愚慫空論

『祝の島』




 概要・解説は『ポレポレタイムス社』のHPを

静かな映画です。

視聴を始めてしばらくは、ごめんなさい、眠たかったです。

祝島は上関町に属します。
祝島の人たちは上関町の原発誘致に、ずっと反対している。
島の人たちが町議会に反対の意思表明をするシーンから映画は始まります。
まあ、ありきたり。

その後、島の人たちの具体的な暮らしが淡々と描写されていきます。
この淡々が、結構、長い。
ですけど、眠いのを我慢して(笑)見続けていると、効いてきます。


中国電力が原発建設のための埋め立て工事を行います。
島の人たちは漁船で反対運動に出かける。
船で隊列を組んで、中国電力が雇ったクレーン船が作業できないように。

で、中部電力側の船から勧告があるんですね。
マニュアル通りの。

「あなたたちの行為は違法行為です。
 直ちに退去してください。」

島の人たちは「おまえたちは命懸けで何かをやったことがあるのか!」と応じる。

「命懸け」発言は穏やかではありません。
そもそも「命懸け」と言明すること自体が穏やかではないのですが、
今の日本でも、それ以外の不穏な彩りが付け加わってしまっている。
今、映画を見ている僕はどうしても今の空気に左右されてしまいます。

命懸けなら、何をやってもいいのか?

ちょっと、そんなふうにも思ってしまいました。
もっとも、自身の命懸けを理由に他者の命を奪うような過激すぎるところは、一切ありません。
戦いだけれど、戦争ではありませんから。

「おまえたちは命懸けで何かをやったことがあるのか!」
これは訴えであり同時に挑発だけど、生命のやりとりまではしないという一線は共有されています。

見続けていると伝わってくるのは、この「生命」の在り様です。
「あそこに原発ができると、海が死んでしまう」
老漁師は言います。
冷ややかに突き放すなら、
「それはそうかもしれないが、けれど人間の生命を奪おうというのではない」
という反論があるでしょう。
現に電力会社や行政は漁業補償を出すとしている。
それを拒否しているのは、島の人々の方です。

この齟齬は生命のとらえ方の違いからきています。
お金があれば、今の日本の社会なら命はつなぐことが出来るかもしれない。
けれど、この命は「切り離された生命」です。
最低限の衣食住があれば、とりあえず維持はできる生命。
原発を推進する町や電力会社が捉えている命は、きっとこちらでしょう。

けれど、島の人たちはそうは捉えていない。
生命は繋がっていると思っている。
暮らしを共にする人たちと。
糧を恵んでくれる海や山と。

この映画で多くの時間を費やして描いているのは、生命の具体的な繋がりの有り様です。
こういうのは、パッは伝わらない。じわじわとしか。
じわじわと伝えてくれるんです。この映画は。

それは『アレクセイと泉』にもあったものです。
『あん』にも、あると思う。ただ、全面には出てきません。徳江さんが長年暮らした療養所のなかに、あったのではないか、と。

島の人たちは、みんな「海や山に生きさせてもらっている」と言うんですね。
ありきたりな言葉ですけれど、この感覚こそが原発に反対する意志の中核なっています。

海から魚を捕るのは「私」
田んぼから米を収穫するのは「私」

今の私たちの普通の感覚はこちらでしょう。
梅原猛さんが批判する人間中心主義ですね。
自然を人間の方へ引き寄せている。
自然を“意のまま”にしようと意志する「私」。
そのための科学技術。
原発はその延長線上にあります。

島の人たちは、そんなふうに感覚していないと思います。
自分たちが祝島の自然に寄り添っています。
ここの人たちに「山川草木悉皆成仏」と説けば、しっかり受容されるはず。

いえ、このような島の「暮らし」は、その土地それぞれの風土で外形は異なったとしても、
日本の至る所で展開されていたはずです。
だから「山川草木悉皆成仏」が受容されていた。

でも、残念な現実がこの映画にも映り込んでいます。
それは、梅原猛さんと東浩紀さんの間にあった「断絶」と同様のもの。
そしてもっと具体的なものです。

島の暮らしの次代の担い手がいない。
次の世代の人たちは、もはやほとんど島外で生活を組み立ているという現実。

前の世代と今の世代(といってもすでにご老人ですが)は、しっかり繋がっています。
「暮らし」の具体的な形として。
映画では、そこもしっかり描かれています。
お祖父さんが子や孫のために30年かけて拓いたという棚田がそれです。

僕も樵をやって自然を相手にしていた経験があるのでなんとなく感覚的に理解出来ますが、
あの棚田を拓く労力は、本当に大変なものです。
今なら機械力を使ってわずかな時間で出来上がる。
けど、おそらくあれは、ほとんど人力でしょう。
畜力はあったかもしれませんけど。

子や孫のために、その労働を継続しようという「意志」。
この「意志」を培ったのは、自然に寄り添った暮らしだったのだと思う。
そして、それは今の世代にも受け継がれていて、反原発を貫く「意志」となっています。

でも、それらは次の世代には受け継がれていない。
こういう意志は、学校へ行っても培われません。
如何に秀才でもダメ。
学校で教わることが出来るのは、その「意志」を下支えする感覚が喪失してしまった形骸化された「倫理」だけです。

たとえば、子や孫のために労働べしという「倫理」。
この「倫理」は、島の人には、暮らしに下支えされたごく自然なものに違いありません。
そしてそれは、島の人たちだけではなくて、今の日本でも多くの人が共有する社会規範でもある。
けれど、そのほとんどは、下支え感覚を喪失した上っ面のものにしかなっていない。
他者を攻撃する材料として使われるのが、関の山といったところです。


『祝の島』はいい映画です。
けれど、希望のある映画ではない。
希望の残光を捉えた、というのが適切かもしれません。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/821-2209b66d

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード