愚慫空論

〈悲〉の響き

小説の方の『あん』について書いたときから、このタイトルで文章を書いてみようと思っていました。

〈悲〉というものの具体的な“形”について。
どのように感覚されるのか、ということについて。


本題に入るまえに、改めて「悲」というものを考えます。
手がかりは「悲」という文字(漢字)ですね。

「悲」という文字は“心に非ず”と構成されています。

心に非ず。
もうこれだけで、なんだか哀しいニュアンスが漂ってしまいますね。
その理由を掘り下げてみると、それは「心」について抱いている私たちのイメージにあることがわかります。

私たちにとって「心」はとても大切なものです。
大切な、プラスのイメージ。
それが、非ずと否定されてると、プラスが転じてマイナスになってしまいます。
このあたりが一般的な「悲」のイメージでしょう。

しかし心は、本当にプラスなのでしょうか?
心は、仏教的に言うならば煩悩の原因です。
喜怒哀楽、これらはみんな心の「ざわめき」なんですね。
つまり不幸というマイナスの種でもある。
そう考えると「心」は必ずしもプラスではありません。

プラスでもマイナスでもない心。
そんな心ではないのだとすると、では何か?
心の奥にあるのもの。
すなわち〈命〉ということになるのではないか。

以上の解釈は小説『あん』について書いた文章で紹介した、野口晴哉著『風の効用』の構えと共通すると思います。


心は「ざわめき」である。
そうだとすると、心は音として感じられるというになります。
これは比喩として言っていますが、完全に比喩というわけでもない。
音楽というものが存在するからです。
音楽というのは「心の形」を音を素材に表現したものです。

そう、今回は音楽で〈悲〉について語ってみたいと思っているんです。
題材は、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番。


実は、この曲については、ずっと以前に一度取り上げたことがあるんです。
語りたいことの中身は基本、同じです。
今回は「〈悲〉の響き」ということに焦点を絞って、それが音楽のなかでどのような形になって現れているのかを語ってみたい。

恥ずかしながら、以前の僕自身の文章を引用してます。こんなふうに書いています。

嘆くとはいっても、ここにいるベートーヴェンは、もはや何ものにも憤ってはいない。かの有名な“ジャジャジャジャーン”の音楽を創作した頃のように、身に降りかかる「運命」と果敢に格闘しようというような気概はすでにない。ここにあるは運命との闘いに破れ、運命がもたらすものを従容と受け入れようとしている哀れな男の姿。運命を受け入れようとし、しかし受け入れられきれず、どうしても心からはみ出してしまう分が哀しみとなって滴り落ちているような、そんな旋律。


そう、ベートーヴェンは“負けた人”なんですね。
徳江さんやラスコーリニコフと同じです。

心を形作る器となるノスタルジーは、ひとりでは作り上げることはできない。親や兄弟や友人などといった周囲からの承認がなければできない。周囲の者たちの手によって捏ね上げられていく。だから器なのであり、こね上げられていった感触の記憶がノスタルジーなのだ。


ノスタルジーは『あん』のなかにもありましたね。
ブラウスの話を通じて“こね上げられていった感触の記憶”も語られていましたね。
それが無残に破壊されたことも。

ノスタルジーが破壊されて、心が壊れる。
心は壊れても、その断片はまだ心なんです。
だから、痛みを感じてしまう。
哀しいものです。

この音楽は、3つの楽章から構成されています。
1つめは、今言ったノスタルジーです。
2つめは、“成功への闘争”と言えばいいでしょうか。

ベートーヴェンは、確かに一度は“成功”しています。
この「成功」から収穫された実りは、本当に豊かなものです。
それだけで十分に偉大な作曲家として名を残せたに違いありません。
これは、社会的なものですね。

ベートーヴェンが“負けた”のは、昔読んだ伝記の記憶を辿ると、家族の問題が原因だったそうです。

3つめの楽章は、負けてしまったベートーヴェンの悲哀と再生の音楽です。
ですから、僕が指摘したい「〈悲〉の響き」もここにあります。

この3つめの音楽は、2つの対比が二度繰り返されるという形、つまり4つの部分で構成されています。
心の痛み。
立ち上がろうしてあがくさま。
壊れた心の断片。
そして再生。

再生の直前に「〈悲〉の響き」はあります。
上に掲げた動画では、18:45付近から始まります。



タン♪ タン♪ タン♪

と和音が3つ、間を置きながら短めに打ち鳴らされる。
その後、先の3つより心持ち長い間を置いて、4つめが今度は響きに余韻を残しながら、打ち鳴らされる。

「〈悲〉の響き」は、この3つめと4つめの間にあります。
3つめと4つめの、少し長めの「間」が「〈悲〉の響き」だと僕が感じるところです。
音楽としては音がないところ。
音がないところにこそ、深い意味がある。

