愚慫空論

映画『あん』 

やっと観ることができました。映画のほうの『あん』です。


河瀨直美監督。
そう、河瀬監督の作品だと思いました。
だから(というのは論理的ではないけど)、いい映画です。

といって、僕は「河瀬監督の作品」なんて言えるほど、河瀬さんの作品を観たわけではないんだけど。
『殯の人』だけ。
そのときの印象が蘇ってきます。


この映画が“ベース”してあるのは、「ざわめき」なんだと思いました。

予告編の動画の冒頭。
満開の桜が風に揺れています。
それもかなり強く。

満開の桜は、いえ、桜に限らず、満開の花というものは、静かに咲いていても、それだけでとってもざわざわとした感じがするものです。

物語のクライマックスで徳江さんが彼女の人生を語る場面でも、背景は木の「ざわめき」でした。

「ざわめき」は徳江さんの心を映し出しています。
徳江さんだけではないか。

心の状態がいろいろとあるように「ざわめき」にもいろいろあります。
登場人物の心の状態に合わせて、「ざわめき」が映し出される。
これは、映画や文学など常套手段ですね。

常套手段というのと“ベース”というのとは違います。
いろいろな「ざわめき」が映し出されているけれど、この映画では「ざわめき」そのものが“ベース”にあるような気がするのです。

そういう気がするのは、小説『あん』を読んだからでしょう。
小説の方の“ベース”、というより“底”は、「静けさ」だと思ったから。


“ベース”と“底”の違いを少し説明しますね。
あくまで僕の主観的なところですけど。

“ベース”というのは、平らなんです。
平らということは、共通しているということ。
物語のなかで常にとはいわないけど、頻繁に感じられるということです。

対して“底”というのは、一番深いところといったところ。
物語のなかで。
頻繁には出てきません。一度か二度がぜいぜい。
 

小説の『あん』の感想で、僕は前に conversion ということを書きました
月との対話。
木々との対話。
そう、ここのところが“底”ですね。

これは文章で読んでいるからということもあります。
あるけれど、この“底”では、背景はとても静かなんだと感じます。
徳江さんは、月や木々と対話をしていて、対話の声はあるんだろうけれど、
その背景はしーんと静まりかえっているんじゃないかと感じられます。

映画の方では、そこにも「ざわざわ」があります。
徳江さんの生前のお話しが録音で語られます。
月の話も出てきます。
そこに「ざわざわ」と木々のざわめきの音が重ねられています。

ああ、平らになっちゃった――、と思いました。


「ざわめき」が“ベース”なのと、「静けさ」が“底”なのと。
当然、違いが出てきます。
この違は微妙だけれど、ある部分で決定的に違う。
その違いは、伝わってくるものの差となります。

映画のラストは、千太郎が満開の桜の下でどら焼きを販売するシーンです。
もちろん、ここにも「ざわめき」はある。
公園で休日を楽しむ人たちの声もそうだけど、なにより満開の桜の「ざわめき」。
生命が萌えるときの、穏やかだけれど力強い「ざわめき」。

意気消沈していた千太郎は、徳江さんの遺言と形見に力づけられて一からどら焼きの商売を再開します。
そこには、満開の桜に象徴される穏やかな力強さがある。
再開の前と後を繋いだのは、涙でした。
徳江さんの遺言に心を動かされての涙。
そして、涙にもまた「ざわめき」はある。

ここで伝わってくるものは、「がんばれ」というメッセージです。
徳江さんは、不運なことに、とても辛い境遇におかれたけれど、負けなかった。
だから、あなたも、この千太郎と同じように、負けないで、と。

そのように伝わると、徳江さんや千太郎やワカナちゃんを不自由へと追い込む世間の不条理が浮かび上がってきます。
不条理に負けない人間。
『殯の森』を思い起こしたのも、そういうところからです。



小説の徳江さんは、負けてしまっています。
不条理に心が折れて、なにも無くなってしまった。
「ざわめき」すらも。
そんなところへ、月の声が届くんです。

仮に「ざわめき」を気力だとすると、それがなくなったということは、生きる意欲がなくなったということになります。
これは、生きるのが嫌になったというのとは違います。
千太郎もワカナちゃんも、生きるのが嫌にはなっています。
ですけど、嫌になっているうちは、まだ生きる意欲はもっている。

「ざわめき」が“ベース”としてあるということは、これはずっと繋がっているということなんです。

映画の徳江さんは、生きるの嫌だったことを克服した。負けなかった。
小説では、負けて、気力すらなくなった。
この違いは、とても大きい。

生きる意欲がなくなったということは、ある意味、死んだも同じです。
徳江さんは、一度、死んだ。
でも、蘇った。
だから、月との対話の後の徳江さんは、その前と同じ人物なんだけど別人なんです。

徳江さんを蘇らせたものは、何か。
これを〈生命力〉というんだと僕は思います。
アタマがどれほどくたびれても、黙々と下支えしてくれている力。
アタマが働かなくなっても、それは動いている。
むしろアタマが動かなくなったからこそ、聞こえてくる。

徳江さんの「再生」から伝わってくるメッセージは、「負けても大丈夫」です。
負けても、あなたは生きている。

もちろん、負けることは好ましくないことです。
負けないに越したことはない。
ないけれど、でも、大丈夫。
あなたは生きています。
あなたの〈生命力〉に生かされています。
〈生命力〉が生きてさえいれば、その時々のあなたの状況に応じて「声」を聞くことが出来る。
その「声」が、あなたに生きる意味を教えてくれます。
だから負けても大丈夫です。

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