愚慫空論

《身体感覚》〈体感〉


ようやく《身体感覚》と〈体感〉です。

のっけから断りをいれるのも何なのですが、〈体感〉という言葉はあまり適切ではないかもしれません。ここまでの話の流れからすると〈霊的感覚〉とした方がいいのかも。縮めると〈霊感〉ですね。けれど、ここは〈体感〉でいきます。

その理由は、《身体感覚》と〈体感〉は判別が難しいものだからです。「身体感覚」も「体感」も言葉のイメージとしては非常に近い。身体感覚も体感も、どちらもに身体に響くものです。どちらも身体に響いて情動を引き起こし、その情動が意識上に感情となって現れる。

ここを「霊感」にしてしまうと全く別のイメージになります。霊感であっても情動を起こすのは同じなんですけどね。“感”は、どんなものであって情動を引き起こします。

情動の発生源が《身体感覚》であっても〈体感〉であっても、情動から感情へと意識へ登っている回路は、おそらく同じだと思います。ですから感情をモニターしていても、このふたつの違いは判別できません。

ヒトという生物がどうしようもなく社会的なのは、その発生源がどちらであれ、情動から感情へは同じ回路を用いるというところにあると思います。《身体感覚》はいうなれば生命そのものの反応、〈体感〉は主に言葉の世界の反応、つまり社会的な反応です。このふたつの反応が、意識される前段階で同じ回路に乗っかって現れる。


《身体感覚》と〈体感〉を判別する方法は3つあると思います。直接的な方法と、間接的な方法と、その中間的な方法と。

直接的な方法は身体を観察することです。身体の反応の質で《身体感覚》と〈体感〉の腑分けをする。野口整体という方法論はこちらだと思います。主眼は《身体感覚》を鍛えることなのでしょうけれど、その鍛錬には〈体感〉の腑分けも付随してくるのだろうのでしょう。

間接的な方法は、予めそれぞれの発生源を区別しておく、ということ。科学的なアプローチ。心理学や動物行動学のヒトへの適用は、こちらの方法でしょう。そのなかでもアドラーの方法論が特に、《身体感覚》〈体感〉の区別に焦点が当たっているもののように感じています。

中間的な方法は、〈体感〉の世界を秩序づけるということ。宗教やら哲学がこれだと思います。ことに近代以降は哲学でしょう。哲学にマジメに取り組むと体感することですが、“哲学史を学ぶ”ことと“哲学をする”ということは似て非なるものなんですね。“哲学をする”ということは〈生きる〉ことにつながるものがあります。

このあたりの話はまだまだ展開できそうなのですが、そこがこの文章の目的ではありません。そこは別の機会にして、《身体感覚》と〈体感〉の違いを語ってみたいと思います。方法論は間接的な方法です。


こんな記事がありました。

人間の一夫一婦制、理由は「真実の愛」ではなく細菌

4月13日 AFP】人間が一夫一婦制となり、大半の動物にとって自然な行為である、より多くの配偶関係を持つ「乱婚」を拒絶するようになった理由は何なのだろうか。道徳か、宗教か、それともおそらく愛だったのか──。
 12日に発表された研究論文によると、その答えは細菌だという。研究は、人間の祖先は、性感染症が引き起こした大混乱によって、同じ相手と一生添い遂げる方が賢明との結論に至ったとしている。


乱婚だと個体が生き延びる可能性を小さくしてしまう。だから合理的に、生存の可能性を高めるために、一夫一妻制を採用する傾向が生まれてきた――、と。

身も蓋もない話ですね。
この話は科学的な話ですが、厳密に検証するのは難しいように思います。けれど、真実はこんなところでしょう。

ヒトはそもそも乱婚するようにできています。これは善悪の話ではありません。そういう生物というだけのことです。
その証拠はたくさんあります。不倫です。どうしようもありませんww
一方で不倫批判もまた、どうにもならないものなんですね。(-_-)
だけど、不倫の“どうしようもなさ”と不倫批判の“どうにもならなさ”は違います。

この違いは《身体感覚》と〈体感〉の違いに関わります。
ヒトが乱婚するのは、《身体感覚》に沿った行動だと考えます。
一方で、一夫一妻制などのルールは〈体感〉の為せる技です。

誰だったかが発言した「不倫は文化だ」の名台詞は実は間違っているんです。
文化なのは不倫の方ではなく、不倫批判の方です。

その手の話では、先に紹介しましたが、この本も面白い。竹内久美子さんの話です。



この本の本題ではないんですが、その手の部分の概略を紹介すると、まずは

・男女間の性交渉の決定権は女性が握っている。理由はリスクの高さ。女性の方が高い。

個体の生存リスクを軸に考えると、合理的に理解できます。

性交渉というのは子を成して自らの遺伝子を継承させることが目的だと、こうした科学論は説明します。その観点からいうと、
 1.多くの“機会”を持つこと。
 2.遺伝子を継承した子孫が生き存えること。
のふたつが重要になります。女性の場合、1.は生物的に制限されているので、2.が特に重要になる。

