愚慫空論

《魂》と〈霊〉



以前、『霊魂』というタイトルで文章を書いたことがありました。

〈霊〉とは心のなかのイメージです。
このイメージは、複雑で、かつ、リアルです。
このリアルさを『エヴァンゲリオン』の一部を拝借して説明を試みたのが『霊魂』という文章でした。

ヒトがリアルなイメージをもつことが出来るのは、高度に発達した脳の機能によるものでしょう。
他者のリアルなイメージを心の中に棲まわせることで、ヒトはチンパンジーなどよりもより協働性の社会を営むことができるようになり、その結果が繁栄に結びついているのだと。
しかし、当然のことながら、ヒトの高度な脳力にも限界があります

ヒトは、ヒトの脳力を超えた大きな社会を営むようになりました。
人間の不幸の原因は、突き詰めればこのオーバースペックにあるというのが僕の考えです。


少し話の方向がズレました。

『霊魂』の記事では「霊魂」と題しておきながら、「霊」のことにしか触れていませんでした。
「魂」については、安冨歩さんの定義を採用させてもらいました。

出発点となるのは「魂」である。ここでは魂という言葉にいかなる宗教的な意味合いも含めてはいない。人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと、我々はそれを魂と呼ぶ。
 運動状態と言うと、とっつきにくい印象を受けるかも知れないが、魂と身体を対比させて考えるとわかりやすくなる。
 私たち人間はみんな、肉体、血液、脳などの全てを含む身体を持っている。しかし、ただ 身体を持っているということと、生きていることとは別の話である。
 私たちは誰に習うこともなく、呼吸をしている。肉体を構成する細胞はつねに代謝活動をしている。血液は血管を流れ全身をめぐっている。脳では数百億個の神経細胞、ニューロンが互いに電気的、化学的に通信をしている。これらの動きが十全に機能しているからこそ、私たちは生きることができる。
 これらすべての動きのうち、人間に生来備わっているもの、それが魂である。


この定義によるならば、「魂」は、各人にひとつです。
そして、ヒトはそのひとつ「魂」しか感じることができない。

けれども、私たちは自らの外部においても「魂」を感じています。
少なくとも「魂」という言葉は、そのように用いられます。
他者の生命の営みに「魂」を感じるのはもちろんのこと、生命体ではないもの、すぐれた芸術作品などのなかにも「魂がこもっている」と称して、魂が感じられると発言する。

あるいは、「鎮魂」などということも言います。
同義語に「慰霊」というのもありますが、「鎮魂」と「慰霊」は、本当に同義なのでしょうか?

生命は感覚器官を通じてしか外部の情報を入手できません。
ヒトがもつ〈霊〉というリアルで複雑なイメージは、感覚器官を通じて入手される情報で構成されます。
対して「魂」は、上の定義に従うなら身体内部のものということですから、感覚器官からもたらされる外部感覚ではなく、内部感覚になるはずです。
お腹がすいた、頭が痛いといったような不快な感覚。
満腹感や覚醒感といった心地よい感覚。
また、その気になれば、内臓が働いている感覚も感知できるでしょう。
さまざまなグラデーションがありますが、こうした内部感覚が“魂の感覚”ということになります。

これらの感覚の特徴は、イメージないということです。
内部感覚をいくら感じても、心の中でイメージを結ぶことがない。
「魂」と〈霊〉との違いです。

しかし、イメージがないなら、「魂」という言葉が古来から存在することも不思議なことです。
私たちは、魂を外部にも感じることができるはずです。


いきなり結論へ跳びます。
「魂」とは「意志」です。
具体的な「形」の中に感じられる「意志」。

生命体はとても複雑です。
複雑なのに単一なんです。

冒頭に掲げたのはケヤキの木です。
ケヤキがケヤキの形になるのは、それがケヤキだから。
DNAの仕業と科学的に言ってもいい。
プラトンを拝借してイデアと言ってもいい。
これが“単一”ということです。

だけど、「この木」が「この形」なのは、科学的には説明できません。とても複雑です。
ケヤキのDNAと周囲の環境とのせめぎ合いで偶然に出来上がった、複雑で“具体的な形”です。
「この木」を別の場所に持っていけば、この木には違いないけれど、別の具体的な形になるでしょう。

この単一と複雑の落差に感じられるのが「意志」です。
単一が必然であり、複雑は偶然の作用だとすると、その間でのせめぎ合いです。
せめぎ合っているということが〈生きている〉ということで、それは「意志」だと認識される。

「意志」にもイメージがありません。
ではその「意志」を、どこでどのように感じているのか。
具体的な“形”を感じている感覚器官の作動として感じているのではないか。
感覚の作動感です。

感覚の作動は生命の営みです。
その作動状況が、生命の作動状況と相似形であるとき、自らの中にある〈生きる力〉が反映されてイメージなき意志として認識されるのではないか。

私たちは単純な「形」、例えば直線的な造形の人工構築物であるとか、そういったものには「意志」を感じ取ることはありません。それは、私たちの生命の営みの在り様とは異質のものだから。

なお、「形」という言葉です。
「形」という文字そのものには視覚的なイメージがあります。
が、ここでいう「形」は、視覚的なものに限定されていません。
「形」とは、他を識別し記憶する差異というくらいの意味です。
「形」は音にもあるし、臭いにも、味覚にもあります。
これらの感覚も記憶し、他と識別することができます。

また「魂」という言葉についても付言する必要があります。
「魂」という文字は〈霊〉です。
文字には文字の具体的な「形」がある。
それは直線的で「意志」は感じられない。
ソシュールの言葉を借りると、シニフィエです。

「意志」が「魂」という言葉によって言い表された時点で、生命の具体的な「形」を感覚する作動とは異なった作業を私たちは行ってしまっています。

言葉にはイメージがあります。
僕が今、文字を通じて伝えようとしたことが読者に伝わったとしたら、読者のなかには漠然として複雑なイメージが生成されているはずです。
これはもはや〈霊〉です。


〈霊〉は共有することができます。
ただし、共有の具合はその〈霊〉の態様によって異なります。

複雑な〈霊〉は共有することが難しい。
例えば、他人のイメージとか。同じ人物のイメージであっても、観察者によって異なるのが当たりまえです。
他には複雑な概念。ここで取り上げている「魂」のイメージなどは、なかなか共有してもらえない。

反対に単純なのは共有も易しい。
「1」という概念はある程度の知能が働くようになると、誰でも共有可能になります。

ええ、「1」もまた〈霊〉です。
ただしもともと「霊」という言葉によって広く共有されている一般的なイメージとは異なります。
一般的なイメージに引きずられていると、「1」が〈霊〉であるということの理解が阻まれてしまいます。

〈霊〉は共有可能だからこそ、人間は社会を営むことができます。
つまり人間とは、〈霊〉的な世界に生きているヒトのことです。


対して「魂」は共有不可能です。
そのヒト固有の感覚の作動感なんですから、原理的に共有不可能です。
SFチックなテレパシーなんかが実在するなら、話は違いますけども。

共有不可能な感覚の調和的な作動感を、以下、《魂》と表記します。
《魂》と表記したところで、無意味ではあるんですけどね。
無意味であるという意味を汲んで頂けたら幸いです。

(タイトルを変更しました。
 《身体感覚》〈体感〉については、別記事にすることにします。
 その前に語るべきことが浮上しきました。)

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