愚慫空論

『国家と「私」の行方』

松岡正剛センセーです。

 

膨大な知識をもとに、さまざまな切り口から歴史を縦横に語るセイゴー先生。
とても“面白い”です。

今日は、この“面白さ”について考えてみたいと思います。

歴史を縦横に語るということ。
その語りに接するということ。
この“面白さ”は、知性的であるということで間違いない。
つまり、知性的であるということの面白さについて。


僕たちは現在、情報化社会といわれる場所で生きています。
ネットが発達したこの社会では、知識は、コンピュータを駆使する技能があれば、比較的簡単に手に入れられる。
にもかかわらず、知識を自分のものにすることを半ば強要される社会です。
情報が氾濫しているからこそ、逆に知識を自身でたくさん抱えていなければならないという矛盾のある社会。

「情報(information)」と「知識(intelligence)」は違う――
よく聞かされるセリフです。
それはその通りでしょう。

「知識」を蓄え「リテラシー」を発揮していかないと、情報弱者に陥ってしまう。
これもまた、よく聞くお言葉です。

僕は、この手の言説に響く飢餓感がとてもキライです。
とても怯えた感じがします。

怯えを見据えて抗うのなら、いいんです。
そうではなくて、怯えを死にものぐるいで隠蔽しようとしている。
その隠蔽に他人を巻き込もうとするから、脅迫的になってしまいます。
もうすでに反知性主義なんだと思います。

セイゴー先生は、知識を蓄えリテラシーを磨くという同じような道を行きながら、まったく反知性的な香りがしません。
生き生きと、知識を展開していってくれます。
生き生きということと知性とは、まったく関係のないもののようでいて、実は深い関係にあるんですね。

この生き生きとした知識の展開を、セイゴー先生は「編集」と言います。

ちょっと外れますが、ここで内田樹さんに触れておきます。
内田さんの場合も、もちろん知識を用います。知識人なんだから当たり前です。
異なるのは知識の用い方。
内田さんの場合、基本は「身体感覚」です。
「身体感覚」を言い当てるために知識を用いる。
知識は「方便」なんですね。

ここにツッコミどころが生じてしまう。
怯えの隠蔽に死にものぐるいで知性を駆使しようとする人は、この“言い当て”に我慢がならないんでしょうね。
“言い当て”では怯えを隠すことができない。
怯えて身体が縮こまっているから、厳密な「言語ゲーム」で凌ごうとしているのに、そんなお気楽にやられては困る。


セイゴー先生が展開するのも、「言語ゲーム」です。
それが生き生きしているのは、「身体感覚」に下支えされているからです。
「言語ゲーム」の展開のさなかで、急所にすっと「身体感覚」が顔を出す。

いえ。
もう少し精確に言葉を使うことにします。
セイゴー先生のは「身体感覚」ではなく、「体感」という言葉を使うことにします。

もちろん「身体感覚」と「体感」は違います。
詳しくは後ほど言及します。
ここでは「身体感覚」の方がより身体そのものに近いとだけ、指摘しておきます。

取り上げた本を読んでいると随所に見受けられるのは、感情的な言葉です。
「好き」とか「嫌い」とか「違うと思う」とか。
これは「体感」をもとにした言葉です。
そういう言葉をきっかけに「編集」が始まっていくという展開が実に多い。
「編集」は言語ゲームではあるけど、厳密なものではないんです。

かといって、厳密なものを否定しているわけでもない。
厳密でなければならないという態度を批判します。
そう、「編集」とは“そうすることに意味がある”という態度のことなんです。
「編集的」であることに意味がある。

たとえば、セイゴー先生は、ゲーム理論に溺れるアメリカを批判しています。
ゲーム理論そのものは厳密な言語ゲームです。
それを現実に適用して、現実を改変していこうとする態度を批判する。
「編集的」ではない、というんですね。

ブリコラージュという概念を用いて説明(言い当て)もしています。
“修繕的”だというんです。
接ぎ当てしながら組み立てていく。


ここで、「編集的である」ということについて、手前味噌な説明(言い当て)をしてみたいと思います。

僕は、前の記事で『かもめのジョナサン』を取り上げて、この小説が描いた「自由」とアメリカの結びつきについて述べてみました。
これは「編集的な態度」であると自分で思っています。

「編集」というのは、ある意味、偶然と必然の組み合わせなんです。
僕がリチャード・バックの「自由」がアメリカに受け入れられた理由を組み立てることが出来たのは、僕がつたないながらも「自由」についての知識とアメリカやヒッピーについての知識を持っていたからでした。

この知識が完全なものだとは言いません。
あやふやな知識の上の推論、というより思いつきですから、僕の述べた「自由とアメリカ」も非常に怪しい。
ですけど、一応、仮説とは呼ぶことは出来ると思います。
こういった仮説を組み立てる作業が「編集的ある」ことの第一歩だと思うんです。

仮説の成立というのは、ある意味で、偶然の産物です。
僕が、偶然にも、幾つかの知識を持っていた。
そして、偶然にも、僕のなかでそれらの知識が結びついた。
「編集的な態度」というのは、こういう偶然に身を任せることとも言えます。

しかし、このような仮説は使い物になるかどうか定かではありません。
使い物になるようにするには、厳密に検証されることが必要です。
この検証には必然が必要です。

松岡正剛的「編集」の基礎は「モウラ(網羅)」です。
網羅しようというわけですから、あらゆる知識を吸収しようとする意志を持つ。
もちろん、この知識は使える知識であることが前提です。
つまり検証済みの仮説です。
そして、そういうものは大抵本として提供されている。
だから“本を網羅する”ということになります。

このように編集には必然と偶然とが組み合わさっています。
必然の成果をモウラして偶然の可能性を広げていく。
そうやって知識の土俵を拡げつつ、偶然に身を委ねる。
そうすると、いろいろな知識が繋がっていく。
これが「編集的」態度というものなのだと思います。


別の言い方もできます。

知識は道具だと言えます。
そうだとすると、どのような使い方があるのかという疑問が浮かぶ。

まず物理的な使い方ですね。
建物を建設するには、土木工学的な知識が必要です。
社会的にも使います。
某かの本を批評するには、それなりの知識がないといけません。

では「編集」というのは、知識という道具の社会的な使い方なのか?
そうではないと思います。
「編集的態度」とは、あらゆる知識を生きたものにしようとする試みです。
社会的な面もありますが、それは副次的なもの。
メインは〈生きる〉ため。
知識という道具を生きたものにすることを通じて、自分自身を〈生きる〉ということ。

道具を生きたものにするには、その道具を使いこなさなければなりません。
道具を使いこなしていくと、その道具はあたかも自身の身体の延長のごとく感じられるようになっていきます。
身体感覚がその道具にまで拡張されていくんですね。

この感覚の拡張。これこそ〈生きる〉ということのキモだと僕は思っています。

(参考に僕の昔の記事ですが、よければどうぞ。 『身体性=脳の拡張性』

同じような感覚の拡張が、知識についても起きるのではないか。
証拠はありませんが、僕は起きると思っています。
このことは具体的に形のある道具への具体的な身体性の拡張よりも感じにくいことかもしれませんが、あると確信しています。
「編集的」態度が生き生きとしたものになっていくということは、このことの傍証だと思います。

生き生きとしたものであるということは、そこには何らかの感覚が働いているということになります。
「体感」というのは、とりあえずは、このときのものを指すということにしておきます。
具体的な身体性の拡張に際して喚起されるのは「身体感覚」です。


お気づきになってもらえると嬉しいのですが、「体感」「身体感覚」という分類も、これまた「編集」です。
セイゴー先生は、編集の基本は、「何と何が似ているか」だと言っています。
「体感」と「身体感覚」は、似ているものです。

たしか内田樹さんもどこかで同じようなことを言っていたように記憶しています。
何ごとかを見たり聞いたり、あるいは何らかの意見を提示されたりしたとき、「あ、そういえば」といって何ごとかを連想する。これこそ知性の発露だ、というようなことでした。

ただ、あくまでこれは「似たもの」であって、同じものではありません。
その区別はしっかりしておく必要がありますし、「似たもの」同士を詳細に比べていくのもまた、知識を生きたものにする作業だろうと思います。


まだ続きがあります。
というより、ここから本題。
ここまで、取り上げた本について、ほとんど何も語っていません。

本のタイトルでは、国家と「私」が対比されています。
国家の本書における扱いは、まず歴史編修のための素材です。

本書は14講で構成されていますが、13講までは様々な歴史編修を展開して見せた後、最終講冒頭で、次のように言います。

 すべての歴史は現代史である

サブタイトルの「歴史的現在」ですね。
別の言い方も披露しています。「歴史は現在と過去の対話である」。

いずれにせよ、当たり前のことですが、歴史は現代を生きる私たちのために使われなければ、なんの意味もありません。
いえ、厳密な歴史を検証することに意味がないとは言いません。
学問的意味、とはすなわち社会的意味はあります。
けれど、必ずしも「私」が〈生きる〉ことになるとは限らない。
だから、セイゴー先生は〈生きる〉ための方法論として「編集」というものを提唱している、ということなんです。

こうして、歴史を介して「私」と国家とが繋がる。


「私」というのは、それだけではありません。
「体感している私」も、取り上げられます。
これはセイゴー先生その人自身の物語です。

それはそうです。
「私」というのは、それぞれ別個のものです。
人の数だけ「私」がいます。
「編集」は方法論ですから、一般化できます。
ですが「私」を「私」として語れるのは「私」だけです。
だからセイゴー先生が語ることができる「私」は、セイゴー自身のことだけ。

その自分語りのなかで何が浮かび上がってくるかというと、実は「日本」です。
戦中京都の呉服屋に生まれ、日本的な文化の中で育つ。
少年時代に横浜に移って東京の学校へ通うようになり、世界観を大きく拡げていく。
その中でふたつことに特にこだわりたいと思うようになっていったいいます。
「情報編集の仕組み」と「日本という方法」です。
そしてさらには、このふたつは接近していったのだとも。

こういった記述に、僕は「似たもの」を思い浮かべます。

チェルノブイリ原発事故の影響で住むことが出来なくなったと言われているにも関わらず、その場所で暮らし続けるという意志。
電力会社や行政からの利益誘導を撥ね除けて昔からの暮らしを続けることを選択し、その暮らしを破壊する原子力発電所の建設に頑強に抵抗するという意志。
津波ですべてを流されてしまったにも関わらず、伸びやかに、生活を再建していこうする意志。
またこれは、ハンセン病と診断されて、人生の大半を療養の中に閉じ込めらた人が培った意志とも似ています。

似たものが思い浮かぶと、違ったものも思い浮かびます。
国家が提示する正義、仲間が殺されたという義憤に沿って、戦場へ飛び込ん
でいこうとする意志。
空虚な自由を欲望で埋めていこうとする意志。
これらは、どこか異質です。

「編集的態度」や『アレクセイと泉』や『祝の島』や『あん』に見出される意志は、さらに「似たもの」を探すなら、個々の生命の確固たる意志に似ていると感じます。
たとえばある植物がある場所に植わっています。仮にスギだとしましょうか。
その場所に植わっているスギは、その場所の環境とせめぎ合いながら、その場所に適合した個別のスギになっています。
別の場所のスギもまた、その場所の環境とせめぎ合った個別のスギになっています。
どのスギも、それぞれに姿はことなりますが、確固として同じスギです。
いかなる環境であれスギがスギであろうとする確固たる意志と、これらの意志は、どこか似通っています。

そららと比べると『アメリカン・スナイパー』にあった意志は、スギがヒノキになろうとしているかのようです。
ええ、スギはヒノキのなろうと「意志する」ことはできません。
だけどヒトはできるんです。
その意味でヒトは自由です。
カモメは瞬間移動などできません。想像もできません。
ヒトはカモメが瞬間移動できると想像することが可能で、そこにそれぞれの意志を託すこともすらもできてしまう。

それらの異質な意志が、空想の範囲の中に留まっているうちは罪はありません。
それこそ自由です。
だけど、その意志が現実へと接続されてしまうと大きな問題が出てきてしまう。
では、そんなことができるのかって、できてしまうんです。人類には。

ヒトがヒト以外のものになる。
そういう欲望は空想の中ではいくらも表現されてきました。
その欲望は、もはや、ほとんど実現可能なところにまで達しているのではないでしょうか。

これまでは、そんなことは不可能でした。
なので実現できるものを実現してきた。
環境の改変です。
自然破壊も戦争も、環境の改変という意味では同じようなことです。

歴史というのは人類によるそうした改変の記録です。
そららの改変は積み重なって、今、生きている私たちに影響を及ぼしている。
つまり、歴史とは現在なんです。

セイゴー先生は、こんなことを言っています。

私の歴史観は一言で言えば「編集的歴史観」とでもいうものですが、それを鍛えるために、心掛けてきたことがあります。さまざまな歴史変化のなかに、まずは二つの傾向を見出すようにしてきたのです。それは「相同性」と「個別性」を見出すということ、また「同質性」と「異質性」を見出すということです。




さてさて、宿題が残ってしまいました。

「体感」と「身体感覚」の相同性と個別性を探ること。
しかし、果たしてこの2つの区分は適切なのか?
とりあえず思いつきで区分はしてみたものの、区分がはたして適切なのかというところから、じっくり考えてみないといけないと感じています。
そのあたりに「意志のありよう」の謎をとくカギが見つかるような気もしています。

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