で、2.にはさらに2つの要素が要素があります。
 2a. 生き残る可能性の高い子孫を残すこと。
 2b. 生き残り易い環境を構築すること。

2a.は交配相手の選択の問題。2b. は社会の安定性の問題です。

実は社会の安定性と乱婚性との間に直接の関係はありません。社会が中央集権的な体制で安定していれば、女性の交配相手の選択は社会構造に沿ったものになって、権力に近いものが選択される傾向が生まれるというだけの話です。

子孫生存の可能性は、獲得する相手の遺伝子の優秀さの問題と関連します。主に免疫力の問題。竹内さんによれば、免疫力の高さは身体的な特徴となって現れている。ヒトにはそういう相手を感知する《身体感覚》が備わっている。(竹内さんは「身体感覚」という言葉は使っていませんが)。

不倫というような現象がおこるのは、2a.と2b.に食い違いが起こるからです。男性の場合は、1.に起因する部分が大きいですが、1.においては男性と背反する女性の場合は2a.と2b.の食い違いが主因だということになります。この論理でいけば、ですが。

そのことを裏付ける統計的なデータがあるそうです。既婚女性の浮気率を調査したところ、夫との間で子どもがいる場合の方が、その率が高いそう。それも子どもの数が多いほど、女性の浮気率が高いという。「子は鎹」なんでしょう。夫婦の間に子どもが沢山いる方が家庭という社会の安定性が高い。だから女性は安心して...ww 

まあ、あくまで統計的データですww

話は横道に逸れるようですが、ベッキーのお相手のゲス君が世間からの批判に対して「謝る相手が違うと感じる」なんて発言をしたそうです。こうした発言にまた非難が集まったりするんですが、しかし、彼の発言は、遺伝子理論から言っても理に適っています。彼が謝るべき相手は彼が社会を営んでいる相手。そうでない者は関係ないだろう、という論理です。

このことから推測されるのは、彼は自身の周囲の社会をよく把握しているということです。のべつ幕無しに【正義】を押しつけたりしない。そういったものの有効範囲をよく知っている。それがよくわかっているから「傾き者」なんだろうと。
〈体感〉というのは、のべつ幕無しというか、節操がないというか、そういった傾向があります。伝播しやすい。【単純】だということです。さらに、伝播への強い欲求を引き起こす性質があります。イデオロギーです。


お次はこんな記事。


「私欲」老人が浅ましすぎ!過熱する「市川市保育園建設断念」騒動で「子どもが騒々しい」反対に絶望


浅ましい云々の批判の仕方に違和感を抱くんですが、批判の批判は本題とはあまり関係がないのでスルーします。
そんなことより気になるのは、「子どもが騒々しい」と感じてしまう、ということです。

子どもが騒々しいという気持ちは、理解できなくはありません。そもそも子どもはそういう生き物です。騒々しくして、時にはわざと不快感を与えるような行動をして、周囲特に大人に自身の存在をアピールする。そうするのが子どもの生存戦略です。

子どもの生存戦略が成立するには、騒々しくされることを受け入れる感受性が前提です。この感受性はいうまでもなく《身体感覚》です。女性が免疫能力の高い男性を識別するのと同じ。

女性の男性識別能力の高さは、時として、社会問題を引き起こします。ですけれど、これは、識別能力の高さを発揮し惹かれるということは〈生きる〉ことなんだと評価すべきだと思うし、問題と捉える社会に問題があると考えます。
対して、老人たちの問題は《身体感覚》の低下の問題。子どもたちに惹かれない、〈生きる〉ことが出来ていないという問題です。

生物は加齢とともに《身体感覚》が低下するという一般的傾向がある。そんな仮説も成り立ちます。
一般的傾向ですから、例外的に低下しない者もいるということです。

この仮説が成立するか、あるいは成立しないのか、厳密に検証したものの存在を僕は知りません。なので主観的な話になりますが、僕の経験から出る答えは、《身体感覚》の感度は教育の問題です。

《身体感覚》は〈複雑さ〉を知覚する能力ことです。一般的な教育は逆で【単純さ】を理解することが要求されます。
また、教育というと上位の者から施されるというイメージがありますが、《身体感覚》の向上は必ずしも上位下位は関係ない。師が弟子に教える、というのは《身体感覚》の上位者が下位の者に教えるということですが、親は子育てで育つということもある。《身体感覚》向上で重要な要素は、環境です。

その意味で、上位者というのもまた環境。親も子にとっては環境で、また逆に親にとっても子は環境です。そうした環境といかに向き合い〈生きて〉いるかが《身体感覚》の発展と関係が深い。もちろん、ここでいう環境には仕事(職場という意味ではない)も含まれます。どんな仕事をしてきたか。

