愚慫空論

今いちど《魂》について


もう一度。「魂」について考えてみます。

「魂」とは、具体的な「形の中に感じられる「意志」なんだと前に書きました
この「形」には〈複雑さ〉が深く関わります。
この「意志」を《魂》と表記します。

しかし、よくよく考えてみると、《魂》とは外に向かって広がっていく性質のものです。
〈複雑さ〉というものは、《魂》の外向志向から生じていると考えられます。

私たちは身体を所持しています。いえ、身体に所持されています。
《魂》というのは、もちろん精神的なものを指します。
精神的なものから外部と言ったときには、ふたつのものを含むことになります。
身体の外部と身体の内部です。
身体の外部はもちろん、自身の内部だって精神にとっては外部です。
内部感覚というのもありますし。

自身の身体も外部と捉えて感覚を作動させると、そこには「意志」が感じられる。
論理としては成り立っていますが、少し違う感じもします。

論理として成り立っているというところが怪しいんですね。
論理が入り込んでくるということは、そこには【単純さ】が忍び込んだということです。

感覚の作動と「意志」とは、ひとつのものの裏表なんだと思っています。
ここは分離できません。分離すると言葉が入り込んで【単純さ】が生じてしまう。


「魂」は外向志向だから《魂》だと表記します。しかし、そうだとすると疑問が残ります。
「魂」とは、内部そのものという感触があるからです。

そのような感触は、《魂》の外向志向の論理によって説明出来るのだか誤っていると考えるのは、誤りだと思います。
ここにも同様に論理が入り込んでいるからです。
そうすると、「魂」とは、外向志向であると同時に内向志向のはず、ということになります。


・・・こんなふうに言葉で記述するのはとても疲れる上に、上手く伝わるような気がしません ^^;
というわけで、簡単な図を使ってみることにします。

ここに極めて簡単な図形があります。
この説明では「形」は関係ありません。手間(と能力)の問題で簡単にした(なった)だけです。
(本当ならフラクタルな図形の方がいいんですが...)

着目して欲しいところは「形」ではありません。その図形が及ぼした影響です。
すなわち、この図形によって“内”と“外”が出来上がりました。

さて、上で「魂」とは、精神的なものだといいました。
この図は、精神的なものの“内”と“外”を表示していると理解してください。

精神的なものの“内”と“外”とを区切るのが感覚です。
この図でいうと図形が感覚に相当します。

実は、感覚と図形は、その性質に共通するところがあります。
追究すると実在がなくなる、という点において。

この図形は、モニタの素子が発光しないこと(黒色)で表示されています。
モニタ上においての図形の実在とは、発光していない素子、つまり「ドット」です。
では、その表示をどんどん細くしていくとします。
最小は1ドットですが、これはモニタの性能による制約ですね。
しかし、この図形の本質は、そういった制約を超えたところにあります。
空想上はいくらでも表示を細くしていくとができます。無限にいくらでも。

図形が図形であることの本質は、その図(線)が実在しているか否かにあるのではないんですね。その図(線)が、空想上であろうが何であろうが、周囲の空間に影響を与えて“差異”を認識させるところにあります。

感覚も同じです。
環境の中から差異を検知するのが感覚の役目です。感覚装置が某かの化学物質を検知すると、そのシグナルが他の器官へと送られる。そのシグナルは「差」を示すのですが、それこそが“情報”です。『精神の生態学』などの著作を著して精神について研究したベイトソンは、情報を「差異をもたらす差異」と定義しています。“シグナル”もまた「差異」です。

では、差異を発信する感覚とは何なのでしょうか? 
感覚器官が発することは理解できます。ですけど、感覚=感覚器官ではありません。

感覚を追究することは「差異をもたらす差異」をもたらす差異を追究することになりますが、これは無限ループです。図形と同じように、感覚もその実体はなくてもいい。感覚の場合は、ないと断定してもいいと思います。

感覚のそもそもの性質は外向志向です。
感覚器官を保有する生物が、自身の生命保持のために情報を集めるのが役割なのですから、多くの情報を集めることが生命保持に寄与するわけですから、外向志向であるのが自然です。

精神といったようなものをもたない(と思われている)生物にとっては、身体の境が感覚の境になるでしょう。
その上にヒトは精神を持ちます。ヒト以外の生物が身体を境とする二重構造だとすると、ヒトは身体の内部にさらに精神という内部を持つ三重構造ということになります。
身体を区切る感覚は内と外の両方に働きます。となると、精神を区切る感覚も内外の両方に働くでしょう。

(身体を区切る感覚と精神を区切る感覚は別のものだと、とりあえずは考えられます。が、その問題はここでは保留にします。)

感覚が働いているということは、感覚が知覚する「対象物」があるということになります。
では、精神の内側で感じられる対象物とは何か?
これが「イメージ」。僕の言葉で言わせていただくなら〈霊〉です。

実感という言葉があります。この言葉が言い表しているのが(ほとんどの場合)〈霊〉の感触です。
大切な人、あるいは嫌悪している人物、好きな食べ物、嫌な思い出――、こうした「イメージ」を思い浮かべると、何らかの感触が生じます。その感触を生じせしめる対象はそこにはないにも関わらず、確かな感触は存在する。だから、本当は“虚”なんだけど、感触はホンモノに思えるから、わざわざ“実”をつける。

しかし、そうした感触が発見できないこともあります。「イメージ」がない場合です。
たとえば、セルフイメージを思い浮かべてみるとします。ほとんどの人が、実感を伴いつつイメージを抽出することができるはずです。
次に、その先の、イメージしている自分を感じようとすると、どうか? おそらく感触を発見することはできないでしょう。

ここで重要なのは、“得心”とでも呼ぶべき身体作用です。「ああ、ないんだぁ...」と、それまでは思い巡らせてアタマの上のほうにあった“氣”が、すっと降りてきてあるべきところへ座る、というような感触が生じます。そうした身体作用を伴った心の動きが得心だと思うのですが、そうすると、探ろうとしていた感覚の「意志」が残こる。

誰かを好きというのも、同じような感触があります。なぜ好きなのか、その理由を探って思い巡らせてみても、理由が見いだせない。「好きのイメージ」が出てこない。そこで得心すると、“好きという意志”が残ります。それが「好き」というところの本当のところだと思います。

こうした作用は内向志向です。
そして得心に伴って感じられる「意志」は、外向志向においてもあります。〈複雑さ〉を生きていると感じて、「ああ、生きているんだなぁ...」と得心すると、「意志」が感じられる。僕はそれを《魂》と呼んだわけですが、内向志向で発見できる「意志」もまた、《魂》なんだろうと思います。


感覚は実体のないものですが、拡張したり収縮したりします。実体のないものが動くというと論理的には変ですが、感覚的にはつかめると思います。

外向志向のときは感覚は拡張し、その限界に達したところで「意志」を感じる。内向志向は縮小しますが、こちらも限界に達すると「意志」が浮き上がってくる。身体作用を伴って出現する“限界”こそが、あるいは「魂」と呼ぶべきものかもしれません。

が、そのあたりはどちらでもいいと思います。ここで展開しているのは、所詮は“言い当て”に過ぎませんから、あれだこれだと確定する必要はないし、確定してしまうと「イメージ」が出来上がってしまって〈霊〉になってしまいます。

《魂》とは、〈霊〉を生みだす活動だとも考えるのですが、そのあたりは《身体感覚》〈体感〉のところで語りたいと思います。


※ 限界における身体感覚については、こちらでも文章にしています。これも外向志向です。

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