愚慫空論

〈複雑さ〉

この文章を書くのは二度目です。
以前に同じ内容のことを書いたというのではなくて。
2日前に書き上げてアップロードしようとしたら...、どっかへ行っちゃった、、、、(T_T)

テキストエディターあたりに下書きしてからブログ編集画面へコピーすればいいでしょうけど、編集画面に直接書き込むのが習慣になっていまして、なかなか改まりません。
それに、力を込めたものほど、よりによってどこかへ飛んでいく。

察する方は文面から察するでしょうけど、僕は文章を書くのに非常に力が入ってしまう。楽々とは書けないんです。
何度も言い回しを訂正したりして、継ぎ足し継ぎ足し進めていく。
それでも後から読み返すと、この言い回しは違ったなぁ、思うことが多いです。
下書きをしないのは、そんな書き方をするからだろうと自分で思っています。

前置きを書くと勢いがついて書きやすいんですが、このくらいで。


この文章は、前記事からの続きです。

前記事は、最初はタイトルを『《魂》〈霊〉《身体感覚》〈体感〉』としていました。この4つを繋げて1つの文章に使用と構想しました。《魂》と〈霊〉を腑分けして、それぞれ《身体感覚》と〈体感〉とに繋げるという構想です。《 》や〈 〉の記号が共通しているのはそのためです。
でも、途中で力尽きてしまいました、、、(-_-)

仕切り直して書こうと思ったのですが、「複雑さ」について、もっと書いておくべきことがあると気がつきました。
で、《身体感覚》と〈体感〉へ繋げる前に、この文章です。


ここで示したい「複雑さ」は、一般的にイメージされているのとは微妙に違います。
だから〈複雑さ〉と表記します。
もっとも、一般的な「複雑さ」のなかに〈複雑さ〉も含まれていなくはありません。

僕に〈複雑さ〉について考えるきっかけを与えてくれたのは、この本です。


出会いは和歌山の県立図書館でした。なにか面白そうな本はないかと書架を巡っているとき、このタイトルが目に留まりました。

 「複雑さを生きる」

これが“複雑に生きる”とか“複雑さの中で生きる”とかだったら、おそらくスルーしていたと思います。
このタイトルの「複雑さ」が一般的な意味から逸脱しているように感じられる。それで手にとって、読んでみることになった。この「複雑さ」は〈複雑さ〉です。

『複雑さを生きる』の内容を一言で書き表すと、こうです。

 〈複雑さ〉を「複雑さ」で言い表す。

“説明する”ではないんです。“言い表す”です。
「複雑さ」と〈複雑さ〉は次元が違う。直接はつながらないんです。
「このように説明しますので、察してください」が“言い表す”です。

では、「複雑さ」と〈複雑さ〉はどのようを簡単に言い表してみます。

「複雑さ」というのは「誰にでも理解できる単純なことの膨大な積み重ね」です。
根っこは「単純さ」にあります。もとは単純なんだけど、たくさんありすぎて理解が難しくなって複雑になる。
“逐次的と言ってもいいかもしれません。確実なものが次々と連結されていくイメージ。
あるいは“シーケンシャル”とか。
コンピュータというのは、この「複雑さ」の原理を具体的に形にしたものですね。

対して〈複雑さ〉は、ランダムです。ランダムなんだけど、デタラメでもない。
厳密な規則性は証明できないが、規則性らしきものはある。
多くの要素を同時に並列的に処理する。するとブレが生じてランダムになります。

ヒトの下す「判断」は、厳密にはこちらです。
こちらのはずなんだけど、「複雑さ」の方を志向するのが一般的。
「知的」の一般的イメージが“「複雑」なことを理解する能力”ですからね。

またしても名前を挙げさせてもらいますが、内田樹さんを代表される方々が提示する「知的」は“〈複雑〉な判断を的確に下せる能力”です。


『複雑さを生きる』へ話を戻します。
この本で〈複雑さ〉と「複雑さ」の橋渡しをしているのは、複雑系という科学です。

複雑系(ふくざつけい、英: complex system)とは、相互に関連する複数の要因が合わさって全体としてなんらかの性質(あるいはそういった性質から導かれる振る舞い)を見せる系であって、しかしその全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないようなものをいう。

これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。系の持つ複雑性には非組織的複雑性と組織的複雑性の二つの種類がある[2]。これらの区別は本質的に、要因の多さに起因するものを「組織化されていない」(disorganized) といい、対象とする系が(場合によってはきわめて限定的な要因しか持たないかもしれないが)創発性を示すことを「組織化された」(organized) と言っているものである。

複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、実際に人間にとって興味深く有用な多くの系が複雑系である。系の複雑性を研究するモデルとしての複雑系には、蟻の巣、人間経済・社会、気象現象、神経系、細胞、人間を含む生物などや現代的なエネルギーインフラや通信インフラなどが挙げられる。