いきなり違った話を持ち出しますが、マルクスが言ったところの「疎外」が何からの疎外を言っているのかというと、僕は《身体感覚》なんだと考えています。マルクスは資本主義社会が「疎外」を作り出すと考えた。確かにその指摘はその通りでなんだけれど、伝統的な地域社会に「疎外」がなかったかというと、そうでもない。伝統的地域社会に「疎外」があったからこそ、資本主義は発展したんですね。

話を老人たちのところへ戻すと、彼らが子どもの騒々しさに惹かるという《身体感覚》を養うことができなかったのは、「疎外」に原因があると考えます。そうすると、子どもは騒々しいという〈体感〉だけが出来上がる。〈体感〉はイデオロギー的な性格を持っていますから、保育園建設反対という【主張】になってしまいます。


《身体感覚》と〈体感〉と「疎外」の関係は、もっと考えてみなければなりません。

コメント

「体感」という言葉は一般的によく使われる言葉なので、愚慫さん自身の特殊なワードとして使うのは、読む側としては苦しいです。
これを受け入れながら読むのは「染脳」に近いです。 (^_^;)

〈霊的感覚〉でいいんじゃないですか?
馴染みのない言葉ですし。
その方が意味合いを結びつけやすいです。
「身体感覚」を略して「身感」とは呼ばないわけですから、〈霊的感覚〉も〈霊的感覚〉でいいんじゃないですか?

僕にとっては「身体感覚」と「体感」はイコールです。
あと、僕の場合、「イメージする」ということの中には実感を伴いません。

・アキラさん

アキラさんのコメントへの答えを思い巡らせていたら、新しい記事になってしまいました。

もちろん〈霊的感覚〉で正しいとは思うんです。本文にも書いたように。引っかかったのは、それがアキラさんのご指摘のように、馴染みのない言葉であること。

まあ、これは欲だなぁ、と自分で思うんですけどね。伝えたいという欲。馴染みのない言葉で理解ができても、それはアタマの中だけのことのような気がするんです。響かない。

だから、アキラさんが苦しい、「染脳」だ、と言ってくれたのは、申し訳ないけど、望むところだったりします。そういうふうに受け取ってくれたということは、体感していることになると思うんです。

もっとも、アキラさんが完全に「染脳」されるとは思いませんし、そんなことを望んでもいません。筋肉痛ならぬ「脳痛」を生じてもらえば、もう、十分です。

こういう態度は傲慢でしょうか? そう感じられるなら、アキラさんには読まない自由もあります、と申し上げることになるんですが...、そうなると残念です。


なお、アキラさんにとって「身体感覚」と「体感」がイコールだというのは理解できる気がします。
ここは言葉の使い方の問題になってくるのですが、僕の言葉で言わせてもらうなら、《身体感覚》と〈体感〉の腑分けができているから、でしょう。その腑分けはできた方が、より幸せに近づくことができると思っています。

ただ、僕も含めてたいていの者は、自身の感覚によってだけではその腑分けができないんです。だから、言葉で腑分けしようと思っている。それがどの程度実効性があるのかは疑問です。【消費】で終わるか、スルーされてそれにすらならないか、まあ、後者でしょうけど、そんななかで、アキラさんが苦しいと言ってくれたことは、伝わらないわけではないんだな、と。


腑分けの付かない者にとっては、《身体感覚》も〈体感〉も、どちらも「実感」です。

たとえば「胸キュン」なんて、実感がありますよね。これはその相手を感覚で感じているとき、目の間にいるときにも感じますが、いないときにイメージしても感じます。いなくても、心拍数があがったり、身体反応がでますよね。これを実感・体感といって誤りではないはずです。

こうした実感が愉氣のときの実感と異なることくらいは、僕にもわかります。けど、違うということすら愉氣の経験がないとわかりませんよね。

・愚慫さん

まぁ 愚慫さんがどういうことを言いたいのかは、分かりたいとは思ってますからね。 (^^)
愚慫さんの場所だし、傲慢だとは思いませんよ。
僕の言葉の使い方と違うので、それが苦しいと言っているわけですから、そこはお互いさまです。 (^^)

ちょっともはや、《身体感覚》がどういうことを意味してるかが分からなくなってますが(〈体感〉は「霊的感覚」ですよね)、僕にとっても「身体感覚」も「体感」も どちらも「実感」です。

身体反応が出るのは「実感」があるからで、そういうのはみんな「実感」なんです。

その一方で、経験・体験がなくて 想像的なイメージしか結べないものがありますね。
(ですから、関わるのは視覚と聴覚くらいでしょうか)
そういう「想像はできるけれど実感はないもの」について、僕は「イメージする」と表現しちゃうので、そのへんが噛まない感じになってますね。
(だから お互いさま)

「実感のない人はイメージだけでもいいですから」みたいな説明は よくします。 (^^;)

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