音を追いかけてみると、3つめまでと4つめ以降とでは響きが違います。
これは明白に知覚されるものです。そのように作られていますから。

見づらくて申し訳ないのですが、4つめの音符にはナチュラル記号(「♮」)がついています。
これは、楽譜左端のプラット(「♭」)を打ち消すためのもの。
フラット記号は“半音下げる”という意味ですから、それを打ち消すということは、流れとしては“半音上げる”ということです。
で、4つめは4つの音で構成された和音ですが、その中の一部が変わるということは、響きが変わるということになります。
つまり、3つめまでの響きと、4つめ以降の響きの間には断絶があるんです。

3つめまでの響きを素直に解決しようとすると、落ち着いてしまいます。
心の断片が奏でる音楽を受けた響きが解決してしまうというのは、深淵へ“落ち込んで”しまうということになる。
3楽章の4つの構成の2つめでは、そういう音楽になっています。(13:42付近)
今、焦点を当てているのは、一度は落ち込んだ響きの再チャレンジです。

今度は4つめで違った響きになります。
「跳躍」です。
ほんのかすかな動きだけれど、確実に立ち上がっている。
この「立ち上がり」の直前の間に、立ち上がるため「力」が現れている。
それはもはや「心のエネルギー」ではありません。
心の「ざわめき」「揺らめき」の表現としての音では、表現出来ないもの。
心の奥に秘められている力。
それを言葉で表現すれば「生命力」なんだと思います。

楽曲全体でみたとき、ここらあたりの部分はこの音楽のキモであり、前の記事での言い方に倣えば“底”です。

ここは是非とも、各々の音のに込められたニュアンスも味わっていただきたいところです。
このキモまでは、音楽を奏でるピアニストは「表現をしよう」としています。
言い換えれば「心を込めて」鍵盤を叩いています。
音楽の流れにそって、さまざまに揺らめきながら。

しかし、キモのところにさしかかったとき「心を込める」ことをやめてしまう。
素っ気なく、力なく、3つの音は打ち鳴らされる。
ここには心があってはならないからです。

そして「跳躍」が出てきます。
自らの響きをフィードバックして増幅するかのように音量と力強さを増した音たちは、そのまま何の躊躇もなく駆け登っていく。
生命力のそのものの純粋な発露なんだと思います。

(ちなみに仏教では、この生命力の純粋な喜びの境地を「歓喜自在」というようです。
 そして怖ろしいことに、これは仏の境地の一丁目一番地でしかないと言います。
 仏教が「生命の教え」なんだとしたら、生命にはまだまだこの先に深いところがあるということになります。
 あな、怖ろしや。)
余談でもなけど、付け足しです。
僕の想いというか、抱負というか。

今回取り上げたベートーヴェンのこの音楽は、もう30年の付き合いになります。
つきあい始めはどんな奴なのすぐに掴めなかったんですが、理解ができるとかけがえのない「友」になりました。
だもので、どうしても、再度になるけど紹介したかったんです。
「宝」とも言います。

前段に書いたことは、つきあい始めた二十歳そこそこから、言葉で表現することはままならなかったにせよ、識っていたことです。
仏教的には歓喜自在といわれる、その心地。
山に登ったり、樵をやったり、殺生をしてみたり。
そういうことの動機になったのは、この心地を追いかけたからです。

仏教的には、この先にまだまだ深い境地があるらしい。
聞きかじっただけの知識ですが、たとえば華厳経によると、「汚れを離れた境地」なんだそうです。
戒律を修め、汚れを離れる。
そのことで慈悲の心を養う、と。

けれど、僕は仏教徒ではないんです。
そういう方向へ関心が向かない。
「慈悲」には関心はあるけど、そういう慈悲を自分のものにしようとかは、思わない。
〈生きる〉には、歓喜自在で、もう、十分。
それよりも汚れにまみれて生きていきたいと思ってしまう。

僕の自覚は日本教徒です。
で、僕が思うところの日本教は、汚れにまみれて生きることをよしとする。
汚れにまみれつつも、歓喜自在の心地を離れないこと。
汚れにまみれているからこそ、逆に歓喜自在が際立つんだ、という。

自画自賛ですが、そういうふうに生きてきたと思っています。
これからも、そのように生きたいと思っている。
心の「ざわめき」に流されて。
だた、盲目的にではなく。自覚的に。

そういう自覚の中で浮上してきたのは、歓喜自在の心地を妨げるものがあるということ。
一体、これは何なのか、という疑問です。
ここを追いかけていきたいと思っています。

この疑問はずっと追いかけてきたものですけど、一途にとはいかなくて、脇道へ入り込んでしまったりもしました。
最近は、ようやく、本道と脇道を嗅ぎ分ける感覚が出来てきたかな? と感じています。

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