愚慫空論

『アメリカン・スナイパー』

またしても映画の話です。

3月の半ばから時間ができてしまって。
そんなわけで、今、映画モードなんです。



この映画をいい映画言っていいかどうかは微妙です。
いろいろな意味で混乱しています。

作品としてまとまっていないという部分もあります。
だけど、まとまっていないから悪い作品ということには必ずしもなりません。
分裂した印象を与えるからこそ、大きく訴えかけるものがある。
そういったことだってあるからです。

この映画は、そういうまとまりのなさが良い方へ作用している面と、悪い方へ作用している面と、両方あるように感じられます。

良い部分。
戦争を扱った作品ですが、単純な勧善懲悪のエンターテイメントではないということ。
この映画のテーマは、戦争の大義名分である「正義」が人間を心を引き裂くというところにあります。
引き裂かれているんだから、分裂していていいんです。

この映画は実在の人物の自叙伝の実写化なんだそう。
その宣伝の効果もあるのでしょう、主人公クリスの心が“引き裂かれる”シーンには引き込まれるものがあります。

とはいうものの、「分裂」の掘り下げは不十分だと感じます。
単純なエンターテイメントではないとは申し上げましたが、けれどやっぱりエンターテイメントの枠から完全に飛び出しているわけではない。
その意味では中途半端です。
エンターテイメントの手法とテーマの食い違い。
ここは完全に昇華されているとは言い難い。
良くない部分ですね。

しかし、逆に言うと、エンターテイメントの枠のなかでは十分に健闘した作品だと言っていいのかもしれません。
エンターテイメントに求められる爽快感は、あまりありません。
なのに、十分に見られる映画にはなっていて、鑑賞後は考えさせられる作品になっている。
このあたりは、監督のイーストウッドの手腕なのかな、と。
繰り返し見たいとは思いませんが...。



(映画とは直接関係ありませんが、相応しいと思うので挿入しておきます。
 スティングの『フラジャイル』。)

人間は本能の壊れた動物である。
そう言ったのは、確か岸田秀だったと思います。
説得力のある言葉です。
『アメリカン・スナイパー』を見ると、その言をもう一歩進めた方がいいのではないかと思ってしまいます。

  人間は本能を自ら壊す動物である――

人間には、一個の動物として部分があります。「ヒト」と書き表しましょう。
動物としての本能がもっとも強く作用する、人間の「ヒト」としての部分。

しかし「ヒト」は、個としては生存能力に劣る。
だから生存戦略として集団であることを選択しました。
「ヒト」は生き抜くために社会を営む「人間」となった。
「人間」の部分もまた、強く本能が働く部分です。

前回取り上げた『アレクセイと泉』は、人間の「ヒト」としての部分と「人間」としての部分とのみごとな調和が描写された作品でした。
年老いて、生命の摂理にしたがって、「ヒト」として生き抜く期間を終えようとしている人たち。
「ヒト」としての終わりを「人間」としての幸福の中で迎える。
豊かさとは、「幸せの十分条件」を満たすことであると伝えてくれる映画。

『アメリカン・スナイパー』のクリスは、個としての生存能力に秀でた人物のようです。
しかも、健全な『ヒト』としての本能を持っている。

物語の前半部分。
恋人と巡り会って結ばれ、 軍人としても一人前になり、幸せな家庭を築いていきます.
このあたりの構成は『愛と青春の旅立ち』のパロディでしょう。

『愛と青春――』では、一人前になった主人公が戦場に赴くことはありませんでした。
軍人もひとつの職業。生活を築くための方法でしかなかった。
それからすれば、『アメリカン――』は『愛と青春――』の続編と言っていいのかもしれません。


「ヒト」は生き抜くために「人間」になる必要がありました。
「ヒト」は食べなければ生きていけない。
されど、食べるだけでは「人間」ではない。
他の生命を、時に殺し、時に育む。
それは必要に迫られてそうするのですが、“必要”という言葉が示す単純な合理性だけで表現しきれるものではありません。
神秘的と言いたくなるような複雑な調和がそこには存在します。
この「調和」は人間の本能が作り出すものだと僕は思います。

戦争はその「調和」を根こそぎ破壊してしまいます。
軍人を職業として選択したクリスは、一方で「調和」を破壊しつつ、一方で「調和」を追い求める。
クリスは戦場で敵と判断した人間を狙撃しながら、同時に妻とも繋がっている。

こんなシーンがあります。
宿った新たな生命は男の子であると、戦場にいるクリスに妻が電話で告げる。
その言葉が届かないうちに、クリスは戦闘に巻き込まれる。
妻は、電話を介して「戦場」を感じる。
引き裂かれ感がよく出ているシーンです。

職業を選択する、というのは社会の中で生きる人間の行為です。
職業に就くことによって、「人間」は「社会人」になる。
「社会人」とは、その社会に埋没して生きていくということ。

そこが戦争をする社会であれば、軍人という職業選択肢もそのひとつでしかありません。
他の職業と同じように、軍にだって夢も希望も達成感もある。
あると宣伝され、そう思い込んで使命感を抱き、目的に向かって邁進する。
実に「人間」的です。
人間としての本能が健全に作用して「人間」的であるがゆえに、良き「社会人」となる。
クリスはそういう人間として描かれています。

ところが社会は戦争をする。
戦争とは、「人間」の敵が「人間」になってしまうことです。
そして戦争は必要なことだと宣伝されています。
けれど、本当にそうなのでしょうか?