「人間にとって有用な多くの系が複雑系である」という言い回しが面白いですね。ヒトも、人間が営む社会も複雑系なんだから、複雑系が有用なのは必然の理です。なのにこの言い回しは、有用という事実は一応認めながらも、その「理」を受けて入れることから逃避しているように感じられます。
こういった構えに根底にあるのが「複雑さ」への志向だと考えています。

「複雑さ」への志向というのは、実は【単純さ】への志向です。
wikiの中の言葉で言えば還元主義。


複雑系科学の発達は、コンピュータの能力の爆発的な向上に支えられているところが大きいと言います。
モデルを組み立ててコンピュータでシミュレーションを行う。
そうした手法で描き出されたグラフィックスなどは、すでに身近なものになっています。

コンピュータの計算能力は、次々に新たな知見をもたらしてくれている。新しい世界像を私たちに提供してくれています。とても興味深いし、素晴らしいし、どんどん発展して行ってくれたいいと思っています。

しかし、その一方で引っかかるものがあるんです。置き去りにされているものがあるように思う。それが〈複雑さ〉への志向です。

コンピュータの能力は〈私〉の外側の世界像を開拓するには有用です。ですけれど、〈私〉そのもの、ヒトがもつ〈複雑さなの能力〉の開拓には、何の役にも立ちません。新たな世界像の開拓がむしろ〈複雑な能力〉の開拓を隅に追いやっているような気がしています。

もっとも、この傾向は今に始まったものではない。近代という時代そのものの大きな流れです。それからすれば、コンピュータの能力のおかげで複雑系科学が発達して、改めて〈複雑な能力〉に焦点が当てられるようになった考えられなくありません。『複雑さを生きる』はそうした流れの本です。

〈複雑さ〉への志向は、実践されなければ意味がありません。
〈複雑さ〉が有用なものだとわかっても知識だけでは足りない。
〈複雑さ〉というのは、そういう性質のものです。


今、こんな本を読みかけています。


宗教と科学のガチンコ対決という煽り文句が副題になっています。
宗教側は佐藤優さん。科学側は竹内久美子さん。

このなかで佐藤優さんは「科学は魔術に見える」と言っています。
その理由が「誰でも同じ手続きを踏めば同じ結果が出るから」です。

一般的な感覚からすれば意味を把握するのが難しいでしょう。誰でも同じ手続きを踏めば同じ結果が出るからこそ科学ではないか、と。【単純さ】志向だとそう捉えるのが道理です。科学は道理なんですね。

ところが〈複雑さ〉志向からすると、これが道理から外れているように感じられる。“ぶれ”がないからなんです。複数要素の並列処理にはぶれが生じるということは、複雑系科学で明らかになっています。明かなのに、そのようには思考できません。そこには「壁」があります。

この「壁」は〈体感〉に因るものです――というのは、先走りになりますので、次で語ります。

〈複雑さ〉志向からすれば、複雑系科学などは、もはや魔術そのものです。

確かにコンピュータは人間が作ったものです。モデリングのプログラムもデータも、人間が組み上げ、抽出したもの。それらを機械に入力して計算させる。機械はその原理に従って正確に物理的に作動し、結果を出力する。この流れは道理に適っているように感じます。そう感じることは事実としてあります。僕だってそのように感じる自分がいることを感じます。

だけど、別の事実があることも確かなんです。焦点は「機械が正確に物理的に作動する」こと。ここが道理から外れていると感じるキモのところです。“ぶれ”が道理の中に組み込まれていると「正確に作動する」ことが当たり前ではない。というより、人間のものではない。たとえコンピュータは人間が作り上げたものであったとしても、その作動は人間のものではないんです。

コンピュータの作動が人間のものではない、という明確な証拠はあります。それは、コンピュータの計算結果が人間にはもはや検証が不可能だという事実です。もしかしたら、コンピュータを構成している膨大な素子のひとつが品質が悪くて求められているように正確に動作しないものかもしれない。そうなると計算結果には“ぶれ”が生じます。複雑系科学では、こうした“ぶれ”は出力の大きな違いとなって現れることを明らかにしていますが、その検証はもはや人間には「複雑」過ぎて不可能です。コンピュータの正確さを信じる以外に方法はありません。

この事実を魔術の呼ぶことは【単純】志向においても道理から外れていないと思います。


そうなると、問題は次へ移ります。
〈複雑さ〉と【単純さ】にそれぞれ道理があるとして、互いの道理は並行するのか。
あるいは並行せず、より上位の道理があるのか。

並行するのであれば、それぞれの道理は各人の趣味の問題として処理すればいい。
しかし、より上位の道理があるとするなら趣味では済まされない。社会の問題になります。

前者だと楽でいいのですが、僕は後者を支持します。
この問題は次のテーマです。


締めに《魂》〈霊〉と〈複雑さ〉の関連について。

《魂》とは、具体的な「形」に込もっていると感じられる「意志」でした。
この具体性こそが〈複雑さ〉が「形」になったものです。
「形」というのは、外部です。

また、〈複雑な能力〉による判断がぶれるのは、偶然が絡むからです。
判断にからむ偶然の要素を抑えようとすると、より感覚の〈複雑さ〉を高めていかなければならない。
感覚の〈複雑さ〉が高まると、外部の「形」の〈複雑さ〉も大きくなります。そうなると、ここにまた偶然が絡む余地が生まれる。環境と感覚が相互に影響しないながら、螺旋状に成長していくイメージでしょうか。

このイメージは「アフォーダンス」の概念に近いと思ったりもしています。

コメント

『外部の「形」の〈複雑さ〉』とは どういう意味合いでしょうか?

『感覚の〈複雑さ〉が高まると、外部の「形」の〈複雑さ〉も大きくなります』というのは どういう意味合いか? ということでもかまいませんので。

・アキラさん

まず「外部」でが、感覚の外側というような意味です。
身体の外側というのとは違いますので、自身の身体の感覚も「外部」に入る場合があります。
内/外の境界は、明確でありません。感覚のありようで変化します。

「形」は2つのことが言えると思います。

ひとつは、例えば今の季節なら、桜。こちらではもうすぐ満開という頃合いですが、この桜の「形」は日々違うし、感じ方によっては刻々変化します。変化を内包した「形」。
もうひとつはも変化を内包した「形」ということですが、こちらは感覚のありようによって変化する、ということ。

〈複雑さ〉は、感覚でいうならば、センサーの感度が上がるということですね。感度が上がると入力される情報量が増しますから、「形」の把握のありかたが変化します。

といったところです。

では、その『具体的な「形」』をも、お互いに「そのように」は共有できない… という前提ですね?

それは微妙なところです。

たとえばここに今、リンゴが1コあったとしますよね。

“1コ”ということについては、完全に共有できると思うんです。
“ただ1コのリンゴ”というのも、それはそれで「形」ですから。

ですけど、そのリンゴが“どのようなリンゴか”ということを問い始めると、共有はできない部分が生まれ始めます。把握のありかたが〈複雑〉になるほどに共有できなところは増えていく。

このことは事実だと思うんです。その事実をどのように捉えるか? という問題意識のつもりでいます。

完全に共有できないのだから、できないとも言える。ある程度はできるんだから、できるとも言える。そうした二者択一ではないんですね。共有の具合にはグラデーションがあって、そのグラデーションが生じる原因を〈複雑さ〉と呼びたいんです、ということですね。

また、「形」の把握において完全に共有できない地点が存在すると思っているわけでもありません。そのあたりは、濃淡があって、なおかつ、まだらなイメージを持っています。

まあ、しかし、そういう究極の地点を想定させる文章ではあると思います。といって、他の書き方は、僕には無理だなぁ...

分かりました。

では、「魂」と〈霊〉、外部感覚と内部感覚、といったことも、二者択一的でない… ということですね?

実態として、外部感覚と内部感覚は二者択一的ではないと捉えています。

けど、ここも微妙です。これから進めたいと思っている話の方向は、僕も含めた大方の人間は択一的に捉えることができない、という前提に立ちます。しかし、捉えることができる人が存在するという可能性は否定できないし、普段は捉えることができなくても、何かの折に捉えることができるという可能性もあります。

また、《魂》と〈霊〉は、明確に区別する方向で考えています。

というのは、魂や霊やらというのは、文字は拝借していますけど、僕の作り出したものですから。そこは明確にする方向でないと、伝えるということができなくなってしまいます。

ただし、僕の区切りは、他の人は完全に共有できないとも思っています。その意味においては、二者択一的ではありません。

分かりました。
何となくそのつもりをもって読むことにします。 (^^)

そのへんに絡んでの僕の疑問のひとつは、
『〈霊〉という複雑で、かつ、リアルなイメージ」は、「魂」なるものが捉える感触を含まないのかな? ということです。

その感触があってこその〈霊〉だと思っています。いますけど、その感触から離れてしまうということが起こってしまう――そういう「霊」を【悪霊】と言ったり ^^;

これはここでしっかり議論することは必要ないので、そのまま保留、あるいは今後の記事に反映させてもらえるとか、そんなところでよいのですけれど、出したついでにもうちょっと連なる疑問を書いておきますね。

上記のようなことであるとすると、ひとつ前の記事の以下、

『生命は感覚器官を通じてしか外部の情報を入手できません。
 ヒトがもつ〈霊〉というリアルで複雑なイメージは、感覚器官を通じて入手される情報で構成されます。
 対して「魂」は、上の定義に従うなら身体内部のものということですから、感覚器官からもたらされる外部感覚ではなく、内部感覚になるはずです。』

〈霊〉というイメージが感覚器官を通じて入手される情報で構成されるなら、それは感覚器官からもたらされる外部感覚に依る・・ということになる気がするのですが。。。
という疑問。 (^^;)

アキラさんのご指摘、とてもありがたいです。おかげさまで僕が言いたいことに辿り着いたような気がします。(^o^)/

辿り着いたところは、アキラさんの疑問に直接答えることになっていません。なっていませんが、アキラさんが指摘されたような矛盾が生じた原因を解消したものになったと思います。

そんなわけなので、ぜひ、次の記事をご覧になってください。 

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/830-185611db

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード