愚慫空論

社会の流動化

前エントリーで取り上げた赤木智弘氏は、戦争を望むのは、社会を流動化させるためだと主張した。その主張はつまるところ、氏自身の個人的な願望を「社会の流動化」という言葉に乗せただけのものにすぎない。赤木氏自身が「社会の流動化」とは如何なるものなのか、ろくに定義もせずにその言葉を使っていることからみても、そのことはわかる。

だがしかし、格差社会と呼ばれる現在の日本の社会は「固定化」しているように思えるのは事実だ。限られたごく一部の者のみが肥大した欲望を満たすことを許され、大部分の者は欲求不満を感じる社会。いや、それどこか、その社会の中で生きていくことすらままならなくなってしまった社会。こうした社会の状況を「固定化」と呼ぶことは間違いではなかろう。

では、社会の「流動化」とはどういうことなのか?『正義論』のジョン・ロールズがいったような「公正な社会」のことなのだろうか?

「公正」とはジョン・ロールズによれば「立場入れ替え可能性の確保」を意味する。これは人々に「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という反実仮想を迫るものであり、機会平等と最小不幸を主張する。ロールズの格差原理では、格差ないし不平等の存在は、それをもたらす職務につく機会が平等に開かれており、かつ、それによって社会で最も不遇な人々の厚生が計られないかぎり、その存在は公正ではないものとされている。
(Wikipedia 新自由主義の記述より)


赤木氏の主張が欲求不満を解消させろというに過ぎないのなら、そんなものは自己責任でなんとかせよと放って置いてもよい。だが欲求不満の領域を超えて、生きていくことすらままならない者が多数出るとなると、そうもいかない。

そうした不公正な社会を「固定化社会」と呼ぶとするなら、その反対の、皆が平等に生存出来、そこそこに欲求も解消できる社会、そして「立場入れ替え可能」な社会は公正な「流動化社会」とすることができるだろう。


よくよく考えてみれば、いかなる社会であっても流動のない社会などありえない。まず社会の成員たる個人は生命の法則によって入れ替わり流動するし、社会を形作る主たる要因である経済も流動する貨幣によって成り立っている。社会の経済活動は文明を作り出し、その文明は環境に影響を与え、環境は文明に影響を及ぼす。また、経済と並んで社会をあり方を大きく左右する法体系も、決して固定化しているわけではない(日本国憲法という例外はあるが)。経済や法体系の流動化を下支えする歴史や宗教のような文化もまた、緩やかではあるが流動している。

その「流動化」も無法則ではない。宝くじを引き当てたりするような法則の定まらない“運”のみによって常に左右されるわけではない。「流動化」にも法則はあるのであって、そうであるからこそ格差の「固定化」といったような現象が表れることにもなる。してみると、問題は「流動化」か「固定化」かというよりも、どのような法則でどのように社会が「流動化」しているのか、公正な「流動化」なのかという点にあることになる。

しかし、上の記述でも“反実仮想”とあるとおり、この「公正」は少なくとも現時点ではまだまだ仮想に過ぎず、社会を実際に流動させる法則とはなりえていない。


日本の社会が現在のような格差社会にしてしまった原因は、新自由主義にあるといわれている。新自由主義は、市場原理重視で権力(法体系)による規制を緩和して、自由な経済活動を求める思想体系ということだが、

流動化


私の感じからすると、経済に対して対立・均衡を守るべきはずの権力がむしろ経済に対して寄り添ってしまっていると言っていい(図では「協調」とした)。

そもそも貨幣を中心にしてまわる経済という制度には、自律的といってよいほど強靭な自己増殖性がある。古典的な自由主義の時代、国家は治安を担うだけの夜警国家で十分とされ経済活動は自由放任だった時代、この時代は専制君主が治めたいた時代と変わらないほどの富の偏在を生み出し下層で生きる庶民を虐げた。つまり格差社会である。貨幣経済の自律性を放任すると格差社会になってしまう。貨幣を多く所有する者は増殖する貨幣の恩恵に与り、そうでないものは貨幣の奴隷と化す。

私たちが中学あたりで学んだ歴史では、それではいけないということで、国家による経済への介入が行われるようになった、夜警国家から福祉国家へと国家のあり方が変化していった、ということになっている。図で言うと、経済と国家(法体系)は対立・均衡の関係になった。

ただ、国家・権力・法体系は経済とは違い、自律的といえるような法則性はない。特に国民に主権があるとする民主主義においては、そうだ。血縁で結ばれた専制君主や貴族などが支配する社会ではその血縁という法則性によって法体系が縛られていくが、社会の成員がみな平等という前提の民主主義ではそうした法則性は作用しない。民主主義において法則性を生み出すのは理念という虚構である。

ごくごく大雑把に言ってしまうと、現代の日本においてはその「理念」は2つ。“社会のための個”か“個のための社会”か。前者は右翼で後者は左翼。そうした構図になっているように思う。
(だがこれは上辺のことでしかなく、一皮むけば右翼も左翼も“個のための社会”の立場に立つ。「個」と「社会」を分離できる者(「自己を確立している」とも言う)は左になり、「個」と「社会(国家)」とを分離できない者が右になる。右の中には自らには“個のための社会”を適用し他には“社会のための個”を適用するダブルスタンダードな者もいる。たとえば『美しい国へ』の著者。)

虚構であるがゆえに時代とともに流動する理念。理念によりあり方が流動する法体系。その法体系と対立・均衡(時には協調)する自律的な貨幣経済。揺らぐ法体系と自律的な貨幣経済の狭間で、その時代時代の均衡点によって、あるいは格差社会になりあるいは総中流といわれるほど平等な社会になる。社会の成員たる個人が、その時代の社会の均衡点に向かって流されていく。まるで化学反応において条件が変化していけば、化学平衡も移動していくように。それが社会の流動性というものだろう。


流動する社会。社会を流動させる要因は理念だが、流動の機軸になるのは常に貨幣経済である。理念は虚構だが貨幣もまた虚構。しかし貨幣は流動しない虚構である。流動しない貨幣という概念を中心に流動していく社会の構図。それが「近代」ではなかろうか。

では貨幣という概念は本当に流動しないのか? もし流動するとするなら、流動する貨幣によって組み立てられる社会は「近代」社会とは異なった流動の仕方をするだろうし、その均衡点もまた異なったものになるだろう。

流動する貨幣概念。その一例に減価する自然通貨というものも考えられているが、果たして?

コメント

二項対立

  気合いの入った記事、ご苦労様です。

  内容を見るに、二項対立図式に相当こだわりがあるように思えるのですが、そのへんは意識して行っているのでしょうか?
  
  個人と共同体というのは、本来領域が曖昧だと思うのです。「自分で」決めていることが、本当に自分の意志によるものなのか、本当に自信を持って答えられる人間がいるでしょうか。世の中や、人間を知れば知るほど、はっきりと言い切れなくなるのではないでしょうか。その逆もまたしかりで、共同体の利益は個人の利益になることも、害悪になることもあります。一概には決められません。
  二元論的な分け方は、確かに便利ではあると思うのですが、こと思想信条に関しては、無理にカテゴライズすると、言論活動の多様性をすくいきれない場合があります。たとえば、私は愚樵さんから見て「右翼」でしょうか?
  それどころか、このようなカテゴライズは、異物排除の論理として使われてしまう危険があります。たとえば、こちらのブログをよく訪問される方なら、私を「右翼」とラベリングすることで、私の意見は全て「無理解ゆえの暴論」だということで、そこから学ぶべきものは何もない、ということになってしまう危険があります。
  だから、あえてそれを分ける必要はなかったように思います。
  
  ちなみに、私が自分のところで左翼だとか右翼だとか呼称する時は、異次元空間で実生活に関係のないバトル(たとえば、「大東亜戦争は正しかったか」という永久に決着のつかなさそうなデスマッチ)をしている変人たちという意味で使うようにしています(笑)。
 
  

流動化も良し悪し

いろいろ考えさせられたエントリでした。
社会の流動化といっても、女性や障害者がより社会参加しやすくなった、という肯定的な変化もあれば、派遣労働のように「流動化」が不安定を意味することもあるわけですから。
社会正義というのは倫理の問題であり、貨幣経済中心の市場には「最大利潤」以外の価値は存在しないわけですよね。そういう意味で、減価貨幣、地域通貨で市場を消費者の交換の場に取り戻そうというイニシアティブはとても意味があるものだと思っています。おカネの使い道がある程度自分の目の届く範囲にとどまるなら、という前提のもとででしょうけれど。

右翼と左翼の間

愚樵さん、あまりにも大雑把な。右翼と左翼では、ほとんどの人が零れてしまう。
社会に対する関係性は大事ですが、時間軸で考えて見てはどうでしょうか。?
現状に満足出来ず、未来に自分の理想を託すのが左翼。
同じように現状に不満足だが未来志向ではなく、過去に既に在った理想社会の再現を夢見る右翼。
現状に満足しているか、あるいはほぼ満足しているのが保守。
保守とは、保ち守る意味ですが完全な現状固定派ではなく緩やかな改革をも含む概念です。
現状不満派の左翼と右翼は、社会の流動化を望んでいる点は一緒だが、其の方向性(時間の向き)が正反対。未来を考える左翼と過去の理想を追い求める右翼。

日本の左翼は「右翼反動」と「保守」を『保守右翼陣営』と一緒くたにする悪い傾向があるようですが、「右翼」の側でも自分達を「保守」と見て欲しいらしい。
『新しい歴史教科書を作る会』や『日本会議』の面々が、安倍退陣で危機感を感じ、最近『保守の復活』なんて言って右翼陣営の体制立て直しを考えていますが、時間を巻き戻すことなど誰にとっても無理なことがら。
左翼、保守中道、右翼反動。ここで赤木君を何処に入れるか、ですね。

先を越されてしまいました

ろろさん、コメントありがとうございます。

二項対立にこだわり、ですか。以前にも別の方からそのような指摘を受けたことがあります。意識して、二項対立の構図を作るようにしています。私のこうした記事はあるひとつの着眼点をもとに組み立てることが多いのですが、その着眼点を際立たせようとする際に、二項対立図式を用いることが多用しています。

で、この記事についてですが、ろろさんに先をこされてしまったので釈明しますが、本当は二項ではなく三項だったのです。残りの一項は「共同体」です。ろろさんが
>個人と共同体というのは、本来領域が曖昧だと思う
と指摘された共同体です。

私は「社会」と「共同体」とは区別しています。以前【personal】【private】【public】の三項を並記した記事を書きましたが、「社会」=【public】、「共同体」=【private】というのが私の考えです。この記事の続編でその「共同体」=【private】に触れようと考えています。

これ以上は、続編をお待ちください。

で、ろろさんは右翼かという話ですが、ろろさんは右翼的かもしれませんが、右翼ではありません。私の捉え方では。右翼左翼というのは、近代」という構図のなかでのみ有効な区分けだと考えますから、「近代」を超克したところにおられるろろさんには適用できません。

>左翼だとか右翼だとか呼称する時は、異次元空間で実生活に関係のないバトルをしている変人たち

この「異次元空間」こそが私には「社会」=【public】ですが、ただ残念ながら“実生活に関係のない”とはいきません。「異次元」が実生活に関係してしまうのが私が捉えているところの「近代」ですから。

市場以外の場所での経済活動

みーぽんさん、こんにちは。

私のつたない記事で、少しでも考えてくださることがあれば嬉しいです。

ろろさんへのレスでこの記事には続編を書くつもりだとしましたが、その続編ではもっと明確に市場経済への懐疑を示したいと思っています。

高度消費社会に生きる我々にとっては、市場とは当たり前の存在ではありますが、歴史的に見ると、市場が当たり前に機能する社会などいったものは、ごくごく例外的な期間でしかありません。
この「例外的」を社会の進歩と見るのが現在の常識ですが、それが果たしてそうなのか? そこのところを考えてみたいのです。大それたことに(笑)。

確かに大雑把です(笑)

布引さん、いつもお世話になっています。

ご指摘の通り、大雑把です。いつものことですが(笑)。

左翼、保守中道、右翼。そうですね、そうした語彙の用い方が“正統”なんでしょうね。

私は右翼左翼の言葉の用い方を誤ったのかもしれません。“正統”な使い方をしていないのは自分でも自覚していますが、それでも使用したのは、それ以外の言葉は思いつかなかった、のと、あまり考えずに安易に使用した、の2つの理由からです。あまりほめたもんじゃありませんね。別の呼称を考えてみます。

で、“正統”でない区分で何を言いたいのか、それはろろさんへのレスでお答えした「共同体」というところに絡んでくるのですが、そのあたりはまた続きでということで、ご容赦を m(_ _)m

保守(右派)内部のねじれ。

こっちも、少し。
前にかつさんところで、チラッと、触れましたけど。
小泉でさえ皇居売渡人、とかなんとか言って。
保守(右派)内部のねじれを考察する際には、
『霊感・警視』の一件は示唆に富む、って気がしますね。
幕末に、川路っていう勘定奉行のいたこととかも。
いま検索したら、
「川路利良 - Wikipedia
西南戦争が起こる直前にも、西郷や不平士族の動向を、帰省を口実に密偵を現地に送り込み内偵と西郷側の内部分裂を図るなど、川路の主たる実力は一般的な警察力と言うよりは、専ら乱破の類を使用した情報収集や攪乱・乖離作戦の戦術に長けていた。 ...
川路聖謨 - Wikipedia
川路 聖謨(かわじ としあきら、享和元年4月25日(1801年6月6日) - 慶応4年3月15日(1868年4月7日))は、江戸時代末期の旗本。代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男、母は日田代官所手付の高橋誠種の娘。官位:従五位下左衛門少尉。号は敬斎。幼名は弥吉。」
「資料室:GHQに検閲された詩 - 12月14日
川路 柳虹(りゅうこう) 詩人,美術評論家。東京都の生れ。本名誠。曾祖父は川路聖謨。1913年東京美術学校卒。」
「関連検索: 川路利良, 川路耕一, 川路聖謨, 川路 バレエ, 川路ゆみこ, 川路大警視, 川路真瑳, 川路柳虹, 川路聖, 川路温泉」
なかなか、多彩な顔ぶれですね。

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