愚慫空論

ボクたちは、いったい、いつまで争いあえばいいのだろう?




雪です。
ボクの周辺でも、4~50cmは積もったようです。

アラウンド・フィフティーンになっても、雪が積もるとなぜか心が浮き立ちます。
子どもの頃のような、ウキウキ、ワクワクというのとは、ちょっと違いますけど。

ウチの犬たちは、もう10歳を超えた老犬の域に達していますけど、それでも嬉しそうに雪の中に飛び込んでいきました。
ボクにもはや、そんな元気はないけれど、でも、そういう感覚はまだ、どこかに残っていて。たぶん。
生命が沸き立つ感覚。
それと、心が洗われる、といった感覚。

年々、後者の方に傾いて行っていると感じます。



そんなわけで――って、なにが“そんなわけ”なのかは上手く言えませんが、
次に書く心づもりでいたことはやめにして、このタイトルにすることにしました。
心が洗われて、ゲスなことwはどこかに行ってしまいましたが、そのかわり、浮き彫りになって出てきた言葉です。



僕たちは、いったい、いつまで争いあわなければいけないのか?

生存競争ということはあります。
生きるためには食べなければなりません。

人はパンのみによって生きるに非ず。
されど、パンなくして生きること能わず。

食べるために「死にものぐるい」になるのは、生あるものとしてごく自然な行動です。

ボクが、積もった雪に飛び込むといった衝動をまだ抱えていた頃に読んだある歴史小説が思い出されます。



ボクがこの小説で一番印象に残っているのは、主人公政宗の活躍ではないんです。
当時の戦争――というより戦(いくさ)というべきでしょうか――の有様です。

当時の日本、いわゆる戦国時代は、兵農分離が進んでいませんでした。
兵農分離を行ったのは天下統一を成し遂げた豊臣秀吉で、いわゆる「刀狩り」という政策。
この小説を読む以前から、そうした(受験的)知識はありましたが、
では、その実態はというと、知らなかった。

農民が兵士でもあるということは、戦争は農繁期にはできないということ。
食うために忙しいときに、他人と争っている暇はありません。
だから戦(いくさ)は、農閑期に行う「季節行事」だった。

政宗は最後は今の仙台を本拠地にしましたが、出身は米沢だそうです。
仙台よりもずっと雪深いところ。
戦(いくさ)は、農繁期もできないし、雪が深くなってもできない。
なので、雪が降る前の晩秋から初冬にかけての行事だった。

今の感覚で言えば、疑問があります。
なぜ、そんな季節行事にしか過ぎないものに、命がけで従事しなければならないのか?
人間はそんなに戦争が好きなのか?
あるいは、それほど当時は憎悪に満ちた世界だったのか?

そうではない。これもまた、食べるためだった。

他国の領民から食糧を奪う。
農民が、いわば副業で兵士になるのは、これもまた食べるためだった。

大人が食べるためだけだったら、食糧は自己生産分だけで間に合ったかも知れない。
けれど、今よりずっと出生率は高かった。
子どもが次々産まれた。
その子たちを食べさせなければならない。食べさせてあげたい。
けれど、手元には十分な量がない。

では、どうするか?
有るところから、持ってくる。
どこにあるかは知っている。
誰がもっているかも知っている。
その人たちは、自分たちと同じような境遇の人たちだということも知っている。

見知らぬ人の窮乏と、今、目の前にいる身近な者の窮乏と。
どちらが切迫しているか?

答えは考えるまでもありません。
ごく原始的な身体感覚が応えてくれます。

だから戦(いくさ)が起こった。
それには、生物学的といっていい理由があった。
(だから「性悪」だということも出来ます...)


