愚慫空論

『かもめのジョナサン』

「かもめのジョナサン」という言葉は、どこかで聞き覚えのある言葉でした。
特に関心は持っていませんでしたけど。
歌謡曲のタイトルか何かだろうと、勝手に思い込んでいた。
なんとなく、石野真子がそんな歌を歌っていたように思い込んでいましたww

そしたら違いました。
そういう小説があったんですね。
毒多さんのブログエントリーでそのことを知りました。
で、読んでみました。


読み始めたのは、もうかなり前です。
毒多さんの記事を読んですぐに注文して。
本が届いて、まもなく読み始めた。
けれど、すぐに放り出してしまいました。

理由は、内容より文章にあります。
まるで骨と皮だけ。

ジョナサンは修行を積み重ね、誰よりも速く飛んだ!
曲芸飛行もこなせるようになった!
・・・(^_^;)

どうやったら速く飛べるか。
どんな曲芸飛行ができたのか。
そういった描写があります。
本の解説によると、著者のリチャード・バックは飛行機乗りだったんだそうです。

飛行の記述には飛行士だったときの経験が生かされているでしょう。
ですけど、その記述は機械的なんです。
僕も同じ飛行機乗りだったら共感できたかもしれません。

でも、残念ながらそうではない。
だから、機械的な解説だけでは体感に響いてこないんですね。

最高速に達したときにどういう心地がしたか?
どんなふうに心が揺れ動いたのか?
そうした心理描写に乏しいんですね、この小説は。
だから骨と皮だけのような感触になってしまう。

解説の五木寛之さんは、“寓話のような小説”と言っています。
僕が感じたことを五木さんも感じていたのではないかと、勘ぐっています。

まあ、そんなわけで、途中で我慢が出来なくなって放り出しました。
Part 3 の途中あたりまで読んで。
寓話が象徴することについては、毒多さんのところで多少議論したし。


だけど、時間ができたこともあって、読み直してみました。
直接ではないけど、間接的には『アメリカン・スナイパー』を観たことがきっかけになってきる気がします。

今度は読み通してみました。
骨と皮だけという感触は変わりませんが、短いものだし、今度は我慢できました。


今回読んだ『かもめのジョナサン』は、完成版だと謳われています。
ということは、未完成版もあったということ。
Part 3 までが未完成版の領域ですね。
そして、これが売れに売れた。
爆売れの下地には当時のアメリカで風靡していたピッピ-文化があったという解説。
1970年代前半の話ですね。

ところが(作者曰く)この作品には封印されていた Part 4があった。
今回、封印を解かれた完成版を加えて、再発売の運びになった――。

Part 4まで読んでみて、こういった経緯の知識も仕入れてみると、これは少し考えさせられるものがあると思いました。

Part 4で訴えられているのは、体感なき自由は意味がなく、やがて堕落して「掟」に堕ちるということです。
体感に乏しい小説の結末でこれを言うのかとおかしくなりましたが、考えてみました。
「体感がない」ということが、実は「自由」だということなのではないか、と。

そう考えると、ピッピー文化と親和性をもったということ、そこに留まらず「自由」を求めるアメリカで大いに受け入れられたこと、これらの事実を解釈する芽がでてきます。

まずはピッピーです。
これは一体、何だったのか?
薬物をも使ったサイケデリックとか、わけのわからないもの。

アタマで考えた「自由」とは、単に“自由でなかった”ということの、言葉の上での裏返しに過ぎません。
1970年代といえばベトナム戦争があったりして、アメリカ社会の成長が滞り始めたころです。
アメリカン・ドリームとやらが戦雲に陰り始め、若者は不自由を感じ始めた。
そういったところから脱出しようという試みは、少し前に日本でも流行した「自分探し」というのと同じで、エネルギーの有り余る若者の一般的現象なんだろうと思います。
今の日本では「中二病」というのかな?

アタマで考えた空虚で空っぽな「自由」があって、それを“何か”で現実と接続しようとする。
何でもよかったんだと思います。
ただ、ピッピーには、反戦・反体制という縛りがあった。
そういう縛りがあったおかげで、薬物とか、東洋の禅であるとか、反社会反西洋的的な方向へ流れが出来ていった。

ところが未完成版『ジョナサン』は、反戦・反体制という壁を乗り越えて、社会の中で大きな支持を得てしまいました。

これはなぜか?
空虚な「自由」だったから。

もし『ジョナサン』の描き出す「自由」が体感をともなった実のあるものだったら、どうだったか。
それでも当時の社会から、大きく支持を受けたでしょうか?

「体感」がともなっていると、“こうでなくてはいけない”という縛りができます。
すると、「自由」であろうが他の理想であろうが、アタマのなかのものを現実と接続する手段は自ずと限られたものになってこざるを得ない。

今更ですけど、「自由」というのはイデオロギーに他なりません。
“アタマのなかの何ものか(理想)を現実に接続する”ということが、もはやイデオロギーなんですね。
真髄を喪失した宗教――というのは、宗教というと一般的にイメージされるものですが――も、同じくイデオロギーです。

『ジョナサン』の封印されていたというPart 4が主張しているのは、このことなんです。
「自由」が真に「自由」であるには、「体感」が伴わなければならない。

作者がPart 4を封印したのは、ある意味で、慧眼です。


「自由」というイデオロギーは、その性質上、なんでもありです。
なんでもありだったからこそ、ピッピーの壁を越えることができた。
これは僕の想像ですけど。

では、壁を越えた「自由」は、何でもって現実と接続したのか?
答えは、欲望だと思います。
資本主義というシステムによって掻き立てられる、強いられた欲望。

その結末は『アメリカン・スナイパー』へとつながっていきます。
『アメリカン・スナイパー』は、「体感」の話です。
「掟」と「体感」とが相克する、「体感」のこもった作品。
「掟」とは、この話では愛国心ですね。

このタイミングで、Part 4の封印が解かれたいうのは、当時封印されたのと同じ意味で、慧眼だと思います。

コメント

Lucy in the Sky with Diamonds

ヒッピーカルチャーとは、サイケデリックムーブメントを包含していると見做してよいと思います。
サイケデリック・ムーブメントは『神経政治学』(学生時代に読みました。というか今でも探せば見つかると思いますけど内容ほぼ失念)の著者であるティモシー・リアリーが説いた、LSDによる意識の拡張・変容をムーブメントの基底に据えています。ティモシー・リアリーについては松岡正剛がwebにテキストを上げてますので興味がありましたらそちらで。

この「意識の拡張・変容」は単なる与太話ではなく、薬物の種類が異なるという但し書き付きで、平野威馬雄が自伝で書いていることを引きます。
彼は持病の蓄膿から逃れるために医師からコカインを処方してもらうのですね。当時はコカインは処方薬で、薬局に普通にあったので。コカインを鼻腔に塗るとその場で酷い鼻詰まりが雲散霧消するのですけれども、それ以上に彼を驚かせたのはコカインを使用するとそれまで和訳に苦しんでいた仏語の難解な構文が嘘のようにスラスラ訳せることでした(平野は翻訳で口に糊していました)。これがきっかけで彼は半生苦しむこととなる薬物依存に堕ちるわけで「代償」を伴うものの、薬物による意識の拡張・変容は単なる額縁外しではなく、脳の機能そのものをブーストすることを念頭に置いていたものと考えてよいでしょう。

「自由」を得るためには引力圏を突き抜けるに十分の推力を必要とするという思想。

これはそのまま飛翔力を増強して導師となるという『ジョナサン』の思想と繋がっていると私は考えます。そしてそこには、機能の増強・拡張という身も蓋もない実利性が宿っているとも感じます。実感がないのではなく、寧ろ強固な実感・実態を伴っているのです。

サイケデリック・ムーブメントが躓き、それを包含するヒッピー・カルチャーが頓挫したのは「実感を伴わなかった」ためではなく、薬物の齎す負の側面があまりに大きかったからでしょう。その辺はフィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』によく描かれています。ディック自身が述懐していることですが、彼の友人の少なからぬ者はヒッピーカルチャーの時代に薬物の虜となり、この世を去ってしまいました。カモメたちは皆飛び立ち、天空高く飛翔し、そして墜落死したのです。

・残酷さになれる訓練さん

「自由」を得るためには引力圏を突き抜けるに十分の推力を必要とするという思想。
これって、『ガンダム』じゃないですかwww

と、冗談な思いつきを書いてみましたが、いや、あながちそうでもないと考え直します。

『ジョナサン』と『ガンダム』は「似たもの」なのかもしれません。
そう考えていくと、いろいろなところへ繋がっていきそうです。
東浩紀さんあたりとも繋げられるかもしれない。やめておきますけど(^_^;)


ご紹介のセイゴー先生のテキストを読んでみました。
これはトンデモなく面白い (^o^)
ここに記されているティモシー・リアリーの履歴をみると、リチャード・バックはそれを下敷きに『ジョナサン』を書いたのではないかと思えてしまいます。
これもまたいろいろなところへ繋がる発展性のあるものですね。


実感云々の話は、いささか誤読されているように感じました。

『ジョナサン』に何かを感じた人たちがなんらの実感も抱いていないとは僕も思わないんです。
そうではなくて『ジョナサン』という小説に実感がないこと。

仮にもし『ジョナサン』になんらかの実感が込められていたら(たとえばリチャード・バックの飛行士としての身体感覚)、読者の実感とバッティングしただろう、と。そうすると、それほど支持されなかったのではないか。そういう推測なんですね。

ヒッピーは反体制だったわけではないですか。その流れは完全に墜落はしていなくて、「Occupy Wall Street」などに受け継がれているとは思います。相変わらず反体制ですよね。

ですけど、『ジョナサン』は、体制派にも受け入れられた。その理由が、空っぽで実感を伴わなかったから。空っぽの器だから、なんでも入ったんだろう、と。


ピッピー・カルチャーが頓挫したのは、負の側面があまりに大きかったから。
これもまた『アメリカン・スナイパー』を思い起こす話です。
あそこに描かれていた「クリスの実感」は、明らかに負の側面としてでした。
少なからぬ者が戦争への正義感の虜になって、この世を去ってしまっただろうということも似ています。

異なるのは、それでも「ウォー・カルチャー」の方はまだまだ墜落しそうにないところですね。
それどころか、ますます飛翔していく勢いです。
この違いは、単に体制と反体制ということなんでしょうか?

Fell Into The Well

>愚慫さん
返信ありがとうございます。

誤読と言えば誤読なんでしょうけれど、(彼らには)実感があっただろうと私が返したのは、愚慫さんの仰る「自由」観が私から見て日本人的に見えたからってのがあります。
アメリカ人にとっての「自由」ってのを、もっと根本的に違うものに感じて。
愚慫さんが基底に持つ主題をあまり損なわないように枝葉を伸ばしますが、今晩22:00よりBS1で『アメリカ 武装する市民たち~銃に揺れるテキサス~』というドキュメンタリー番組が放映されます。舞台となっているテキサス州では今年1月より、銃を剥き出しで携行出来る(恐らくホルスターを露出させることが許されるのでしょう)「オープンキャリー」が始まったとのことです。

これが究極的なアメリカの「自由」なんじゃないのかな、と。
「オープンキャリー」の対義語は「コンシールキャリー」で、これは攻撃するポテンシャルを他者に見せないということです。江戸時代の武士は刀剣のオープンキャリーを許されていましたが、これは上層階級の身分証みたいなものであって、往来でむやみに抜刀など出来なかったわけです。帯刀は「ことの次第では殺すよ」という意志表示ではないでしょう。
テキサス州では、攻撃力の誇示・示威を市井の庶民が他者に対しておおっぴらに行えるわけです。これが彼らの自由。

LSDやマリファナは各自が服用するもので、他者に対する「力そのもの」の誇示などはありませんが、ヒッピーはこうした薬物の持つ薬理作用の「力技」で意識を変性するだけでなく、ヒッピー特有のファッションや音楽の嗜好を顕わにすることで彼らのライフスタイルを他者に誇示していました。我を通すことの誇示、ですね。

彼らの自由って、単なる「~からの」でなく「力を得て、力を行使し、今の自分を更にフリーハンドにする」という自己拡張への強い意志が感じられます。愚慫さんは「欲望」というキーワードを使っていらっしゃいますよね。能動的な力への欲望と自由がとても近いところにあると感じるのです。
それに対して愚慫さんが批評する際の「自由」には、もっと逃避的な響きを感じます。行き詰った者が夢想する、根無し草的自由…のようなニュアンスです。「アタマ」云々というところに、特に顕著に。でもって、その「自由」の夢想的・根無し草的なイメージって、わりと日本人的だなと。
それに対しては欲望するのも「アタマ」ですよと返って来るのは当然想像が付きます。その「アタマ」が作り出すイメージの差異が「自由」観に顕れているという。愚慫さんとアメリカ人の間にも、そして私と愚慫さんの間にも。

たぶん愚慫さんと私とでは欲望という術語の捉えが違うんじゃないかと思うのです。
「資本主義というシステムによって掻き立てられる、強いられた欲望」とは、愚慫さんが非常に拘っている部分でしょう。
私はそもそも力への欲望・自己拡張への意志こそが資本主義というシステムを作り出したと考えています。
愚慫さんは自己拡張への意志そのものが強いられたものである、人間には他の「幸福/豊かさへの」パラダイムがあり得るはずだという信仰があるのだと思います。私はそれ自体は間違っていないと思います。

でもね…人間は「突然変異と淘汰圧による生物の漸次的構造変化」を「進化」と呼んでしまうような生き物なんですよ。
ナメクジウオ(脊椎動物の遠いアーキタイプ)よりもホモ・サピエンスの方が「高等で進んで」いると信じてしまうような生き物なんですよ。
「機能の拡張・ブーストは正しく、美しい。そしてこれを限りなく追求する自由が人間にはある」「より強く、より秀でる自由」
これがおそらく文明間の競争に勝利して来た側の普遍的な価値観。私は全くホモ・サピエンスが高等であるなどと思わないけれども、いみじくも愚慫さんは私を「相当な変人」と呼んだじゃないですか。変人は所詮淘汰される側です。
まあ勝者の側も先の見通しは暗いですけどねえ。

・残酷さになれる訓練さん

非常に興味深いコメント、感謝します。

僕の「自由」が逃避的に感じるということ、なるほどと思いました。そのご指摘は正鵠を射ていると思います。ただ、そこが僕の日本人的なところから来ているというのは、どうかなと思います。
その「日本人的」のイメージは、一般の現代日本人のイメージのような気がします。

僕は「自由」には何の価値も置いていません。〈生きる〉ということは、どうあっても不自由なことです。ですから僕にとって「自由」は空虚ということになります。価値を問うべきなにものも見いだせない。このあたりは僕の日本教徒としての自覚から派生しているものだと思っています。

しかし、そういう視点からも「自由」が逃避的だという感触は出てくると思います。

日本教徒としては異端になるのでしょうけれど、僕はホモ・サピエンスは高等だと思っているのです。人類がどれほど生態系を圧倒しているかを考えれば、ヒトが高等であるということは、好き嫌いは別として、認めなければならないと思っています。

僕の「自由」が逃避的であるとするなら、それは高等なものが必然的に抱えるに至る高貴な義務「ノブリス・オブリージュ」を放棄しているということになろうかと。この文脈はおそらくニーチェが近い。むしろ西洋的なイメージが僕のなかにはあります。

そうなんです。僕の中にある日本教徒的なところを追いかけても「自由」はないんです。「自在」はありますけどね。「自由」と「自在」の腑分けは、僕のなかでは終了済みと思っているので、そこについてのご指摘は、ちょっと違うなぁ~、と思ってしまうのです。
もっとも、終了済みのつもりになっているだけかもしれませんが。

残酷さになれる訓練さんのご指摘で際立ったことですが、アメリカは体制も反体制も、どちらも暴力的ですよね。薬物を使ってでも「我を通す」というのは、暴力以外のなにものでもないと思います。

しかし、暴力の発端は怯懦です。怯懦と人間が持つエネルギーとが結びつくと暴力になる。これはガンジーが示したことです。銃のオープンキャリーなんて、怯懦の現れ以外のなにものでもないじゃないですか。

人間は確かに殺生をします。それは暴力と同じく「力の行使」です。ですけどね、これは僕自身の体験から言えることですが、発端を怯懦としない「力の行使」は、その後の感触がまったく異なるんです。

いずれの「力の行使」も心を傷つけます。だけど、傷つき方が違う。〈生きる〉ための「力の行使」による心の傷は、風邪のようなものです。もちろん野口整体的な意味でです。そこを順調に経過させれば、もっと健全な心身になるという。

対して暴力では、そうした健全な経過を妨げる大きな壁が出来上がるんです。これが怯懦を直視することを妨げてしまう。でもって、この壁もまた怯懦でできている。怯懦が増幅され変質して信念へと凝り固まるんですね。

「自由」がイデオロギーだといったのは、そういうことです。
もっとも空虚なイデオロギーなんだと思っています。

Son Of A Gun

>愚慫さん

>僕は「自由」には何の価値も置いていません。〈生きる〉ということは、どうあっても不自由なことです。ですから僕にとって「自由」は空虚ということになります。

この下りと「自在」についての実感が愚慫さんの思想の肝なのでしょうね。これも幸福/豊かさに関する実感と同じで、間違っていないと思いますよ。というか私には否定する理由もありません。その通りでしょうね、と思います。

ただ「空虚」にせよ「怯懦」にせよ、愚慫さんの価値観が強烈に刻印された言葉なので、その価値観(というかバイアス)を共有しているかと言われると、どうかなと答えざるを得ません。私自身は「空虚」であることが特に気にならない。だからこそ毒多さんとこの『ジョナサン』エントリへ投じたようなコメント(……飛翔力を得てもそれに価値を見出さず人間から餌を貰うだけの暮らしをしてるカモメがいてもおかしくないよね。ジョナサンはそれに気付いてないだけかもね、という内容)に繋がるわけです。
まあ私のことはいいや。

件の『アメリカ 武装する市民たち~銃に揺れるテキサス~』放映を観ましたよ。面白いと言って良いのか判りませんが面白かったです。
銃砲のオープンキャリーをテキサス州オースティンにて実現に導いたロビイストのリーダーがいて、彼は在オースティンのプロテスタントの牧師なんです。牧師が教会で銃の所持を信徒に奨めている。実銃射撃の講習もしている。

強く印象に残ったのは「銃なくして真の自由はありません」という彼の言葉です。
「安全」「安心」でなく「自由」という単語が入るところが、アメリカのアメリカたる所以なんでしょう。私の「力を得て、力を行使し、今の自分を更にフリーハンドにする」という見立てを彼がそのまま裏打ちしてくれました。
しかし自由だけでは単に敵を殺す自由にしかなりません。射撃の講習者の中には「一発で(敵を)仕留められる銃が欲しい」と語っていた女性もいましたが、アメリカでは銃で死ぬ確率は交通事故で死ぬ確率と同程度(それでも年間3万人程度は銃で死ぬようですが)らしいので、実際は銃を携行することで安心を買っているのでしょう。キリストよりも銃の方が、心の平安を得るためには当てになると。

かかる心理が「怯懦」なのか「恐怖」なのか、私にはよく判りません。
「怯懦」と呼べば“その感情は不当なものである”という見立てが読み取れます。怖れるに足りないものを怖れているというニュアンスが含まれます。
「恐怖」と呼べば“その感情は価値中立的である”という見立てが可能でしょう。私には人間を怖れる或いは人間に怯えることが「怯懦」なのか「恐怖」なのか弁別は出来ません。目の前の人間が備える危険性を正しく洞察する力が足りません。

オープンキャリー反対・銃規制派の女性運動家が番組で取り上げられます。彼女は実の息子が父親(つまり彼女の夫)を射殺したのですね。犯行に及ぶ前、息子は15挺の銃を買い集め、彼女は息子に銃を売らないよう銃砲店に再三願い出るのみならず警察にも相談するのですが、州法では息子への銃の販売を差し止めるに足る理由がないため、購入を止められなかったのです。
果たして息子は父を射殺、逮捕。
統合失調症だったそうです。
彼女は息子の逮捕を受けて、こう言いました。「連続射殺犯は、大抵まず肉親を射殺して、その後他の人たちを殺します。息子が他の人たちを射殺する前に逮捕されて、本当に良かった」
彼女は息子への銃販売が止められなかったから射殺事件が起きたとして、銃規制派になりました。彼女は息子が何をするか予想していた。その時彼女が抱いていた感情は、怯懦と呼ぶべきか、それとも恐怖と呼ぶべきか。

・残酷さになれる訓練さん

『アメリカ 武装する市民たち』を僕も観てみたいですね。ただ、今はBSを視聴できるようになっていなくて。オンデマンドで調べてみましたが、視聴することができないようですね。

その牧師の表情や仕草を見てみたいです。そういったところからは言葉以上のものが伝わってきますからね。

キチンと伝えていなくて申し訳なかったのですが、僕は「力を得て、力を行使し、今の自分を更にフリーハンドにする」という残酷さになれる訓練さんの見立てに異論があるわけではないんですよ。そこは同意します。汲んでくださっているとは思いますが。


アメリカ人の語る「自由」の空虚さについて、もうすこし言葉を付け加えさせてもらいます。
「力を得て、力を行使し、今の自分を更にフリーハンドにする」という信念を、例えばシリアの人たちやクルド人や、ISでもいい、そういう人たちが語るなら、僕は空虚だとは言いません。

常に命が危険にさらされる戦闘地域にいるなら、その言葉は「生き延びる」という生命のもっとも基礎を為すところからでてくる欲求を示すものです。それが正しいとは言いません。ですけど否定はできないし、卑怯だとも思わない。

けど、アメリカは違うでしょ? と言いたい。
そもそも銃の所持を“見せびらかす”かどうかの議論なんてしている時点で、差し迫った生命への危険はないわけです。本当にその危険があったら、議論なんてお呼びじゃないでしょ。見せびらかす必要なんてありません。常に力を行使するために準備をしておかなければならず、そうなると隠しておく余裕なんてないという、議論するまでもない当然の帰結になります。

とてもアンフェアに映るんです。僕の目からは。
心の平安というのはわかります。ですけど、その平安の「買い方(と敢えて言います)」が怯懦だと思うんです。

「怯懦」という言葉は僕の価値観を示すことだというのはご指摘の通りです。だけど、直観だけでこの言葉を置いたのではないんです。多少は吟味したんです。

最初は「怯え」という言葉にしようと思いました。「恐怖」は初めから選択肢にありませんでした。
どちらも中立な言葉だと思いますけれどもね。

「恐怖」が選択肢になかったのは、これには明確な原因があるからです。自身が身を置いている場所は地域である。だから常に恐怖を感じる。だとすると、戦闘地域から離脱する、あるいは、その場所が戦闘地域なくなる、という状況の変化が生じると「恐怖」もまたなくなります。

「怯え」はそうではないんです。直接的な原因不明はなんです。
確固たる根拠は提示できませんけれど、銃での死亡率が交通事故程度などというのは言い訳に過ぎないと思います。それで銃に「怯え」るのは理解できます。ですけど、その「怯え」がなぜ「見せびらかす」ことに繋がるのか、僕には理解できません。別の理由があると考えるのが合理的です。

彼らは「何か」、いえ「誰か」に怯えています。その「誰か」にむかって銃を見せびらかしている。その「誰か」を隠していると思います。だから「怯懦」という言葉を当てることにしたんです。

銃というのは「恐怖」の原因になるものです。それを見せびらかすということは、周囲の人たちに恐怖せよとメッセージを送ることになる。周囲が敵に囲まれているのなら合理的な行動です。だけど、いくらなんでもアメリカはまだそうではないでしょう。だとすると、その「誰か」は多分に想像的なものに過ぎない。想像的な「怯え」を盾に具体的な「恐怖」をまき散らす。このアンバランスに「懦」という文字は相応しいだろうと思います。

なお、銃規制派の女性が抱いていた感情は「恐怖」だと考えます。というのも、彼女は「息子が何をするのか予想してた」からです。他人は容易に信じなかったかもしれませんが、彼女にとっては確たる予想だったのでしょう。原因が明確な「恐怖」にカテゴライズしていいと思います。


もうすこし言葉を足します。

『アメリカン・スナイパー』の題材となったイラク派兵された兵士たちが抱いていたのは、明らかに、原因の明らかな「恐怖」です。それを身体が憶えていて、帰国後も恐怖の後遺症に悩まされる。PTSDという病名が診断しています。

ですけど、その牧師はPTSDにはならないでしょう。もし牧師が「怯え」を本気にして(こうなると「懦」び文字はつけくわえらませんが)何らかの病的な状態に陥ったとしたら、それは統合失調症と診断されるだろうと予測します。

PTSDおよび統合失調症の発症の機序はよく知りませんが、おそらく別の病気のはずです。

Loaded With Power

>愚慫さん

詳細かつ解りやすい返信のおかげで、愚慫さんの言葉のニュアンスがかなり掴めました。ありがとうございます。
付け加えると、牧師がオープンキャリーのロビイングを行うきっかけになったのが、2015年晩秋に起きたオースティンでのドラッグストア(食品店だったかな?)強殺事件です。3人組の強盗がパキスタン移民の店員を射殺しました。
街の身近な犯罪として射殺事件があったことは確かであり、それに対する牧師ほか銃携行派の感情を直ちに怯懦と呼びうるかということについては保留としておきます。

怯懦についての愚慫さんの捉えについては共感できます。
オースティンでは、銃をオープンキャリーしている客の入店を断る店が200店舗ほど存在するそうです。
他の(銃を携行しない)客が銃に対して恐怖を感じるから、というのが主たる理由でしょう。
それに対して件の牧師は「銃自体は何もしない」と主張し、入店禁止や大学のオープンキャリー禁止エリアを撤回させるよう政治家に働きかけています。
彼の視点からはオープンキャリーを怖れることが「怯懦」となるのでしょう。愚慫さんが仰るところの「怯懦」とは異質なものであるにせよ。

これも難しいところで、制服警官が銃をオープンキャリーしていても(といっても日本の警官は殆ど銃全体を覆うホルスターを使用していますけどね)多くの庶民は恐怖を感じないと思います。少なくとも私は制服警官の銃携行を見て恐怖を実感したことはない。
実感ベースでの、恐怖と怯懦の差異あるいは境界というのは、わりと捉えにくいようにも思えます。私はこの手の実感についてあまり意識したことがなかったので、明快にこうと言い切れないところがありますね。

ジョナサンから話題が離れてしまって申し訳ないです。

追記。
番組を観ながら、考えたことがあるのです。
私自身がオースティンに住んでいたとして、恐らく銃で武装した犯罪者に殺されることに怯えることはあまりなかろうと(※)。
では銃を所持しないかというと、たぶん銃を手に入れると思います。まあオープンキャリーはしないと思いますが。
銃の殺傷力・破壊力に純粋に惹かれる心があります。
私自身に力への信仰と、それを下らないと冷笑する心の二つがある。

※自分の安静時脈拍は55回/分程度なのですが、統計上このような脈拍数の少ない個体は「恐怖心」が少なく、刺激を求めてハイリスクな行動を取りやすいことが判っています。犯罪者に非常に多いことが知られており、カジンスキーなどはその典型だとか。

・残酷さになれる訓練さん

刺激的なコメントをありがとうございます。
僕はこのような展開を好みます。話題がどんどん変わっていくという展開です。ですから、お気になさらずに、大いに思いついたことを書き込んでいってくれると嬉しいです。


怯懦にふた通りのとらえ方があるのは理解します。ですけれど、僕にはこの2つは並び立ちません。片方は明確に「悪」だと捉えます。その理解の基礎は、ハラスメント理論です。

銃に怯えるという「恐怖」を克服できないようではダメ人間だという理屈。これは身体感覚を封印しろ、と言っているに他なりません。こういうことが主張できるのは、その主張を為す当人が身体感覚を封印しているからに間違いない。

「銃は何もしない」なんて、大嘘ですね。確かに銃から弾丸を発射させるには引き金を引く必要があります。けど、引き金を引く人間がそこにいるわけです。
本当に銃が何もしないなら、銃によって自由がもたらさせることもない。その牧師は自分で自分の主張を否定していますww。バカバカしくてお話になりません。


制服警官の所持する銃が恐怖感を引き起こさないのには、これも理由があります。銃は制服の一部になっていること。その制服を着用している警官は個性を喪失した「社会維持装置」として機能しているとからです。もたらせるのは「安心」「安全」ですね。

この事実は牧師の主張を否定するものです。社会秩序は「力の行使」によって維持されるということです。国家は暴力装置であるということですね。警官はその「装置の一部」なんです。
逆に言えば、人間が個性を露わにして銃を携帯すると恐怖を催すということです。
この牧師の主張する銃のオープンキャリーは個性の表現ですよね? そうでなければ「自由」だと主張することの整合性がとれません。それとも個性の表現ではない「自由」があるんですかね?

僕にはどう考えても牧師の主張に整合性を認めることができない。もっと突っ込んでいけば整合性が発見されるかもしれませんし、それはそれで期待するところですけれど、どうも無理筋のようです。

整合性の取れない主張ができるのは、どこかに【隠蔽】があるからです。身近なところで銃による犯罪があって、それがこのような主張の契機となったのは本当だろうと思います。ですけど、そのことと主張の善悪とはまったく別次元の話です。

【隠蔽】を為している人物は、別次元のことを同じ次元にあるかのごとく語ります。【隠蔽】のための手段ですね。僕はこういった手段を行使する人間は、やはり「懦」だと思います。



・追記への追記です。

残酷さになれる訓練さんの身体的個性の話はとても興味深いです。
こういった話は、上記の社会秩序の話とは、それこそ別次元の話だと思います。

ヒトは社会的な生き物ですけど、100%そうかというとそうでもない。残酷さになれる訓練さんの身体的な特徴は、反社会的に作用する可能性が高い要素でしょう。そういうところは僕だって抱えています。僕は高機能自閉症だろうと自己診断しています。

だからといって、反社会的な存在になるかというと、これもまた別次元の話です。個性として抱えた要素がどう発動するか、これは当人の問題でもあるけれど社会の問題でもあります。そういった人物を包摂できるかという社会の課題ですね。

自身の個性を冷静に把握して、どのように社会と折り合いを付けていくか。こちらは個人的な課題ですが、この課題に挑む者を僕は「怯懦」とは決して言いません。その課題から逃げ出そうとすることが「懦」というところのキモの部分なんだと思います。

(別方面へ話を膨らませますが、(毒多さんのところで表明したように)僕が元少年Aを「正直」と評価するのは、「懦」ではないということなんです。まだまだ未熟ながら、上記の課題に挑もうとしていると僕は感じています。)

Dogs Of Lust

>愚慫さん

制服警官が携行する銃についての見立ては、とても納得できるものです。社会の中で暴力装置として受容されている=自由でなく秩序そのものであるということですね。
よく判りました。

牧師の自由観については、幾らか思うところがあります。彼の「銃なくして真の自由はありません」は、銃によって自由が齎されると見做す思想というよりも、自由とは即ち合衆国憲法において認められているはずの権限(=力)を市民が十全に行使しうる状態であることという信念と、故に銃の力を個人が使うことを阻まれる状態は自由ではないという主張なのではと。これってジョナサンの飛翔力志向(自己拡張志向)と繋がっているように感じるのです。
愚慫さんの仰る「自由=空虚」というレイヤーと異質なところに彼らの自由観はある。自己拡張それ自体にポジティブな価値を見出していると思うのです。
問題は彼らの自己拡張への意志の背景にある心理に怯懦が含まれるのか含まれないか、です。

そこで気になることは、オースティンでオープンキャリーをしている市民は、他のオープンキャリーをしている市民をどう見ているのかということ。牧師&彼と思想を同じくする人たちは、実射の講習や教会でのスピーチを通じて拳銃や半自動ライフルを剥き出しで街を徘徊する人たちをどんどん増やそうとしてるわけですけれども、それは即ち自分と同等の殺傷力を保持・誇示する人が増えることですから、相対的には自身の力における優位性を減衰させることですよね。

まず自分が個人としてオープンキャリーの権利を行使したいのであれば「怯懦」のイメージは強まります。
他者に「俺の銃」を怖れることは怯懦であると感情の隠蔽を求めることと、「自分が」銃を大っぴらに携行することには何ら矛盾が生じません。まさに愚慫さんの仰る通りです。
牧師たちがしようとしていることは、極端に言えば街中を武装する市民で溢れさせることです。「怯懦」は寧ろかかる状態を怖れる方に働くのでは? 市民が味方とは限らないでしょう? 誰が敵か、実際に銃が使われるまで判らない。父親を射殺して逮捕され、初めて統合失調症だと判った息子が良い例です。闇雲に客に銃を売らないよう規制してくれと運動してる市民の方が、この点では遥かにリアリストですよね。

私は件のドキュメンタリーを観ていて、牧師や率先してオープンキャリーを実践している人たちに感じたのは、この人たち根っから銃が好きなんじゃないのかという懐疑です。
いや…私自身少年時代かなり銃が好きだった時期があって、銃を操作している時の牧師の表情や街中で「何が起きるか判らないからね」と半自動ライフルを背中に提げて語る青年を見て「この人ら昔の自分の同類なのでは…」と感じたことを告白しましょう。
私はこの人たちが怯懦というよりも「何かを待っている」ように見えたのです。
彼らが自由の先に求めているものは、果たして何なのかと。

たとえば「牛耳を執る」と言った場合には、御し難い「牛」の生殺与奪権を持つことの悦びと、「牛」で表されるでかい「政体(=現時点での国体)」を掌握する(今の自分をさらに高める)全能感というまるで違った二つの欲望がそこには存在します。

一方、「牛耳られたくない」という心性は(まるで違った)その二つの(あるいはそこに百八つ存在するもっと多様な)欲望を同じものとして扱います。これが、怯懦であり、恐怖です、畏怖とも。暴力は一方の側から(それを振るわれる側から)見れば、同じものです。

それは暴力を一度でも見つめたことのある人間には当然の帰結なのですが。

「こわい」ものに名前はありません。そのおびえるさまを名付けることができるのは「こわがっていない」側だけです。だからたとえば私の怯えているさまを彼らが「怯懦」と名付けるのなら、僕はあるいは彼らのことを「蛮勇」と称します。俺はあるいはじっくりと牙を研いで彼らに復讐します。

当たり前ですが自分がこわくないものをこわがる人間はいません。

人の持つおそれに「名付け」をするのは(できるのは)「そういう自覚」の足りない人間だけです。

畏怖と恐怖との違いを理解できない彼らにとっては「十字架」も「銃」も生き残るための武器でしかありません。

彼には十字架も武器も同じに見えます。雑草と薬草の区別がつかない人間と同じように。彼が自らの名付けから逃れられないうちには


・残酷さになれる訓練さん

先のコメントの後半を読んで見て、なるほど、僕は思い違いをしているのかも、と思いました。
その牧師をはじめとするオープンキャリーを主張する人たちが抱えているものとは、幼児性なのかな、と。すると、彼らはジャイアンなんだと言うと、しっくり来ますかね? 

ジャイアンだとすれば、そこに怯懦はありませんww
未だ「怯え」を知らないガキだという話です。
ジャイアンは父母を怖れますけど、これは「怯え」ではないですよね。彼らはジャイアンの庇護者なんだから。

この推論を進めるなら『ジョナサン』の飛翔は、ジャイアンの夢、すなわち「歌手になること」に例えられましょうか? もちろん、ジャイアンに夢見る「自由」はあります。ありますけどね、迷惑な夢だことww
いや、本当に迷惑なんじゃないですか? 彼らは“ジャイアンの群れ”はww

現在アメリカで巻き起こっている「トランプ現象」と根っこは同じなのかもしれませんねぇ。


合衆国憲法に市民の銃所持の自由が謳われているのはご案内の通りですね。しかし、彼らの水準がジャイアンだとするなら、そういったものはスネ夫的な知恵でしかないんじゃないでしょうか?

ジャイアンは、彼の夢(歌手)への実現へ向けて、のび太たちを暴力的に威嚇してジャイアンの音痴な歌を聞かせます。けど、ジャイアン自身には自分が暴力を行使しているという自覚はないでしょう。それは「自由」なはずですww

以上はもちろん推論です。推論を確認するためにも、そのドキュメンタリーを自分の目で見てみたいものです。


推論とはいえ、このように考えていくと気になるのは彼らにとってのキリスト教とは何か、という問いです。主導者は牧師ということですし。

もしかして、彼らにとってのは「神」はジャイアンにとっての両親のようなものなのでしょうか?

Seagull's Eye

>ごんさん

時間があったらコレやってみていただけます?
www.16personalities.com/ja/
私は概ねENTP型(討論者)と出ます。たまにENFP(広報運動家)となります。私自身は「議論」という言葉の持つ好戦的な響きを好みませんが「対話」に置き換えるならこの分析には概ね同意します。

さて…私は愚慫さんの仰る「怯懦」の定義や、怯懦と恐怖の弁別にはかなり納得しています。
また「怯懦と人間が持つエネルギーとが結びつくと暴力になる」という愚慫さんの推論にも説得力があると感じます。
ただし、対個人という条件で相手が抱えているものが怯懦であるか恐怖であるのかを読むのは結構難しいだろうとも思います。更に対人・対生物(含む自然環境)という関係性の中で、怯懦を一切感じずに圧倒的な力の差の下で暴力を発動させる事例も人間には多々あると考えます。

ごんさんの仰る「生殺与奪権を持つことの悦び」「全能感」は、共に自己拡張への意志に収斂されるのではないかというのが、私の見方です。
「畏怖」「恐怖」「怯懦」はそれぞれ異質な価値観が入り込んだ言葉なので、己の感情を「畏怖」と認めることはやぶさかでない人が「怯懦」を己に認めることは激しく拒むということはあり得るのではないでしょうか。振るわれる側に於いて同義である、とはならないと私は考えます。他方、己の感情が畏怖、恐怖、怯懦のどれに由来するのかを精密に把握することはなかなか難しいとも思います。とりわけ怯懦は妬みと同じで己の裡に見出したくない感情でしょうからね。

ごんさんは「『こわい』ものに名前はありません」と書かれました。確かに名前はないのかも知れません。
しかし人間は「こわい」ものに名前を付けて(=分類して)、何故それが怖いのかを知りたいと思う存在なのではないんですかね。少なくとも私はそうです。
例えば銃を求め、それを剥き出しで携行したいと思う人間は、怯えているから/怯えていないからそうするのか。銃を怖いと思うのか/思わないのか。仲間(だと思っている相手)の銃は怖くないのか。自分の銃は怖くないのか。
怖いものの訪れを渇望してはいないか。自分自身を怖い存在にしたいのではないか。殺されたくないから銃を持つのか。正当な事由があれば人を殺せるから銃を持つのか。
人間の中には銃を非常に怖がる人もいれば、そうでない人もいます。では銃を怖がる人は怯懦なのか。適正に恐怖しているのか。

私は(私自身も含めて)人間は怖い(=状況次第で極めて危険な敵となる)生き物だと感じていますけれども、そう感じることへの恐怖感は少ないです。そういう生き物だと予め納得しているので。
でもこういう考え自体をとても恐ろしく耐え難いと思う人もいるでしょう。自分が怖いと感じないものを怖れる人がいる…それは恐怖心の少ない個体にとってもそれほど想像しがたいものではないと思いますよ。

・ごんさん

ごんさんの言わんとすることがつかめません。

暴力を振るう側が生殺与奪権を握る悦びと全能感のふたつを持つ。で、これらはまったく違ったものであると?

僕にはこのふたつは同じに思えます。いえ、違いはあるでしょうけれど「同じようなもの」であり、まったく違うというのは、違うように思えます。

「怯懦」と「恐怖」と「畏敬」が同じになるのも、よくわかりません。

暴力をよく見つめると、それらは同じになるんでしょうか?
なにをどのように見つめようと、違うものは違うのだと僕は考えます。

このあたりの整理がつかないので、ごんさんのコメントがどこにどのように結びついているのかを把握しかねている状態です。

Power And Sacrifice

>愚慫さん

オープンキャリーのエヴァンジェリスト達は、ジャイアンそのものというよりジャイアン・ワナビーではないかという印象があります。銃を剥き出しで携行する市民が増えるほどに犯罪者は圧倒されると。
そこでエヴァンジェリスト達の目に映る無数の銃は、町の平穏・安全を担保するツール以外の何かではないはずです。
市民同士の不和や、家族間の骨肉の争いや、隣人間の積年の怨みつらみなどは全く念頭に置かれてはいないでしょう。
人生の不条理に打ちのめされて、社会に絶望している人の姿も見えていないのではないでしょうか。そういう情景が見えていない人が、牧師として教会で銃を持つよう信徒に推奨しているというのは、私には随分無気味な光景でしたよ。

牧師にとって銃は、持った人をインスタントに強くしてくれる便利アイテム程度のものなのかも知れません。
何度も繰り返し使っている「自己拡張」という言葉ですが、私は「自己拡張」というのは結構怖い観念だと思っています。
強い/力を持つ/秀でることはそれ自体が生存の上で重視される条件です。批判が難しい。ということは加減が効きづらい。怯懦の隠蔽も人間の心を歪めるでしょうが、歯止めの効かない自己拡張欲求はそれ以上に恐ろしいと思います。

・残酷さに慣れる訓練さん

「自己拡張」が怖い観念であるという意見には同意です。

ただ、僕は「自己拡張」がそれほど強い観念だとは思っていないんです。なぜそう思うのかは、残酷さに慣れる訓練さんが僕の価値観だと指摘されるところへ繋がっていきます。すなわち、「自己拡張」は強いられた観念である、と。

強いられていて、それに気がつかないから強いように感じるけれども、強いられているということに気がついてしまえば、自身の中に根っこにある根源的な観念ではない、と思っているんです。

残酷さに慣れる訓練さんのいう「自己拡張」とは、「変身願望」に思えているんです。『ジョナサン』の飛翔もそう。自分ではない自分になりたいという願望ですね。アメリカン・ドリームというのもそれじゃないですか。

“変身”で思い起こすのは、カフカの『変身』です。ザムザは目を覚ましたら巨大な毒虫になっていた、というやつですね。厄介者に変わり果てたザムザは、最初こそ家族から介抱されてますが、やがて疎んじられるようになり、見捨てられて死んでいきますよね。

ザムザは変身を望んでいたのかどうかについて、カフカは何も言及していません。ただ、いきなり変身したというところから始まります。けど、ザムザは変身を望んでいなかったのでしょうか? もし仮に望んでいたとしたら、それは毒虫ではないでしょう。けど、望んでいたものが実は毒虫だったというのはありそうです。ジャイアン・ワラビーの願望は、実は毒虫に変身することだった。強いられた欲望に従って変身を願望すると、そうなってしまうと思います。

銃を所持したい人は、単純に幼稚に、銃がもたらす悦びに身を浸したいだけかもしれません。それはいいと思うんですよ。けど、オープンキャリーという“見せびらかし”は、単純で幼稚な悦びから逸脱しています。

彼らだって銃で人を撃ち殺すことを願っているわけではないはずです。けど、単純で幼稚な悦びをシステムに乗っけていくと、そうなりかねない。『アメリカン・スナイパー』のクリスのように。クリスは英雄扱いされますけれど、カフカに言わせると毒虫じゃないでしょうかね? クリスの奥さんはクリスにむかって、「自分に戻ってくれ」と訴えていましたよね。

しかし、オープンキャリーを望む人たちの願望はシステムに乗っけることでしょう? それこそが、残酷さに慣れる訓練さんが感じておられる「自己拡張」ではないでしょうか? けど、システムはもう「自己」ではありません。別次元のシロモノです。そんなものに「自己」が乗っ取られてしまうのを「自己拡張」だと勘違いしてしまって、それが「変身」だとは気がついていないのではないでしょうか?

だとしたら、変身を果たしたあとの姿はやっぱり毒虫でしょう。

僕に言わせれば「変身」なんて、そもそも無理なんです。自己を成長させることはできます。これは生き物の根っこにある強い観念です。しかし、どれほど成長しても、どのように成長しても、自分は自分。自分から離れられない。その意味では不自由だけれど、それこそが「自在」ということ。

その姿は『先祖になる』にも『祝の島』にも『アレクセイと泉』にも描き出されていました。ああいった姿は、アタマで望んでそうなったものではないんですね。

Shapeshifting

>愚慫さん

「変身」「システム」この辺のキーワードが、愚慫さんと私の異質さが顕れるところでしょう。
「変身」について。
『ビル・カニンガム&ニューヨーク』というドキュメンタリー映画がありまして。
ビル・カニンガムは長年カーネギーホールの屋根裏(風呂・トイレなし)に住む老齢のファッションフォトグラファーです。NYタイムスでフォトコラムを担当していて、自転車で街中を走り回っては個性的なニューヨーカーのスナップを撮り続けています。当人はもともと帽子のデザイナーで相当な伊達男だったんだけど、今ではホームセンターで20ドルくらいで買えるナイロンパーカを専ら作業着として羽織っています。私物は最小限のものしか持たず、昨今話題のミニマリストを極めたような暮らしをしています。
システムの中で生きていますが、生き様はアウトサイダーです。
半生かけてファッションを追ってきた彼が、こう言うのです。「ファッションとは現代の文明人にとっての武装だ」と。

彼の言葉に従うなら、服を纏うのも銃を提げるのも同じ、ということになります。
私もかなり服が好きなので被服費に相応に注ぎ込む方ですが、確かにファッションは変身を可能にするものではない。
気分をセットすることは出来るけれども自分でない何かになれるわけではない。基本は皮膚の外延です。
己の美意識に則り外皮を形成する体のものです。よって自分の美意識が隠しようもなく丸出しとなります。
髭ボーボーでライダース着ようが女性装しようが、どうやっても自分以外のものにはなれません。安冨さんとか見てみれば、一目瞭然ですよね。あれは本人の気分がセットされているだけで、全く同じ安冨さんですもん。
同様に、銃は腕力の外延と言えると思います。肉体が持つ破壊力を機械の力で拡張する。
武装は機能の外延にはなり得ても変質はさせてくれない。故に武装は変身願望を支えてくれるものではない。変身願望を満たしたい者は武装には没入しないというのが私の見解。

これはあくまで私の見方です。愚慫さんの変身についての視点を否定するものではありません。
カフカの『変身』については小学生の時分に読んだきりなので細部を殆ど憶えていませんが、カフカが挿絵画家(表紙絵の画家だったか?)に対して、変身後のグレゴール・ザムザの姿を描かないように念を押していたというエピソードはよく記憶しています。毒虫は本当に毒虫だったのか……小説の描写は真実であることを必ずしも担保しないですよね……等々考えてみると面白いのですが話がずれますか。

「システム」について。
これは牧師らが合衆国憲法をどう捉えているかによるのではないかと思うのです。合衆国憲法は、主権者たる国民が私的に武装する権利を妨げないことを好コントロール装置たる国家が認めます、という形を取っているわけですよね。
実力の私的所有というのは本来好コントロール装置にとっては歓迎しがたい権利でしょう。システム側にしてみれば「刀狩り」してしまった方が何かと統制しやすい。

オープンキャリーは「システムに乗っける」というよりも対システム的姿勢に感じます。これは詭弁で言っているつもりはありません。銃器の運用を個人のモラルに任せてどこまでも私的にやらせろという話ですから。そのために法的な正当性を提示せざるを得なかっただけで。
この点では法執行機関による銃の販売・所持規制を求める側の方がシステムに依拠しているように見えます。
システムの持つ執行力が無ければ銃の規制は不可能でしょうからね。既に銃器が国中に遍く流通している以上。

追記。
「(欲望や観念を)強いられる」という現象は、あると思います。私自身もこの社会の中で色々と自覚なしに「強いられて」いるのは間違いないです。
ただ、やはり自分自身に対しても、他者に対してもどこまでが「強いられて」いて、どこからが「内から渾然と湧き上がってきた」ものなのか、境界がはっきりしないところがあるのです。
愚慫さんの仰る「蓋」の有無で見分ける等の手段もあるのでしょうが、(私のような)エラータイプは蓋で何とか社会性が保持されている可能性もあり……。

支配欲と全能感はまるで違うものです。名付ける側にとっては。つまりそれを欲望する側にとっては。

賢い人間ならば自らの支配欲はおそらく治世と名付けるだろうし、全能感についてはそれを誇るには自らの(努力にしろ天賦にしろ)優越による勝利の証だと誇る。正義を意識してそうするのか、結果としての優越を誇るのか、そのふたつは(少なくとも精神世界では)まったく違いますよね。

欲望の類型の一つとしてはどこかでつながるのかもしれません(ですが、「そこは同じだけどそこは違うね」などととそれを吟味する必要を感じません。結局我々の欲望をたどれば「いきるため」という実にくだらないけど堅固な言い回しに終始するだけですので)。

僕が「いくつかの名付けられた恐怖」を同じ、としたのは、昔の人が「胸が締めつけられる思い」を「かなし」「悲し」「愛し」と表現したような意味で同じ、あるいは類似ということです。僕自身は「同じ」だと思いますがね。僕は「かなしい」のか「いとしい」のかよりも「胸が締めつけられる思い」の方に興味がありますので。

実は恐怖自体を御すのは簡単です。あくまでも精神世界の話ですので。上でも語られているように「薬」に頼るのも有効です。勉強するのも。あるいはあえて勉強しないのも。どちらも有効です。

本人が怖くなくなること自体を目標にするのならロボトミーを施してもいい。

その事実の前に「怯懦」と「恐怖」と「畏敬」の言い換えに何か発展的な意味がありますか?





だから僕は「かなし」と「心( )非ず」をさも前提の理のように語るその口に強烈な違和感をおぼえます。



というかこういう話の時に『よだかの星』が念頭に及ばない理由がわからない。どこかでシャットアウトしていませんか。たとえば自身のオリジナリティを誇るためにとか。

Mutilate

>ごんさん

ごんさんの仰る「生殺与奪権を持つことの悦び」「全能感」の内、「全能感」の方は言葉通りであり、「~の悦び」の方は悦びとある以上読み手としては欲でなく感覚と解するのが無理が無いと思いますが、どうでしょうね。
支配欲が満たされれば、全能感を「悦び」として感覚するのではないのでしょうか。
こういった齟齬は言語感覚の差異に過ぎないのかも知れませんが、私は上記のように感じますよ。あくまでそう感じるということ。

>その事実の前に「怯懦」と「恐怖」と「畏敬」の言い換えに何か発展的な意味がありますか?

怯懦の隠蔽はハラスメントに繋がる可能性が(大いに)あると考えますから、弁別には十分意味があると思いますよ。
単なる言い換えの問題に矮小化されるものではないと考えます。私がここで「怯懦」と「恐怖」の弁別が難しいと発言しているのは、弁別に意味がないという視点からではありません。

ごんさんが意味を感じないなら、それはそれで良いんじゃないですか。
ごんさんを説得するための立論を組み立てているわけでなく、ただ互いの感覚をベースにして対話をしているだけですから。なんか問題ありますかね?
少なくとも私にとっては意味があることがごんさんにとって無意味で無益であるというケースは、あって当たり前では。

あと、ロボトミー手術というのは前頭葉切断や左右の脳を繋ぐ脳梁を人為的に切断する手術で、例えば前頭葉切断であればDLPFCのような痛みの恐怖を鎮静化する回路を損なってしまう可能性があり、逆に恐怖を抑制できなくなる可能性がありますよ。脳梁を切断しても恐怖を感じる扁桃体の機能はそのまま働くでしょうから、恐怖心は無くならないでしょうしね。
感情の表れ方に変化が生じる可能性はありえますけど…。

「杞憂」という言葉は馬鹿にするためにあるのですよね。バカを。

でもそれは何の役にも立たないですね。核兵器をこの世界で使うことの馬鹿さ加減をその馬鹿に伝えるためには。

僕の言う「事実の力」というのはそういうものです。

笑っていればいいのですよ。なんとも思わない人は。怖くないのだから。

あなたの信者はそういうふうに思うのではないのですか。そういうふうに考えるのがあなたの教えに沿って普通であるのならば。





>あと、ロボトミー手術というのは前頭葉切断や左右の脳を繋ぐ脳梁を人為的に切断する手術で、例えば前頭葉切断であればDLPFCのような痛みの恐怖を鎮静化する回路を損なってしまう可能性があり、逆に恐怖を抑制できなくなる可能性がありますよ。脳梁を切断しても恐怖を感じる扁桃体の機能はそのまま働くでしょうから、恐怖心は無くならないでしょうしね。
感情の表れ方に変化が生じる可能性はありえますけど…。


いえ。心( )非ず。が前提にあるのなら、どうでもいいのですよ。

そんなとこを問題にすることの馬鹿さ加減です。僕が言っているのは。あくまでもそれが前提です。

(いちいち確認する必要もないと思ったのですが尋ねられたので)


Liar

>ごんさん

>どうでもいいのですよ。

どうでもいいなら、黙りましょうよ。いい加減他人の対話に呼ばれもしないのに絡んで悪意をばら撒くのは止めた方が良いと思いますよ。だから「苛め」とか「いたぶってる」とか余所で言われるんでしょ。
対人コミュニケーションの基礎からやり直した方が良いのでは…。

>そんなとこを問題にすることの馬鹿さ加減です。僕が言っているのは。あくまでもそれが前提です。

あなたの奇怪な前提を何故いちいちこちらが忖度しないといけないのか解りません。
ごんさんのインナーワールドに、私は全く興味ないです。
こちらを馬鹿にして舐めくさってるのであれば、それで結構じゃないですか。
いちいち「俺はお前を馬鹿にして舐めくさってるぞ」と申告してこなくていいですよ。毎回毎回毎回毎回同じなんだから。

>(いちいち確認する必要もないと思ったのですが尋ねられたので)

ロボトミーなんて言葉を捨て台詞的に使ってくるから、違うんじゃないですかと答えただけです。
尋ねてるわけじゃないですよ。いちいち俺様は解ってるアピールとか全然要りませんから。

あなたのは、単に場を壊すためにやっているだけです。大抵。
悪意を他のものに見せかけて。
認めないでしょうけどね。はっきり言って、困った人ですよ。

ロボトミーのことについて「どうでもいい」としたのは謝ります。たしかに僕は脳の一部を切除すれば「畏怖」も「怯懦」もなくなるかもしれない(扁桃体の感知する恐怖を「怯懦」にしないための有効な可能性として)という意味でその言葉をつかったので。誤解したままで誰かが了解してしまってはまずいですからね。

あとは、おっしゃるとおりかもしれません。

といっても自分の発言の理由が「ああこれは悪意なのだな」と了解しているわけではないですけど。

たしかに「こういうことを言いたくてタイピングをはじめたのではなかったよね」と思うことはあります。

それは「悪意」なのかもしれないですね。

・残酷さに慣れる訓練さん

異質さを互いに際立たせていくのは、楽しい作業ですね(^o^)

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』は観ることができるようです。


さて、「ファンションとは現代の文明人にとっての武装だ」だという言葉のとらえ方について。
最初に想い浮かんだのはショパンです。

ショパンはあまり好みじゃないんです。なぜだろうと疑問に思っていたら、吉田秀和という音楽評論家の言葉にぶち当たって納得した。曰く「ショパンの音楽は自分の心を覆い隠すための音楽である」。ポーランドの田舎からパリへ“上京”してきたショパンが自分の心情を周囲に悟られないために作り上げた音楽。“盾”としての音楽。ここにあるのも「怯懦」でしょう。まったく迷惑ではありませんが。

で、上記の“武器”の文脈は“矛”なのか“盾”なのか? 残酷さに慣れる訓練さんの解釈から推すと“矛”のようです。オープンキャリー派の銃もまた、ファッションと同じ意味での“矛”だというのが、残酷さに慣れる訓練さんのご見解と。

音楽やファッションが、“矛”であるにせよ“盾”であるにせよ、共通する部分があります。「迷惑をかけない」というところです。いえ、迷惑な音楽もファッションもありますけど、基本的には、ということでご理解ください。

銃は違いますよね。「迷惑をかけるもの」です。この違いを考慮したときに「銃器の運用を個人のモラルに任せる」ことをファンションや音楽と同列に考えてよいのでしょうか? 僕は考えられないと思うんです。

「システムに乗せる」という、さらには「システムに乗っ取られる」ということの意味は、「迷惑なもの」を「迷惑でないもの」であるかのように強いる、ということなんです。銃という恐怖を感じさせるものを、感じないようにせよ、と。

オープンキャリーが権利として認められてしまえば、感じないように自然になっていくでしょう。「慣れ」という作用によって。けど、ヒトはこの作用によって感覚を隠蔽してしまうんですね。「慣れ」こそが「乗っ取り」です。僕は、このことは欲望なんかよりずっと怖ろしいと思っているんです。

ショパンは結局パリに「慣れる」ことができませんでした。パリで社交界の住人になって「変身」することができなかった。なのに、生きているうちは願望を捨てきれなかった。捨てることができたのは死ぬときです。心臓はポーランドへ返して欲しいと希望したんですね。


カフカの『変身』に少し戻ります。あの小説には疑問があったんです。なぜ“毒虫”なのか、という疑問。役立たずということなら、中立な“芋虫”でいいのに。ザムザは、とくに毒を吐くということもしなかったと記憶しています。

今は、感覚が乗っ取られることを「毒」と表現したかったのではないかと思っています。

・ごんさん

僕も残酷さに慣れる訓練さんと同様、ごんさんには悪意を感じてしまいます。けど、同時に、悪意を意識していないだろうというのも感じられるところです。

そういうのを、僕は【毒】というふうに言ってきているんですけどね。

苦しんで【毒】を吐いている。
けど、その当人は自分が苦しんでいるのを認めようとしない。
「苦しんでいる有り様」をこそ承認して欲しいと願っているから。

これがごんさんの姿だとは断定しませんし、できません。けど、可能性はあると思っています。

ただ、ごんさんの周囲にはいると思いますよ。
「苦しんでいる有り様」を承認して欲しいと願っている人が。
そして、もしかしたら、そういう人に承認を与えているのかもしれません。

今の学校はそういう場所ですよね?
強いて勉めるところ。

・残酷さに慣れる訓練さん

大切なところを忘れていました。
「強いられたもの(自律性)」と「湧き上がってきたもの(内発性)」の境界線というお話しですね。

簡単に境界線をひくことはできないと思います。
いまのところは「嗅覚」といったような言葉で表現するくらいのことしかできません。

そもそも言葉で定義することが原理的に不可能なんだと思っています。


実は次の文章のテーマとして念頭にあるのが、ズバリ、その境界線の話なんです。
どこまで切り込むことができるか、どこまで伝えることができるか、楽しみにしていただけると嬉しいです。

名付けられた「悪意」を撒き散らすことの害があるとすればそれはたとえばどんなものでしょうか。

それでその害「悪」が怖いですか?

こわいから「黙ってればいい」というハラスメントをするのですか?


これはもちろん、愚樵さんにではありません。僕が自らの意のもとに悪の側から発言をしていると断言したものへの問いです。


残酷家になれる訓練さんにはひとつだけお尋ねします。

あえて繰り返しますが、これはもちろん、あなたが、僕の議論に割り込んできたからです。矢印を向けてきたからです。あなたの方から。

怯懦・「恐怖」・畏敬に違いを設けるのは、恐怖の質を問題にしているからではないのですか?

僕は、脳梁は怯懦や畏敬を感じる(感知する)ことはできないのだろうと考えています。

その考えは誤りでしょうか。

僕は件の騒動の時にもそうでしたが、僕自身が饒舌になるのは、リアルの生活がすごくうまくいっている時です。僕自身に時間的にも精神的にも余裕のある時です。

だから暇人がその余白を以て議論をふっかけるな、ということなら、それで了解します。

「そういう議論」はしないということであれば。

で、上記の「議論の在り方」を愚慫さんが是としたと仮定した上でお尋ねします。

(否ということならば消してください。その場合はお手数をおかけいたします)

愚慫さんは、脳梁は愚慫さんご自身でおっしゃるところの『怯懦』を感受することができるとお考えですか?

・ごんさん

今の僕はごんさんの議論につもりはありません。
対話をするべき相手ではないと思うので。

ごんさん、あなたは毒多さんのところでアキラさんからイジメとだと指摘され、そのあとは無反応ですよね?
また、当コメント欄で同じことをしています。
ここのコメント欄でそれを先に指摘したのは残酷さに慣れる訓練さんですが、これはタイミングがそうなっただけで、僕も同じことを感じています。そう表明しましたよね?

ごんさんの議論に乗るには、毒多さんのところから始まったあなたの無責任な態度への指摘に対する、ごんさんの態度表明がまず必要です。そこをスルーしたまま、あなたと議論することはありません。

なお、毒多さんのところでしたのと同様に無反応というのもありです。今後無反応、歓迎しますよ。
もちろん“適切な”態度を取っていただけることをもっとも歓迎しますが、これまでのごんさんとのやりとりの経験から、期待はしていないことをお伝えしておきます。

了解です。

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