の善意のおかげでその機会を得た。幸運というものです。

では、善意があればいいのか?
幸運が期待できるから、それでいいのか?

「社会」が残酷だと思ったのは、そういった善意や幸運が【システム】の冷たさを隠蔽してしまうことに対して、というのがひとつ。

さらには、善意が【システム】を駆動する活動源になっているということ。
システムの活動源とされた善意は消費されてしまって、結果として【システム】の維持に貢献してしまっていること。

善意や希望が贄になっているなんて、『まどか☆マギカ』を思い起こします。
そういう『まどマギ』もまた、贄になってしまっているんですけど。

こうした【システム】は人間が作ったものです。だから、人間が変えることができる。はず。
しかし、冷静に眺めてみると、【システム】を変えているのは悪意です。
悪意にもむきだしのものとそうでないものとがあって、剥き出しのものは破壊、善意を装ったものは改悪と、現れ方が異なるということはあります。
結果としてみるならば、善意は【システム】を改良することができていない、といわざるを得ないのではないか。

なぜ、こうなるのか。
鍵は感情にあると思います。

「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」という言葉には、感情へのフックが潜んでいます。
そのフックには善意という“餌”が付けられている。
善意を消費したものはフックに引っかかるのだけれど、なぜかそれには気がつかない。
このフックには痛みが伴わない。
それほど善意は美味しい。

このフックには「返し」がついています。釣り針と同じです。
フックが引っかかっていても痛みはなくても、引き抜こうとすると痛みが生じる。
痛みを感じ、もしくは痛みを感じそうな気配を感じて、人間はそのフックを引き抜くことを躊躇する。

このフックは「理解」なんです。
ここはもう少し探ってみなければならないことですが、理解と善意には深い関係があると感じます。
理解は単純に善だと思っていたが、よくよく考えてみると、そこには「返し」がついていた。

では、この“返し”とは何なのか?
おそらくは筋肉痛です。あるいは知恵熱か。
筋肉の発達は、筋繊維と破断と再生の過程を経て成されます。筋肉痛は破断のときにではなく、再生の時に起こる。いうなれば“産みの苦しみ”。
生命はそんなふうにできているとしか言いようがないものです。





以前、『触媒』と題してこの動画をヒントに文章を書いたことがありました。

ここいう「触媒」とは、言葉のことです。
生命というプレートに言葉という触媒を蒔いてみると、きれいな幾何学模様が浮き上がります。
この幾何学模様が「理解」です。

「理解」に“返し”がついているということは、プレートの周波数が上がって模様が遷移するときに痛みが生じる、ということになります。生命反応のアナロジーとしては、とてもよく出来ていると思います。

この動画は、生命活動の内でもヒトの精神活動に特に似ています。とはいえ、表し切れないところもある。
「入れ子構造」です。
触媒となる言葉自体もプレート模様なんです。
全体の理解が変われば、言葉の理解も連動して変わる。


社会の残酷さに話を戻します。

人間の悪意こそが【システム】を変え、善意は【システム】の贄にしかならない。
これが社会の残酷さの正体です。

では、そんな【システム】を生みだす人間は性悪なのか。
そのように解釈することも可能ですが、僕はそちらに立ちません。
その理由と言葉に三つの括弧をつける理由は同じです。同じ視座から眺めると性善になります。
その視座は〈私〉です。

〈私〉から眺めたとき、人間の性善はデフォルトです。
デフォルトだからこそ善意という“餌”に食らいついてしまう。
善意が好物だということは、単純に性善だということです。

【システム】は間違いなく人間が生みだしたものですが、人間とは別の原理で作動してます。
コンピュータは人間が生みだしたシステムですが、作動原理は違う。能力が向上したコンピュータは、もはや人間にとってはブラックボックスになっており、コンピュータがその高度な計算能力をもってはじき出す結果は、もはや魔術と変わらない
マーケットメカニズムとやらも、それと同じです。

【システム】の動作を鑑みつつ「【システム】を作り出した者」という視座に立てば、人間は性悪という結論が出てきます。
この視座は〈世界〉の外側に超越した創造神がいると想定する一神教と同じ構造です。すると、全知全能で完全に善なる存在であるはずの神が創造した〈世界〉がなぜ悪に満ちているのかという疑念が生じます。
この疑念は解決不能です。
解決不能ということは、問いと視座とがマッチングしていないということです。

〈私〉という視座に立ち、人間は性善であると考えれば【システム】が合理的に悪を働くことになってしまった理由が見えてきます。
全力で〈生きて〉いない。
善意の怠慢。
【消費】は、善意の怠慢です。

【システム】に身を委ね、善意を怠慢に貪っている隙に、合理という生命の作動原理とは異なったものが入り込む。
これが悪で、社会の残酷さを生みだします。

コメント

Cruel

愚慫さんの思索・立論に水を差すつもりはないのですが、ちょっと気になるところが。

20年ばかり、ライトな筋トレ(自重トレーニング&近年はダンベルカールも)を日課にしています。
筋肉痛は筋繊維が破壊された後の超回復に伴って生じますが、この痛みは「超回復中ニ筋細胞ニ負荷ヲカケルト超回復ガ妨ゲラレマス」という細胞からの警告です。
超回復(=成長)を妨げられないよう、活動に制限をかけるための痛みです。

このケースに於いては、成長するプロセス上痛みが必要なのではないです。成長する上で必要なのは、休養(インターバル)です。痛みがなければ損傷した筋肉をそのまま使い続けて成長を邪魔してしまう可能性があるからです。バカをやり過ぎないための安全装置です。

それから、ムヒカ大統領のスピーチに関しては私も以前日本語字幕の付いた動画をネットで観ました。
こういうものを好んでみる方は、私には「痛みを好んで求める人」に見えますが。
善意の消費に痛みを感じないのでなく、痛みを感じ、その痛みを求める人。
良心の呵責を感じたい人。

筋トレ、私はプロポーション維持と肉体の機能維持のため「だけ」にしているわけですけれど、世には筋トレそのものが目的になっている人もいます。常に体のどこかが筋肉痛でないと満足できない、なんて人もいるのですね。苦痛を得て、初めて満たされる人。

坂口安吾は、人は自ら苦悩を求めるものなのかも知れないと書いていました。
性善説・性悪説については私はまるで解りませんので何とも言えないものの、例えば人間の本性が善であることと、社会(世界でも構いませんが)が残酷で苦しみに満ちており、それに己が加担していると心を痛めることを「求める」ことも、矛盾しないですよね。
それは「怠慢」なのでしょうか。私には、そういう「嗜好」に見えるのですけれどもね。

omake。
Tori Amos“Cruel”のPVが無いので、代わりに“Spark”のPVを貼っておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=jVMwDd8V_kY

omake#2。
ムヒカ大統領の絵本、表紙に乳牛が描かれていますが、嫌ですね。
乳牛、乳が出なくなった後はどうするんでしょう。
消費社会を否定するサイドに、乳牛。恐らくペットではないでしょう。

・残酷さに慣れる訓練さん

少々レスが遅くなってしまいました。申し訳ありません。

僕の思索への“水差し”は歓迎します。水が差されたら、また煮詰めればよいだけの話です。(^_^)
このようなメタファとアナロジーだらけのものには、他者からの“水”は有効だと感じています。もちろん“水”にはそれを差す者の嗜好が混じりますから、抵抗を感じることもあるのですけど...(^_^;)

では、水を煮詰めさせていただくことにしますね。


“釣り針”というメタファの上に“筋肉痛”というアナロジーを重ねている理由は、感じて欲しいからです。気になると仰るのは、感じていただいた証拠なのだと解釈します。ただ、感じ方が僕とは違うだけのこと。僕は正解を求めているわけではありませんから、それで十分です。

成長するのに必要なのが休養である、というのは正解だと思います。痛みが休養を促す警告だという解釈も正解だと思います。

僕が怠慢だというのは、警告が発せられる以前に警告を怖れて、警告が発せられない程度の運動をすることを差しています。バカをやり過ぎるのはバカですが、バカになることを怖れすぎるのは怯懦である――という解釈ですね。

残酷さに慣れる訓練さんが、体力の維持を目的に警告がでない程度の運動をするのであるなら、それは目的に適っていますよね。またムヒカ大統領の本を読むことが、知力か感性かはわかりませんが、自身のそうした能力の維持のためだというのなら、それはそれでよし、です。
それは、残酷さに慣れる訓練さんのご指摘の通り、「嗜好」です。

しかし、この手の本の出版が為される大義は、そのようには言明されませんよね。もう少し“上の”目的が謳われます。

僕が消費だというのは、大義と目的の間にギャップがあるからです。

ウィンドウショッピングでもネットサーフィンでもかまいません。欲するモノを眺めて憧れを抱くことはには、何の罪もないと思います。本当に欲しいわけではない。眺めているだけで十分。そう自身も納得し言明するなら、そこで完結しています。

また本気でそのモノを欲していて、行動するのであれば、その行動が完結するかどうかはさておき、またその行動が他人にどれほど迷惑をかけるかどうかはさておき、その人自身としては一貫はしています。

では、本気で欲しているフリをするのはどうでしょうか? 罪だと言い募るつもりまではありませんが、怠慢だいう指摘が的を外しているとは思いません。どれほど憧れを抱いても、怠慢に甘んじていては欲しいものは手に入りません。

もっとも、「努力して成果が出なければ努力が足りないのだ」というような、成功至上主義者が唱えるような文句を言いたいわけではありません。努力はできる範囲でいいと思います。けれど、それで自己満足してしまったなら、やはり怠慢だと思います。

A Pain That I'm Used To

>バカになることを怖れすぎるのは怯懦である

愚慫さんの視点は割合に一貫しているというか、痛みを怖れる/痛みを感じるところまで踏み込まないことが即ち怠慢であるという捉えでしょう。
それに対して私のは、そもそも痛みを感じる人が痛みを感じたくて、例えばムヒカ大統領のスピーチについて描いた絵本を読んだりするのではないかという捉えなわけです。
加えて言うと、出版物の大義(なるものがあるとすれば)、それは基本的に制作者のものですよ。
受け手の欲望や動機まではコントロールは出来ないでしょう。制作者の期待があったとしても。
「商品として」ISBNコードを取得して、取次を通して定価を付けて流通させることと、安直に乳牛の絵を表紙にすることと、スピーチの内容との関係性を批判的に捉えることは可能ですが、それは愚慫さんの思索・立論とは次元の違う問題に思えます。

見ている対象は概ね同じなんだけれども、見えている情景がだいぶ違っています。
私のコメントは、こっちからはこんな風なものが見えてますよという話です。一応/たぶん/恐らく「同じ」人間の眼を通して。

私の捉えでは、痛みへの欲求が消費に収斂していく面があるということ、故に痛みの感覚を以てシステムの無慈悲な単純さに対峙するという態度は有効な場合もありましょうが無効な場合もあるんじゃなかろうかということです。
愚慫さんの仰る主張を否定はしませんが、あまり期待も出来ないような予感がします。

一体何がどこまで強いられた欲望なのかも良く解らない中で「本気でそのモノを欲して」いると思っているものが、実はそれすらも「強いられている」場合もあるわけでしょう。
「ほんとうの幸せ」とか「ほんとうの豊かさ」とか。
愚慫さんの「怯懦」「怠慢」、私なりに解してはいるつもりです。しかし、そのネガティヴな捉えを支えているものって、何なのだろうと懐疑するところがあるのです。
人間の身の丈、そんな大したものじゃないだろって。善とか悪とか言う前に、大体この程度の生き物なんじゃないのって。
これは愚慫さんに対する「呪い」ではないです。もう私はそういう相には居ないので。
ただ、愚慫さんは人間に期待しすぎなんじゃないのかなって。

・残酷さに耐える訓練さん

人間の身の丈はそんな大したものではないと思っています。僕も含めて。

しかし、その大したことがないはずの人間が作り上げた仕組みが多くの人間を不幸にし、生態系を乱しているわけですよね。これは「大したこと」だと思っているんですね。
僕が人間に期待しているところは、ある方向へ「大したこと」をできるのであれば、それと同じ程度に「大したこと」を反対の方向にもできるはず、ということです。
その期待とは裏腹に、人間が「大したこと」をできているのは一定方向にだけという現実があります。その現象を素直に認めるなら人間は性悪だという結論になるしかない。

それはそうかもしれないんです。
そうかもしれないけど、そうでない可能性は捨てない。ただそれだけのことです。
だからこれは、意志の問題です。

といっても、納得してもらえないかもしれません。コメントの文面から察するに、残酷さに慣れる訓練さんは、僕の思索の合理性に疑問をもっておられるようですから。

意志の問題だというのは、合理性の問題ではないということなんですけどね。
性善というのは、風景をそのように眺めようという僕の意志なんです。

主観的な意志はデタラメに事実を繋いでいくことがよくありますから、検証は必要です。ゆえに「水差し」歓迎です。水を差されても合理性が途切れないなら、真実へ一歩近づきます。

もちろん、真実はひとつではありませんよね。真実の数だけ合理性があります。

僕がどのような合理性に依っているのかは、他の合理性を持っては説明できません。僕の合理性の基盤になる僕の意志を探り当て、得心してもらうしかありません――と書くのは傲慢な響きがするのですけど、実際、それしかありません。

もし仮に他の合理性を持って説明可能なら、合理性はひとつだし、真実もひとつだということになるし、それは、すべての正解があるという信憑になります。そうした信憑がイデオロギーを生みだしますが、イデオロギーは人間をむしろ不幸にします。

ヒトの多様性・柔軟性はなかなか大したものだと思っています。柔軟性が大したものだからこそ、真実がいくつも存在し得る。柔軟性には僕は大いに期待をしています。上に書いたある方向とは反対方向への期待です。

そこに期待するには、感情のフックが云々ということなんですけどね。 ^^;

Re:Spark

・残酷さに慣れる訓練さん

ご紹介いただいた動画を見てみました。
Tori Amosという歌手について調べてみたらオルタナティブなんですね。
腑に落ちるところもありますけど、よくわからないところもあります。

目隠しをされて後ろ手に縛られた状態で、目が覚める。入水しますが、これは絶望でしょうか。しかし、水に入ったために目隠しが取れる。曲調がここで大きく変わるし、“Spark”というタイトルからしても、ここで転回があったみたいですね。心の在り様が変化した。

ここまでの展開はオルタナ的かと思いましたが、そうすると、縛られた手が解かれないこと、主演の彼女を冷たく見張る人物がいることの意味がよくわからない。突き放したような視座ですね。そうした視座も含めて、オルタナ的なんでしょうか。


僕が提示しようとしているのも、オルタナティブなんだと考えます。同じ風景をオルタナティブに見ることと、その意志と。社会は残酷さに満ちているのが現実ですが、オルタナティブに見ることで、そうでない形が見えてくる。

見ることができれば、そちらへ移行する芽も生まれてきます。

現実があるのは動かしのないことです。“にもかかわらず”であるのか、“であるからこそ”かはわかりませんが、それでもオルタナティブを探す。これもまた、ヒトという生き物の特性だと思っています。

½ Mensch

>愚慫さん

愚慫さんは非常に優秀な(ハイパフォーマンスな)脳を持っている方だと思うので、十二分に自覚されていると思うのですけれども、愚慫さんが人間について思索・立論される際のベンチマークは常に「愚慫さんのスペック」なんですよ。

「思索の合理性に疑問」を持ってはいませんよ私は。
愚慫さん並みのハイパフォーマンスな脳を備えた人がいる場合は、事物に対する構えであったり態度決定であったりを通して愚慫さんが見据えているものに手が届き得るでしょう。
そういう人が相当数存在すれば、社会は変わり得ると思います。
私が「否定しない」と再三申し上げているのは、かかる条件がクリアされれば不可能ではないと推測するからです。

期待できないというのは、理路に欠陥があるのではなく、理路を辿るための資質が要求されるからです。
そのベンチマークが、愚慫さんのスペックです。
大半の人は、要求される資質を満たさないと思いますよ。それはその人たちが悪だからでも怯懦だからでもない。
足りないのです。