翻って、現代です。

今現在、世間を騒がせているニュースにこんなのがあります。


「CoCo壱番屋」というカレーチェーンから出た廃棄物が、産廃業によって横流しされ、食品として販売されていたという事件です。

一言で言って、ひどい話です。
何が酷いかって、社会秩序を乱す事件だからです。

口に入るものは、誰もが安全・安心を求めます。
が、いちいちそれを証明するのは難しい。
やろうとすると膨大なコストがかかってしまう。
だから「信頼」というのが重要になる。

それなくしては商品経済は成立しないと言っていいほど、信頼は重要な要素です。
その信頼を失墜せしめた。
ことは重大です。

ですけれど、「ひどい」の一言で断罪するだけでは足りないものがある。
何か取りこぼしたような残務感が残ります。

そう思っていたら、こんなニュースが引っかかりました。


これまた、ひどいと思いました。
小倉氏の発言のどこが、珍発言なのか?

幸いなことに、日本とシリアは遠く離れています。
というより、日本は島国ですから、地勢的に他の地域とは分離されている。
シリアが北朝鮮でもいいんですが、隔絶されているため、文明の利器たる交通手段がなければ、簡単にはやってこれません。

けれど、もし、簡単にやってこれたらどうなるか。
中国の歴史や中東とヨーロッパの現在の状況にようになる。
難民が押し寄せてきます。

商品経済に慣れきった日本人の感覚からすれば、廃棄物は商品ではなく、商品でないものは食品ではない。
では、本当に食べることができないのか?

本当は食べることができるということは、誰だって識っています。
万全の安全・安心がないだけ。
万が一、お腹を壊すかも知れない。
不運だと死に至ることもあるかもしれない。
そういうリスクはあります。

が、“食糧”には十分なり得る。
もしそうでないなら、販売は不可能です。
廃棄物とはいいながら、実はそのリスクは極めて惹くから、商品だという詐欺を働かせることができる。
だから立派に“食糧”です。
飢えた人間なら、その程度のリスクをものともせず、喜んで食べるに違いない。
シリアに行かなくても、日本の国内でもそんな状況の人は、もはや少なくない。

社会秩序。安心、安全。信頼。
これらは確かに必要です。
ボクだって、これらが失われるのは困る。とても困ります。
たとえシリアの子どもたちの飢えていようとも、私たちの「秩序」をなくすわけにはいきません。

だから、戦争が起きます。
私たちの「万が一」のために。
私たちの「万が一」は、私たちだけで完結しているわけではない。
誰かから奪っています。
「秩序」には、そういう略奪も含まれています。
見えにくいだけの話です。
これまではアメリカがそういう「秩序」を率先して維持してくれていたので。
アメリカという国にそれだけの【実力】があり、率先して維持することがかの国の国益とやらにも適っていたから。

それがここに来て、アメリカの実力が低下してきた。
けれど、「秩序」は大切でしょ?
だったら、日本も【実力】を行使しろよ!
安保法制云々は、とどのつまりはそういう話なんだと思います。

【実力】を行使するというのは、争うということです。
飢えている人がいても、食糧を廃棄して、「万が一」を守る。
「万が一」が守られる秩序を守る。


これしか方法がないというならば仕方ありません。
でも、本当にそうか?
「これしかない」というのは、反知性主義ではないのか?
安保法制を支持する立場の人たちは、そういうことのはずです。

現在、世界で生産されている食糧の1/3は廃棄物とされていると言います。
それが事実なら(たぶん事実でしょう)、「これしかない」はご都合主義だとボクには思えます。

過去は、食糧の絶対量が足らなかった。
未来は、また足りなくなるかも知れない。
が、現在は、足りている。

なのに戦争はなくならない。
だとするならば、その理由は生物学的なところにあるのではない、ということです。
もしくは、生物学的に理由がなくても争わずにいられない、ヒトはそういう生き物、つまりは性悪だということです。
ボクは後者は支持しません。

だとすると、何処かに原因があるはずです。
どこにあるのか?
そして、それは変えることができないのか?

原因は突き止められるし、変えることもできるとボクは思っています。
その原因を、自分の中に探すのなら。


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/812-c3699313

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード