愚慫空論

『先祖になる』

映画の話に戻ります。


なんとも力強い映画です。
まず、タイトルからしていいじゃないですか。

 『先祖になる』

だなんて。みごとな決意表明です。

津波にやられた家を自分の力で建て直す。
いえ、自分の力だけではありません。
周囲の人たちの力も借りて。

でも、まず、自分の力で。
ここが起点なんです。

自分の力で自分の家を建て直すと決意をして、
自分の力の足りない部分の協力を周囲に仰ぐ。
そうすることで、自分だけではなく、「地域」が蘇っていく。

だから「先祖」というのは、血筋の文脈ではないんです。
それは主人公の物語からはありえません。
主人公は、津波に子孫を奪われてしまったご老人です。
お孫さんは元気のようなのでその意味ではすでに先祖ですけど、
血筋に文脈では、改めて「先祖になる」には年齢的に無理があります(笑)。

ここで掲げられている「先祖」の文脈は、地縁です。
「先祖になる」と決意した老人の若々しいこと。


この映画にも、『アレクセイと泉』『祝の島』にあったものと共通のものを見いだすことができます。
生命の力強さ。
ことにこの映画では際立っています。

その理由は背景にあります。
津波が引いた後の廃墟が随所に映り込む。

『アレクセイ』は、放射能に汚染されているとはいえ、自然の営みは途切れていませんでした。
『祝の島』もそう。
『先祖になる』は、自然災害とはいいながら、街も生態系も、もろともに飲み込んでいった。
自然災害だから、人為のものだけを破壊するのではないんですね。
大自然にとっては、人為も自然も、これまた自然。

だけど、国破れて山河あり。
あ、この詩で国を破るのは人為ですけど。

映画の中で、キュウリが芽をだしているところを主人公がみつけるシーンがあります。
そこはもともと畑だったわけではない。
どこかから流された種が、たまたまそこに漂着して芽を出した。
キュウリは、ただ、「キュウリ」であろうとした。

この主人公も同じです。
津波に流されようがどうしようが、ただ、「その人」であろうとした。
その人がたまたま樵だったから、樵であろうとした。
こうした心情は、僕自身がかつて樵でしたから、よくわかる気がします。

樵であるというのは、アイデンティティというのとは違うんですね。
自分の自分による自分のための表現。
アイデンティティというのは外部への表現ですからね。
外部への表現が自分に跳ね返ってきて、アイデンティティになる。
だから跳ね返る相手がなくなってしまうと、アイデンティティも喪失してしまう。

その意味で、アイデンティティというのは社会的です。
だけど、この主人公の樵という表現は、直接自分へと向いている。
個的なんです。
映画のなかの言葉では“頑固”と言い表されています。


その人が「その人」であろうとすること。
その生き物が「その生き物」であろうとすること。

僕の中に浮かぶイメージは、かつての樵生活のなかで山でよく出くわした、根元からポッキリ曲がっている木です。
グンニャリまがっているではないんです。
ポッキリ、なんです。

そんなふうになるのは針葉樹です。
外見的に針葉樹と広葉樹がもっとも異なっている点は、上方に伸びようとするところは同じでも、まっすぐ伸びようとするか、拡散しながら伸びようとするか、です。
針葉樹はまっすぐ、広葉樹はこんもりと成長します。

そんな針葉樹の、上への成長点が失われてしまうと、ポッキリ折れた姿になる。
横にはみ出た枝が幹になるんですね。こんな感じです。
そんな折れた姿には、まっすぐに伸びた木よりもかえって力強さを感じされられたものでした。
折れても、その木が「その木」であろうとする意志のようなもの。
同じような意志を、主人公だけではなく、この映画の登場人物たちから感じます。


しかしそう思うと、少し見方が変わってきます。

主人公にとって、樵であることは、木に例えればまっすぐ上を向いて成長していく幹であったのかどうか?
それはもしかしたら、枝の方ではなかったのか?
幹だったのは、父親であることではなかったのか?
そこがポッキリ折れてなくなってしまったために、次の枝がぐんぐんと成長し始めたのではないのか?

奥さんとの間に生じた出来事まで考慮に入れれば、こちらの方が当たっているかもしれません。
地域の「先祖になる」というのは、次の枝を幹へと切り替えた生き物の〈悲〉であるのかもしれません。


奥さんは、主人公の住宅再建には反対です。
再建に反対というより、その場所が問題なんだと思います。
津波で流されるのは免れたとはいえ、生命の危機にさらされる体験をした。
その記憶から逃れられない。
より安全な所で暮らしたいと願う。

奥さんにとっては、家庭を守るいう仕事が奥さんが「その人」であろうとする表現なのでしょう。
奥さんが「その人」であるには、その場所ではダメ。

津波を境に、お互い「その人」であろうとする表現が相容れなくなってしまう。
その結果、主人公夫婦は別居することになってしまいます。
これは悲劇なんでしょうか?

この映画で見ていると、そうは感じません。
編集の所為なのか?
それとも、この映画が捉えようとしている〈生命力〉ゆえか? 

その正誤はともかく、〈生命力〉と感じさせたなら、この映画には“魂がこもっている”ということになります。

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