『アメリカン・スナイパー』は、この疑問には何も回答しません。
戦争をする社会は、そういうものだと無条件で提示される物語の前提でしかない。
この物語では良き「社会人」でありことが「人間」を蝕んでいってしまいます。

もう一度繰り返しておきましょう。
『アメリカン・スナイパー』は、実在の人物の叙述を映画化したものです。

コメント

Mr. Self Destruct

イーストウッドは90年代初頭辺りには「客の入らないカルト映画作家」と呼ばれることすらあったのですよ。
今では考え難い話ですが。
彼の作品には通奏低音のような部分があります。「個人における美的救済」と「人間の集団が形成する価値観」との不協和・相克。古くは『ペイルライダー』辺りから、近作では『ミリオンダラー・ベイビー』『ヒアアフター』『グラン・トリノ』などに顕著です。ご紹介の『アメリカン・スナイパー』もですね。でもって不協和・相克は大概暴力を介して立ち現れて来ます。
『ヒアアフター』では暴力は人間が振るうものではなく自然が振るうものであったりと多少のアレンジはありますが、描いているものはそれほど変わらないと感じます。

イーストウッドには共感するところがあって、自分と世界観が重なっているように思います。
「世界は私のために創られたものではない」という決定的な諦念。
この人は世界と解り合う気がたぶんない。自身にとっての美的救済(それは豊かさや幸福とは無関係)にしか関心が無いんだと思います。そこが自分と似ている。世界と自己がぷっつり切れている。そういう感じがします。

『アメリカン・スナイパー』のクリスには、世界は何故こうなっているのか? 戦争は本当に必要なものなのか? といった問いはありません。映画のモデルとなったクリスにはあったのかも知れませんが、劇中のクリスには無い。
それはとりもなおさず、その手の問いにイーストウッドは関心が無いことを示していると思います。
私が面白いと思うのは、時代が下るにつれ、こういう彼の監督作品に客が入るようになったということです。

付言。
登山家の服部文祥はこのように言っています。「動物は人が想像する以上に多くの事象を理解して生活しているので、基本的に人間を襲わないはずです。ほかの動物に比べても人間はけっこう大型で凶暴だという事実を、オオカミも分かっています」(『The Grey』映画パンフレットより)
人間が群れを形成したのは、他の人間から己を守るためだと私は考えています。ここは愚慫さんと考え方の割れるところでしょうが、どちらが正しいかについて私は関心がありません。ただ、自分と対極にある人の考えを知ることは、私にとって面白いことです。

イーストウッド

・残酷さになれる訓練さん

イーストウッドのについての見立ては、概ね同意です。

世界は私のために創られたものではない。
世界と解り合う気がない。
そして、
その理由が「自身にとっての美的救済」にしか関心がない、というのも。

だとすると、イーストウッドは貴族なんだと思います。「ノブレス・オブリージュ」を放棄した上流貴族。

日本の平安時代の貴族たちがまさにそうでした。
例えば藤原頼通は、宇治に平等院鳳凰堂を建設した。
「この世をば わが世とぞ思う」と詠った道長は、法成寺というもっと絢爛なものを建てた。
「自身にとっての美的救済」への関心ゆえに。

彼らは浄土教に奉じて、道長などは死の床に際して阿弥陀仏と自身を五色の布で結び、死んだらすぐに浄土へ連れて行ってもらおうとした。バカバカしいほどに身勝手ですが、これこそ「自身のため(だけの)美的救済」の尤もたるものだと思います。

間違いなく、イーストウッドは貴族のような暮らしをしているはずです。
法成寺や鳳凰堂にも豪勢な邸宅に住んでいるかもしれませんね。

そんなイーストウッドの作品が支持されるようになったのは、以上の推論からすると、救済されない貴族が増えてきたから、ということになりますね。
映画のなかで描かれていたクリスたちの暮らしぶりは、貴族のそれです。
イーストウッドに比べれば、下級ですが。

そういえば『愛と青春の旅立ち』は、下級貴族が救済される物語でしたね。

残酷さになれる訓練さんは、進化論を支持しないのでしょうか?
僕は一応、支持しています。

進化論に沿うならば、私たちヒトは類人猿たちの延長線上の生物です。
類人猿は基本的に群れで行動します。生存戦略のため、ですね。
他種との競争に勝ち抜くためか、同種のとの競争のためか。
たぶん、どちらもあると思います。
双方含めて、生存戦略。

問題は群れの規模です。
チンパンジーで4~50頭までだったと記憶しています。
そのあたりが能力(脳力)的な限界なんですね。

では、ヒトは?
今日の国家を群れだと考えると、億単位です。
ではでは、ヒトにそれだけの群れを形成するだけの脳力(能力)があるのか?
能力(脳力)的には150だということは、以前ここでも指摘した通りです。

僕が関心をもっては、能力(脳力)を超えた群れが成立した理由です。
その理由が、戦争をする社会となった原因だと思っています。

How The Gods Kill

返信ありがとうございます。

イーストウッドは現在85歳なんですが、75歳あたりから10本の映画を監督しているのです。
自身のマルパソ・プロダクションを通して製作も手掛けているので資金繰りも担っています。
映画を一作監督するだけでも凄まじいプレッシャーがかかると聞きますが、年齢を考えただけでも桁外れの強靭な精神力・体力だと思います。
コンスタンティン・ブランクーシの言を借りれば“Create like a God, command like a king, work like a slave”を地で行くような人ですよ。こういう貴族になれるなら是非ともなりたいものだと思います。
私が思うのは、この人は信仰による救済が得られなかったため、美的救済に執着するのではないかと。
だから「映画」なのではと。前回のコメントでは挙げませんでしたが『パーフェクト・ワールド』などは自己を救済するために作ったとしか思えないのです。「完全な世界」から除外された人の物語です。

進化論については、突然変異と淘汰圧の組み合わせという仮説として理解しています。
生物史を説明するにあたり、極めて蓋然性の高い仮説だと考えます。
突然変異は生存戦略に沿って生じるのでなくあくまでランダムであるというのが進化論の主軸です。
生じた突然変異に対して淘汰圧(という実体的な圧力は観測し得ないのですが…)がかかり、その結果個体の生存が成り立つ際に「戦略」が機能していると見做されるわけで、この「戦略」なる見做しそのものが人間の価値体系の反映でしょう。

オランウータンは繁殖期以外は基本単独生活ですよね。これもオランウータンの生活環境から「生存戦略」的に「説明」できるんですけど、脳がデカい霊長類の中では独り暮らしが不安でないから単独生活しているわけです。
原猿の仲間には単独生活をする種が結構多いので、単独生活が群れを成すよりも生存のためには不利とも言えません。ロリス科の面々なんか鈍くさい、走れない、跳べない、強力な武器もないの無い無い尽くしですけど皆独り暮らしです。
それで不安が無い。
私のイメージでは、「その場で出た目が当たりだった」という感じです。それが進化論の本質なんじゃないかしら。
人間は「出た目が極端な大当たりで上手く行き過ぎて瀕死状態」って感じです。閉鎖系で突出した環境適応を果たした生物は、個体数が増えすぎて環境の側が支えきれなくなり、絶滅するようですよ。養殖とかで起きるでしょう。あれです。
現代人は生簀で養殖されてるようなもんですからね。

付言すると、エイドリアン・レインが書いていたことですが人間の母親が実子(実子ですよ)を殺害する場合、実子が殺害される年齢のピークは0歳だそうです。0歳が突出していて、そこから子の年齢が上がるにつれて殺害件数が少しずつ反比例して減っていく。
そういう、統計に現れる明瞭な規則性があるのです。実子の年齢と無関係に、ランダムに子殺しが起きるわけではない。
戦争とはつまるところ殺人です。戦争は愚慫さんが思索されるような人間の脳の特性から生じることは確かでしょう。
しかし、人間は自身と心理的・肉体的に近い実子をもまた殺すわけで、そこに一定の規則性が見られるということは、人間の各個体には「人を殺すという機能」が何らかの条件下で働くようプリセットされていると考えるのが無理がないと私は考えます。
レインはこれをドーキンスに倣い生存戦略の一環として説明しています。
私はそういった説明には関心が殆どありません。そういう機能はあっても、たまたま付いているだけかもしれないじゃないですか。繰り返しますが、生存戦略に則って突然変異が起きるわけじゃないですから。

貴族なるなら上流でなければ意味がない

・残酷さになれる訓練さん

ええ、貴族になるなら上流にならなければ。
戦争をやるなら勝たなければ意味がないのと同じですね。
さすれば、「残酷さになれる訓練」もする必要がないでしょうし。
いや。映画制作はイーストウッドにとっての「残酷さになれる訓練」なのかもしれませんね。
(皮肉な言い方になってしまいました。申し訳ありません。)

進化論の本質論、残酷さになれる訓練さんの意見に異議はありません。デタラメではなく、種が誕生する以前に「戦略」を持っていたとしたら「創造者」を想定しなければならなくなりますからね。それでは「創造者」を想定する人たちとは意見が合わなくなってしますww


現代人が生け簀で養殖されているようなものだというのも、仰るとおりでしょうね。
それで共食いを始めたのが「戦争」でしょう。
(このテーマは『マトリックス』に通じそうですね...)


ヒトの中に「人殺しをする動機がセットされている」というのも、そうだと思います。そして、それは動物としてのヒトの本能的なものだと思います。発現確率はそう高くはないはずですが。

人殺しの発現が本能の範囲で収まっているなら、人間の営む社会はそれを組み込んだものになっているはずです。いずれにせよ人殺しは罪とされると想像しますが、それを救済する方法論が組み立てられて実践されているはずだと思うんです。

そう考えると、例えばイースウッドの追求するような「美的救済」追究はどうなのか、という疑問に移ることになります。本能的というには、あまりにも人工的な臭いがするように僕には思えます。救済が人工的であるということは、救済を要求する現象、つまりは戦争が、本能から外れた行為だから――、とそんなふうに僕は思考してしまいます。

Your Salvation

>イーストウッドの追求するような「美的救済」追究はどうなのか

虚妄に過ぎないと思いますよ。所詮は“Motion Picture”ですからね。只のイリュージョンですよ。
私も観客の一人としてそこは踏まえているつもりです。
ただ、イーストウッドの映画を好む人たちは、イリュージョンを単なるアトラクションとして処理出来るわけではない人たちではないかと思います。例えば虚妄…というよりは虚構の登場人物の中に自分にとってのメンターのような存在を見出し、それを介して自身の形にならない想念を定位するような内的な活動を働かせているのかも知れませんね。

イーストウッドは一時期自治体の長に就いて政務活動をしていました。
「救済」を現実に向けようとしたのかも知れません。でも巧く行かなかったんじゃないのかな。現実の社会や人間の集団は映画のように指揮・演出し切れるものでもないですし。

戦争に関しては、人間の本能のサイズと現代兵器の破壊力・殺傷力の寸法が全く合わなくなってしまっているので「戦士が闘争心を奮い己が技量を以て敵と切り結ぶ」時代のそれとは全く異なるものになってしまっていると考えます。
現代の戦争って、死ぬのは人間・殺すのは機械じゃないですか。兵器の形態にもよりますが、人間がやっているのは機械に「許可」を入力するだけでしょ。本能云々の次元にはないと思います。元寇の際、北条時宗が死んだ元軍の兵士を鎮魂するために円覚寺に祀りましたが、そのような戦士が戦士に対して示す敬意も現代の戦争には望み難いでしょう。
『アメリカン・スナイパー』では、クリスが敵のスナイパーとタイマンで戦うじゃないですか。
あれは実際にあったのかも知れませんが、クリスを旧来の「戦士」として描写するための欺瞞ですよね。殆どの米兵はイラクで戦士たりうることを許されなかったはずです。末端の歩兵は、単なる「汚い戦争で使い捨てられる部品」に過ぎなかったはずです。兵器の部品に過ぎなかった。

人間は本能で部品にはなれないでしょう。
人間は本能で獣にはなれるかも知れないけれど、獣はあんな惨めなものではないと私は思います。
これで私が戦争をどう見ているかは、ある程度理解してもらえると思います。

・残酷さになれる訓練さん

そういえばそうでした。イーストウッドは政治に身を投じていたことがあったんですね。ならば「ノブレス・オブリージュ」を放棄していたわけでないのかもしれません。訂正しなければ。

ですけど、うまく行かなくなったから映画で「美的救済」の追究とは...、やはり上流貴族の特権ですよねぇ。羨ましい。

それにしても「虚妄」とは辛辣です ^^;
僕の「貴族」も、嫌みたっぷりですがww


ヒトは本能的に部品になれないというのは、まさにその通りだと思います。
まあ、これはヒトに限らずですけれど。

たとえば、盲導犬は一般の犬より寿命が短いことが知られていますよね。
消耗が激しい。彼らは立派にその役目を果たしてくれますが、これはあくまで「人間の都合」であって、犬という生命の側からみれば、部品扱いなんだろうと考えざるを得ません。

内田樹さんが『困難な成熟』のなかで、「労働の本質は制御だ」と述べておられるんですね。制御とは、単純化であり、部品と化すことでしょう。

だだし僕はこの制御としての労働は、農業に始まる文明的労働に限る特長だと思っています。
そして、この文明的労働が始まったのは、農業よりも先に戦争だったのではないかと。

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