愚慫空論

『アレクセイと泉』

いい映画でした。


舞台となる〈泉〉は、1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発(旧ソ連・現ウクライナ共和国)の爆発事故で被災した、ベラルーシ共和国東南部にある小さな村ブジシチェにある。
この村の学校跡からも、畑からも、森からも、採集されるキノコからも放射能が検出されるが、
不思議なことに、この〈泉〉からは検出されない。
「なぜって?それは百年前の水だからさ」と、村人たちは自慢そうに答える。

この百年、人間は何の豊かさを求めてきたのだろう。
《水の惑星=地球》の強い意志のようにこんこんと湧く〈泉〉は、私たちに"本当の豊かさとは何か"を静謐に語りかける。



本当の豊かさとは、何か。
これはとても難しい問いです。

なぜ難しいか。
とっても複雑なことだから。
複雑すぎて、簡単に言葉に出来ない。
言葉に出来ないけれど、なんとか表現しようとすると、こういう作品が生まれます。

なのに、そういう作品を見て言葉を綴ろうとする。
自己満足のため? 
たぶん、そうなんですが、そこを超えた欲もまた、ある。
承認欲求というやつでしょうか。


それは、さておき。


この映画の視聴中、父親のことを思い出していました。
末期の癌で自宅で死を待っているということは、少し前に書きました
同じ問いを、この映画も問いかけていると思いました。

幸せに死ぬというのは、どういうことか。

こんな記事もありました。

穏やかに旅立てる…死の間際に「お迎え」がくる現象を約4割が体験


・死の間際に亡くなった人々が枕元に立つ「お迎え現象」
・366人のアンケート回答によると、約4割が体験したと答えていた
・医療現場ではよく知られており、医学的には「せん妄」と診断されている
・「お迎え現象」が起こるのは自宅が圧倒的に多い
  ・「お迎え現象」は、人間に備わった死の恐怖を和らげる自衛作用

“自衛作用”と科学的に書いてしまうと身も蓋もありません。
まだ(幸いにも?)死を当事者でないものからすれば、そういう意味合いでしかないでしょう。
ですけど、死にゆく当事者にしてみれば、自身の幸不幸に関わることです。

重要だと思うのは、病院よりも自宅での方が「現象」が起こる率が高いこと。
「お迎え現象」が“自衛作用”だとして、では、その作用の発動率に大きな違いがあるのはなぜか?
(なお、「お迎え現象」がないと不幸だといっているわけではないので、念のため。)


1986年4月26日。
映画の舞台になったブジシチェから南西に180キロ離れたチェルノブイリで原発で、臨界事故が起きました。
そして、ブジシチェ村には政府から退避勧告が出ます。
多くの人がそれにしたがって村を去って行った。
ブジシチェ村は、地図から抹消されてしまいます。

 (チェルノブイリ原発の生々しい画像【原発事故】 - NAVER まとめ

にも関わらず、55人の老人と1人の若者が村に残りました。

ヒトに限らず動物は死を恐れます。本能的に。
さらにヒトは、抽象的な恐怖を理解します。
政府から村で暮らしていては危険だと言われたら、死の恐怖に駆られるのは自然なことです。
だから大半の者は村か去った。

ブジシチェ村から、チェルノブイリ近辺と変わらないくらいの放射能が検出されます。
ただ、村の中心に湧く泉だけからは放射能はまったく検出されない。

村に残った人たちにとって、泉から放射能が検出されないという事実が心の拠り所です。
それは映画から強く伝わってきます。
村の人々にとって、泉は「奇跡」なんです。
100年前の水だから放射能が検出されない――そのような科学的事実を超えた意味が泉にはある。
奇跡の泉は、村の人々に“自衛作用”を発動させる要件になっています。

映画が伝えてくるのは「奇跡」のだけではありません。
村で営まれる日常の暮らし。
馬がいて、犬がいて、猫がいて。
豚。鶏。ガチョウ。
夏になると収穫されるジャガイモ。
秋に実るリンゴ。
たくさんの生命のなかに自分たちの暮らしがある。
自分(たち)の場所です。

「お迎え現象」という「奇跡」の大きな発動要件は、自宅であるということでした。
日常の暮らしとは、自身の“生命活動の在処”です。

アレクセイという若者の存在もまた「奇跡」です。
彼がいないと、どうしても村の暮らしが成り立たない部分がある。
老人たちにとって「奇跡」は必要でしょう。
けれど、まだ若い彼にとっては必要なのかは疑問です。
ただ、両親との暮らしは彼にとって大切なもの。


本当の豊かさと幸せは、人間にとって深く繋がったものです。
本当の豊かさとは何かという問いと、幸福とは何かという問いは、ほとんど同じ問いでしょう。

ヒトはひとりでもヒトです。
けれど、ひとりでは人間ではない。

末期癌患者がヒトひとりとして生存を追求するのであれば、自宅でより病院で看護してもらう方が合理的でしょう。
病院の方が設備が整っているのは確実ですから。
また、ヒトひとり生きて行くことの合理性を追求するなら、放射能汚染のない場所の方が良いに決まっています。

生きていなければ、幸福もなにもありません。
けれど、残念なことに、「生きていること」は幸福の必要条件ではあっても十分条件ではない。
ヒトひとりでは人間になれないヒトにとって、このことは本能といっていい。
ヒトは本質的に社会的な動物だ、ということです。

『アレクセイと泉』が提示してくれたのは、「幸福の十分条件」なんだと思います。

コメント

あ、ナノリウムですか?

いいなぁ、観たかったなぁ。

そうなんです。^^
ここのところ、時間が出来たので。
前記事の『梅原猛に会いに行く』も、ナノさんにて。

とってもいい映画ですよ、是非、ご覧あれ。

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