愚慫空論

『原子力戦争』

こんなん、見てしまいましたww って、感じですかね (^o^)



まず、看板に偽りありです。
ただし、“今となっては”という限定付きですが。

撮影地は福島ですね。それも、原発のすぐ近く。
どうも第二の方みたいだけですけど。

原発も映り込んでいる海岸のシーンの後に主役の原田芳雄が登場して、町の食堂へ入っていく。
そこには「原子力みやげ」の看板がある。

フクシマ以降、「原子力みやげ」の意味が変わっていますよね。
以前の「みやげ」がどのような物品だったかは知らないけど、今では「原子力みやげ」というと、放射性物質を想像してしまう。品の良くない想像ですけれど。

映画タイトルという看板も、そういう構造です。
公開当時と今とでは、言葉が抱えている意味合いが異なってしまっている。
当時の感覚では、『原子力戦争』は“ネタ”だったんです。きっと。
それが“マジ”になってシャレにならなくなった。

なので、今のマジな感覚でこの映画を見ると裏切られます。
最初は、ですけれど。
しかし、見通していくと、実はこの映画は結構マジ(本気)なのが伝わってきます。


ストーリーの構成を簡単に紹介します。

基本はサスペンスかな?
海岸で男女の死体が発見される。どうも心中らしい。
男は原発の技師。女は地元の娘なんだけど、上京していた。

主役の原田芳雄の役柄はやくざ者。いわゆる「ヒモ」です。
死んだのは原田の女だったんですね。
納得いかない原田は、真相を探り(?)やって来る。

この謎解きに佐藤慶演じる新聞記者が絡む。

途中経過はすっ飛ばして、やがて真相は原発事故隠蔽のための殺人事件だったということが明らかになってくる。
炉心の燃料棒が欠損して「チャイナアクシデント」が起きたらしい。
殺された技師はそのことを公表しようとしていた。
心中に見せかけたのは偽装工作。

サスペンスでしょう?
でもね、実はそうは見えない。
その理由は、ことに原田芳雄が体現している「昭和の香り」です。

「昭和の香り」がどんなものなのかには触れずにおきましょう。
『原子力戦争』を視聴する一番の愉悦はここだろうから。
これは、まずは、原田芳雄を楽しむための映画だと思うんですね。

平成の今なら、原田芳雄の役は、たとえば、そう、水谷豊とか。
『相棒』の二時間スペシャルとか劇場版とか、長尺もののネタになっても不思議ではない感じ。
水谷豊がスマートな頭脳派だとすれば、原田芳雄はダサい肉体派とだけ、言っておきましょうか。

では、映画の作りもダサいのかというと、さに非ず。
スマートというより、クールです。今風に言うなら。非常に知的。

この映画はネタがマジになってシャレにならなくなったものだと言いました。
だからいって、ネタなだけではない。
ネタとマジの、ギリギリの境界の上を行っています。

ネタを体現しているのは主に原田芳雄ですが、山口小夜子も特筆しておきましょう。
山口はストーリー的にも裏側の狂言回しのような役柄ですが、なにより存在感がスゴい。

マジを体現しているのは、これは主に佐藤慶ですね。
放射能漏洩疑惑に斬り込んでいくのは、佐藤の役割。

事故隠蔽の親玉である教授に、佐藤が原田を介して入手した証拠資料を手に斬り込むシーンがあるんです。
そこで教授が語るセリフは、とってもマジです。
もっとも僕のような反原発の立場から言わせれば、茶番ですけど。
茶番なのにマジだから救いようないのですが、彼らもそれを自覚しているからこそ隠蔽を謀る。

こういう救われない上にこの上なく迷惑なマジを、しかし、暴き立てるという作りにはなっていないんです。
そこを昭和の香りプンプンのネタで上手にコーティングしてあります。
でも、コーティングだけではない。コーティングだけではクールとは言えませんからね。

追究をする佐藤に対して、本社から圧力がかかります。
で、佐藤は折れるんですね。このあたりがとってもクール。

このあたり、僕は興味津々で筋を追っていたんです。
もし佐藤が「正義」を貫いたなら、ジャーナリズムだけはネタのまんまだったということなるな、と思いつつ。
けれど、僕のイジワルな期待に反して、そうはならなかった。
現実でもそうであろうように、記者は折れた。

ここを描いて見せたことに、映画の本気を感じさせられます。
「茶番と知りつつ折れてしまうマジ」を描くという本気です。
戦争というなら、ここが一番の戦争でしょう。

原作は田原総一朗さんですが、現実にはマジになりきれないという田原さんの限界も含めて、とっても彼らしい作りだと感じました。


翻って。
上で『相棒』の名を挙げましたが、現在の大手TVは映画会社が、原発を題材にした作品を作るでしょうか?
たぶん、無理でしょうね。
例えネタであっても。

当時でも、ネタにしなければ難しかったでしょう。
しかし、逆に言えば、ネタにすれば作品化は出来たと言うこと。
このことは、作品の中でネタに紛れてマジに斬り込むと言うのとは、別次元の話です。

当時は原発安全神話が生きていた。
この映画は神話を揶揄していますが、揶揄できたのは、神話が未だ神話として機能していたからに他なりません。

神話の機能が崩壊した今では、もはや揶揄すらシャレになりません。

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