愚慫空論

哲学者って、何ものだろう?


「あの日」から、5年あまり。
思うところ&偶然とがあって、「あの日」のことを取り上げたもの、検証したものとか、論じたものとか、いくつか読んだり視聴したりしています。
主に、NHKだったりします。

そんな中で今回とりあげてみたいのは、

  3.11後を生きる君たちへ~東浩紀 梅原猛に会いにいく

放映日は、「あの日」からほぼ一年後。
一年後に放映された番組を、五年後に見てみるとどう感じたか。
そのあたりを少し書いてみます。

梅原さんは、日本を代表する“日本の”哲学者、と言っていいと思います。
“日本の”というのは、日本の思想や宗教観などをベースにしている、ということです。
梅原さんが番組で語られた思想も、「草木国土悉皆成仏」という言葉に代表されるように、日本の思想が展開されていました。そんでもって、

 人間中心主義の西洋近代文明はダメ
 新たな文明の在り方を、日本思想をベースに構築したい

紛れもなく“日本の”哲学者ですね。

片や東浩紀さん。
この人も、梅原武さんとは違った意味で“日本の”哲学者なんだと思います。
どう違うかというと、梅原さんが日本の伝統的な思想に立脚しているのに対して、東さんは、主に現代の潮流が舞台。
「オタク」という言葉を持ち出しておけば、間違いなく的に当たる。

で、このおふたかたの対談なんですが――正直、がっかりでした。
「伝わっていない」ということが、画面からひしひし伝わってくる。
映像というものの情報量はすごいものです。

タイトルから想像がつくように、主に語るのは梅原さんで東さんは聞き手という構成なんですが、
このふたりの間にはとても大きな断絶があって、それが超えられないんですね。
超えられない断絶こそが、まさに今の日本の姿。

インド発中国経由の思想を、「草木国土悉皆成仏」という独自の共生思想に高めた日本。
そんな日本のはずだったのに。
世界でもっとも原発に向いていない国土に数十発の原発を立ち並べ、
5年後の現在は、何事もなかったかのように、再稼動をさせる。

番組の後半で梅原さんが『一粒の麦もし死なずば』を持ち出して、自身の思想の“種”が受け継がれる希望を語っていましたが、
そしてそれこそ梅原さん自身もおっしゃったように哲学者の役割なんでしょうが、
だったら、東浩紀という土壌にしっかりと着地するところが見たかった。

梅原さんは、西洋近代文明を批判していましたけれど、
その西洋文明では、哲学という方面において、原発はダメだという結論を出しています。
代表は、この著作でしょう。

著者のウルリッヒ・ベックは先頃亡くなったと聞きましたが、
氏はドイツの脱原発に深く関わっています。
福島原発事故を受けてのドイツの政策決定の場に招かれている。

梅原さんも復興会議に招かれていたというのは番組で紹介されていました。
その場で「文明災」という言葉を提出しましたが、
私たちの日本では「文明災の種」は刈り取られることなく、再び国土に蒔かれてしまった。

確かに原発を生んだのは人間中心主義の西洋近代文明ですが、
その人間中心主義の哲学は、原発のリスクは制御できないと認識しています。
そして、その認識は政策に反映された。
つまり、繋がっているんです。
哲学と政治が。

翻って、日本においては、世代の違いはあるとはいえ、哲学者の間ですら、繋がっていません。
その断絶の、もっとも象徴的な部分。
梅原さんの「草木国土悉皆成仏」に、東さんが「オタク」で応えたところ。

「現代の日本には、非人間的なものを擬人化したキャラクターを創造する、世界に類をみない日本独自の文化がある。」

今更告白するまでもありません。
ボクはオタク文化が好きです。
萌えキャラに違和感を感じません。
楽しむことができます。
世界に冠たる日本の文化だという意見に賛成です。

でも「草木国土悉皆成仏」とは比較になりません。
思想的な深度において。

世界的な有名な日本の哲学者、というより宗教家。
鈴木大拙の代表著作『日本的霊性』


「霊性」というのは、思想的深度のことだと理解していいでしょう。
深度がある一定レベル以上に達した思想は霊性を有する。

大拙の指摘に拠るなら、日本の思想が霊性を持つに至るには鎌倉時代を待たなければならない。
平安の時代にも花鳥風月を愛でる「雅」の心性はあったが、霊性を得るには至っていない。
浄土真宗と禅の登場によって、日本の思想は霊性を獲得するに至った――
「草木国土悉皆成仏」は、浄土真宗から派生した思想だったと思います。

「オタク」の心性は日本独自です。
が、並べるべきは「雅」でしょう。
「草木国土悉皆成仏」とは比べられません。

現代の日本は、平安時代の再帰なのでしょう。
西洋近代文明の果実たる科学技術のおかげで、消費者という名の貴族が登場した。
日本の消費の多様性は、最近は「ガラパゴス化」と揶揄されたりもしますが、世界でも類をみないと言われます。
もはや貴族的と言っていい。
かような「庶民貴族」が出現したのも、もしかしたら日本独自なのかもしれません。

現代が平安時代の再帰であるとするなら、政治もまたそうであるのかもしれません。
国家の秩序を担うはずの貴族が権勢を恣にし、社会の秩序を食い荒らした。
その結果、社会秩序は荒廃。
社会秩序の再構築は、武士たちの手に委ねられることになる。
そして霊性を得るに至った日本の思想は、新たな秩序の担い手たちの精神的支柱になりました。


思想的深度を測ることができない哲学者とは、いったい、何ものなのでしょうか?
また、思想的深度を測ることができない哲学者に「種」を託す哲学者とは?
(もっとも、梅原さんに「オタク」の深度を測れというのは酷な要求でしょうが...)
すべてがテレビ的予定調和の枠のなかで治まってしまっている。
すなわち視聴たる「消費貴族」に供されるための哲学。

哲学者が営々と組み立てた「種」も、消費の糧に供されてしまっては芽が出る希望など持ちようがないのではないでしょうか。
「あの日」から5年。
震災によって生まれた「もののあわれ」もまた「消費貴族」たちに消費されてきました。
平安時代のごとく無責任な政治が跋扈する日本社会の、その端的な姿を改めて見せられたようで、とても暗い気持ちになってしまいました。

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