話は変わって。Tori Amos。
私はこの人の音楽をオルタナティヴとは思っていないのです。USのチャートの上位に、コンスタントにランクインする人です。ちょっと変わった球筋ではあるものの、基本は王道のポップミュージックであると見ています。
彼女のようなヒットメーカーが一種の不安を誘うような、後味の悪い物語を自分の曲に接ぎ木して商品としていることを面白く思い、この機会にちょっと紹介してみた次第です。特に日本のミュージシャンはこういうテイストのPVを作らない傾向がありますので。
何故こういう映像をヒットソングのPVとして受容する人がいるのか。「不安」「嫌な感じ」のようなネガティヴな感覚を求めているのだと思うのです。私もそうですけれど、何故嫌な感じを求めるのかというのは興味深いところです。

YouTubeのコメント欄にPVについての面白い感想を書いている人がいますよ。
The ending IS my life.... kneeling in the road, I cannot believe what has happened.....
だそうです。私はこういうことは想像しませんでした。

・残酷さに慣れる訓練さん

なるほど、仰りたいことが了解できました。

残酷さに慣れる訓練さんの懸念は、僕も共有するところのものです。
オルタナティブとなる「大きな物語」を提示しても、それを解するのにハイスペックを要するのであるなら「大きな物語」として機能し得ないではないか、ということですね。

その点についてであるなら、僕には明確な意志があります。

例えが飛躍するようですが、仏教には大乗と小乗とがありますよね。
残酷さに慣れる訓練さんの懸念は、大乗が実在の仏陀が唱えた教えを“小乗”と批判した論理なんです。その教えは確かに人間を救うかもしれないが、所詮は一部の人間しか救わない「小さな乗り物」だと。一部の人とはハイスペックの人ですね。

いつだったかここで藤原頼道の鳳凰堂を批判したことがありましたよね。鳳凰堂は阿弥陀如来を本尊とする浄土教のお寺ですが、そこで救われるのはハイスペック(貴族)だけでした。空海はその姿勢を批判して京都を離れて高野山に本拠地を移した。浄土真宗や曹洞宗や日蓮宗にもそういう意識がある。だから総本山を都から遠く離れた場所に置いた。

では、浄土真宗などの教えがだれにも理解可能なロースペックなものかというと、そうではありませんよね。核心部分の理解は高度な理解力を要します。

一時代前に「大きな物語」の中核をなしたマルクスだってそうです。『資本論』はだれもが知っているけど、知っているだけで読み込む人間はあまりいない。仏教で『資本論』の役割を果たしているのはお経です。「なむみょーほーれんげきょー」とは唱えても、法華経をひもとく人は少ない。それなりのスペックを要しますからね。

僕が再三意志の問題だというのは、こうしたことを踏まえているつもりです。

仏教の大乗/小乗の話の流れで言うなら、意志には二段階あります。
まずは大乗・小乗のどちらを志向するか、という問題です。それが定まれば、次は、大乗には大乗の、小乗には小乗の意志のあり方がある、という問題。

以上をふまえて、残酷さに慣れる訓練さんの指摘に答えれば、以下のようになります。

まず、大乗/小乗の選択に正誤も上下もありません。それぞれがそれぞれの道を行けばいいだけのことです。

で、僕は大乗を志向しています。オルタナティブとはそういうことです。それに対して、残酷さに慣れる訓練さんの指摘は、「オマエは大乗だと言うが、実際は小乗じゃないか」というものですよね。

この指摘は当たっていなくもないけれど、的を外している部分もあります。というのは、まだ大乗も小乗もありませんから。乗り物が出来上がっていないんです。作っている最中なんです。

結果としてどのような乗り物ができるか、僕にもわかりません。もくろみ通りのものができるのか。意に反して小さな乗り物しかできないのか。それどころか、欠陥品にしかならないのか。そこそこのモノができても、見栄えや性能が悪くて誰も乗ってくれないか。

僕のスペックでは出来上がるのは欠陥品か、よくて誰も乗ってくれないようなシロモノだろうと思っています。ですけど、そんなことは関係ありません。少なくとも今は。とにかく乗り物を作りたいと考えているだけですから。


もう少し付け足しておきます。

こんなことを考えるのは、そこそこの乗り物に乗れば、ハイスペックではなくても相当な場所まで行けるということを識っている(つもり)だからです。というより、脳のスペックと乗り物を乗りこなすスペックは別のものです。

僕が識っている限りで、もっともよく出来た乗り物は「自然」です。昔の人はみんな「自然」を意識せずに乗っかっていたんです。それが証拠に「自然」という言葉は昔はなかったんですね。ご存知意のように、一神教から輸入された言葉です。

僕の識っている範囲の「自然」の乗りこなしが上手な人は、自然という言葉を知識としては知っているかもしれないけれど、内面化していない人たちです。上手ではあるが乱暴に乗りこなしていました。先輩の樵の方々なんかがそうです。『先祖になる』の主人公とかも。

だけど、残念ながら、私たちはすでに「自然」という言葉が内面化してしまっています。つまり、自然と自己とを切り離して認識してしまっている。だからそのままでは「自然」を乗りこなすのが難しい。ここに別の乗り物の必要性が出てきます。そういう要請があると思っています。

この要請は、僕が勝手に要請されたと思っているだけで、具体的に誰が誰にと言うわけではありません。その意味では趣味ではあるんですけどね。(^_^;)

・残酷さに慣れる訓練さん

Tori Amosについてです。

オルタナとは捉えないですか。
僕はポップスについては自信がないので、とりあえず検索で出てきたカテゴライズに乗っかってみましたが、ポップスの王道と言われれば...。うん?

彼女の他の曲まで触手を伸ばしていないのでなんとも言えませんが、この不安げな曲が王道というのは、いくらなんでもと思います。Tori Amos が王道を歩いている、ということでしょうね。

残酷さに慣れる訓練さんが仰るように、このような曲が支持されるのは、ネガティブな感情を求めてのことでしょう。ですけど、人間のそれはごく健全な反応だと思います。

ネガティブな感情を求めるオーディエンスが求めるのは、自身の感情を相対化だろうと思います。
ここでいう相対化は、共感→分離という順番で機能します。まず共感があって、次にそれを他者のものだと認識することで、自分のものであるネガティブな感情を自身から引き離す、という作用。ですから、ネガティブな音楽を聞いたはずなのに、その後はなぜか心が軽くなります。

ここで重要なのは他者の感情だということです。あまりに身近な人だったりすると他者の感情だと認識することに失敗して、感情が絶対化していくこともあります。そうなるとその相手とは「相互依存」という病的な状態だということになりますね。

こうした作品だと、他者の感情だということが判然としています。いえ、しているはずです。ヒトにはそうした「他者の壁」を乗り越えて共感する能力(僕の言葉で言わせてもらうと〈霊〉的能力)があって、これを発揮することは実は〈生きる〉ことになるのだろうと考えます。そうやって〈生きる〉力が立ち上がって元気が回復すると、「他者の壁」を再度立ち上げる。そのときにネガティブな感情はおいていく、という順序でしょう。

ネガティブな感情を抱えているときにポジティブな作品は受け付けないということが起こるのは、共感が働かず「他者の壁」を超えられないからでしょう。ネガティブな気分のときの「がんばれ」というのが禁句なのも同じ理由ですね。

ネガティブな感情を求める人間は、いうなれば「依り代」を求めているんだと思います。
アメリカでこのような音楽が広く支持されるということは、それだけネガティブな感情を抱えている者が多いということなんでしょうね。


ところで、The Ending is My Life...という感想ですが、これは「他者の壁」が上手く立ち上がらなかったケースだと思います。ネガティブな感情が強すぎたのか、共感が強すぎたのか、共感力が強すぎたのか...。

>そのままでは「自然」を乗りこなすのが難しい。ここに別の乗り物の必要性が出てきます。そういう要請があると思っています

これは面白い考え方ですね。愚慫さんがお持ちの「乗り物」像に興味があります。その辺はおいおい。
私は前世期からの文明の方向性に「慣性」が宿っていると感じているので、テクノロジーと人体がより融合していく方向(拡張/増強)へ向かうのではないかと思っていますが、それは例のティモシー・リアリー辺りの考えていたことと近いのかも知れません。まあこっちへ進むとそれこそ私のようなロースペックな人間はハイスペックな人間の作ったシステムに居候するほか無くなるのですけれど。

「慣性」の問題というのは、大きいと思っています。ある方向にモーメントの生じているものを別方向に動かすには、大変なエネルギーが必要になりますからね。けれども愚慫さんは慣性に乗って生きることを怠慢と感じるのでしょう。

「自然」これも、概念が内面化され云々のレベルで収まっているならまだしも、私の回りには都市から離れた森林のような環境に行くと不安になるという人もいますし、都市化されていない環境に付随する諸々を「異物」として処理してしまう人って結構いそうですよ。間を埋めるのはなかなか大変かも。まあこういうのは子供の方が適応力がありそうですね。

さて、あまり引っ張るのもアレですが「オルタナティヴ/オルタナティヴ・ロック」というのはポップミュージック業界では「単純化」のための用語=仕分けのラベルに近い言葉になってしまっているのです。
私にとっては「オルタナティヴ」というのはもう少し実感ベースの言葉なので、例えばマイナー過ぎないヒットメーカーの音楽でオルタナティヴというと、この辺になります。Tori Amosよりは異形度が高い。
これも公式PVでなかなかにグロテスクですが、彼らの音楽は「オルタナティヴ」とは呼ばれていません。
https://www.youtube.com/watch?v=kBOaLjtR4mw
こちらはライヴ映像。
https://www.youtube.com/watch?v=n8azH3iJWsI

>ネガティブな感情を求めるオーディエンスが求めるのは、自身の感情を相対化だろうと思います

愚慫さんの仰ることはその通りでしょう。
付け加えると、こういう音楽は失調した社会から生まれてくるものだと思います。社会の残酷さが生まれるところから副産物のように生まれてきたもの。かかる作品に触れることを通して、人間は失調した社会と暫定的な折り合いを付けているのかも知れないと思うことがあります。
暗順応みたいなね。作品として作られた闇に眼を慣らしている。
ムヒカ大統領のスピーチも、テイスト自体は異なるもののそういう「受容」のされ方をしているように感じるのです。
だから「痛みの消費」と書いたのです。

・残酷さに慣れる訓練さん

先刻から「ハイスペック/ロースペック」という区分けが出てきています。こういった区分けは話をわかりやすくするのに有効で、僕も多用するのですけど弊害もありますよね。
一部をハイスペックあるいはロースペックと評価することは有効だし合理的だと思いますが、全体の評価としてハイスペック/ロースペックは弊害の方だと考えています。

「慣性」という言葉が出てきました。リアリーの思想に近づくということをヒントに考えると、その「慣性」とは「過適応」に相当するのではないかと思います。

ヒトは社会を営むことによって人間になります。ヒトが人間になる過程には当然、適応があります。ヒトは人間になって社会を営みます。人類は社会を営むことによって自然環境に適応してきたわけです。

「適応」が「慣性」だと言えば、それはそうです。ですけど僕はそこに過ぎたるものを感じています。落差があると感じる。ヒトが人間になる適応の速度と、社会が自然環境に適応していく速度との間にです。

ヒトが人間になっていく適応速度は、生物学的でしょうが、社会が自然に適応していくときの速度はそうではない。もっと速いものになってしまっていますよね。

ヒトの社会的適応と、人間社会の文明的適応の速度の差。社会的適応も文明的適応も、それぞれに「適応」でしょうけれど、ここに「差」が生じると、ヒトが適応を強いられるようになっていく。この状態が「過適応」であり「慣性」ではないかと。

「過適応」が【強欲】を生みだすのは必然ですよね。

また、過適応は歪みを生みだします。そうすると、歪みの対応できる者と引き裂かれる者とがでてくる。前者がハイスペック、後者がロースペックということになり、過適応の状況のなかではハイスペック/ロースペックが全体的評価見なされるようになります。

いうまでもなく、こうした状況は異常です。特定の環境への適応に特化した種が絶滅リスクが高いのは、知られている事実です。他の種はその特化を生物学的な速度で進むのですが、人類だけはもっと速い速度で進んでいます。

リアリーなどのSFチックな思想は、文明的適応がヒトの生物学的適応にブレイクスルーをもたらすと想定するものですが、そのようなブレイクスルーが実現するのか...? しないとは言い切れませんけど、リスクが多過ぎはしないか? ブレイクスルーに至るには、まだまだ知らないことが多すぎるのはないでしょうか?

『両成敗でいいんじゃない』

・残酷さに慣れる訓練さん

オルタナティブが単純化のための用語になっているのは、そうだと思います。まあ、それはそれとして、いったい、何のオルタナティブなのかが興味のあるところです。

オルタナティブという用語を選ぶ発想そのものが面白いですね。そのあたりにアメリカ的な臭いを感じられるような来もします。

https://www.youtube.com/watch?v=bVZElDCQn3I

リンクはゲスの極み乙女の『両成敗でいいんじゃない』なんですけれど、こういった音楽もやはり社会の失調から出てきているんだと思います。だけど、表出の方向性がまったく違いますよね。これを間違っても「オルタナティブ」とは言わないでしょう。

Portishead の方は表出の対象が社会であるような印象を受けます。対してゲスの方は人間でしょう。対象が社会であるからオルタナティブという用語選択になって、そのあたりは銃を手放せないという市民感覚につながっている感じがする。「オルタナティブ」は「レボルーション」のお隣さんという感じですね。ゲスにはそうした社会変革を訴えるような気配はないと思います。

ここから考えられるのは、2つの可能性です。
1.は彼の地の「変調」と当地の「変調」は異なったものであるということ。
2.は、同種の「変調」だが、受け止め方が異なるということ。
正解(があるとすれば)は、1.と2.の間のどこかということになりそうですが、それにしても2.の方に偏っているような気がします。ゲスの方は、ちょっとした風邪だよ、という感じの受け取り方といえばいいでしょうか。その「変調」が「変革」になるという感覚が欠落しているというか。

Natures Revenge

>「適応」が「慣性」だと言えば、それはそうです。ですけど僕はそこに過ぎたるものを感じています。落差があると感じる。ヒトが人間になる適応の速度と、社会が自然環境に適応していく速度との間にです

半分は仰る通りだと思います。「過ぎたるもの」でしょうね。ただ、「ちょうど良い」が予見できないのが人間の能力の壁でもあります。未知の応用という言葉を思い出しますが、実際にやってみないとどういう副作用が生じるかもわからない。
例えばテクノロジーの齎している弊害というものは大抵事前に予見し得なかったものばかりです。

違うなあと感じるのは「慣性」を「適応」と読み取るところで、適応という言葉の読み方の違いになってしまいそうなのでうまく説明できているかわかりませんが、私たちはテクノロジーの齎す弊害をひっくるめて「適応」しているわけではないです。
実際は不具合に困惑している。

https://twitter.com/anmintei/status/722406038759088129
https://twitter.com/anmintei/status/722550433781141504
https://twitter.com/hiruzawa/status/722705130706087936

この、一連の安冨さんのやり取りが面白いので引いてみますが、「私がツイートしたような馬と比べて、デキが悪すぎます」という発言、安冨さんらしくないというかそもそも馬は人間に使われるために生物種として存在するわけではないですよね。
出来不出来というのは「道具としての」歩留りの話になると思いますが、使役馬を育てるというのは、使役の合目的性に応じた育成を施すという話ですから、テクノロジーの問題となります。魚や爬虫類を単に飼う=飼育環境で生かすことを目的とするのとは異なります。生物を道具化することです。
現代、多くの厩舎は競走馬を育てるか、あるいは牧場の中という限られたエリアで観光客を接客する馬を育てていると見てよろしいですよね。安冨さんが想定する「デキの良い馬」はあらかじめ求められる状況になく、従って育成もされていない。今育てられている馬は、育成されている目的が違う。そこは安冨さんも解らないわけがない。
それでも「デキが悪い」という言葉が出てくる。言葉のアヤとも取れますが、安冨さんくらい問題意識のある人(「適応」に対して外から視る目を持っている人)でも、テクノロジーの齎す歩留りという思考の枠から出ていません。
そういうのが、わたしのいう「慣性」です。

テクノロジーでどうにかする、という思考の枠が働いている限り、個々のテクノロジーの寸法が環境にあっているかいないか、それが結果として齎した弊害が耐え難いか許容範囲であるかといった次元の判断を超越するものが現れることは難しいのでは?
ブレイクスルーの話もそうで、ブレイクスルーがあり得るかあり得ないかというよりも、テクノロジーでどうにかするという発想そのものが隅々まで広がっている世界で、オルタナティヴな進路はどのようにあり得るのでしょうか。

(先のコメントを間違えて非公開にしてしまったので、投稿しなおしました)

Subculture

ご紹介のゲスの極み乙女は、球筋に癖のあるJ-POPだと思います。
愚慫さんに対して釈迦に説法でしょうけれども、音楽というのは「詞だけ」「曲想だけ」切り出して位置づけすることは難しいですよね。『両成敗~』は、アレンジがそれほど奇異に感じられません。耳に親しみやすい(聴き手に対して挑戦的/攻撃的でない)処理がされていると感じます。収まりの良い音楽をやっている感じ。

オルタナティヴ・ロックについてはウィキペディア日本語版にわりと綺麗にまとめられているのでそちらを参照して頂ければと思います。
基本的にカウンター・カルチャー、レベル(Rebel)・カルチャーといった文化的土壌の中から同様に生み出されてきたものですから、例えば歌詞が内省的/個人的でも、曲の総体として社会の主潮に対して異質で耳障りだったり粗野な質感を備えているものでしょう。どことなく異形なんですよ。あちらのオルタナティヴなものって。
カウンター・カルチャーもレベル・カルチャーも日本で独自に醸成されたものではなく輸入文化ですから、洋と邦で全く同じものにはなりませんよね。

・残酷さに慣れる訓練さん

へえぇ~、安冨さんがそんなツイートをしているんですね。フォローしていますけど、最近、ツイッターにアクセスしていなくて ^^;

災害時に馬は役に立つと思います。けど、迅速性においてはヘリが勝るし、大量輸送ならやはり車でしょうね。車が通ることができる道路が復旧するまでの間はヘリを回せばいいわけですし、実際には活躍できる場面は少ないかなぁ...。災害時はある意味“戦時”ですからね。騎兵を戦車が駆逐したように、物資輸送という合目的性を鑑みるならば、近代テクノロジーが馬に勝っていると思います。

いずれにせよ、安冨さんのツイートには偏向が感じられますね。僕ならば、この偏向を“バイアス”と表現します。
残酷さに慣れる訓練さんは「慣性」を“文明の方向性”といいましたけど、安冨さんに関しては、個人的な思い入れからですものだと僕には感じられるんですね。

残酷さに慣れる訓練さんがいう意味での「慣性」に乗っかっているのは、僕には残酷さに慣れる訓練さん自身だと感じれます。馬のハイスペック/ロースペックの基準、安冨さんのは恣意的ですよね。もっとも、安冨さんの恣意は社会全般の傾向への対抗意識から生じていると想像されます。対抗意識のうちは、その枠から出ていない――というのは、残酷さに慣れる訓練さんの指摘の通りでしょう。

だけど、僕が問題にしているのは、もう少し込み入ったところです。対抗意識は問題の焦点を捉えている可能性がありますが(あくまで可能性です。筋違いも多々あり)、気がつかないというのは、これまた厄介な問題です

残酷さに慣れる訓練さんは、馬の運用とテクノロジーの歩留まりの問題を同一線上に並べましたよね。これこそ、僕には「慣性」に映ります。馬と暮らしていた経験から言いますけど、馬のトレーニングとテクノロジーの運用とはまったく異なるものです。そしてそのことを安冨さんが識っていることを、僕は知っています。
安冨さんは識っているからこそ、対抗意識から「デキが悪い」というバイアスのかかった言葉を吐いたのでしょう。対抗意識は枠内ですから、安冨さんへの反論ツイートを僕は是と捉えます。

残酷さに慣れる訓練さんが馬とテクノロジーを同一線上で捉えるのは無理かなぬことだと思います。それは怠慢でも怯懦でもない。そうした環境条件にいるのだから当然のことです。この「当然さ」が「慣性」なんだろうと僕は解釈したのですね。ですから「慣性」=「(文明への)適応」です。

そういった「慣性≠(惰性)」の中にいれば、「オルタナティブな進路はどのようにあるのか」と疑問を呈するのも、これまた当然ではあります。ですけど「慣性へ反旗を翻さなければならない」と訴える者が「慣性」の中に安住しているなら、それは「惰性」と言わねばならないし、つまりは怠惰であり、その奥には怯懦がある、というのが僕の理屈なんですね。

「慣性」と「惰性」の違いを生むのは、再三持ち出している「意志」です。

・残酷さに慣れる訓練さん

ウィキを見てきました。もっと早くに見ればよかったですね、「Alternative」 は“代替的”というより“異質”なんでしょうね。歌詞や響きからも、そのことは体感できます。

そうすると、見えてくるのはやはり言葉の問題です。「Alternative」というひとつの言葉で“代替的”“異質”ということを表す。それらが同一のものとしてくっついているということですね。あちらの文化的な土壌なんでしょうし、そういうのが音楽となって現れてもいる。

ゲスの極み乙女は、バンド名からして異質を強調していますが、音楽はご指摘のようにごく標準的なJ-POPであるということ、つまりは、異質さの強調は、同質さとの土台の上のものだということなのでしょう。だからオルタナティブにはならない。日本人のバンドが響きまで異質にしたら、おそらく日本人には受け入れられなかったろうと思います。

オルタナというのも、外国のものだから受け入れることができるという面があるように思います。

>馬の運用とテクノロジーの歩留まりの問題を同一線上に並べましたよね。これこそ、僕には「慣性」に映ります。馬と暮らしていた経験から言いますけど、馬のトレーニングとテクノロジーの運用とはまったく異なるもの

ここはそう返ってくると予測していました。馬とコミュニケーションしていた方ならそう返すだろうなと。
その通りだと私も思います。
ただし、馬と人間との間に全感覚的なコミュニケーションや協働が成立すれば、あとは融通無碍に馬の側が競走馬や馬搬馬の役を果たしてくれるわけでもないですよね。ある機能に特化した道具となるわけでしょう。人間の側から働きかけて道具化するところがテクノロジーだなという。
例えば物を運搬するという話だと、実家で昔飼っていた猫は成猫になっても遊んでほしい時は自分で猫じゃらしを咥えて持ってくるんですよ。さあ遊べって。犬だったら新聞取ってきたり、買い物かご咥えていそいそ運んだり、散歩タイムになると自分からリードを咥えて持ってきたりしますよね、うちの犬はやりませんでしたが。協働というなら、イルカなどは野生でも自ら人間に協力して魚の追い込みをしますでしょう。
馬は自分で鞍や荷を背負って「さあ行きやすぜ」とはならないでしょう。そういう生き物ではないはず。
人間から見て、乗ったり荷を積んで歩かせたりしやすい体格や気質を持っているところから始まっている。

>そうした環境条件にいるのだから当然のことです。この「当然さ」が「慣性」なんだろうと僕は解釈したのですね。ですから「慣性」=「(文明への)適応」

ここは全く仰る通りでしょうね。まあ私には「適応」という言葉のスタティックなイメージが今一つピンと来ないところではあります。モーションを感じないからかな。

・残酷さに慣れる訓練さん

「適応」という言葉は、僕にはとてもダイナミックな感触があるんです。「適応」には“時間”が入っていますからね。そのあたりの〈体感〉の違いは面白いです。
「適応」がスタティックになるのは、「遺伝子」のイメージから来ているのかもしれないですね。

僕にとって「適応」とは、例えば、今、僕の住まいのあたりでは桜の花が散って葉桜に遷移しつつあるんですけど、この「遷移」もまた「適応」だと思うんですよ。季節の循環、すなわち環境の変動に桜という生命体が対応しているわけですが、この対応は決して機械的ではないですよね。環境へのフィードバックです。

つぎに「道具化」という言葉ですが、これは僕の感触だととても暴力的です。その感触は残酷さに慣れる訓練さんも共有しているんじゃないかと思うんですが。

僕と残酷さに慣れる訓練さんの間で違うのは「道具化」という概念が当てはめる線引きだと思います。犬や猫やイルカは彼らの意志を顕在化させます。残酷さに慣れる訓練さんは、その意志表示をもって「道具化」の境目としているようですけど、僕の感触ではちょっと違うんです。

犬猫やイルカが積極的に意志表示するのは、彼らが狩猟をする種だからだと思います。それが彼らの「型」なんですね。一方で馬は草食動物です。彼らには彼らの「型」がある。意志は持っていても積極的に表示しない。常に受け身で、植物に近いと言えなくもない。

彼らは自分から「何かをしたい」という意志表示はしないんです。それは彼らの「型」にない。彼らの「型」は、例えば人間の意志を受けて、それを受け入れるか拒絶するか、という「型」なんですね。そうした「型」の場合、「道具化」の線引きは、彼らの拒絶を人間が受け入れるかどうかになります。彼らが走ることを拒絶しても、ムチで追い立てれば走りますからね。ムチで追い立てるのは「道具化」ですけど、彼らの意志を尊重して協働してもらうことを「道具化」というのは、とても違和感を感じます。

このあたりは実際に馬と接した経験から出てきます。

もう少し言えば、馬は受け身型に特化していますが、猫はいざ知らず、犬やイルカだって受け身型の要素は持っているんです。もちろん、ヒトも。そうでないと集団でいられない。

人間社会の場合、受け身型が重要なのは子どもとコミュニケーションをとる場合です。女性もそういう傾向が強いですが、子どもほどではない。子どもはまだ意志表示の仕方を知らないので、ある状況に対応するのに受け身型しか持ち合わせていないことが多い。

受け身型のコミュニケーションへの感度を高めることは、子どもへの教育においては決定的に重要です。子どもの拒絶のサインは弱くて、立派なオトナは、それに気がつかないことが多い。また、学校といった装置は、子どもの弱いサインを構造的に消し去るように出来上がっていたりします。その結果、何が起こるかというと「過適応」です。子どもはそんな環境においても適応するんだけど、ちょうどいい具合に適応することが難しい。拒絶を圧伏するようにしないとバランスがとれないということになります。

そうなると「過適応」がデフォルトになるのですが、それこそが「慣性」なんだと思います。

次の文章で『バケモノの子』を取り上げましたけど、あの映画が取り上げている【闇】というのは、「慣性」が作り上げるものだと考えます。
ちなみにあの映画では「バケモノ」すなわち動物たちは【闇】を持たないと設定されていますけど、そんなのは嘘です。犬だって猫だってイルカだって馬だって、【闇】を抱えさせることが人間には出来てしまいます。

さらに余談ですが、安冨さんが「デキが悪い」という言葉で指したのは、そうした【闇】を抱えたものだと思います。思いますが、この言葉のデキは悪くてだから反論を喰らう(笑)。デキを悪くしたのは人間ですから、そもそもでいえば、人間のデキが悪いんです。

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